尖鋭の器

もざどみれーる

第1話

 この世に、優しさなんて、ない。



 僕の意識は至って明快だ。張り替えられるのをただただじっと待つ障子紙の静けさで、すすけたフレームの埃も気にせずひじをだらりと乗せながら、窓の外を何とはなしに眺めているのだけれど、時々その結論が、水を被ったシャツのようなやり方で、頭にピタッと貼り付いているような気がする。



 この世に、優しさなんて、ない。



 僕には昔、祖母がいた。いや、ひょっとしたら今もいるのかも知れないけれど、どこでどうしているのかなんて知らないし、知りたくもない。旋毛つむじ周りの髪はゴッソリ落ちて、眼窩がんかはまるで明け方の赤ん坊の泣き声のようで、聴感的、物理的な尺度にかかわらず明らかに稲妻にも似た印象を見る者に与える。顔の皺はあまり目立たない代わり、口元は酷く歪んでいる。でも、それでいて発音は明瞭であって、しかもそれがかえってまずい。口を開きさえすれば最初に出てくる言葉はほぼ決まっているのだから。


 「お前なんて、早く死んじまえばいいんだよ」


 実の孫に対して、面と向かって「死ね」と言う。不器用に抜けた前歯の奥から、潰れた蛙の絵面を思わせる不愉快な臭い息が今にも飛び出してきそうな、かびの似合いそうな、どす黒い顔で。


 ───そんな祖母を、僕は果たして愛していただろうか?


 あり得ない。誰が何と言おうと。


 生物学的な繋がりというものは、往々にして、人の感情を逆撫でする。そう、確かアリストテレスも言っていたじゃないか、「愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存する」と。僕は祖母を愛してはいなかったし、今も愛してはいない。つまり、僕と祖母との間には愛などというものが存在する前提条件が全く整っていないのだ。血縁関係を道徳に絡めて語りだす大人たちなんて、僕はこれっぽっちも信用しない。

 彼らは、自分たちが蛇の瞳を持った毒物そのものであることに少しも気付いていないのだろう。あるいは、実際には気付いていながら、その事実を「社交性」の名の下に捻り潰しているのかも知れない。何しろ彼らは、「公然の秘密」だの「暗黙の了解」だのと、臭い物に蓋をすることにかけては驚くほど器用な連中だ。そのくせ、近親間の純粋な愛情を肯定的な倫理として無条件に前提したがる。───ああ、全く不愉快だ、この矛盾にまみれた化け物どもは……!

 そう、大人たちは全くもって化け物だ。それなのに彼らはいつも僕のことを異常者扱いする。

 なるほど、「目に映る全ては平均的なものでなければならない」とするなら、確かに僕は異常であるかも知れない。でも、社会において平均というものを算出することができるというその事実は、取りも直さず、世の中に巣食う異常なものの存在を言外にはっきりと認めているということだろう。つまりそれは、平均的なものを善とする社会の中にも、それに含まれないものが確実に「共存」しているのだと低い声で宣言しているに等しい。───にもかかわらず、論理におけるイコールが実生活においてもイコールであり続けることは、どうやら極めて稀なことであるらしい。



 くだらない。


 実に、くだらない。 



 ガソリンを切らしたような目付きで、こちらを睨み付ける無数の影があちらこちらで躍り出す───そんな錯覚に、思わず胸を流されそうになる。



 くだらない。


 実に、実に、くだらない。


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