路線バスに乗って

五月女 十也



 季節は次々死んでいく、と歌った人がいる。



 あれはどんな歌詞だったかな、と独り言ちながら、私はセミの声が煩い青空を見上げた。九月も半ばに差し掛かっているというのに、未だに灼熱の太陽が、我が物顔でこの世界を見下ろしている。自宅の玄関先で立ち尽くす私の目の前を、通行人が汗を拭いてソフトクリームを頬ばりながら通り過ぎて行った。

 すっかり油断していた。夏はとっくに “死んだ” ものだとばかり思っていた。

 七分袖のカーディガンの下で、ジワリと汗がにじむ感覚がした。一度部屋に戻って夏の装いに着替えるか? ……いや、今すぐに出立しないと、バスの時間に間に合わなくなってしまう。

 私は小さく舌打ちをして、玄関の扉に鍵をかけ、通りに降り立った。



 季節は次々死んでいく。そのはずなのに、今年の夏はどうにもしぶとく生き残っているようだ。



 電車に乗ると、冷房がしっかりと効いていた。車両には私と、誰かと電話をしているおばさんしか乗っておらず、がらんとしていた。

「それで、美香の様子はどうなの。お医者様は何と言ってるの?」

 電話口の向こうで男性の声が言葉を返す。私はシートの端にそっと腰を下ろした。

「……うん、うん、…………えっ、嘘でしょう?…………そう、そうなのね」

 彼女の声が震える。続いて鼻を啜る音がして、それに応えるかのように男性が何かを言った。

「……ええ、あと二駅よ、七分くらい。駅からはタクシーを使うわ」

 二駅先というと、ここらでは一番大きな大学病院があったはずだ。タクシーを使っても、駅から大学病院まで十数分はかかる。ミカさんの容体は分からないが、でも……。

「間に合わせてみせる」

 私は思わず顔を上げた。おばさんが私の考えを読んだかのような、素晴らしいタイミングでの言葉だったから。しかし、彼女は私のことに未だ気づいていないようで、ひたすらに携帯電話を耳に押し当てていた。

 電車のスピードが落ちる。無機質な車掌の声が車内に響く。開いたドアを通る影はなく、電車は再びゆっくりと走り出した。

 美香、とおばさんが呟く。か細く、掠れた声だった。

 不意に、電話の向こうが慌ただしくなった。一定の高さを保った機械音が脳を揺らす。誰かが叫んでいる。先生、せんせい。美香を、この子を助けてください。落ち着いてください、下がって。心肺蘇生を行います。大丈夫ですよ。美香さん、聞こえますか。美香さん。

「嫌だ、死なないで、お願い」

 電車が止まる。ドアが開く。おばさんは、ドアをこじ開けるようにしてホームに飛び出していった。



 季節は次々死んでいく。誰にも気づかれないうちに、ひっそりと。



 目的の駅に着いたので、私はまた太陽の下に立つことになった。カーディガンはとっくに鞄に仕舞ってある。どこかの店の宣伝だろうか、ポケットティッシュを押し付けてくるお兄さんを躱し、今度はバス停に向かう。ちょうど乗りたいバスが出るところだったので、小走りで乗り込んだ。一番後ろの窓際。私が座ると、バスはゆっくり走り出した。

 金色に染まった田んぼが窓一面に広がっている。それが無性に眩しくて、私は目を伏せた。

「お客さん、どこまで乗っていくんだい」

 そんな声が聞こえて、私は顔を上げた。いつの間にか、バスの乗客は私だけになっていた。鏡越しに、運転士のおじいさんと目が合って、自分が話しかけられていることに気づいた。

「えぇと、四つ先の停留所までです」

「へーえ。こんな田舎までわざわざよく来たねぇ。今日は特に暑いし、大変だっただろうに」

「はぁ、まぁ」

「何しに行くのか、聞いてもいいかい?」

「墓参りです」

「あぁ、なるほどねぇ」

 おじいさんは柔らかく微笑んで、窓の外に目をやった。

「こぉんな美人さんにお参りしてもらえるなんて、その人は幸せもんやねぇ」

 その言葉に、私は何も返せなかった。私が墓参りをするのは、彼のことを想っての行動ではなく、ただの私の自己満足でしかないのだから。その可能性は限りなく低いのに、彼が幸せかどうかなんて考えたくもない。きっと、あの世で迷惑しているに違いない。

「お客さんはこのあたり、何回か来たことあるのかい?」

「……いえ、今日で三回目です」

「そうか。じゃあ、向日葵畑のことは知ってるかい?」

「いや、知らないです」

「なら行ってみるといいよ。お客さんが行く停留所から歩いて五分くらいのところにあるからさ」

「はい」

「ほら、そろそろ着くよ」

 バスが止まる。開いたドアから熱気とけたたましいセミの声が流れ込んでくる。私は小銭を払って運転士にお礼を言って、地面を踏んだ。



 季節は次々死んでいく。死にきれずに彷徨うそれは殺される運命にあって。



 何気なくバスの後ろ姿を見送ってから、私は歩き出した。寺の住職に軽く挨拶をしてから、水の入ったバケツと柄杓ひしゃくを手に取り、墓場に入っていく。

 彼の墓は、去年と全く変わらずそこにあった。しばらく前に彼の家族が来たのか、枯れた花と線香の燃えカスが残っていた。私は墓の周りの雑草を抜き、軽く掃除をしてから、バケツの水を墓にむかって思いっきりぶちまけてやった。反動で自分にも多少水がかかったが、特に気にならなかった。

「……暑いね」

 私の言葉は、セミの声にかき消された。誰にも返事をもらうこともなく、あっという間に青空に消えていった。

「あんたが死んで、もう五年だよ」

 相変わらず、返事はない。

「もう、もう忘れてもいいかな、あんたのこと」

 返事はないと解っていても、口が動くのを止めることはできなくて。どうせ、こいつ以外は誰も聞いていないだろうから、全部吐き出してしまってもいいんじゃないかと思ってしまって。

「どうして死んだの」

 私はもっと、あんたの笑顔を見ていたかった。隣にいるのは自分じゃなくていいから、自分があんたに会えないことになってもいいから。あんたがこの世界のどこかで生きているって、笑ってるってだけで、それだけで私は幸せだったのに。

 ……いや、違う。こんな綺麗な感情じゃない。私は、あんたにんじゃなくて、。つまるところ、僕のエゴだ。でも、あんな死に方されたら、嫌でもこう思ってしまう。

「……ごめんね」

 私が殺したようなものだから。覚えていることが苦しくても、私だけはあんたのことを忘れちゃいけないんだ。



 季節は次々死んでいく。時間が経てば消えることができるそれが、私にはどうしようもないほど妬ましくて。



 五年前の夏の始めのある日、彼はあっけなく死んだ。交通事故だった。高校を卒業してから数年ぶりに同級生のみんなで会おうという話になり、彼は自分で運転して集合場所に向っている途中で、トラックに追突されて死んだ。約束の時間を過ぎても連絡がないことを不審に思って電話を掛けたら、彼の母が出て訃報を伝えられた。葬式の席で、打ち所が悪かった、というドラマでよく聞くセリフが頭上を通り過ぎて行った。

 といっても、正直なところ、彼が死んだときのことはほとんど覚えていない。これはどれも、あとから友人達に聞かされた話である。

 たったひとつ、私が鮮明に覚えているのは、彼の恋人が私を『ひとごろし』と呼んだことだ。私がみんなで会う企画を立てなかったら、彼は事故に遭うことはなかったのに、と。『お前のせいで』と叫んだ彼女は、私の頬を殴った。

 よくある話だ。現実でも小説でも、昔からしばしば繰り返されていることだ。だから、この手の話の客観的な捉え方は知っているつもりだし、彼女の言葉は無視してしまってもいいって、私が悪いんじゃないって、頭では理解しているのに。

 その日以来、私はずっと彼女の言葉に苦しんでいる。



 季節は次々死んでいく。全く同じ季節が巡ってくることは二度とない。

 


 墓場を後にした私は、バスの運転士に教えられた道をゆっくり進んでいった。太陽の光が陰ることはなく、セミの声はますます大きく響いている。

 ふと、視界が開けた。向日葵畑と聞いていたその場所は、更地になっていた。花の一本どころか、雑草すらも生えていない。場所を間違えたかとも思ったが、他に道はなかったのでその可能性は低い。

 立ち尽くしていると、背後から足音が聞こえてきた。

「おねえちゃん、ここでなにしてるの?」

 振り向くと、小学生くらいの男の子が私を見上げていた。

「……向日葵畑を見に来たの」

「向日葵はね、きのうぜんぶ、おじちゃんたちがもっていっちゃったの」

「そっか」

「とってもきれいだったからね、おじちゃんのおともだちに、みせてあげるんだって」

 それはきっと嘘だろうな、と思った。その “おじちゃん” は多分、向日葵を売ってしまっただろう。なんて、邪推してしまう私はすっかり大人に染まってしまったのだろうか。

 無垢な瞳のその男の子は、私の頭からつま先まで一通り見てから、また質問を発した。

「ねぇねぇ、おねえちゃんはどこからきたの?」

「遠いところからだよ」

「どれくらいとおいの?」

「ここからだと、電車とバスで二時間くらいかな」

「それじゃあ、おねえちゃんは、いまからとおくにかえるの?」

「うん、そうだよ」

「ふぅん。ねぇ、ぼくも、おねえちゃんといっしょに、とおくにいきたい」

 突然そんなことを言われて、私は目を見開いた。

「だ、だめだよ」

「なんで?」

「そんなことしたら、私、警察に捕まっちゃうかもしれない」

「だいじょうぶだよ」

「は?」

「ぼく、おとうさんもおかあさんもいないから」

 そういう問題ではないのだ。法的な問題以前に、どこの誰かもわからない子供を連れて帰るなんて、そんなハイリスクなことはしたくない。

「ねぇ、だめ?」

「だめだよ」

「どうしてさ」

「私にはきみの面倒を見るだけの生活力も経済力もないの。君は遠くに行きたいのかもしれないけど、残念ながら私じゃ力になれないかな。悪いけど、他を当たって欲しいな」

「でも、でも」

 だめだ、埒が明かない。少し早口で、聞き取りづらいように返したからか、男の子は私にうまく言葉を返せないようだが、諦めるつもりもないようだ。

 こうなっては仕方ない。私はさっさと帰ることにした。

「ごめんね。気を付けて帰ってね」

「まって!」

 踵を返して、元来た道を行く。後ろから足音が追いかけてくるが、私はそれを無視して歩き続けた。

 停留所には、すでにバスが来ていた。運転席には、行きしなに声を交わした運転士がいる。彼は私に気が付くと、運転席の窓を開けた。

「墓参りはもう終わったかい?」

「ええ、おかげさまで」

「そろそろ帰るころだろうと思ってね、ちょっと待ってたんだ。ほら、早く乗りな」

 言われるがままにバスに乗り込もうとすると、くいっと服を引っ張られる感覚がした。見れば、そこにいるのはもちろんさっきの男の子で。

「おねえちゃん、乗っちゃダメ」

「え?」

「乗っちゃダメだって、おにいちゃんがいってた」

「おにいちゃん?」

「きっと事故を起こすからって。それに、このおじちゃんは、向日葵を全部取っていってしまったんだよ」

「事故? 向日葵……?」

「おぉい、お客さん。どうしたんだい、早く乗らないか」

「え、え?」

 前からも後ろからも声をかけられて、私は困ってしまった。早くバスに乗らないと、運転士にも迷惑がかかるし、私自身も帰れなくなるかもしれない。でも、男の子があまりに必死に私を引き留めようとするものだから、なんだか気になってしまって。

「お客さん、置いてくよ」

「おねえちゃん、乗っちゃダメだよ」

「おいおい坊主、邪魔しないでくれよ」

「だめだよ、だっておじちゃん、嘘つきだもん」

「うそつき?」

「そうだよ。だって」

 男の子は、じっと運転士を見つめている。その視線には、会った当初の純粋さは露ほども含まれていなくて、私は息を呑んだ。


「その人、僕を殺すんだもん」


 何が何だかさっぱりわからなかった。でも、本能がこの場を離れろと警鐘を鳴らしている。心臓が早鐘を打って、私は無意識に後ずさった。

「なんだい、変な言いがかりはしてくれよ。お客さん、その坊主連れてでいいから、さっさと乗っちまいな」

「なにとぼけてるの。嘘ついちゃだめだよ。おねえちゃんも、あの人の言うこと聞いちゃだめだよ」

「なぁお客さん、いいからこっちに」

「ねぇおねえちゃん、僕のこと信じて」

「やめて!」

 私は一目散に駆け出した。とにかくこの場から離れたかった。あの二人がなのかは知らないけれど、寺に駆け込めば助かるのではないかという期待と共に、必死に走った。

 寺の門をくぐってから、私は恐る恐る停留所を振り返った。

 そこには何もなかった。バスも、運転士も、男の子も、跡形もなく消えてしまっていて、ただただ蜃気楼が揺らめいているだけだった。




 季節は次々死んでいく。忘れたくないと願っても、覚えていることはまるで難しくて。




 結局私は、その日の晩を寺の住職の家で過ごした。住職とその奥さんは、私みたいな人に慣れているようで、何があったかを深く追求してくることはなかった。

 次の朝、お二人のご厚意に甘えて朝食をいただいてから、私は寺を後にした。去り際に住職にお礼を言うと、「こちらこそ、ありがとうございました」と返されてしまった。どういうことか聞こうとしたときには、バスの時間が迫っていると半ば追い出されるように外に誘導され。

「お気を付けて」

 やってきたバスの運転士は、昨日の人とは別の人だった。そしてそのまま、私は昨日の運転士にも男の子にも会うことなく帰宅した。

 玄関の鍵を開けようとして、私は何かに違和感を覚えた。それはまるで、つい昨日まではちゃんとそこにあったのに、今はなくなってしまっているかのような、そんな感覚で。

 少しの間をおいて、私ははっとした。

 太陽の日差しはすっかり弱まっている。煩わしいほどにあたりを埋め尽くしていたセミの声も、どこかへ行ってしまった。これではまるで、夏が終わったかのような。



 季節は次々死んでいく。誰にも気づかれずに、どこか遠くへと連れ去られていく。



 あの男の子はもしかして。

 いや、そんなおとぎ話のようなことがあるわけない、と首を振った。玄関の鍵を開ける。夏の間の癖で部屋の冷房を付けようとして、やめた。今日はそこまで暑くない。もう今年は冷房を使うことも、だんだんなくなっていくだろう。



 季節は次々死んでいく。



 時間が経つと必ず消えてしまうということは、私が思っているよりも寂しく、つらいことなのかもしれない。そんなことを考えて、私は携帯電話を手に取った。あのときのメンバーに声をかけてみよう。またみんなで集まってみるのも悪くはないかもしれない。


 もちろん今度は、季節の変わり目を避けて、だけれど。



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