真夜中の始まりは、きっと、世界の終わりによく似ている

佐々木

真夜中の始まりは、きっと、世界の終わりによく似ている

━━先輩、世界の終わりってどんな感じなんでしょうね。

空気みたいな彼の声には余りにも気配がなくて、その言葉の意味を理解する時には、既に彼の姿を捉えていた。纏わりつくような闇の向こうで、彼の眼光だけが鈍い。

「例えば太陽が消滅したとします。人間だけじゃなくて虫も植物も。この世界からあらゆる音と色と生命が消え去るんです」

遠いような近いような覚束無い彼の声が闇を裂いて、私はそんな世界のことを想像してみる。

宇宙の片隅に見捨てられた世界。ただひたすらに死んでしまった世界。そこに残されたものは何一つない。

それでもなぜだろう。悲しいとか悔しいとか、そういう感情より先に私は。

「綺麗なんじゃないかな」

「━━え?」

足の先が一気に冷たくなった気がした。その冷たさが伝播して、今度は背中に寒気が走る。吸い込んだ空気が肺の中で凍りついているような気味の悪さに、私は思わず息を止めた。

暗闇に紛れた彼が私を睨みつけているような気がして、でも彼の輪郭から目を逸らすことが出来ない。

そのまま私は、何かから隠れるみたいに両足を胸の前に引き寄せて溜め込んだ息を吐き出した。

生ぬるさが膝の上を這っていく。よかった。ちゃんと暖かい。私はまだちゃんと暖かい。

心做しか動悸が早くなっていたことに気づく。鼓動を落ち着かせながら私は、ずっと彼のことを見ていた。何度も何度も、生暖かい吐息を膝に吹きかけた。その間彼は全く動かなかった。


それから、どれくらいの時間が経っただろう。まだ眠気の残っている頭で少し考えて、目を擦った。

ぼんやりとした暗闇の向こうで、彼がふと思いついたみたいに言った。

「そう言えば、この部屋時計ないんですね」

「ああ……うん。ないっていうか、この前壊れちゃって。無くても困らないし、別にそのままでもいいかなって」

掠れた声だった。思った以上に長い間眠っていたようだった。

「それにこの部屋寒くないですか?何か暖房とか置いてないんですか?」

「それもこの前壊れちゃって、電源がつかないの。確かそのあたりに毛布か何かあったはずだから、それ使いなよ」

あ、はい。と言って、暗闇の中で彼が動く気配があった。しばらく彼は動き回って、やがてまた静かになった。

私は相変わらずぬるい息を吐いていた。

毛布を羽織っているのか、先程よりも彼の輪郭が大きく見えた。

「俺のこと見えますか?」

毛布が体に触れる音だけが聞こえる中で急に彼がそんなことを言ったから、私は少しぎょっとした。

「見えない。影と気配があるだけ」

私がそう言うと、俺もです。と、彼が答えた。

「これからどうなっちゃうんでしょうね」

これからっていうのは一体何に対してのこれからなんだろう。

「先輩は怖くないんですか?」

「怖い……のかな。分かんないや」

それより今は、まだ少し眠い。膝の上に顔を埋めて息を吸い込むと、冷凍庫の中に座っているみたいに胸が苦しくなった。

彼が笑ったような気がして、もう一眠りしようかなと思った。今度はもっと長く、ずっと深く眠れるような気がした。

「先輩、寝ちゃうんですか?俺腹減ったんですけど、どこか食べに行きませんか?奢りますよ」

向こうからも私の姿は見えていないはずなのに、へへっと得意そうに笑って彼は言う。

埋めた顔を持ち上げて、そのまま横に倒れてみた。膝を抱えたまま右腕と右の頬から熱が奪われていくのが分かった。

「私はいいよ。ずっと座ってたからお腹空いてない。それにこんなに暗い中でお店なんてやってないでしょ」

部屋の中は相変わらず闇に覆われていて、反転した世界は何も変わってくれはしない。

「分かんないですよ。案外やってる所あるかも。取り敢えず行くだけ行ってみましょう」

「行かない行かない。それに外寒いし、お店見つける前に凍死しちゃう」

「凍死だなんて大袈裟ですよ。じゃあ、コンビニとかでもいいですよ。確かこの近くにもあったでしょ」

「ねぇ……本当に、外に出たくないの。もう私は絶対外に出たくないの。理由くらい分かるでしょ?」

床から顔を引き剥がして起き上がった。氷が溶けるみたいに熱を帯びていく頬が少し痛い。「あ、そうだ。そのついでに時計も買って帰りましょう。先輩だって無いよりはあった方がいいでしょ。それと、もしあれば暖房器具も。この先もっと寒くなるでしょうから」

「…………」

「もう俺さっきからずっとお腹ペコペコだったんですよ。何にしよっかな。やっぱり肉ですかね」

「だから……」

「じゃあ先輩、行きましょう。ほら、しゃがみ込んでないで立って━━」

━━だから、私は外に出たくないって言ってるでしょ!


━━あ。


例えば、世界の終わりが訪れたとして。

この世界からあらゆる音と色と生命が消え去ったとして。

私はそんな世界のことを、想像してみる。


「……ねぇ、ちょっと……どこにいるの?返事してよ!」

信じられないくらいの静寂が私にどこまでも襲いかかる。

まるで世界中から何もかもの気配が消え失せたみたいに。

「分かったから……分かったから。私、外に出るから。だから。だからお願い━━」

かつてのあの時から、果たしてどれだけの時間が流れたのだろう。

私だけを置き去りにしたまま、果たしてどれだけの時間が過ぎたのだろう。

この暗闇から飛び出して外へ出るのは確かこれで二度目だった。

ドアノブを握り、微かに軋んだ音を立てながら扉を開いた。

ただひたすらに暗闇に埋もれた世界は、冷凍庫の中の水がやがて氷に変わっていくみたいに、ゆっくりと冷たくなっていった。

そんな世界の終わりを告げるみたいに、街の向こうに霞んだ時計台が見える。じっと息を潜めるみたいに、秒針すら動かずに二時十一分を指して止まっていた。

あの時。初めて暗闇から外へ出た瞬間から、この世界は━━


━━私をひとりにしないで。


空を仰ぐと眩いばかりの星の光がまるで雨のように降り注いでいた。息をすることさえも苦しい、凍えたような星空に手を伸ばしてみる。

世界の終わりは、きっと、真夜中の始まりに似ている。

全ての音が死んで、全ての色が失われた世界の終わりに、その景色は余りにも美しすぎて。

頬を伝っていく涙がどこまでも冷たかった。

「ほら。やっぱり綺麗」

誰もいなくなった世界で揺れたその声は、白く吐き出されて消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中の始まりは、きっと、世界の終わりによく似ている 佐々木 @shutokuroi961

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ