オレンジの冬

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第1話


突き刺さるような痛みが戻ってくる。あぁ、違う。

まだ、こちらだ。

人の気配はない。寝静まっているのだろう。嗚呼、うるさい。頭の中で、誰かがドラムを叩いている。狭いパイプ。なぜ取り込めないのだろう。あるはずの酸素(もの)。

なぜ、また目を覚ましてしまったのだろう。次に目覚めるときは、地獄だと思った。

それでも、煉獄(ここ)よりはマシだ。

なぜ、目を覚ましたのだろう。やり残したことをしろという、神の御心だろうか。

やり残したこと。私が心から望むこと。それは、あの人の胸で眠りたいということ。

夫ではない。私は一度も、其(それ)を夫だと認めたことはない。

私の親が、あの人と私とを断ち切るために、無理やりあてがった傀儡だ。

其に罪はない。あれはあれで、かわいそうな人形(ひと)だ。

その、瘤だらけで陽に焼けた醜い指。私の身体を自分のものだと考えるあの男は、

私の親と同じで、物質界に蠢く亡者でしかなかった。

肉と肉との結びつきが、魂をも結びつける、そんなわけがないのに。

結婚という制度が、私たちの魂――あれに魂などがあればの話だが――を結びつける、そんなわけもないのに。


私が会いたいのは、夫ではない。義兄(あに)だ。私の魂の、夫だ。私の半身、生まれた時に切り離され、埋め合わされることのなかったミッシングパーツ。そこにあるとわかっているのに、陰と陽が揃っているのに、ハマることのなかったパーツ。

あれの指が、ひたひたと肌を這い回り、あれの舌がねちゃねちゃと糸を引くあの不快なひととき、私はずっとそれが義兄の指だと思い込もうとした。

自在に宙を舞う白魚のような指が、「芳子」と呼びかけるあの香しい唇が、快活に笑いながら覗くその舌が、私の肌に触れてくれたなら、他には何もいらない、と思った。

「芳子は俺の太陽だよ」物思いに耽りがちな義兄は、私の前では大輪の向日葵のように笑う。そんな義兄に照らされて、この世を去ることができたなら、どんなに安らかなことだろう。行かなければ。

義兄の元に、行かなければ。


ひゅーひゅーと喉が鳴る。まるで空ろを通り抜けた風の悪戯。張りついた肉体を布団からひきはがす、ミシミシという音。それだけで、支えた腕がプルプルと震える。挫けそうになる。重い。重い。腕は痩せ衰えて枝のようなのに。体重を支え切れず、今にもパキリと折れてしまいそうなのに。冬枯れの道、枝を踏みしだく音。足裏で感じたパキリ。空気に満ちた、甘酸っぱい柑橘類の香り。

楽しくて、はしゃいで、枝を見つけるたびに踏んで歩いた、幼かったあの日。義兄が微笑みながら見守ってくれているのを感じ、私はますます調子に乗って、

「あっ」枝に足を擦りむいた。流れ出る血の温かさ。

「芳子!」駆け寄る義兄の声。出血したふくらはぎに、当てられた義兄の唇。背筋に走ったゾクゾクとした快感に、幼き日の私はとまどい、そして陶然となった。私が義兄に恋をした、オレンジの冬。

好きになってはいけない、人。好きになってはいけないと、この煉獄で決められた人。

兄妹。父の娘である私と、母の息子である兄。

血の繋がりはない、結ばれてはいけない理由なんてない、それでも許されない物質界の不条理。

それでも好きだった人。誰が何と言おうと、私の好きな人。

私を誰よりもかわいがってくれ、私を誰よりも愛してくれ、私の心をいつだって熱くさせた人。

よろめきながら廊下を渡り、玄関に出ていたサンダルをつっかけ、外に出る。

白いものが舞い落ちる。冬だ。義兄のいた冬。

目の前を、幼かった頃の私が駆けていく。おかっぱ頭で、頬をふっくらさせた、着物を着た日本人形のような私。

まだ単純で、それでいて不思議な煌めきに満ちていた世界。

まだ、お父さんもお母さんも優しくて、お兄ちゃんはもちろん優しくて、お腹はいつも空いていて。

あの頃の地続きに今があるなんて、到底信じられない。

お父さんは夜叉となり、お母さんは般若となった。私が、世界で一番好きな人は、好きになってはいけない人だったから。

驚異と神秘は科学で解明され、法が私たちを雁字搦めにした、この窮屈で薄汚れた世界。



ふと気がつくと、女が倒れている。病魔に蝕まれ、色あせた容姿の不健康そうな女だ。どやどやと人が集まり、やがて救急車のサイレンが聞こえる。

担架に乗せられ、身体が運ばれていった跡に残されたのは、1枚の写真。笑っている女の肩に乗せられた、大切な人の手。幸せそうに笑う二人。

――お兄ちゃん、大好き―― 切り取られた瞬間は、きっと、永遠。

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