後編
――……いつの間にか眠っていたらしい。
どのくらい経ったのだろうか。旅人は何気なく顔を上げた。古い鏡台が目に入る。
おそらくあの黒箪笥や真紅のドレス、それからリングの持ち主であろうこの部屋の女主人のものだろう。
おかしいな、先ほど部屋を見渡したときには気づかなかった。見落としていたのだろうか。旅人はそう思って近付いた。
黒ずんで、鏡としての生き方を失ってしまった鏡台の隅に、小さく書かれた文字。
子供の……おそらくは少女の筆跡で、紅のようなもので記されたその言葉は。
「……これは……? "... cavaliere del crepuscolo aspetta ...... eternamente..."
"twilight knight"か? ……黄昏の騎士? 何かの詩の一部……いや……"Roberia"?
これがこの部屋の……だが"Roberto"……こちらは男の名だが一体……」
詩にしてはあまりに稚拙すぎる。しかし誰かの言葉であるとすると、あまりに芝居がかった台詞だ。
旅人は再び思考に沈まざるをえない。そもそも子供の落書きにしては、あまりに陰鬱な雰囲気が感じられる。
いや……それはこの部屋そのものの重い空気のせいであろうか。
それにこの字面、どこかで……リングの裏? 確かにそれもあるが、そうではなく。
気になるのは、風化した文字の中でもやけにくっきりと残っている"CREPUSCOLO"という単語。黄昏、夕暮れ、薄明かり……そう言えばペルロはこの屋敷の主について何と言っていたか?
――……夕日に融ける金色。
長い巻き毛の、美しい少女。
「……誰だ……」
不意に頭をよぎった、その微笑。
この部屋の主だったろう人間の?
出会ったことなどない。けれどもはっきりと脳裏に浮かぶ姿。
どこだ。どこで見たのか。この屋敷? まさかそんなはずは。
ここへ来てから出会った人間といえば、あの青年……ペルロ・キュスコと名乗った彼……
ただ一人。
「!」
誰にも出会わないどころか、そうだ、物音一つしない。
出会わないのではない……ああ、ここには誰もいない……!
「……また狂ってしまわれたのでしょうか」
黄金の青年は、空っぽの部屋の入り口に立つ。
開け放たれた窓からは、濃い霧が入り込み、男を包み込む。
その靄を愛しげに撫でて、男は呟く。
「これでは生きては帰れますまい……哀れな旅人。明日になったら霧も晴れましょうに」
悲しげな瞳を縁取るのは、長く繊細な金色の睫。
黄昏に融けた黄金は、夜闇の中で手燭の光のように美しく輝く。
かつん、かつんと足音が響く。広すぎる廊下。ゆらゆら揺れる蝋燭の火。
やがて男は一つの絵の前に立ち止まる。かつて盛大な舞踏会すら開かれた広間。
積もり積もった真っ白な埃は舞い上がりもせず、時代に取り残されたかのような騎士の足元を汚すこともない。
腰に刷いた剣がしゃらしゃらと音を立てる。
「男」は細く白い指で、大事そうに絵を撫ぜ、そっと頭を預ける。
「多くの旅人が訪れました。けれど、夜を明かす前に皆去って行きました。
……しかしそれでも構わないのです。わたくしにはあなただけでいい……」
夜が明ける。暁の光が、天井のステンドグラスを通して男を照らす。
多くの光に囲まれて、巨大な肖像が姿を現す。緋色に染まった白いテラス。
広間は白い靄に包まれる。光と靄と色彩の世界に、金色の髪が輝く。
「ずっと傍に」
遠い昔の約束は、少年と少女を縛り付けた。
あの日の他愛も無い優しさは、戦火と共に逃れえぬ呪縛へと変わり。
黄昏の騎士はいつまでも。
濃い霧に包まれたその屋敷には、美しい騎士が住んでいる。
――……そこから生きて帰った者は、未だかつて存在しないという。
CREPUSCORO 佐倉真由 @rumrum0830
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