第4話 たったひとつの簡単なやり方

私には、息子を理解できない。

息子は中学に上がったばかりだというのに、毎日のようにノートに複雑な数式を書き連ねている。


息子が寝静まってから、そのノートをこっそりと見たことがある。

記号とアルファベットの羅列にしか見えないが、息子にとっては何か特別なものらしい。ところどころ、数式に下線が引かれ、「!!」と書かれていたりする。

いったい何が驚きなのか、どんなにその式を見つめてもわからなかった。


彼はいったい何を見ているのか。

これはいったいなんなのか。


わけのわからない文字の羅列に喜ぶ息子を想像し、私は言いようのない恐怖のようなものを感じていた。


息子に恐怖を感じるなんて、母親失格だ。

でも、わからないものはわからないのだ。理解できないものには、恐怖を覚えるしかない。


私はいったい、どうすればいいのだろう。


***


「学校が休みになった」


中学最初の春休みを目前にしたある日、息子が言った。その連絡はもちろん、私にも既に来ていた。


なんでも、新種のウイルスが蔓延して、未知の病気が流行っているらしい。

まるでエス・エフのような突拍子のない話だが、事実だ。連日、ニュースもやっている。


言いようのない恐怖と不安が、私の中で混じり合う。未知のウイルスと、わけのわからない数式が、重なって見える。


この不思議な息子と、一日中ずっと一緒にいなくてはいけないのか。

きっとこの子は、一日中数式を書き殴っているだろう。そんな姿を見せられて、私はまともでいられるのか。


息子の行動は、不安を煽るニュースのように、私の心をかき乱していた。



休みの間は、授業もほとんどないようだった。

それもそうだろう、中学の三月なんて、期末試験が終わればあとは何もない。


そしてそれ幸いと、息子はずっとノートに向かっていた。

私の予想は当たってしまった。


唯一救いだったのは、彼が静かだったことだ。

一人でノートに向かいながら、興奮の声を上げるようなことはなかった。

私はリビングのテーブルに座る彼さえ見なければ、平穏に過ごすことができた。


そんなことではいけないと、頭の片隅ではわかっていた。息子を見ないことが平穏だなんて。

それでも、混乱した社会の中で、さらに心を惑わす存在を直視することが、私にはできなかった。


状況が変わったのは、ある夜のことだった。


「なー、お母さん」


息子が私を呼んだ。

私は洗い終わった最後の皿をラックに立てて、リビングに行った。


「なぁに?」

「いまからタブレットで電話してもいい?」


息子は言葉を選んだようだった。私でも、SNSの名前くらい知っている。わざわざ電話なんて言い換えなくていい。


「良いわよ。誰と?」

「んー……。色んな人」


学校の友達ではないらしい。だとすると、ネットの知り合いだろうか。


邪魔しない方がいいだろう。しかしもう風呂にも入ってしまったし、この部屋以外でやることがない。

テレビも見れないので、スマホを無音にしてゲームを始めた。


やがて食卓のタブレットPCから、声が聞こえてきた。


『はいどうもこんばんは。今週も始まりました、オンライン数学デー。支配人の蜂坂です』

『受付の弓田です』

『なんでラジオ風なんすか』

『いや、どういう感じで始めればいいのかまだよくわかんなくて』


わはは、と笑い声がした。


これは、オンラインイベントだ。

ウイルスの感染対策として、人の密集は避けるように、政府から要請が出た。そのため、色々なイベントがネット上で行われるようになったらしい。息子もそこに参加したようだ。

今までこんなことをしている様子はなかったから、今回が初参加なのだろう。


『今週は何かありましたっけ?』

『最近考えてることがあるんですけど、いいですか?』

『お、なんですか?』

『Anを、数列an×(-1)のi乗のn以下の和を要素とする集合として、Anの総和集合はZに等しいかどうかって問題で』

『ちょ、ちょっと待ってください。えっと、iってのは虚数?』

『いや、整数です。0か1でいいですね』

『なるほど、ちょっと具体例を上げてみますか』


なんの話をしているのか、全くわからない。

そもそもなんのイベントなのだろう。音楽が鳴るわけでも、ゲームが始まるわけでもない。

数人の男女の声が、ずっとああだこうだと喋っている。


どんな人達が話しているのだろう。声からすると若い人が多そうだが、そうでない人もいる。

顔を見ようとしてスマホから顔をあげた私は、軽く目眩がした。


立て掛けたタブレットの画面に、人の顔は映ってなかった。

画面は一面真っ白で、そこに手書きの記号や数字が並んでいる。


ああ、あれは数式だ。息子が書いているような、あのわけのわからない文字列だ。

まさか、こんなイベントがあるなんて……。


私が見ていると、息子は初めて、遠慮がちに声を出した。


「あ、an=nの場合は示せました」

『えっ!?』


息子は画面に手を伸ばした。白い画面に数式を手書きしていく。


「だってan=nなら、-1+2=1になって、-3+4=1になって……ってのが無限に続くから、この和で任意の自然数が得られます」

『あー、本当だ!』

『盲点だった』

『簡単な話だったな』

『待って、ゼロは?』

「ゼロもできます」


タブレットの向こうからの質問に、息子ははきはきと答えた。


「0=-1-2+3だから」

『おおー』

「あとは全体の符号を変えれば負の数も得られるので、整数全体になります」

『なるほどねー』

『じゃあ、anは等差が1の数列であることが十分条件だな』

『必要条件が気になるなぁ……an=1でもいいわけだから。これは差が0だ』


信じられない光景だった。

タブレットの向こうの人達は、息子と会話できていた。

あのわけのわからない数式を、息子の言葉を、理解していた。


そんなことのできる人が、まさかこの世にいるなんて。


いったい、どうやっているんだ。

なんでネットの向こうの赤の他人にはできて、母親である私にはできないんだ。


手の中のスマホゲームは、とっくにゲームオーバーになっていた。

私は息子の会話を、一心に聞いていた。


『ちょっと気付いたんだけど、大きい整数だからって和の個数が増えるとは限らないんですね』

『どういうことですか?』

『2は1-2+3だけど、3は1+2です。2より3の方が、項数が少ない』

「三角数だと減るんだと思います」

『え、なんでですか?』


息子は数式を書きながら質問に答えた。


「n番目の三角数はn個の和で書けるし、それ未満の和では書けない。それで三角数以外の数は、三角数に1ずつ足したり引いたりして書くから、項数が増えるんじゃないかと」

『あー、そうか、三角数に注目するのはいいアイディアだ』

『えー、でも今のは上限ではあっても下限ではないんじゃない?』

『なんで?』

『いまの説明は三角数を経由すれば機械的に書けるって話だけど、三角数を使わずに書ける可能性だってあるんだし……』


彼らの会話を聞くうちに、ひとつ気が付いたことがある。

彼らは、質問が多い。

「なんで?」「どうして?」「これはなに?」

そういった言葉が、何度も出てくる。

そして聞かれた方も、嫌な空気を出さずに質問に答えている。質問されるのが当然だと言わんばかりに。


それは息子も同じだった。聞かれたことに素直に答え、時々何かを質問している。

むしろ、そのやりとりを楽しんでいるようだった。


『はい、じゃあそろそろ時間ですから、終わりにしましょうか』

『もうそんな時間か』

『今日は珍しく数学しましたねー』

『実りあったなぁ』


私は時計を見た。もう午後十時になっていた。二時間もやっていたのか。


「ありがとうございました。楽しかったです」


息子は礼儀正しくそう言うと、会話を抜けた。


私はソファから立ち上がって、息子の横に行った。


「いま、何してたの?」

と、聞く。

息子は私の存在など忘れてたかのように驚いていた。


「えっと……数学デーっていうイベントで……。いつも東京でやってるから参加できなかったんだけど、オンラインでやるって聞いて、参加したんだ」


「そう……で、これはなんなの?」


画面にはまだ、数式が映っていた。私はその中のひとつを、適当に指差した。


「それは三角数だよ」

「三角数?」

「うん。3とか6とか」

「数字じゃなくて、式が書いてあるように見えるんだけど……」

「それは一般項だよ。三角数は、1からnまでの和で表される数なんだ。だから、そういう式になる」

「えっと、つまり……?」


息子は言葉を選んだ。

食卓に置いてあったノートを広げて、数式を書き始める。


「三角数っていうのは、1から順番に足していった数なんだ。1+2+3は6だし、1+2+3+4は10だから、6とか10は三角数。それでいま話してたのは、足し算だけじゃなくて引き算もいれたら、すべての整数が書けるんじゃないかってことなんだ」


やっと何を話していたのか、わかった気がした。


「それは……書けるの?」


私が質問すると、息子は大きく頷いた。


「うん! 少なくとも、機械的に量産することはできる。でも長い式になっちゃうから、下限を求めようって話になったんだ」

「下限?」

「その……もっと短い式にしようってこと」


息子はノートに数式を書いた。

私はそのたびに、ひとつひとつ質問した。


質問するごとに、息子は楽しくなっていくようだった。時々言葉を選ぶために詰まることもあったが、たいてい嬉しそうに答えていた。


それは私も同様だった。

全くわからないと思っていた息子の考えが、質問していくうちに少しずつわかってきた。


それはとても嬉しいことだった。

息子と話していてこんな気持ちになるなんて、何年ぶりだろうか。


わからないのなら、聞けばいい。

簡単な話だった。

彼は、聞けば教えてくれるのだ。それも、嬉しそうに。


私達は親子だ。こうやって話し合うことができる。

学校が休みのいま、そのための時間はいくらでもある。


これから少しずつ、息子を理解していこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る