女
更科 周
女
「ねえ、私のやっていることは間違っていると思う?」
ブラジャーのホックを自分で着けながら女は男に尋ねた。
「さあ。正しいとか間違っているとかじゃないんじゃない」
特にその質問に男は興味を示した様子もなかった。これがパターン①。女を性的消費物であると割り切っている男である。
「自分を大事にしなよ」
思ってもいないようなことを口にしては自分に酔っている男である。これがパターン②。
大体の男はこの二種類に分かれる。たかだか両手両足では足らない程度の男にしか抱かれていない女がそれをそうであると判断するのには数字がいまいち足りないが、彼女がそう判断するにはそれでよかった。
彼女が求めていた言葉などというものはなかった。いや、実際には求めていた言葉はあったのであろう。しかし、彼女自身もそれがわかっていない節があった。
女は自分が求めているのは愛であると信じていた。盲目的に信じていた。特に特徴もないが、目も当てられない程ではない女だ。その女が年頃にでもなれば、声をかけるもの好きな男もそう少なくはなかった。年頃になるまでそういった色恋に縁のなかった女はそれが好意であると疑わなかった。実際には行為の為のものであったのだが。それでも彼女は初めての優しい世界に胸を躍らせずにはいられなかったらしい。はじめてはあげたではなく、捨てた、であった。
彼女はそれを悲しむべきことであると判断した。そうせねばならないと羞恥心がそうした。恥じながら悲しみながら、それをつづけた。彼女は同情を買いたかったのだろう。しかし、彼女はそれすらも恥じた。「同情なんていらない」と強く生きた。
強い人間だった。自他ともに認める、所謂「一人でも生きていける類の人間」であった。しかし、彼女は病的な寂しがりやであった。一人で生きることには困らないながらに、寂寥と羞恥に非常に弱い人間だったのだ。
自分の求めるものがわからず寂しさだけを抱いた彼女は、とりあえず空白に愛を代入した。足りないものは愛であり、それが手に入ればこの空白も埋まると信じていた。しかし、xは愛ではなかったのだ。抱かれては去る男に呪詛を吐き、また手に入らなかったと嘆き、そうして正気を保っていた。正気というのは少々難のある表現であるが、それが彼女にとっての正気であった。
彼女が女として生きるようになって一年もすると、彼女を好ましく思うもの好きな男もいた。男は彼女を全面的に肯定した。欠陥も、長所も全て褒めたたえた。それは、世の中でいう愛というものであったのだろう。しかし、彼女がその男を肯定することができなかったのである。客観の女である彼女は、一般論においてほぼ褒められたところのない自分を知っていた。それをなおよいものとする男の言葉などを信用して心安らかに甘んじることができる程純粋な女でもなかったのだ。それでも、彼女はその男のもつ自分への感情が所謂愛なのであろうことはわかっていた。そして、自分の空白は愛などではなかったのだということも知ってしまった。
それは彼女にとって小さな絶望であった。
彼女は、感情というものに猜疑心をおいていた。好きという感情は「酔う」という自己愛によるものだという持論を持っていた。また、自己愛は美しくないものとしていたのである。
生ぬるいベランダに這い出て、煙草に火をつける。紫煙を燻らせて、排気ガスに殺された星を探す。星だと思ったものはヘリコプターばかりであった。
眠れない夜にブルーライトが光っている。また同じような夜ばかりを彼女は繰り返す。
彼女は、懊悩に苦しんでいた。しかし、彼女は自分が何に苦しめられているのかなどまるで理解していなかった。約束された衣食住、難のない人間関係。恋人らしきもの、それなりの才能。それでも何かが足りないと、空っぽだと彼女は零し続けている。
明確な空白を埋め続けてきたからこそ、何物にも埋められない穴に気づいてしまった。それは、彼女にとっての不幸だった。
「不幸とは、自らの幸福に気づけない人間のものだよ。私はどう足掻いたとて幸せでしかない」彼女は言い聞かせるようによく言った。しかし、彼女がそういう話をするとき、彼女が幸せな人間であると認めた人間はいなかった。スリッパをちぐはぐに履いているようなそんな矛盾を内包して生きていくことで、ようやく諦めに救われることができると信じていたのだろう。
彼女はそうして一人で歳をとった。誰に抱かれる夜もなく、呪詛を込めた宝石のような言葉を吐くこともなくなり、おそらく普通のおばさんになったのである。
彼女の顔を覚えている人間に会わなくなった。彼女は、誰の記憶にもきっと残っていないのである。彼女は、生きていたのだろうか。
彼女が住んでいた変哲もないマンションのベランダには、誰かが置いて行った灰皿が佇んでいるだけだ。
女 更科 周 @Sarashina_Amane27
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