月の人

鯉口とばり

leaving us

 新聞受けが空だった。飾り気のない、単に銀色の古めかしい新聞受け。目立つような錆はないものの、表面は曇って、綺麗とは言い難い。それを開ける自分が生きてきたよりも長い時間を過ごしたのだろう。開閉する度に、甲高く鳴く。

 秋の早朝の空気は冷えていて、上着を着てこなかったことを少し後悔した。しかし、新聞受けに用がもうない以上、留まる理由ももうない。ほんの少し滲んだ後悔は、玄関に入ってすぐに忘れてしまうことにする。玄関の木製の扉はこれまた古い。油の足りない蝶番が、やや不恰好に扉をぶら下げている。ふと息を吐くと、それが少しだけ白いことに気がつく。思っていたよりも、冬はもう間近らしい。

 部屋に帰ろうかと思ったが、そのままリビングに入る。リビングでしばらく置物になっていたテレビは、今日はニュースを映し出している。ただし、聴衆はなく、その役割を全うしているかについては疑問である。電源を入れた当人が、なぜ電源を入れたのかも定かでない。俺はともかく、当人もテレビを必要としない類の人間だったはずだ。テレビが必要でないというより、テレビの液晶の向こうの存在に、微塵も興味が湧かないのである。それもまた、彼奴がどうであるかは知らないが。

 さてその当人はというと、リビングとの間にカウンターを一つ隔てたキッチンで何やら作っている。生憎と食事に関しては疎い身であるので、それが何だかはさっぱりわからない。桃の甘ったるい匂いがする。それくらいか。貧乏舌を通り越して、貧乏鼻とでも言うべきなのかもしれない。これは案外厄介な癖で、かつて連れていかれたそれなりに値のはるらしい料理店では、楽しみ方がとんとわからず、連れて行った張本人に大変呆れられたものだ。彼によると、その類の店というのは、大抵その味や、店の雰囲気や、要するにその"そこで食事をする"という認識こそが娯楽たらしめるのだという。尚更縁のない話である。

 しかしながら、最近は食事に興味がないからといって、食事を抜くこともなくなった。抜く、というよりかは、単純な話忘れているのだ。空腹を覚えない訳ではないが、興味がない以上、そもそも空腹にさえ鈍感なのである。そこに、毎日毎食作るものが現れたことで、食事という概念が、ようやく身についてきたようだ。この歳になって、今更だとは思うが。


「おはよう」

「おはよう。それは何だ」

「これ?これは明日かな。思ってたより起きるのが早かったものだから」

「俺がか。いや、それは何だと訊いている」

「うーん、秘密。いたずらしようと思ってたのに」

「いたずら?桃でいたずらか。見当もつかない」


 同居人は顔だけ振り向くと、コンロの火を止めながら挨拶をした。まだ声変わりを迎えていないせいで、その声は女のように高い。半袖のワイシャツを着ているが、寒がる様子はないので平気なのだろう。


「ふうん。桃ジャムだよ。いたずらが通じるかも賭けだったのに、桃ジャムが通じないんじゃしょうがないなあ」


 やれやれといったように、演技がかって肩を落とす。左手の人差し指がカウンターを二回音を立てて叩いたのは、おそらくこちらに来いという指示である。


「その分じゃ、桃ジャムを何に使うかもわかっていないんでしょう」


 慣れた動作で、ナイフとフォークを取り出しながら言う。手渡されたそれらをテーブルに並べると、朝食の用意はもう終わったようだった。


「さあな」

「あなた、案外自分がわかりやすいってことわかってる?知りませんって顔をしてるよ」

「そうか」

「そう。揚げパン(パンプーシュカ)に使おうと思ったんだけど、マスタードを入れたって、いたずらだって気づいてくれないんでしょう」

「それがいたずらか?」

「そうだよ。ベルリーナ……バーリナーって言えばわかる?」

「菓子パンか。それくらいは識っている」

「そう。明日の朝はこれね。今日の夜も。桃ジャムは明日の朝だけ、だけど」


 いつの間にか握らされていた大さじのスプーンには、まだ暖かいジャムが載っている。舐めるとやはり甘い。ところどころ、形を保った桃が舌に触れる。


「良い桃でももらったか」

「まあ、そんな感じ。蟠桃(バントウ)っていうの、もう熟れてたんだけど、好い味だったから」

「確かに、良い味かもしれない」

「好い味なんだよ。ほら、それより今日のご飯」


 先に席に着いて、ナイフとフォークでテーブルをつついて急かす様子は、どうしても子どもにしか見えない。言えば怒ることは目に見えているから、何も言わないが。怒ったとしても可愛いものである、大抵不貞腐れて、貸し与えた客室で眠るのだ。そのうちひょっこり出てくる。


「召し上がれ」


 所詮は子どもなのである。ボールに入ったコーヒーは、たっぷりのミルク入りだった。



 この少年、キールと出逢ったのは春先のことだった。この少年は、あろうことかまだ冷たいその時期の海岸に打ちあがっていた。正直なところ、もう死んでいるものだと思ったし、実際放っていれば、体を冷やして死んでいたに違いない。弱りきった少年を家に連れ帰ったときの心象は、なぜだか思い出すことができない。霧がかかったように不明なのかといえば、それもまた違う。どうやら初めから、考えもなく、空の思考で運んだようなのだ。とはいえ、意識のない肉体は案外重いものである。加えて、その重々しい礼装らしき服は水を含みきっていたはずだが、よくもまあそんな重い荷物を運び入れたものだ。見限りたくないのであれば、救急を呼ぶなり警察を呼ぶなり、何かあったはずなのだが、当時の自分にはどうしてだか思い至らなかったらしい。

 少年の服を剥ぎ、使っていなかった自分に合わないサイズの服を着せて客室に放り込んでおくと、しばらくして少年は自分から這い出てきた。服は、と尋ねるので、まず他に尋ねることがあるだろうと思いながら、洗濯機の前に案内した(十歩数えるか否かの距離だが)。ごうごうと稼働するその機体の前で、開口一番に尋ねた割に、興味のなさそうな顔をしていた。

 服が乾いたら、警察に行こうと言ったが、少年は首を縦に振らなかった。家出人なのかもしれない。そう思ったが、そうではないと言う。そもそも、送り届けてもらうような家がないらしい。


「さあ、僕の名前も覚えている人がいるかどうか。警察に行くのは構わないけど、そもそもの話、戸籍もないからね」


 話の内容の割に、あっけらかんと言う。特に気にした風でもない。あまりに無感情で、ただの子どもなのか、次第に不気味な印象さえ覚えてくる。


「戸籍がないと言うのは、なんだ、その、元からか。それとも君がいなくなって、七年経ったとか」

「ううん、どっちも違う。でも、強いて言うなら二つ目かなあ。でも僕自身が家族も覚えてないんだから、帰る家なんてないよ」

「それでも」

「オニーサンが嫌って言うなら出て行くけど」

「嫌ではないが、本当に、それで良いんだろうな」

「いいよ。子どもだと思ってるんでしょう、そんなことを見誤ったりしないよ」


 そういう少年の表情に、迷いや偽りはないように思えた。それは子どもの純朴さというより、単にそれ以上の選択肢を持っていない、フローチャートが破綻したシステムのようだった。

 不気味の谷という言葉がある。人間を模した創作物において、人間にあまりに近く、しかし人間に一歩届かない出来であるとき、それを見た者が不気味さを覚える。その創作物に対する好感をグラフにすれば、ちょうどその部分が、谷のように大きく沈むという現象を表す言葉であるが──少年はその逆である。自らコンピュータのように、無機物のような表情を浮かべるのである。


「それでも、君が子どもである以上、俺も大人の振る舞いをせざるを得ない」

「オニーサンが大人っていう額縁にはめられているなら、僕だって子どもっていう枠の中にいるだけだよ。口約束が嫌なら、書類を書かせるなり証拠の録音なりなんでもすればいい」


 それとも血判でもしようか、と親指を反対の手の人差し指で引っ掻きながら、いたって真面目な顔で言う。なんとなくだが、少年は俺が望んでいるからこの表情をしているようだ。俺が望みさえすれば、笑顔でも、悲しげな顔でも、なんでも完璧に演じてしまうかもしれない。そこに本人の感情がないことが、尚更薄気味悪い。


「僕は後悔しません、だって?」

「そう。厚かましいお願いっていうのはわかってる」

「わかってても言うのか?子どものわがままそのままだぞ」

「不本意だけど、それでいいよ」


 子どもは、それ以上何も言うことはないと言わんばかりに手許のココアに視線を落とした。俺には合わないサイズとはいえ、成長しきっていない身体には身につけた服はあまりに大きい。元来猫背なのだろう、身体を前に倒しているせいで、服はその中身にブランクを大きく含んでいる。

 結局少年はそのまま家に居座ったし、そのまま夏を迎えた。いつの間にか食事を作るのは少年の役目になったし、それについて特に言うことも持ち合わせていなかった。幸いにも、金は持て余していたから、少年一人増えたところで特別困るようなことは、初めから無かったのである。売って金になるようなものが家にあるわけでもなし。そしてなぜだか少年を訝る気持ちも全くない。理屈や言語で著せない何かを、この子どもから感じた。もしかしたらそれは、こんな田舎町に厭世的に生きている自分だからそう感じたのかもしれないし、この少年に会う者は皆そう感じるのかもしれない。いずれにせよ、不思議な少年が、俺の生活に一つ加わっただけの話である。



 キールと名乗ったその少年は、濡れた烏の羽のような、黒い髪をもっていた。海際のこの田舎町では、夜はほとんど明かりがないため、海のそばにいる彼はひどく存在感が希薄になる。住み着くようになってすぐに買ってやった白い半袖のシャツに、あまり焼けない少し黄色がかった肌が、ただぼう、と浮いているのだ。

 リビングの最も大きな出窓の側から外を望むと、少年が波打ち際で立ち尽くしているのが辛うじて見えた。半開きの窓からは、少し冷えた風が入ってくる。


「そろそろ」


 窓の手前にあるテーブルに手をつきながら大きく声をかけると、それまで動かなかった少年が、少し振り向いた。どうやら声は聞こえたらしいが、内容までは聞き取れなかったらしい。


「そろそろ、帰ってこい」


 今度は聞き取れたようで、キールはやや早足でこちらに向かってくる。リビングのテレビのそばのフランス窓から入ってくると、床に無造作に置いたままになっていたタオルを帰ってきたままの素足で踏んだ。使い込まれて柔らかさのないタオルの表面が、少し茶色くなった。それを摘み上げた少年が、こちらを向いて首を傾げる。


「もう寝る時間?」

「いや、……」


 時刻は九時を少し過ぎていた。眠るには少し早い時分だ。少年にそう言われると、自分がなぜ彼を呼び戻したのか、よく分からなくなった。少年は就寝前の施錠の為に呼び戻されたと思ったようだが、眠るつもりもなかった。なんとなく、呼び戻さねばならない気がした、と言ったら、この少年はどんな顔をするのだろうか。


「いや、風が少し冷たかったろう」

「ほんの少し、ね。寒いってほどじゃないけど」


 結局口をついて出たのは当たり障りのない言葉ではあるが、確かにここの夏の夜半はやはり気温が下がる。もうそろそろ、薄い上着を着てもいい。そう思ったが、少年の持ち合わせる服は、今着ている半袖のシャツにズボン、そして同じようなデザインの衣服が数着、狭いクロゼットにしまってあるだけだったことを思い出した。


「明日は上着を買いに行くか」

「まだ寒くないってば」

「そのまだが明日まで保つか分からんだろう」

「それはそうだけど」

「用意して損はないだろう」

「ないけど、……」


 街に出るのは嫌いでしょう。少年は言葉には出さなかったが、薄暗さの中、いつもより少し瞳孔の開いた目の奥で、確かに彼はそう思った。


「いや、いつかは行くことになるだろう」

「……そうだね、わかった」


 それから、思い出したように手の中のタオルを広げながら頷くと、少年は洗濯機の方へ歩いて行く。


「帰ってこい、ねえ」


 通りすがりに彼は何か言ったように聞こえた。しばらくすると、扉を隔てて、小さな水音が聞こえてくる。まだ眠るには少し早い。しかし、生産的な行動をしようとも思えない。ふと己の手の中に、万年筆が握られたままであることに気がついた。テーブルの上には、開いたままの手帳がそのままになっている。直前まで使っていたはずのインクは、もう乾いてしまっていた。

 なぜ少年を呼び戻したのか、やはり分からなかった。続きを書く気も霧散してしまったその手帳を閉じ、水滴に包まれたコップを手にとって水を煽る。レモンの苦味が、ほんの少し舌に残る。



「ボトルシップって知ってる?」


 あおられて飛ばされそうになった帽子を抑えながら、少年は訊ねる。風が強く、塩の混じった飛沫が時折舞い上がっている。


「ボトルシップをね、むかぁし、一度作ったんだけど」


 返事は必要なかったらしい。帽子を今一度深くかぶり直すと、話を続けた。


「中に浮かべた船って、本当に船なのかな。もちろん、見た目は船だし、たぶん呼ぶなら船だと思う。でも、」

「水の上を進まない。だから、シップではないと」

「違うとは思ってないよ。船は船だ。ただ、そうだね、かわいそう、かな。水に浮かぶあれが、一番ほんものらしいように思えて」


 この辺りの海は、観光地というわけではなく、海に入ることはできるものの、実際に入るものはあまりいない。その青い海の上に、白い一隻の船が静かに進んでいるのが見えた。


「それでも、その船は迷子にもならなければ、沈むこともないだろう。一つの形であることは確かだ」

「うん……」


 風がもう一度びゅうと吹く。とうとう帽子は飛んでいき、俺は肌寒さを覚えて、開けていたシャツのボタンを一番上まで閉めた。少年は走って追いかけ、すぐに拾って帰ってくる。


「僕は、瓶詰めのほうが幸せなのかもしれない」

「竜骨(キール)がか?」

「そう。海に一人浮かんで、澪標もないような広い海から、ずっと帰れずにいるような船よりかは」

「どちらも幸福で不幸だと思うがな。ああ、でも、竜骨は確かに、海に浮かばなければ意味を成さないのか……」


 いつの間にやら、船はもう見えないところまで進んでしまっていたようだった。狭い砂浜にはもう、俺とこの少年しか残っていない。

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月の人 鯉口とばり @Reshot_hick

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