Barカルサカルに乾杯

「こんばんは」

 夜7時半。看板をひっくり返して開店を告げると、数分もたたずに魔界側の扉が音を立てた。木造りの重い扉が軽々と開いて、乳白色の見事な角の主がやって来た。目が合うと、5色に輝く瞳がいっそう光る。

「こんばんは、魔王陛下」

「陛下はよしてくださいよ、魔界の住人でない方に言われると緊張してしまいます」

「これは失礼。今日もで?」

「はい」

 どうやら魔王城は春を迎えるために忙しくしているらしかった。

 春が近くなると、春分の儀式を行うために冬将軍、妖精王オベロンとその妃ティターニアとの打ち合わせもあり忙しいのだ、というのは察しが付くことではあったが実際に直接聞くのは初めてのことであった。

「うちの宰相がぶっ倒れそうになっているよ」

 魔王は苦笑して優秀なスライムのことを言った。

「そうおっしゃるあなたも少々お痩せになったようです。ご無理はなさいませんように」

「気を付けるよ、無茶をするとメイド長が恐ろしくていけません。掃除の邪魔だからと追い出されてしまいました」

 魔族の王、魔界を統べる魔王はまた苦笑した。仰々しく恐ろしげな肩書を持つ目の前の男はどこまでも柔和な人柄なのだ。それにしても、この魔王を追い出すとはどれだけ強力、あるいは巨体で怪力なメイド長なのか……。

「メイド長?」

「シルキーという家事が得意な妖精なのです。女妖精で、普段は楚々としてたおやかなのですが、とにかく食事をとらなかったり部屋を汚くすると容赦がないのです。魔王城のまことの主と言っても過言ではありません」

 妖精は自然の一種でもある。条件さえ整えば死ぬことがないというし、彼らが死ぬ場合には「消滅」と表現する方がふさわしいのだという。魔王城など彼らが生きるに最もふさわしい場所だろうから、何人もの魔王を見守って来たのかもしれない。

「執務室を散らかしていると、シルキーのメイド軍団がやってきて権能をふるうのです。こればっかりは……たとえば嵐や地震の様なもので、彼女らが満足するまで終わらないのです。いかに私が魔王でも、どれほど強力な魔女であってもこれに逆らうことだけはできません」

 きっと、魔王城の執務室では書類とシルキーたちとの攻防が、例のスライムの宰相を中心にして行われているのだろう。

「そういえば、話が変わるのですけれど」

 やはり、仕事続きで大変だったのだろう。普段は静かな魔王が今日は饒舌で、意外に思いながらもおしゃべりは好もしい。

「ここの店名、カルサカルの名前はどこから? 私と同じ名前です」

 気恥しそうに魔王が笑った。

 この店は先代から受け継いだ店だった。ずいぶんと昔からある店らしいが、魔界とつながっているその点を配慮して、店長が変わるたびに店名を変えるのが決まりであった。自分がこの店を引き継いだのが10年近く昔のことになるが、そのときの事を思い出した。

 まだ先代の元で修業をしていた時。魔界における政治の腐敗に対しての愚痴にあふれていた頃があった。当時、魔界では一切の魔王批判が禁じられていたらしい。その吐き出し口がこの店であったのだ。ある日、魔界の客たちの間で一つの名が囁かれるようになった。

『極星のカルサカル』。星、とは希望や運命、強大な力の象徴であり、届かぬものともされる。その星を砕く、あるいは星そのものとも呼びならわされる程の力を持った悪魔、カルサカル。その破格の戦闘能力や指揮能力に希望を託してそのように称えられた。

 やがて、このバーに反魔王勢力が集まっているとの流言が広まり、物理的に店がつぶれるという危機に直面した。当時の魔王が直属の部下を差し向けたのであった。その窮地を救ったのが、悪魔カルサカル。今、目の前でいつもの酒を飲んでいる温和な悪魔だ。それから3か月後、先代から店長の座を譲り受けた際に新たな店名を悪魔カルサカルからこっそり拝借したのであったのである。

「魔王カルサカル陛下、あなたは覚えてはいらっしゃらないでしょうけれども、このお店は先代魔王の頃にあなたに救われたのです」

 案の定、彼はポカンとしていた。きっと忘れているのだろう。それが彼にとって普通の行いであるから。

「いつでしょうか、先代というと……10年ほど前になりますか?」

「そうです、先代魔王の治世の終わる頃、あなたに助けていただいた。そして店長が私になるのと同じ時期にあなたが魔王として即位なさった。ですから、その御恩を忘れないように、と。勝手にあなたの名前をいただいたのです」 

 当時の魔王に不満を抱いていた魔界の住人を束ね、組織化し、反乱軍として陣頭に立ち魔王城に攻め入ったという悪魔カルサカル。彼が新たな魔王の座に就くのに不満を抱く者はいなかった。「正当なる簒奪者さんだつしゃ」として玉座に至ったのだ。

「やぁ、それは……いま初めて知りました」

 魔界において比類なき実力者として認められ、今や魔界を一手に治める悪魔はやっぱり恥ずかしそうにしてからにっこり笑った。 


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Barカルサカルへようこそ 鹿島さくら @kashi390

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