第5話 ある教育者からの手紙
俺は数学が好きだ。
数学が好きだった。
好きだったはずだ。
だけど今の俺は、胸を張って好きだとは言えなくなっていた。
嫌いになったわけじゃないんだ。でも、以前のような情熱が、俺の中からすっかり消えていた。
高校三年生になり、大学受験を控えた俺は、毎日真面目に受験勉強していた。
今だってそうだ。夕飯を食べたあと、俺は部屋で数学の勉強をしていた。
少し前までだったら、全く苦にならない行為だった。
問題集を解いたり、入試の過去問を解いたりするのが、楽しくてたまらなかった。だから誰に強制されずとも、俺は次々と数学の問題を解いた。そして解けば解くほど実力が付き、さらに難しい問題も解けるようになった。難しい問題ほど楽しくて、面白かった。
志望先はもちろん数学科。大学で思いっきり数学ができると思えば、物理や国語の勉強だって苦ではなかった。
なのに。
シャーペンを握ったまま、俺の手は止まっていた。
『半径Rの円に内接する三角形ABCがあり、∠ACB=θ、∠CBA=φとする。このとき、以下の各問いに答えよ』
問題文を読む。シャーペンを持つ。しかし、シャーペンは動かない。
解けないんじゃない。解く方針は頭の中で出来上がっている。
だけど、解きたいと思えない。
あれも、これも、どの問題も。
この気持ちを表す言葉を、俺は知っていた。
退屈、そして、屈辱。
俺は問題集を閉じた。
真っ赤な表紙に黒い文字で、大きく大学名が書いてある。いわゆる「赤本」。大学入試の過去問題集だ。
俺がこんな気持ちになっている原因はこれだ。
受験だ。受験が、全部悪いんだ。
あるとき俺は気付いてしまったんだ。入試問題は、生徒達を値踏みするための問題だと。
俺達はこの問題を通して、検査にかけられ、良品と不良品に分けられる。良品なら合格して、不良品なら不合格になる。
そんな機械的で無情で、融通の利かない問題。それが入試問題だ。
そんなもの、楽しめって方が無理だ。
この問題を作ったのは、どんな人なんだろうな?
きっと高慢で、冷徹で、他人をミカンとしか思ってないような奴に違いない。流れ作業で高校生たちを選別して、気に入らなければ無感情に廃棄レーンに捨ててしまう奴なんだろう。
そうじゃなきゃ、こんなただ面倒なだけの問題なんて、作るはずがない。
大学入試の問題は、その大学の先生が作っている。ってことは、その大学には、そういう先生がいるんだ。そんなところに行くために、どうしてこんなに勉強しているんだろう。
「人と話したい」
俺は独り言を言った。無機質な作問者じゃなくて、血の通った人間と会話したい。せめて声を聞きたい。
スマホの時計を確認すると、午後八時に近かった。
俺は勉強を中断して、タブレットPCを開いた。
数学デーの時間だった。
数学デーとは、数学が好きな人たちが集まるイベントだ。コロナ以前はオフラインでのみ開催されていたが、コロナが流行ってからはオンラインで、最近はオンとオフが両方開催されている。
俺はどっちにも参加したことがあるが、オンラインの方が気軽に参加できてありがたかった。特に今は受験生で、勉強以外のことにあまり時間を割けない。移動時間ゼロで数学デーに参加できるのは都合が良かった。
『あっ、八時ですねー、こんばんはー』
『こんばんはー』
運営スタッフや、既に来ていたお客さんたちの声がする。俺も「こんばんは」と声をかけた。
オンラインでの数学デーは、通話アプリとホワイトボードアプリを使って開催される。通話アプリは俺もクラスメイトと使ったりするが、ホワイトボードアプリの方は数学デーで聞いて初めて知った。
無限の広さがあるホワイトボードを、参加者全員が共有して、自由に何でも書き込めるのだ。初めて触ったときは興奮した。
『あれ、タカさん、お久しぶりですね』
スタッフの蜂坂さんが俺に言った。俺は下の名前が「たかひさ」なので、ここでは「タカ」と名乗っていた。
「あー、そうかもしれませんね」
言われてみれば、最近はほとんど来てなかった気がする。
「ずっと受験勉強してるので」
『あっ、そうか受験生か!』
『え、逆に今日来て大丈夫? もうすぐ受験なんじゃ?』
「平気です、今さっきまで勉強してたんで」
『オンラインだと勉強の合間に数学デーに来れるんだな。便利だ』
『まぁ数学デーも勉強会みたいなところありますからね』
『そうですか?』
『そうですよ?』
運営さん達が冗談を言い合っているのを、俺や他のお客さん達は笑いながら聞いていた。
『ちなみに今なんの勉強してたんですか?』
女の子の声が聞いた。俺と同じ高校生で、常連の
「数学です」
『へー! どんな内容? どんな問題解いてたんですか? 見せて見せて』
ぐいぐいと食いついてきた。
「別に見ても面白くないと思いますけど……」
『まぁ良いじゃないですか』
『僕も見てみたいです。今の大学入試ってどんな問題が出るんですか?』
一二三さん以外の人も食いついてきた。今日はそういうノリの日らしい。
しかし、面白い問題なんて、本当にない。どれを書いたとしても、この人たちを退屈させてしまうに違いない。
そう思うと躊躇したが、向こうも引きそうにないので、俺は渋々問題を書き写した。
『半径Rの円に内接する三角形ABCがあり、∠ACB=θ、∠CBA=φとする。このとき、以下の各問いに答えよ。
(1)△ABCの周の長さLを、R, θ, φを用いて表せ。
(2)二点A, Bを固定し、点Cを円周に沿って移動させるとき、Lの最大値とそれを与える角度φを求めよ。
(3)三点A, B, Cを円周に沿って移動させるとき、Lの最大値とそれを与える角度θ, φを求めよ』
『おー、幾何かー』と喜ぶ声と、『あー、幾何かー』と嘆く声が聞こえた。
数学デーは数学が好きな人たちが集まる場だが、みんなが必ずしも数学が得意とは限らない。むしろ苦手な人の方が多く、俺からすると簡単な問題でもなかなか解けなかったり、とんでもない計算ミスをしたりする。
それでも、数学に真摯な人たちの集まりだ。問題が出てくれば、難しそうでも、まずは解こうとする。この人たちのそういうところを、俺は尊敬していた。
『ま、順番にやっていきますか。(1)は面白いですね。周の長さが、外接円の半径と角度だけで書けちゃうんだ』
『どうやるんでしょう?』
『たぶん正弦定理でしょう。各辺の長さは正弦定理で求まりますから、それらを足せば良くて……ほら、できた』
『うわ、早、すご』
『ちょっと待って、理解する時間をください』
みんなでわいわいと問題を解きあっている。俺が全く面白く感じなかった問題で、みんな楽しんでいた。
俺も昔はああだった。なのに、なんで今は楽しめないんだろう。
俺が悩んでいる間に、みんなは(2)に移っていた。
『(2)は図に描くと……こういうことか。なるほどな?』
『周の長さが最大になるのはいつかってことでしょ? 直感的に考えて、二等辺三角形になるときなんじゃないの?』
『それを証明しろって問題なんでしょ』
『これ、なんとかして幾何的に求められないかな』
『せっかく(1)の誘導があるんだから乗りましょうよ。微分するだけなんですから』
『でもこれ、微分するのも大変じゃない? θとφがバラバラに動くわけだから……』
『いや、θは動きませんよ』
『なんで?』
『なんでって、ABの円周角なんだから』
『あぁ、そっか。ABが固定されてるから、その円周角θも固定されてるんだ。だから、θを固定したままφで微分すれば良くて——』
ずっと喋っていた人たちが、急に黙った。
そして、一斉に叫んだ。
『『これ、偏微分だ!!』』
へんびぶん?
俺の知らない言葉だった。
『え、この問題すげー!』
『そうか、こうすれば高校生に偏微分をさせられるんだ!』
『あ、待って、じゃあ(3)って全微分なんじゃない?』
『この問題やべーー!!』
俺が全然理解できない領域で、この人たちは盛り上がっている。
いったい、何をそんなに興奮する要素があるんだ。
俺の困惑を代弁するように、一二三さんが聞いた。
『あのっ、偏微分ってなんですか?』
『偏微分ってのはですね、えーっと』
運営の鬼頭さんが、たどたどしく説明し始めた。
『大学で習うんですけど……例えば一つの式に複数の変数があるとき、通常の微分だと、全部いっぺんに微分しないといけないんですよ。それを、特定の変数だけに注目して微分するのが偏微分』
『はぁ』
『偏微分するときは、注目する変数以外は全部、固定しちゃうんですよ』
『この問題だと、角度θは固定されていて、φだけで微分するじゃないですか。つまり、ごく自然と高校生に偏微分をさせてる問題なんですよ』
つまり、大学レベルの問題を、大学入試で出題している?
俺は再び、冷徹な仕分け人のイメージを浮かべた。自分たちと同じレベルの人間でないと、簡単にふるい落とす嫌な奴……。
『この問題を作った人、すごいですね』
『良い人そうですよね』
えっ?
なぜか、正反対の意見が出ていた。
『どうすれば高校生に偏微分を体験させられるかって、一生懸命考えたんでしょうね』
『教育的な人だなぁ』
『誘導もちゃんとついてるし、設定としても無理がない』
『めっちゃ頭の良い人が高校生のことをしっかり想って作った感じしますね』
『この大学の問題、他にないんですか?』
「え? あ、ありますよ」
俺は赤本を開いて、他の問題を書き写した。
そしてそのどれもに、数学デーの人たちは感心していた。
ベクトル解析、線形代数、群論、グラフ理論……。
俺の全然知らない単語が、次々と出てきた。
全部、大学の数学らしかった。
なのに、問題はどれも簡単だ。俺ならすぐ解けるものばかりだ。
俺はたまらず聞いた。
「これ、本当に大学レベルの数学なんですか? いくらなんでも簡単すぎじゃないですか?」
『簡単にしてるんですよ。高校生にもわかるように、うまく誘導したり、問題を工夫したりして』
『こうやって、受験生たちに大学の数学を先行体験させてるんですね』
『すごく教育熱心な人ですよ、これ作ったの』
『この人の授業受けてみたいなぁ。きっと導入がすごく丁寧だよ』
『絶対わかりやすいですよね』
顔も見たことのない、誰なのかもわからない大学の先生を、みんなが褒めていた。
『……おっと、もうそろそろおしまいの時間ですね』
『あら残念』
『今日は盛り上がったなぁ』
『たまには真面目に数学の問題解くのも楽しいですね』
『じゃあまた、来週お会いしましょう』
通話アプリから人が抜けていく。俺も退出した。
静かになった部屋で、俺は問題文をもう一度読んだ。
『半径Rの円に内接する三角形ABCがあり、∠ACB=θ、∠CBA=φとする。このとき、以下の各問いに答えよ』
無機質なミカン選別機に見えていたそれが、今は、遠い親戚からの近況を尋ねる手紙に見える。
俺は、その親戚の顔を思い描きながら、軽やかにシャーペンを動かした。
数学好きがn人集まると任意の話を始める 黄黒真直 @kiguro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。数学好きがn人集まると任意の話を始めるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます