虫酸の月

ギヨラリョーコ

虫酸の月

 汚い声が聞こえたので、ベッドの上段から身を乗り出して下段を覗きこむ。文字に起こすとゔえ、といったところだろうか。

 下段で寝ていたはずの弟が湿り気の多い咳をしながら、枕元に置いていたビニール袋を引き寄せるところだった。ごぼりと一際大きな咳の拍子に、手もビニール袋も間に合わず何かが口から零れ落ちてぼとりとシーツを汚した。

 常夜灯しかついていない、橙がかった薄闇の中で口からシーツまで垂れる細い唾液の糸のぬらぬらとした輝きと、その中、奴の膝元でもがく物のつるりとした背中のわずかなきらめきが見て取れた。

 視線に気づいたのだろう、奴が顔を上げてこちらを見る。膝元にいたものが、我に返ったように重たらしく硬い翅を広げて飛び上がるのと同時だった。

 ぶうううんというせわしい羽音が聞こえるぐらいにこちらに迫ってきたそれは、カナブンかコガネムシのように見えたが、一瞬で視界から飛び去ってしまったので何とも言えない。

 今度は間に合ったのか、何かがビニール袋に落とされてがさがさがさと音を立てる。弟の魂が抜けたような眼と、視線がかち合った。


「今、そっち行くからな」


 努めて優しく言ってやると、その眼に急速に感情が戻ってくる。怯えと、困惑と、わずかな安堵。

 俺はこのところ、人を憎むとはどういうことかを漸く知ったような気分でいる。




 始まりは10月だ。よく覚えている。体育祭が終わり、夏の名残がすっかり死んでいった頃。


「ユキハル」


 呼び止められたから振り向いた。ただそれだけなのにその笑い方はなんだと腹を立てる自分がいる。いや、おそらくは俺の自意識過剰で、おそらく相手は何も考えちゃいない。

 たださっきのバスケの試合で珍しく好プレーをした兄に声をかけたいだけだ。


「さっき、ナイスパス」


 俺はそう分かっていて、ハイタッチのつもりか差し出された手を故意にスルーしたが、相手に堪えた様子はまるでないし、悪意をかぎ取ったようにも見えない。そのまま体育館履きの袋を担いでさっさと通り過ぎ部活仲間の輪に混じっていく背中に、お前こそナイスシュートとでも言うべきだったがそうしなかった。

 わずかに汗で湿った体育着の背中が階段のところで曲がって消えてから、知らず舌打ちがひとつ漏れた。


 因縁はない。事情もない。ただただ憎く妬ましい。そんな感情もあるということを、17年生きて漸く気づいた。


 マサユキに罪はない。落ち度はない。理性はそうと理解している。ただそれとは別に、本能が、どうしようもない感情が、ただ優秀なだけの弟に対しての嫉妬と憎しみが抑えられずにいる。

 両親は良く出来た人間で、明らかに差があるある双子を分け隔てなく愛した。二卵性双生児。顔の似てない同い年の兄弟。何もかも一緒の方が不気味じゃない、と母さんは笑いながら言った。お前にできてマサにできないことだってあるじゃない? 母のその言葉の答えは、未だに分からない。

 出来た母の息子も、出来た奴だったら良かったのに、その性質は弟にしか引き継がれなかった。算数のテストで100点を取ったからと買ってもらったご褒美のチョコレートケーキを二つに切って、大きい方をくれた弟。俺が何かを分けてやったことはない。

 俺がもらえたもので弟がもらえなかった者は母さんが運動会の後に金の折り紙で作ってくれた残念賞メダルだけだったし、そのとき弟の首にはリレーで一等になった本物のメダルがかかっていた。


 マサユキは俺に何かを自慢したり、俺が出来ないことを下に見たりもしなかった。嫉妬心をぶつけてあげつらうような欠点がない、いいやつだ。それなのに、澱のように溜まった劣等感がだんだんと変質していく。

 16年間、それでも誤魔化してきたのだ。人前では弟を良く褒めて、おおらかなひょうきん者に徹した。いやあうちの弟すごいだろ? 俺に似てなくてよかったよ。そうして同じ友達とつるまないように、同じ組織に属さないように、競争を避けて、弟とやりあうなんて気まずいしと言い訳して線を引いていた。

 友達にはよく「双子のくせに好みが似てない」などと言われた。頭の出来が、なんて言うに及ばず。揶揄を笑って躱すすべは早々に身に着けたが、本音は言えなかった。

 好みが違うんじゃない、避けてきたのだ。サッカーも、工作も、中学2年生の時のクラスメイトの女の子も、あいつが志向したものは全部避けた。線を引いて、そこから向こうには踏み出さないように自分に言い聞かせていた。

 いつまでも弟と同じ部屋で寝起きするなんてと控えめに文句を言う俺に、母さんはごめんねと苦笑した。大学行ったらひとり暮らしする? ちょっとは援助するわ、という言葉は蜘蛛の糸のように細く遠い期待に見えた。


 それでもなんとなくマサユキを見るたびに感じていた胸のちりつきが、嫉妬だと気付いたのは高校に入学したときか。バスケットボール部、久しぶりに自分から「やってみたい」と思ったのだ。きっかけは海外ドラマだが、それでも本当に久々に、弟の逆張りでもなんでもない純粋な「やってみたいこと」だったのだ。

 俺よりよほど勉強のできるマサユキが同じ高校に入ったのは率直に言って驚いたが、サッカー部が強いと聞いて合点がいっていた。弟は小学校からずっと地域チームでサッカーをやっていて、俺も試合を見に連れていかれた。つまりバスケットボールは安全なはずだったのだ。

 それなのに弟はそこにいた。入部説明会、隣に座って、「ここで会うとは思わなかった」なんて屈託なく笑って。気づいたら立ち上がっていた。立ち上がって、教室を出て、廊下を曲がり、頬をだらだらと伝う熱いものに気が付いた。涙だった。

 

 引かれていたはずの、越えてしまった一本の線が見えた。本能はずっと警告していた。近づくな、近づきすぎると呑まれてしまう。

 相手の才能に。努力に。優秀さに。埋めることのできない差に。それゆえの嫉妬と、憎しみに。

 もう遅い。

 今はマサユキはバスケ部の期待のルーキーとして一軍入りした。俺は帰宅部だ。海外ドラマのDVDは捨てた。




「これ、ユキハルの?」

 二段ベッドの上段に寝ることの欠点は、真下が弟のテリトリーだということだ。

 無遠慮に、下段から伸ばされた手には半ば擦り切れた青いタオルが握られてる。俺のものだった。当然だ。二人部屋なのだからマサユキのものでなければ俺のものだ。

 当たり前の気遣いがなんとなく気に障って、ん、と短い応えを返しほとんどひったくるようにそれを受け取る。特に咎めるような言葉もなく、代わりに小さく咳の音が聞こえた。風邪だろうかとその時は思ったが、なるたけ弟のことは考えないようにしていたので、その思考も無理矢理に隅へと追いやられた。奴のことを考えても感情がささくれだって辛いだけだ。


 死んでくれと願うにはあまりにも相手に落ち度がなさすぎるのに、兄としてその成功を喜ぶとか、せめて笑って受け入れるには癇に障りすぎる。どう考えてもこの嫉妬心と憎しみに謂れがないのは明白で、だからこそ努めて頭から追い出そうとするほかはない。

 つい、とそんなことを考えていた俺の鼻先を、何かがかすめた。一匹の、茶色い翅の蛾だった。よろよろと飛んで壁に張り付いた蛾の枯葉のような翅を眺めて、夏が終わったからじきに死ぬのだろうか、それとも生まれたばかりだろうかと考えたのを覚えているからあれは確かに10月だ。よく覚えている。



 なんとなくマサユキに避けられていると感じたのはその数日後だったが、そのとき俺を悩ませていた問題はもう一つあった。

 窓が壊れているのか、鍵をしっかりと閉めているのにやたらと虫が入り込んでくるのだ。別に虫が嫌いだとか怖いだとかと言うつもりもないが、さすがに床に蟻の行列ができていたら誰だってぎょっとする。それに第一、窓が開いているにせよ、多少地方といえ外は普通の市街地だということを考えるとあまりにも多くの虫が入り込んでいた。

 あの蛾から始まって、街育ちの俺にはなんとなく甲虫、としか言えないような物珍しい虫も何度か見ている。異様なほどのこの虫の量を、俺は渋々ながら、弟と結びつけたのだ。二人部屋なのだから、俺が持ち込んだのでないのなら弟が持ち込んだのだ。

 そう考えてマサユキのことを観察してみてはじめて、自分が避けられているような気がしてきた。もともと必要最低限話すだけで、趣味嗜好の違う俺たちは、それは俺が意図して違えたのだが、とりたてて仲が良かったわけでもない。

 マサユキは部活動で忙しく部屋にいない時間も長かったし、そもそも近頃は自分の方から避けていたのですぐには気づかなかったのだが、とうとう自分の内心を悟られただろうかと気まずさ半分、けれどこれで今までよりは辛くなくなるだろうと思えば昆虫採集ぐらい大目に見てもいいかと思ったのだ。ことはそう甘くもなかったのだが。




 深夜、呻き声で目が覚めた。呻きながらベッドを這出てどこかに向かっていく足音。具合でも悪いのだろうか。そのまま聞かなかったことにして寝なおしてしまおうかとも思い再び目を閉じた。

 部屋のすぐ隣にあるバスルームからだろう、押し殺すような呻き声と、ぼちゃぼちゃという音、そこに水を流す音は途切れる気配が無い。あまりにも長いことそうしているのが単純に耳障りだったのと、さすがに何かやばい病気なんじゃないかという気がしてきたので渋々ながら様子を見に行ったのだ。


「大丈夫か」


 ユニットバスには電気もついていなかった。スイッチを押すと、中の人影がびくりを身じろぎするのが分かった。


「待って」


 マサユキの静止を聞かずにドアを開いたことを後悔はしていない。その瞬間は後悔以前に、ただただ混乱していた。

 目に入ったのは虫だった。

 ユニットバスの壁に、いつぞや見たような蛾が張り付いている。床にはこの辺りではちょっと見ないくらい大きなサイズの蟻がうじゃうじゃと、転がった芋虫に群がっていて、しかも便器の淵から這い出てきたらしい蟻が続々とそこに加わっていく。おい、と尋ねようとして、そして見てしまった。

 振り向いた弟の、青ざめた顔の口元を覆うその手の隙間から、ぼたりぼたりと緑色のものが零れ落ちる。


「なあ、おい」


 目をぎこちなく下に向けると、緑色の蛹のようなものが二個、タイルの上に落ちていた。小学校で観察したモンシロチョウのそれにそっくりだった。恐る恐る摘み上げて近くで見てみても、記憶に相違はない。蝶の蛹だった。


「おい、マサユキ」


 マサユキは顔を青くして首をぶんぶんと横に振っている。何を否定したいのかわからないが関係ないわけがない。口元を抑えている両手を引きはがしたのは、衝動だった。

 ぼろぼろぼろぼろぼろぼろっと、手から口から緑色のものが溢れた。今度は一目でわかる。蛹だ。目は理解するが、思考は追いつかない。十数個の蛹は足元のタイルに散らばり、俺の足にも一つ落ちた。弟の唾液にまみれたそれはぬるりと温かく、それゆえに分かってしまった。


 弟が、これを吐き出している。蛹を吐いている。


 俺が混乱を極める一方で、マサユキは少し落ち着いたのか俺の手を振り払おうとしてくる。スポーツマンに本気で払われたら特に運動するわけでもない俺には抵抗できない。マサユキも弱っているのだろう。


「ユキハル、離してくれ」

「どうなってんだよこれ、なんなんだよ」

「頼む、離してくれ、ユキハルには関係ないから──」


 うっとマサユキは言葉に詰まり血を吐くような激しい咳をしたが、吐き出されたのは赤い血ではではなく、緑色の何かだった。蛹たち同様床に落ちてがさがさとはい回るそれは、大きなカマキリだった。カマキリの刃に引っかかれたのか、血の滲んだ薄い唇を震わせて弟はかすれた声で「違うんだ」とつぶやいた。


「違う、知らない、わからないんだ、何日か前から、夜になると、だんだんひどく」


 まだショートしていない脳の一部が、あの蟻の行列はそういうことだったかと納得していた。一歩踏み出すと、男にしては長いまつ毛に目から零れ落ちそうな涙が縋りついているのが分かって、ああ本当に似てない顔だなと思った。俺から距離を取ろうとした足がバスタブにぶつかる。さらに踏み出した自分の足の下で何かがぐちゅりとつぶれて、それにはっとしたことで、今まで自分が薄ら笑いを浮かべていたことに気が付いた。


 何が愉快かって決まっている、弟が怯えている。混乱し、自分が一歩近づくだけで、涙を浮かべて哀れなほどに震えている。


 背中に腕を回してぎゅっと抱き寄せると、腕の中でマサユキがあからさまに震えた。震えながらきゅっと口を結び、せりあがるものを吐き出すまいと必死になっている。かわいそうに、と思った。かわいそうにと思いながら口は「大丈夫」と言葉を吐き出していた。


「大丈夫、大丈夫だから、な、落ち着こう」


 苦しそうなマサユキを一旦離してかがみこませる。緩んだ口元から、ぼたりと太った白い芋虫が零れる。かわいそうに、と頭の中でだけ繰り返しながら、背中をさすってやる。

 一緒に床に落ちる涙を見なかったことにしてやるために、すっかり血の気が下がって、項まで青白くなっているのをぼんやりと注視しつつもこうまでかわいそうだとざまあみろとも思わないのだなと考えた。

 ただ、もういちど浮かんだ薄笑いは空がわずかに白み、いつの間にか吐き出すものが無くなったらしいマサユキが再び顔を上げるまで俺の顔から剥がれることはなかった。


「……ありがとう」


 頼むからパイプに詰らないでくれと思いながらシャワーですべての虫を流してしまった後、泣き疲れた後のような震える声でマサユキが呟いた、そのときに背筋が震えた理由はまだわからなかった。





「夜になるたびに」とマサユキが言ったことは本当だった。次の日の夜、夕食がすんだ後ごろから、目に見えてマサユキの様子がおかしかったので察しはすぐについた。風呂場に連れて行ってやり、便器にぐったりともたれるように吐いているマサユキをバスタブの縁に腰かけて見ていた俺の頭に渦巻いていたのは、やはりこいつはかわいそうだな、という思いだった。


「部活、どうしよう」


 ふ、と息が落ち着いた合間に顔を上げて言うことがこれなのだから、いよいよかわいそうになってくる。


「一日二日休むくらい大丈夫だろ」


 昨日までは努めてマサユキのことを頭から追い出していたので気づかなかったが、ここ数日の夜練習を休んでいるらしかった。そのせいで一軍を外されるのではないかと心配しているらしい。

 確かに不憫な話ではある。才能と努力で掴んだ活躍の機会を怪現象で駄目にされるのだから。俺の慰めにも不安な顔のままの弟にすり寄って、背後から抱きしめてやる。怯えたように震える体をなだめるようにそっと頭をなでてやった。かわいそうに。

 今までずっと頑張ってきた成果が脅かされている今、俺みたいなやつしか慰めてやらないなんて。かわいそうに。


「俺がついててやるから、な、安心しろよ」


 心にも無いことを言ったつもりはなかった。マサユキが望むと望まざるとにかかわらず、苦しんでいる弟をこうして抱きしめていてやりたいと思った。目じりに浮いている涙を拭ってやり、頬に触れるだけのキスをした。かわいそうに、と思いながら。

 これはきっと、復讐の喜びというものだ。

 マサユキは俺のすることを黙って受け入れていた。時折苦しそうに何かの幼虫を吐き出していたが、落ち着くのは昨日よりもずっと早かった。青ざめた顔のままベッドに戻ろうとしていた弟は、俺が梯子を上るのを見上げていたが、何も聞かなかったし、何も言わなかった。だから俺も何も答えなかった。




 あの夜が山だったのだろう、あれから少しずつ毎夜の症状は軽くなっていき、始まってから一週間で部屋から虫はほとんど姿を消した。マサユキは目に見えてほっとし生気を取り戻していった。

 問題は俺だった。あれが何だったかなどどうでもいいことだった。ただあれがなくなったということだけが俺にとっての大きな問題だった。

 マサユキは結局一軍から降ろされることなど無く試合でも活躍し、彼女が出来たという噂も流れた。彼女が友人に誘われて見に行った試合にマサユキが出ていてどうたらというなれそめ話までとっくに流されていたが、張本人はそれを照れながらも受け入れていた。

 あの日のことなど忘れたのか、あるいは忘れようと努めているのか知らないが、弟は元通りになった。俺もそうだ。哀れみも愛おしさも流れ落ちて、元の通り劣等感に根を張った嫉妬心と憎しみが戻ってきた。


 マサユキの顔を見るのを避けたくて、友達の家を泊まり歩きはじめた。あれからちょうどひと月ほど経ったころだった。


「お前弟となんかあったの?」

「何も無いよ、なんも」


 何にもない。何にもなくなってしまったのだ。あれは夢か幻だったんだろう。そう思っていたのだ。

 友達の部屋の床に座布団を並べて敷いて寝っ転がり、借りた漫画を読みながら生返事をする耳に、スマホのコール音が響く。


「電話来てんよ」

「んー」


 母さんか、と思って取ったスマホの着信画面を見て凍り付く。『マサユキ』の文字を見て、1秒、2秒、震える指は電話を切っていた。


「……間違い電話」

「まじで?」


 でも、と言い切られる前から再びスマホは震えだす。『マサユキ』からの着信。ごめん、と友達に断って部屋の外に飛び出した。


「……何」

『ごめん、取込み中、だった?』


 言葉の間に、ごぼごぼと湿った咳の音が挟まる。ひ、とえずくのをこらえるような引き攣れた息遣い。風呂場に反響する水音の記憶がよみがえる。


 まさか。


「どうしたんだよ」


 ぶぶぶぶぶぶ、と硬質な羽音が一瞬、受話器越しに耳元を掠めていった。押し殺すような呻きがそこに重なる。荒い息が収まるまでを、指が白くなるほど強くスマホを握りしめて聞いていた。


『ユキハル、ユキハル』


 子供が泣いて縋るような声だと思った。そんなことは一度もなかった。こめかみが、指先が、跳ねあがる心拍数に共鳴して震えている。小さく、すすり泣くか細さで、電話の向こうの声が揺れた。


『助けて』



 どうやって家に帰ったのかの記憶は断片的だ。友人に断りを入れる。自転車に飛び乗る。赤信号に群れてちらつく蠅。追いかけてくるような丸い月。焦りすぎて取り落とした家の鍵。階段を駆け上がり、灯りの漏れるバスルームの扉を引き開ける。しゃがみこみ、涙に融けた目と、視線がかち合う。俺を見て何かを言おうとした弟の口がひくり、と痙攣して、真っ白な蚕の幼虫をぼろぼろとこぼした。ぬるつく唾液の中で溺れるようにわずかに身じろぎしながら、タイルの上に落ちてもがく。


「大丈夫だから、な」


 本気なわけがなかった。しゃがみこんで肩を抱き込んでやり、自分の肩口を何かが這いまわるのを感じながら、俺はただ復讐の続きを喜んでいた。



 

 マサユキはより深くふさぎ込むようになった。一度解放されたと思ったものに引き戻されたのだから当然だろう。学校にはかろうじて行っているようだったが、夕になると出来たばかりの彼女も放って帰ってくる。母さんもさすがに心配していたが、俺の「今まで色々頑張りすぎてただろ、少し休ませてやった方がいいよ」という言葉に一応頷いていたようだった。


 「ユキのこと、あんたが見ててくれるからそんなに心配はしてないんだけどね」


 母さんの言葉は少し意外なものだった。仕事で遅い父さんと、自室にこもり切りのマサユキを欠いた2人だけの食卓で、ぽかんとした顔の俺に母さんが続ける。


「昔っからあんた、ユキのこと誰よりも気にしてくれてたでしょう」


 そんなことはないだろう。良く出来た母親だが、分からないこともあるものなんだと思う。





 弟の彼女に会ったのは、弟が再び虫を吐き始めてから4日目の夜だった。控えめに一度我が家のインターホンを押したのは制服のままのボブヘアの小柄な女子で、見覚えはあったが名前が思い出せなかった。隣のクラスだし、噂話の主役なので聴いたことがないということは無いだろうが、努めて耳に入れないようにしていたので。


「あの、マサユキくんの」

「知ってるよ、彼女だろ」


 あ、と言いながら顔を赤くする表情がちょっとかわいくて、どきりとしてしまう。


「マサユキ、いるけど。上がってく?」

「いいの、かな」

「ここんとこずっと調子悪いから、会えるかはわかんないけど」

「それならいいよ、無理させたくないし」

「会った方が元気出るかも」


 嘘だ。はっきり言って、彼女にマサユキの惨状を見せてみたいと思ってしまったのだ。虫を吐きだすことをそうとう気に病んでいるマサユキだ、彼女に見られたら深く傷つくだろう。

 復讐がしたかったのだ。優しい兄貴のような顔をして、弟が築いたものが駄目になるところが見たかった。逆恨みで、八つ当たりだと分かっていても。

 けれど彼女ははっきりと首を横に振った。それ以上のことを俺は言えず、最後に「弟のこと、よろしく」とだけ言って扉を閉めた。そこで名前を思い出した。高橋さんだ。


 階段を上がり、部屋のベッドの下段の脇に座って、頭を抱えるような姿勢でベッドに丸くなる弟の顔を見ないようにしながら「高橋さん、来てたぞ」とだけ伝えてやった。


「……そう」

「明日会ったら、お礼言っとけ」

「……明日は休むよ、人に会ったら休んだ言い訳しないといけないし」

「そっか」


 俺はベッドの梯子を上り、寝転んで借りっぱなしの漫画の続きに取り掛かった。しばらくして湿った咳がしたのベッドから聞こえ始める。ベッドを這い出し、よろよろとバスルームに向かう足音を、少し迷ってから追いかけた。だんだんと、これに慣れてきているような気がする。






「あ、ユキハルくん」


 購買前ですれ違ったのを目ざとく見つけた高橋さんが俺を呼び止める。友達が若干哀れむような目つきでこっちを見てくるのが鬱陶しい。俺はどうせ弟の伝書鳩扱いだよ知っとるわ。中学の頃からそうだ。


「マサユキくん、今日、学校も休んでるよね」

「ごめん、結局ちょっと調子悪いままみたいで。しばらくこんな感じかも」


 俺が言うとひと目でわかるぐらいにしゅんとした顔をされて、やっぱりかわいいなと思ってしまうのが空しい。


「ほんとに調子悪いんだね、LINEとかも全然返ってこなくって」

「ごめんね、なんか。言っとくよ」

「ううん、いいの」


 こういうの健気っていうんだ、と俺が半ば感動的な気分になっていると、高橋さんが無理矢理気分を変えようとするように微笑んだ。


「ユキハルくん、ほんとにお兄ちゃんなんだね」

「は?」

「マサユキくんから色々話聞いてて、それだとすごくいいお兄ちゃんって感じだったけど、学校だとあんまり話すところとか見ないし。でも昨日も思ったけどやっぱりお兄ちゃんだね」

「あいつ俺の話とかすんの?」

「あたしもお兄ちゃんいるから、よく兄弟の話になるんだよね。うちはお兄ちゃん意地悪だから、ちょっと羨ましいな」


 じゃあね、と言っていなくなる高橋さんの背中を呆然と見送っていると、友達が「高橋さんはマジでやめろよ、不毛だから」と慰めるように肩に手を置いてくる。そんなんじゃねえからと返しながら、俺は高橋さんの言っていたことをぐるぐると反芻していた。




 今度の異変も一週間でピタリと収まって、マサユキは元の通りになった。高橋さんにもちゃんと謝ったよ、という報告を俺ははいはいと聞き流し、また弟から距離を取り始めた。

 ただ、今度は不思議と、復讐の快感の裏返しのようにぶり返す憎しみはさほど無かった。弟の汚点に、慣れ始めているのだろう。あれは一過性の突発的な不幸ではなく、常にあいつとともにあるものなのだという風に思うと、釣り合いの取れるような、全てが許せるような気がしたのだ。


 ある日夕食の席で、マサユキは照れ臭そうに「全国大会まであと一試合なんだ」と母さんに報告していた。普段ならなるべく耳に入れないようにしている食卓の会話に、「おめでとう」と言ってやったとき、もうこいつを憎んだりしなくていいんだろうかと思えた。窓には丸い月が浮かんでいた。


 そろそろだろう、と俺が思った通り、次の日の夜またマサユキは虫を吐いた。青い蝶が、脱皮直後のように湿った翅で床にくずおれているのを見とがめてから、「いい加減慣れないと辛いんじゃないか」と言ってビニール袋を手渡してやったとき、マサユキと目が合った。

 泣いていたあの時が嘘のように、乾いた眼だった。

 いつまでも泣いてもいられないもんな、やっぱこいつ俺と顔似てないな、とは思ったが、それだけだった。続いて吐き出された蟻が、動かない蝶にかさかさと這い寄っていく。こいつらはどうして生まれたのだろう。その夜吐き出された虫は、前の2回の初めの晩よりもはるかに少なかった。




「マナと別れたよ」


 3日目の夜、バスルームの床に乾いた咳と共にぱらぱらと名前も分からないような小さな羽虫を吐き出した後に、何でもないようにマサユキはそう口にした。


「マナ?」

「高橋マナ」

「なんで?」

「なんでって」

「つかそれ今話すことかよ」

「ユキハル、俺のこと避けてるだろ」


 マサユキはゔ、と呻いてから今度は茶けた翅のバッタを2,3匹吐き出す。吐き出されたばかりなのにびょんびょんとあたら元気に跳ねまわるのを捕まえるのも面倒で、おれはそれを足で踏みつぶす。風呂場は便利だ。後で全部洗ってしまえる。それからマサユキのことを見る。聞かなかったことにはできない、よなあ。


「……そうでもねえよ」


 もうそうでもない。もう憎んだりする必要はない。お前には傷がある。だからもう避けたりしなくていい。俺はやっと安心しているんだ。


「ごめんな、今まで」


 身勝手だ。けれど今になって、随分ひどいことをしてきたと思っているのだ。目を合わせず、バスルームの扉を這っている玉虫を摘み上げながらほとんど相手に聞こえないくらいの声でつぶやくと、マサユキは乾いたくすくす笑いを漏らした。


「いいよ」


 振り向くと、涙の気配もない笑顔で弟はこちらを見ていた。

 俺たちはこれに慣れたのだ。いびつで、奇妙な、安定だ。


 人を憎むということを漸く知った。あれは、苦しい。






 

「あ、高橋さん」


 購買前でよく会うな、と思いながら声をかけると、あからさまに逃げたそうな顔をされた。考えていることがよくよく顔に出る人なんだろう。


「……久しぶり」

「久しぶり」


 当然ながら気まずい沈黙が流れる。俺から声掛けたんだしな、でもな、と考えあぐねていると、高橋さんがうつむいてぼそりと「満足したんだって」と呟いた。


「何?」

「満足したんだって、マサユキくん、だからあたしと別れるんだって」


 何それ、とかすれた声で吐き捨て、今にも泣きそうな目で地面を睨んでいる高橋さんに、「ごめんな」と言うとキッと睨みつけられた。最近謝ってばかりいるな、とそればかりを考えていた。彼女が前ほど可愛らしく見えないのはなぜだろうか。怒った顔だからというのではないだろう。


「なんでユキハルくんが謝るの」

「一応、兄貴だし」

「何それ」


 何か言いたげな顔をして、それでも俺に当たっても仕方が無いと思ったのだろう、ごめんね、と小さく頭を下げて高橋さんは立ち去っていった。俺は高橋さんの言ったことを考え、そして忘れることにした。

 満足した? 何に? 何で? 問いただすことが出来ないわけではない。でも俺たちは安定している。やっと安定したんだ。もうひっくり返したくはない。それが弟の傷の上にある安定でもだ。

 俺がそうあってくれと思ったように、俺とマサユキの間に特に波風が立つことは無かった。急に仲良くなったわけではない。人並み程度に会話をする、避けない、その程度の関係だ。男兄弟なんてそんなものだろう。

 マサユキの大会の日が近づき、同時にあれからもうすぐひと月が経とうとしていた。大会に例の症状が被らなければいいが、と心配する程度には、俺は平静だった。マサユキは練習で帰りが遅いので一人で部屋で借りてきた漫画の最終巻を読みながら、いい加減慣れてきたし、上手くやるだろうと考えていた時だった。

 

喉の内側を、何かが這っている。


 喉奥をくすぐるように、細いものが蠢いている。たまらずせき込み、嘔吐感に任せてそれをベッドの上に吐き出す。唾液に塗れてもがくそれは、黒い蜘蛛だった。

 混乱し、叫ぶ暇さえなかった。何かが喉を這いあがってくる。舌先をひっかく様に、列をなして、せき込むたびにぼたぼたと小さなアリが群れを成して落ち、マットレスの上を這い回る。なんだこれは。どうして俺が。喉元を絶えず圧迫される感覚が思考を途切れさせる。

 胸を押さえてうずくまり、口を開くとどろ、と舌先を伝って白く小さな幼虫がもつれ合いながら次から次へと這い出てくる。蛆虫だろうか。分からない。なにもわからない。扉をノックする音がする。声が出なかった。

 

 扉を開いたマサユキは、俺の方をじっと見、それからなぜか「そういうことだったんだ」と呟いた。何が、と口を動かそうとするともうだめで、口の中の柔らかい肉を抉るようにバタバタと暴れながら2匹の蝉が飛び出し、血の味が滲んだ。

 蝉は壁や天井にぶつかりながらじいじいと啼いて飛び回っている。マサユキは扉にぶつかったそれを、ばん、と叩いて潰した。扉の揺れる音が反響してぐらぐらと脳が揺れる。

 マサユキは梯子を上ってベッドの上段に上がってくる。逃げたいと思ったが、どこにも逃げる場所が無い。立膝の姿勢で近づいてきたマサユキはうずくまる俺の肩を掴んで、顔を覗き込んだ。

 

 何で笑っているんだ。


「マサユキ、」

「ユキハルさ、ずっと俺のこと見てただろ」


 何で笑っているんだ。その笑みは何を意味しているんだ。


「昔から俺が褒められてるとき、何にも言わないけどジトっとした目でこっち見ててさ」


 胃が縮むような気がした。何もかもばれていた。妬んでいたことも、何もかも。よほど怯えた目をしていたのだろう。マサユキは俺の頭をぎこちなく撫でた。


「大丈夫、それは怒ってないから。むしろ楽しかったんだよ。俺がなんかする度にユキハルがイライラしたり悲しくなったり、俺から逃げたりするのが楽しかった。俺のせいなのが気分良かった。俺のことあんなに見てて、俺のこと色々考えて心動かされてるのユキハルだけだよ」


 咄嗟に伸ばした手は、弟の口を塞ごうとしていた。何も聞きたくなかった。恨んでてごめんな、悪い兄貴でごめんな、それで済む話のはずだった。お前は、違うだろう、やっかまれる謂れなんか何もないような、そんな弟のはずだろう、けれど伸ばした手は掴んで押さえつけられ、喉元はせりあがる虫の感触でふさがっている。

 俺が大きく、肺の潰れるような咳をした拍子に大きな蜂が吐き出されたのを、マサユキは目を細めて見ていた。


「でもごめんなユキハル、俺ちょっと満足できなくなっちゃったんだ。一回だけ、自分から、ユキハルのしたいこと取り上げた。バスケ、興味あったのに、ごめんな」


 掴まれた手が震えた。何を言っているんだ。まさか、俺が興味があるのを知っていて、俺から取り上げたくて、わざわざバスケ部を選んだとでも言うのか。俺が逃げ出すと踏んで。


「ユキハルよっぽど怒ってたんだな、虫を吐くようになって、これバチが当たったんだんだと思ったよ。でもユキハルが見つけてくれて、喜んでくれて、俺けっこう嬉しかったって言うか、怒らせたり悲しませたりしてきたけど、喜んでもらえたの、初めてだし」

「喜んで、なんか」

「でも笑ってたろ」


 な、と言って俺の手をマサユキが離す。殴りかかる気力も無く、力の抜けた手はずるりとマットレスに落ちる。手の下で蟻が這いまわっている。


「ユキハルが喜んでるしこれでもいいやって思ったのに、でもユキハル満足しちゃってさ、俺のことどうでもよくなっちゃっただろ、恨まなくなって、他人と同じになって、嫉妬させたくて彼女も作ったのに意味なくなっちゃってさ。俺初めてユキハルのこと許せなくなった」


 高橋さんの今にも泣きだしそうな顔、はにかんだ笑顔が脳裏によぎった。お前のものだから可愛かったんだろうか。もう今更何も分からない。分かりたくもない。どうして黙っていてくれなかったんだ。耳を塞ぐのももう億劫だった。ぼろぼろと涙が落ちるのを感じる。

 目元を拭ってくる弟の手つきが、いやに優しかった。


「ずっと俺のこと見てたじゃん。今更自分だけ逃げないでよ。そのことだけは、本当に恨んでる」


 恨みが虫を吐かせるとでもいうんだろうか。それならきっとマサユキは今嬉しいのだろう。お前の恨みでこんな目に合っているのだから。

 ちゃんと怒ってね、と囁きながら、マサユキは俺の顔に手を添えた。


「好きだよ」


 呆けて半開きの口に、弟の唇が触れ、虫のように舌が入り込んでくる。手の中でもがく虫になったような心地がした。力を籠めれば簡単に潰れる虫だ。きっとマサユキが虫を吐くことは二度とないだろう。哀れむべき傷を慰めるように、弟の背に手を回してそっと撫でてやった。喉の奥からは、低く羽音を響かせて何かがせりあがってきている。

 

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虫酸の月 ギヨラリョーコ @sengoku00dr

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