青い

容原静

青い

青い。

教科書を落とす。奥所へ続く階段は閉鎖されているのが生徒の常識だが、閉鎖を任された柵は無残なまでに破壊されている。青いペンキが乱暴に階段を汚し、飛沫が屋上との関係を断っている廊下にまで広がっている。誘惑が強い。この先に私を包んでいる鬱を払う力がある。食パンを齧っている市葉は進む。屋上への扉は開いている。

左手に握ったペットボトルは何色か。扉を開くと色を失った空が広がっている。ここは明るいのか暗いのか。市葉は見上げる。太陽は眩しくない。世界はそのまま呼吸が続いてるが、モノクロだった。蝉がうっとうしい。

奥に人がいる。女は全てを諦めたかのように屋上の床に座り込んでいる。屋上の柵と左手が手錠で繋がっている。変わった趣味を持つ女。

女は顔を上げる。市葉の視線に気づいたようだ。

「どうしてここに」

「あなたが呼ぶ声に誘われました」

「えっ、ほんと! 助けは求めるものね。恩に着るわ。じゃあお願い」

女はうきうきとした目で市葉を見つめる。丸い目で見つめられてもなんの反応もできない。

「一体何のはなしですか」

「なにって。責任感放置プレイですか。虐めるような場面じゃないでしょうが」

市葉は期待したことを後悔し始める。

「あなた、一体何をしたいんですか」

女は叫ぶ。

「自由になりたいのよ」

市葉は左手のレモン水を地面に落っことす。

「この手錠を外して」

「自虐家ですかあなた」

「あなたじゃないわ。あんじゅ」

「あんじゅさん。自分でやったことは自分で解決してください」

あんじゅは小馬鹿にするように鼻で笑う。

「まさかこんなバカなことを私がやったと思っている? 私は嵌められたのよ」

あんじゅは左腕を揺らす。手錠はカタカタ揺れる。

「そうはいってもここにはあなたしかいませんし。好んでこんなことする人私知りませんよ。そもそもあなた、あんじゅさんがなにか悪いことしたからこんなことになっているんじゃないんですか」

市葉の言葉が痛いところを突いたのかあんじゅはムキになる。

「私が悪いわけないでしょ。何の罪も犯してない。嵌められたのよ」

「嵌められたっていわれましても…、ね」

市葉はこの場を早く離れたくて仕方がない。地面に転がったレモン水をあんじゅの手が届く場所に置く。あんじゅは目をぱちぱちさせてレモン水を見る。

「レモン水です」

「いわれなくてもわかってる」

市葉は扉へと向かう。扉は何故か閉まっている。

「ちょっと、逃げる気? 私を助けてからにしなさい。お願い、待って」

「自業自得です。おとなしくレモン水飲んでいなさい」

「レモン水なんて飲んでいられるか」

レモン水は市葉の横を軽々と転がっていく。壁にぶつかり、元来たほうへ戻っていく。

市葉はドアノブを廻すが開かない。引いても押してもびくともしない。体中がヒートアップする。

「あんた、何しているのよー」

「あんたではありません。市葉という名前があります」

「初めまして市葉さん」

「あんじゅさん、鍵持ってます?」

「鍵、鍵がどうしたのよ。手錠の鍵ならもっていないわよ」

市葉はあんじゅのもとへ近づく。屋上の鍵ならもっているわけだ。

「返してください」

「レモン水なら返したじゃない」

あんじゅは怪訝な顔をする。

「屋上の鍵なら私のものです。どこで拾ったの。どうして開けることができたの」

「教えてあげても構わないわ。代わりといっちゃなんだけれど、私を手錠から開放してくれたならばね」

「いいでしょう。で、鍵はどこに」

「鍵はないわ」

「どうして」

「私に手錠したやつが食っちゃったのよ」

「食っちゃった?」

不思議なものには不思議なものが積み重なる。どうして手錠の鍵を食べる必要があるのか。

「そうよ。そうしてあいつは飛び降りたのよ」

そういえば数時間前に女の子が飛び降りたと大騒ぎになっていた。内臓が飛び散り辺りは大変見苦しかったと話していた。

「あの子の誘いになんて乗らなければよかった。私は彼女が思い描く命の使い方に供託しただけ。そして彼女は私を屋上の柵に固定した」

「鍵がなければ鍵をつくってもらいましょうよ」

市葉はスカートのポッケからスマホを取り出す。

「電話する気?」

「ちょっと黙ってください」

「無駄よ。私も挑戦したけれど圏外なの」

あんじゅの言う通り電波が届いていない。

「そんな。屋上程度で圏外になる日本の電波状況ですか」

「電波だけじゃない。なんていうか色々なことは変わらず存在するけれども、私たち、屋上だけは全て圏外のように感じられる」

市葉は周りを眺める。自然的な夏は続いているはずなのに、学校は活動をやめていないのに生徒の喧騒は聞こえてこない。チャイム、セミの声は聞こえる。それだけ。

「私たちって実は死んだのかな」

「どうしてよ」

あんじゅは怪訝な顔を浮かべる。

「あんじゅさんは、どんな色ですか」

「なんのことよ」

「例えば空の色」

あんじゅは天を指さした。

「お生憎さま。モノクロ。たぶんあなたと同じ」

「あんじゅさんを嵌めた人って人間でした?」

「あなたって質問ばかりね」

「このまま手をこまねいて不気味な屋上に居続ける必要ないでしょう。というか屋上の鍵は持っているんですよね」

「私は鍵もってないわ。あの子がもっていて飛び降りたから。扉を正当な方法で開けるすべはないわね」

「その子がいなかったらこんなことにならなかったのに。その子、やっぱり普通じゃないですよ」

「そうなのかな。私はふつうに接していたけれど」

「そうでもないとこのおかしな世界は説明できませんよ」

「そうかしら」

あんじゅは目をそらす。

「なんです」

「いやちょっと言いにくいじゃん」

「私たち閉じ込められたんですからお互い隠し事なしでこのピンチに立ち向かわないと普通に死んでしまいますよ。自分たちで思っている以上にここはおかしいんですから」

「じゃあいうけれど私たちがおかしいかもしれないんだよ」

「そんなはず」

「あなたはどうしてここにきたのよ」

「私はここに色々な鬱屈を解放してくれる世界があるかと」

「私も似たようなもんだわ。屋上ってそういうものだからね。私たちそうしてここに嵌められた。あの子も本当に死んだのか怪しいところだわ」

「アリってことですか。甘い砂糖に誘われて入ったところは人の部屋。私たちは人為的な水に囲まれて身動きができない」

市葉は柵を登り、向こう側へと降りる。

「市葉さんなにをしているの」

「小さいですよ」

「えっ」

「死体ですよ」

内臓が大地をキャンパスとして初めての自由を味わっている。命を失った死体にカラスが数体群がり見つめている。

「カラスがいますよ。鳥はここでも存在することを赦されているんですね」

「鳥は空と地上と別の空間を交錯できる生き物だから、かしらね」

あんじゅはなんだか思案に暮れる。

「どうしたんですか。何か気になるんですか」

「いやねあの子、飛び降りたのはひと江っていうんだけれど。あの子はカラスっぽい子だったから、カラスがその命を見届けているのかなって」

「そんなことってあります?」

「カラスは食うわよ。直ぐにね」

市葉は喉をごくっと鳴らす。死体をみる。

「あのー、一つの提案としてはここから飛び降りるという案もあります」

「私は飛び込めないし、安直よ。この状況が死ねといっているからって」

「消極的よりもいいじゃない」

「時間に追いやられて、くだらない雑多からため息の出る答えを選んだだけよ」

「では飛び降ります」

市葉は足をゆっくり縁へと進める。あんじゅは慌てる。

「ちょっと本気かしら。あなたってお馬鹿さんね」

市葉は歩みを止める。空だけの視界を遮る。屋上を振り返る。

「それが選択したものへの態度ですか。恭しく見守ってくださいよ」

「なにが選択したものよ。ばか。まぬけ」

「やめないかやめないか」

市葉はあんじゅの物言いに腹を立てた。柵を乗り越えて屋上へと戻る。両指を緊張させて、爪をあんじゅに向ける。キャットファイトの始まりだ。市葉はあんじゅへと突撃する。あんじゅは自由な右手と両足で応戦する。

「あなたねいくらなんでも卑怯っ。ちょっとちょっと、やめなさいやめなさい」

「にゃにゃにゃにゃにゃにゃなやぬわにゃ~~~~~~~」

あんじゅはどんどんひっかき傷で顔を赤く染めていく。市葉は何度蹴りに吹っ飛ばされてもあんじゅに突撃する。二人の争いは終局がみえない。

数も忘れるほどの蹴りを喰らっても再び市葉はあんじゅへと突撃する。あんじゅは息を切らしながら脚を緊張させる。両者ともに負けず嫌いだった。

両手を振り構えた市葉はストップをかけて背中から後ろへこけた。あんじゅは目を見開く。

カラスが二人の間に飛んできたのだ。

カラスはきょろきょろと二人を見る。独特なステップで屋上をダンスする。地面に落ちたレモン水を鋭利なくちばしで突く。レモン水に穴が開き、液体は垂れていく。

カラスははもうここにはなにもすることはないと悟ったのか、飛翔した。

二人はなにをするわけでもなく消えていくカラスを見つめていた。

あんじゅは市葉をゆっくりと見つめる。

「市葉さん。今すぐ飛び降りるなんて性急すぎるわよ。私たちが生きていくために出来ることなんていくらでもあるのに。自ら死を選ぶなんて傲慢よ」

「でも、扉の鍵がなくちゃ」

「現代っ子ね。開かないならば壊してしまえばいいじゃない。何度も突進して破壊しなさいよ」

「そんなの耐え難いです。スマートじゃありません」

「私は手錠で動けないの。あなたはできるでしょ。私はここから言葉を発することしかできないんだから」

市葉はため息をつく。屋上の扉へと向かう。足取りが重い。

「さあさあ。そんな空気じゃ開くもんも開かないよ」

「いい気ですね。自分は動かなくていいもんだからって」

「そんなこというなら早くこの手錠を外しなさいよ」

市葉は返事しない。無言で扉へとタックルするが体が軽いため無残に吹っ飛ばされる。

市葉は根性がある。何度ふっとばされてもタックルする。まったく効き目がない。

あんじゅは黙って見つめていた。無言で鉄の扉に何度も立ち向かう市葉の後ろ姿は儚く透明に写る。喉に灰色の塊が発生したように胸が重い。苦しい。

「もう、十分よ。わかったわ。大丈夫。だから、もうやめて」

市葉に声は届かなかったのか、タックルをやめない。

「やめなさいって言っているのよ!!」

跳ね返った市葉は地面にうつぶせる。そのまま立ち上がらない。

「どうしたっていうのよ。まさか死んだなんていわせるんじゃないでしょうね」

市葉はゆっくりと顔をあんじゅのほうへ向ける。髪の毛から透ける市葉の目に涙が見える。

「どうしたの。どうして泣いているの」

「どうして止めるんです」

「見てらんなかったのよ」

「あなたが始めろっていったのに?」

「そこまでしろなんていってないわよ」

市葉はそのまま地面に俯せたまま動けない。あんじゅは手錠の状態を恨めしく思う。市葉の頬を撫でてあげたい。そうしなければ気が済まない。

あんじゅは歯ぎしりをする。足を伸ばす。思わず叫んでしまう。

「ああっ。くそ。バカヤロー!!」

瞬間バサッとカラスが屋上の周りを飛翔する。カラスはモノクロの空へと消えていく。あんじゅは呆然と目を奪われたまま、手を握りしめた。

ぐーとお腹の音が鳴る。あんじゅは顔を赤く染めてお腹に手をあてる。市葉をちらりとみるとあんじゅのほうを伺っていた。

「なによ」

「私もおなかすきました」

市葉はため息を吐く。

「私たち、餓死しますか」

「いやよ。そんな死に方」

「でも、屋上の扉は開きませんし。熱くも寒くもないんだけどね。手錠だって今の私じゃとてもちぎることできませんし」

「なにか考えましょう」

市葉は力なく笑う。あんじゅは何がおかしいのか分からなかった。

「なによ。どうして笑うの」

「私って考えるの苦手なんです」

空から影が万華鏡のように屋上を隠す。あんじゅは空を見上げる。カラスが数十匹飛んでいる。

カラスは屋上へと降りる。嘴には青いビー玉。

市葉は愉快そうに笑う。ゆっくりと立ち上がり四方のカラスを指さしながら踊る。

「私たちを食べに来たんでしょうか」

「そんな」

「死の匂いに敏感なんですね。私たちは食われますよ」

あんじゅは自分がカラスに食われている姿を想像して体を震わせる。嫌な死に方だ。

「こんなところで死にたくないよ」

「死前の最後の晩餐ってありますけれど私の場合は食パンですよ。いやになります」

「だから、死ぬ話はやめてって…」

あんじゅは言葉が続かない。市葉の瞳、空とカラスが映る黒い眼球。くるりとまん丸い。

「知っていますか。あんじゅさん。雲は相変わらず流されている。屋上の風は私の黒髪を揺らす。私の体を溶かしてくれればどれほど気楽に生きていけたのか」

市葉の背中は憂いがある。足を交錯させる。くるりと回転しながら足元のカラスから青いビー玉を掬う。

「どこから拾ってきたものやら。どこか深い森に一人で暮らすおじさんの数少ない趣味。青いビー玉を作ること」

市葉はビー玉をかざす。モノクロの太陽光線がちらりとあんじゅの目を刺激する。目をそらす。

「なんなのよ。それ」

市葉はビー玉を呑み込んだ。あんじゅはあっとつぶやく。市葉は両手を背中に隠してふふふと顔をにやけさせる。

「私の想像です」

市葉はスカートのポッケをいじる。カッターナイフを取り出す。

「さようなら。あんじゅさん。お元気で」

市葉は喉へと深く突き刺す。あんじゅは呼び止めることできなかった。大きな血の流れがカラスへと降りかかる。ヒューヒューと耳を塞ぎたい呼吸音。市葉は両膝をガクンと崩す。体のバランスを壊す。目からは大粒の涙が瞬時に流れ出していた。

青いビー玉が音楽を奏でた。カラスが一斉に鳴き始める。カラスは奇妙なダンスで市葉へと近づく。あんじゅは目をそらした。カラスの食事が始まった。市葉を食するまでそう時間はかからなかった。

カラスが近づいてくる音。あんじゅは屋上から目をそらし続ける。

「私は死なないよ。死んでたまるもんか」

あんじゅは近くに落ちたビー玉をカラスへと放り投げる。カラスはびくともせずあんじゅを見続ける。

どうしてこんなところで死ななければならない。市葉の鉄の匂いが気分を狂わせる。

生きていくことで出会っていくこと。一つ一つの選択の軽さ、その積み重ねがどうしてこのような道を作ってしまうのか。やりきれない。あんじゅはいやだった。

もっと色々な世界が広がっていたはず。例えばそこで朽ち果てた市葉とも将来おせんべい食いながら初めての挨拶を交わしたかもしれないのに。

あんじゅを屋上へと繋ぐ手錠。これさえ切れたならばまだなにか違う人生が待っていたかもしれない。

あんじゅのこれからはもう決まっている。

カラスのつぶらな瞳はあんじゅの疲れ果てた顔を映していた。

あんじゅはなんだか眠気を感じる。

そういえば自分はここにいつからいるんだろう。

一年前からいるような気する。

数時間しかいない気がする。

感覚がマヒしている。

あんじゅはゆっくりと目をつぶった。

カラスは奇妙なステップを踏む。少しずつあんじゅへと近づいていく。



「あー…、あつ」

休み時間、学生はクーラーのない教室で数少ない扇風機の取り合いで疑心暗鬼になっている。

「ねえ知っている? 屋上の話」

「知っているよ。出るんでしょ」

「そうそう。屋上なんてもう存在しないのにいつまでも…」

「なんの話しているの~」

「なにもないよ、ただの噂話」

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青い 容原静 @katachi0

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