自転車に乗った白い猫
まっく
自転車に乗った白い猫
茶色の分厚い扉を開くと、髭のマスターが「いらっしゃい」と声を掛けてくる。
僕は「どうも」と言って、カウンターの端に座る。
ここ数日、仕事が終わると必ず、扉の上のネオンサインに『vision』と筆記体で書かれたこの店を訪れていた。
最近、付き合って二か月の彼女との関係が、しっくりときていない。二十歳にして初めて出来た彼女なのだが、所謂、価値観の違いというやつだろうか。
「あんたとは、見えてるものが違う気がする」
そんな風に彼女に言われ、それ以来、彼女には会っていない。
そんな折、駅からの帰り道で、気分転換にと、いつもと違う路地に入って、偶然に見つけたのだった。
店内では、今まであまり聴いたことの無いような不思議な音楽が流れていて、それが妙に心地よい。
いつものようにギムレットを注文して、バースツールに深く腰を掛け直した。
少し甘めのギムレットに一つ口を付けたところで、入り口の扉が開き、若いカップルが入ってきた。
おそらく、あの噂を聞きつけてやってきたのだろう。カウンターの真ん中あたりに座ると、上着も脱がずにメニューを開いた。二人は注文を済ました後も、どこか落ち着かない様子だ。
しばらくすると、男のほうが意を決したように言葉を切り出した。
「すみません、占いってやってます?」
男は緊張しているのか、妙な感じに語尾が上がる。
「はい。ご希望のお客さまにはサービスでさせて頂いております」
髭のマスターは何でも無いような表情で軽くお辞儀をしながら言う。
「じゃあ、彼女をお願い出来ますか」
男に軽く促されると、その彼女は背筋をピンと伸ばして、髭のマスターの言葉を待つ。
「はい。じゃあ、まずは初恋の話をお聞かせください」
「初恋、ですか?」
「えぇ。小さい頃の淡い恋心と言いますか、思い出せる限り最初の恋でお願いします」
髭のマスターは慣れた口調で説明をしていく。
僕はこれを聞くのも、ここに足を運ぶ楽しみの一つだった。悪趣味と言われるかもしれないが、人それぞれで実に面白い。
髭のマスターは、どういうわけか、その人の初恋の話を聞いて、相手との相性や、今後どんな恋をしていくのかが分かるのだそうだ。
それ目当ての客が頻繁にやって来るのだから、よく当たるのだろう。
ふと、自分の時はどんなだっただろうと思った。
その時、今までぼんやりしていた小さい頃の記憶が鮮明に甦ってきた。
──冬休みだというのに、昼間は学校の宿題、夕方からは塾の冬期集中講習と、遊ぶ暇などほとんど無かった。
父親に「こいつは出来がいいほうではないんだから、早過ぎる事はない」と言われて、小学校三年生になると同時に駅前の進学塾に入れられた。
そんな冬休みのある日、塾に向かう途中、衝動的にサボってやろうと思い立った。
一日ぐらいだったらバレることはないだろうと。
別に行く当てなど無かったので、知らない路地への曲がり角を曲がってみた。ちょっとした冒険気分だ。
少し歩いて行くと、真っ白な猫が歩いていた。
そーっと後をつけていくと、その白い猫は路地裏に入って行き、停めてあった自転車のサドルの上にひょいと飛び乗った。
自転車に乗った白い猫は、すぐに毛繕いを始めた。
「うまくバランスが取れるなぁ」とひとりごちながら、じっと見ていると、その視線に気が付いたのか、白い猫と目が合った。
心臓がとくんと大きく鳴った。
僕はその白い猫から目を離す事が出来なくなった。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふと気が付いて、時計に目をやると塾が終わる時間を過ぎていた。
少し帰るのが遅くなったが、親には何も聞かれなかった。
次の日も、僕はあの路地を曲がって白い猫に会いに行った。そして、その次の日も。
じっと眺めているだけで、飽きなかった。
頭を撫でても嫌がる素振りなど見せず、時折こちらに目をやるものの、自転車のサドルの上に乗ったまま離れようとはしなかった。
この日家に戻ると、玄関で父親が仁王立ちになって待っていた。
三日続けて無断欠席した為、塾から電話が掛かってきたようだった。
次の日から、家に家庭教師が来た。
僕は冬休みの間中、外に出る事を禁じられた。
待ちに待った始業式の日。式が終わると、家を通り過ぎて、あの路地の方へ一目散に向かう。
息を切らして、その場所に辿り着いたが、どうしてもその路地への曲がり角を見つけることが出来なかった。
次の日も探したが見つけられない。
探しても探しても、とうとう見つけることが出来なかった。
ふと気付いて、周りを見渡すと誰もいなくなっていた。どうやら、若いカップルはもう帰ったらしい。
髭のマスターは、拭いていたグラスを置いて、僕に話し掛けてきた。
「お客さん、いつもいらしてくれてますね?お客さんもひとつどうですか?」
「えっ? あぁ、占いですか」
僕は、温くなったギムレットを一口、二口と飲んで答える。
「いや、また今度にしますよ。気が向いた時にでも」
「かしこまりました」
髭のマスターは、予めその答えが分かっていたかのよう表情だった。
グラスの残りを一気に呷って、勘定を済ませ、店を出た。
正直、どんな結果が出るのか興味はあったが、初恋が自転車に乗った白い猫だとは、とても言うことが出来なかった。
それから暫らくして、彼女とは別れることになった。
楽しかった思い出はと聞かれると、何も出てこないのだか、恋をすることによって、自分の初恋がどんなものだったか分かったことだけは、彼女に感謝しなければならない。
その後、仕事が忙しくなり、暫くあの店に行けずにいた。
やっと仕事も一段落し、久々に『vision』を訪れようと思ったのだが、どうしても路地への曲がり角を見つけることが出来なかった。
よくある事なので、特に気にならなかった。
仕方なく駅まで戻り、別の店に入る。
注文したギムレットは、とても苦い味がした。
自転車に乗った白い猫 まっく @mac_500324
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