最終話 【彼の大切なもの】

11




 お前といると空気が重くなる、と言われたことが何度もある北条静佳さえ、今の生徒会室の空気は重かった。呼吸するのさえままならないような、そんな重たさが部屋を埋め尽くしていた。


『君がしたことで、ズタズタにされたものがある』


 さっき、蓮見を追いかけてそう言われた。自分がしたことが全て正しかったわけではないことくらい、分かっている。死んでいたとはいえ子犬の身体に刃をいれてしまったことは、本当に申し訳なく感じている。


 けど、そうしなければいけないと思った。例え蓮見が真実に辿りついても、彼女なら口を閉じると考えていた。櫻井のことを弟分という彼女なら、彼が傷つくような真相は闇に葬るだろうと。


 なのに彼女はそうしなかった。騙されたふりをした後、全ての真実を暴いた。


 全く……一年生の頃からよく分からない女だと思っていたが、ああもう理解できないとは思いもしなかった。


 ソファーに座ったままの櫻井に目をやり、なんと言葉をかけていいか分からなかった。本当なら私がいらついてやったと告白し、あとは流れに身を任すつもりだったのに、この状況では放っておけない。


 そもそも、こんな傷ついた彼をもう見たくはない。


「櫻井。私が……」


「ふざけないでください」


 君のせいじゃない、私の責任だと言おうとしたのに、その出鼻をくじかれた。しかも、さっきまでとは違い、はっきりとした声音で。


「……櫻井?」


「ふざけないでください、先輩。何してるんですか……」


 静かにソファーから立ち上がって、こちらを見てくる。顔が赤くなっているのは、照れているせいではないことくらいすぐに分かる。


「どうしてそんなことしたんですかっ!」


 三年生になってしばらくして、あの段ボールハウスで子犬の世話をしている最中に彼と出会った。それから、彼が世話を手伝うと申し出てくれて、ずっと二人でそうやってきた。だから、あれからもう半年以上が経つ。


 浅い歴史かもしれない。それでもまだ十八年しか生きていない身にとっては、貴重な時間だった。


 その時間の中、今まで聞いたことの無いような大声で彼が怒鳴ったので、思わず面食らってしまう。


「私はただ君を……」


「先輩が俺のためにやってくれた気持ちは分かりますよ。でもっ」


 彼が急にこっちに来て、右手首を掴んできたので、驚いて顔を紅潮させた。


「それで先輩が手を汚したら、先輩が傷ついたら、俺は何やってるのか分からないじゃないですかっ!」


 さっきまでずっと伏せていた目を、ぐっと近づけて睨み付けてくる。揺れている瞳にあったのは、紛れもない悔しさだ。それを見て思わず、ああっと声が漏れそうになった。


 さっき蓮見が言っていたことがようやく理解出来た。自分の行為がズタズタにしてしまったもの……それは、彼のプライドだった。


 告白を受けたから彼の気持ちは知っていた。彼が自分のことを異性として見てくれていることも、ちゃんと分かっていた。答えをはぐらかせたのは、自分の気持ちに整理がついていなかったからだ。


 その彼を、自分が無茶苦茶な方法で庇ったせいで、彼の中の自尊心がひどく傷ついてしまったんだ。


「俺は先輩の役に立ちたいんですよっ、そのために傍にいたつもりです。邪魔ならはっきり言ってくださいっ」


「そ、そんなわけはない。私は……」


 私はただ、この目の前の後輩の傷つく姿を見たくなかった。けど、結果はこれだ。彼はひどく傷ついてしまった。それも私が手を汚したことに、その原因を自分自身の失敗のせいだということに。


 最悪の悪循環だ。


「……すまなかった。そんなつもりはなかったんだ」


 人にここまで真剣に謝るのはいつぶりだろうかと思う程、必死に謝るとさっきまで勢いのあった櫻井が一気に沈んでいく。


「いえ、俺が悪いのに、すいません……」


 櫻井が手首を放して、くるりと回って背中を見せた。


「俺は、もう手伝わない方がいいですか?」


 彼と世話をしていたのはあの子犬だけじゃなく、近所の野良猫たちもだ。彼はそれをもう辞めた方がいいかと訊いてきたのだ。彼が見ていないのは分かっているのに、首を左右に振った。


「いや……。今度は君が失敗しないよう、色々と教えていく。だから、そんなことは言わない欲しい。それに……」


 そこで言葉を句切ってしまったのは、次の台詞が妙に恥ずかしかったからだ。


「それに……私だって今回みたいに失敗する。その時、声をかけてくれる者がいて欲しい」


 背中を向けていた彼が驚いた顔をして、またこちらを見た。どういうわけか、今度は自分が目をそらしてしまう。


「……俺で良ければ、そうします」


 いつも、いやいつもより明るい声で櫻井が返事をする。私は何も言わず頷いて、完全に彼に背を向けた。後ろからは、彼が小声で「よっしゃ」と言っているのが聞こえてくる。


 全く……気に食わない。こんな状況なのに、頭に浮かんできたのはさっきまで部屋にいた、あの女のしたり顔だ。私が言った通りだろと、どこかで得意げに言ってそうな気がして、そこが悔しくて仕方なかった。


 それなのにどういうわけか、顔は熱くなっているし、唇から笑みもこぼれそうになっていた。


 そしてそれを必死に覆い隠そうとする自分が、また妙に恥ずかしかった。

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COVER 夢見 絵空 @yumemi1010

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