夢ではない
星染
夢ではない
「認めてほしかったの?」
まあね、と彼女は肩を竦めて軽薄そうに笑った。掛け時計の針は四時五十分くらいを指し、細く開けられた窓からはゆるい風と、西日。細かい橙色の光の粒子がしつこくわたしたちの肩や足にまとわりつくように舞っている。彼女は肩までのやわい髪を揺らして、さあ、と黒板の方に向き直った。右手には、バケツ。
いまこの教室にはわたしたち二人しかいない。ふたりきりの空気、酸素、学校。彼女の身体は小柄で、だから彼女はわたしの頭を撫でたり、わたしと話をするときには少し背伸びをして、上を向かなければならない。オレンジ色の西日はまだわたしたちの間を揺蕩っている。秒針のかちかちした音だけが絶えず、時間の流れを申告しながらここの空気を唯一、震わせている。床からは昨日塗ったばかりのワックスの匂いが立ち上り、それがぞくっとするほどに春を感じさせた。ゆるくて過剰なまでにやさしい、春の匂い。気持ち悪い。気持ち悪い。彼女の声を思いだしていく。春ってねえ。やさしいから嫌いなんだ。あたしたちが何を殺しても、きっと許してもらえるんだろうな。やだな。ねえねえ、あたしね、ツグミ。だれにも言えなかったんだけどねえ。舌っ足らずな甘い声。 春を殺したらきっと幸せになれるんじゃないかって思ってるのよ。 ねえねえあたし、ツグミのことが好きだよ。ツグミもあたしのこと好きでしょ? 嫌いになれないでしょ?
うれしい、うれしいけど、もうすぐ春がきちゃうね。そうだよね。
彼女は黒板の前に立ち、左手に握りしめた刷毛をバケツに浸した。そうだ、彼女が左利きであることを、わたしは毎回忘れてしまう。きっと春が来るたびに、なのかもしれない。真っ赤な絵の具が刷毛の先から滴っている。ぽたぽたぽたぽた、規則的にバケツに還っていくそれは、たしかにわたしたちに残された時間だった。遠くで吹奏楽部が練習している音が聞こえる。馬鹿みたいに騒ぐ近くの中学生の声。
「ツグミ」
禁忌に触れでもするように彼女は絵の具のついた刷毛をやさしく黒板に擦り付けた。いびつな流線形の赤が、血痕のように黒板に描かれる。
「何」
「好きだよ」
そう、わたしもだよ。
こちらを向かないままで、彼女はひどく寂しそうだった。私はいまにも彼女がバケツを取り落とすのではないかと心配になった。いまにも叫びだして、その窓から飛び降りはしないかと思った、それほどに狂気的で、美しくすらあった。この世界で彼女はただ孤独で、孤独だからこそ、わたしは彼女が好きだった。儚く笑う俯きがちな顔の、睫毛の落とす影、耳の形、唇の色や爪のささくれ、とがった指先、すかした口調、吸い込まれそうな真っ黒い瞳は、たしかに幸せでない象徴のようなもので、幸せになってしまえばきっとそれは雪のように永遠に戻らないものになるのだろうと思った。だから春はこなくてはならない。殺されてはならない。彼女がふしあわせなままで、わたしを好きなままで、ただその美しさを永遠に私に注いでいてくれればいいのだ。とにかく教室で黒板に絵の具を塗る彼女はとても不幸せそうに見えた。
彼女にとって春とは終末で、死なのだと思う。春がくるたびに死.んで息をふきかえし、それまでを葬るように、またきれいになる。叶えられなかった夢のことも、覚えたがっていた歌のことも、雪が好きなことも、いったんなかったことになって、ただわたしを愛することを、呼吸のように繰り返す。春を殺せば。きっと幸せになれるんじゃないかって。そうはにかんだ彼女はただ自虐的で、残酷だった。
春がもうそこまできていること、彼女は知っているんだろうか。
きっと死んでしまうんじゃなかろうか。
血痕。 血痕のようだと──思ったのはわたしだ。
「ツグミ、好きだよ。愛している」
「殺されてもいいから、ツグミを愛したままでいたい、ねえ、泣いていたんだよね」
「ツグミ」
「ツグミが好きってことに、もし意味が無いとしたら」
「海にでも」
海でなら。
春の海でなら、死.ねるかなって思うよ。
綺麗になれないままで、わたしはたぶん、普通の恋をして、彼女にもらった胸いっぱいの愛の言葉を、食べるように消費しながら、当たり障りのない女の子に成り上がり、成り下がっていく。わたしをツグミと呼ぶ甘い声を、いつかわたしの脳ごと春に溶かした彼女の笑顔を、伏せた睫毛を、どこかで嗅いだことのあるような懐かしい匂いを、忘れながら、やがて春が来てもなにも思い出せなくなるのだ。死.ぬのが怖い。彼女がそうしたように、人を愛するのが怖い。そんなことは言えない。血塗られた黒板、ひかりの舞う教室、写真のように静まり返ったここで、彼女とわたしは抱き合ってくちづけをする。好きということばがどれくらい軽くて、どれくらい重くて、どれくらい甘くてまずいのか、わたしたちはやっとわかった気がした。こんなにも死にたくなるような艶かしいしあわせを、わたしたちはこれから知ることもないのだ。彼女の小さくてやわい掌がわたしの背をまさぐる。天使の羽を探すように。髪、すこしも嗚咽を漏らすことなく、彼女は泣いた。わたしの制服に滲んで吸い込まれていく、透明な液体は、きっと涙に入っている彼女の魂だ。
「⋯⋯」
「ツグミ」
「なあに」
「嫌い」
そう、わたしもだよ。
呪いを解くように、あるいは魔法をかけるように、しあわせになった彼女はいま春に融けてひとつのやさしい気配になる。
夢ではない 星染 @v__veronic
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