第2話

 嬌声。


 そんな言葉とその意味とを知ったのは、自分の目と鼻の先で嬌声そのものを意識し始めてから15年近くも経った頃の事。ただ実際には、物心のついた時にはもう、嬌声なんてものは家中にいくらでも転がる埃の塊や憎しみの暴発と同じくらいに、僕にとっては無数の棘のある顔ですでに親しいものになっていた。そして、その声の主は───


 僕の、母親。


 母と交わる男のタイプは実に様々だったけれど、母にはそんなことに頓着している様子は全くなかった。カネさえ置いていってさえくれれば誰とでも寝たし、それに対する母の判断は正しかったと僕は今でも思っている。何しろ、世間一般に言うところの母子家庭であるというだけでなく、僕ら自身には経済力なんてものは全くなかったのだから。

 貧しい子供時代を過ごしてきた母に、学歴なんてものがわざわざついて来る筈もない。そして、そのような境遇の人間に対して至極真っ当な職を与える余裕を、この国はロクに持たない。

 こういう時に本人の努力不足を指摘するのは所詮部外者だけなのだということを、僕は母の「仕事」の傍で嫌と言うほど思い知らされてきた。

 次から次へとやってくる男達の相手をする一方で、わずかな時間を見つけては職業安定所に通い詰めた母の姿。


 そして、迎えるべくして迎えた、諦めの日の母の嬌声。


 僕は、もう少しだけ、これらの記憶と共にいられるだろう。もしも男に異性というおぞましい温もりを求める下劣な細胞が備わっていなければ、母と僕の身体は今頃とっくに朽ち果てていたに違いない───。

 生きるためには、人は食わねばならない。食うためには、カネが要る。そして、鋭すぎるが故に余りにも鈍い色彩で嗤うナイフの肌の持つ競争社会は、自らの胃袋を性欲で満たすことに何の痛痒も感じない。このネオン色をした磁場においては、消化する者と消化される者は皆等しく賢者で、同時に皆等しく愚者であることを強要されている。少なくとも、僕の経験の耳にはそう響きながら、良識の骨を伝わり続けてただひたすらに胸を打つ。───こうして、社会の孕む苦々しい痛みは、そこに生きる個人の中に不気味な重さで安らぎ続ける。

 自分の家庭の命の繋ぎ方が明らかに異常であると気付いたのは、確か僕が6歳くらいの頃だったと思う。ただ、その異常さを求める人間が世の中には数え切れないほどいるということを、その頃の僕はとっくに知っていた。事を公にして関係を断ち切ろうと試みた男なんて幾らでもいたけれど、たったの2日もすれば、まるで小奇麗に仕立てられたテイラーメイドのスーツのようなルールで彼らはきちんと行為に及び、そしてきちんとカネを置いていく。


 しかし、現実に抗うすべなんて、この世の何処にあるのだろうか?


 あの男達もまた、否応なく人間という器であることを余儀なくされている。人間である以上、確かな形で満たされることを望みながら、何かしら守るべきものをうつむきがちに抱えている。所詮はただの創作物でしかない成人映画あたりにありそうな、ありきたりな脅迫によってそれらをみすみす失うようなことなど、血も涙もある現実の生身の人間にはどうやら全く縁のないものらしい。

 でも、本当にそうだろうか?───さあ? 僕には分からないし、分かる必要も、きっとないだろう。

 ただ、少なくとも今の僕は、母の尊厳が切り刻まれていたあの光景に、当時から心情的に傷付くことのできる子供でありたかったと思う。傷付くべき時に傷付くことのできる子供でありたかったと、今では心からそう思う。


 「ごめんなさい……」


 そう言いながら顔を覆う僕のてのひらは、溢れる涙をき止めることも忘れ、グチャグチャにこんがらがった感情に任せて、ただ震えているだけだ。


 僕は、どうして、こんなに弱いんだろう───?




 ふと、壁にかけられたデジタル時計に視線を移す。




 02:49 AM。




 ああ、まだそんなものか……。



 隣室のエアコンの設定を最大にしているせいか、壁を隔てたすぐ向こうにある室外機の音が普段よりもやたらと大きく響いている気がする。窓はしっかり閉まっているし、体に感じるような振動もない。張り詰めた神経が聴覚をいつにも増して尖らせているのだと思えば、今までの経験に照らして考えてみた場合、確かに合点がいく。ただ、確かに合点はいくけれども、それが果たして客観的な事実として正しいかどうかは、今の僕の知り得る所ではない。

 客観的事実という厄介者は、人間の妄想を惜しみなく否定する癖に、妄想の花を咲かせることにかけては憎たらしいくらいに芸達者だ。そして、時にそれは、運命の悪魔に扉のノックを忘れさせる───。


 できるだけゆっくりと深く空気を吸い込んで、震える唇から静かに白くて重たい息を吐き出す。そしてもう一度、ストロボのような歪な記憶に脅されながら、あの無言の壁時計にそっと目をやる。



 02:52 AM。



 やはり、思った通りだ。自然は生きとし生けるもの全てに平等に時の流れを与えている。一日分の長さを持つ一秒など決して存在しないし、一秒で一日分の時の移ろいを現実の世界に求めることなど不可能だ。たとえ、どんなにそれを求める人間がいようと。どんなにそれにすがる心が朽ちようと。どんなに、死に急ぐ命が、声なき叫びの意識の海に足をもがれようと……。



 この世に、優しさなんて、ない。



 僕がそう呟くのをこの期に及んで許す世界というヤツは、ひょっとしたら、ただの傍迷惑な馬鹿野郎なのかもしれない。


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