下 彼女は美しい



帰り道、大通りでタクシーを捕まえ乗り込んだ。

今日は華金ということもあり、かなり混んでいる。

ビル街の光を横目に見る。

ふと彼女の言葉が頭の中をよぎった。


―さよなら。


私にできることはすべてやった。

もうできることなんてなにもない。

彼女の心に私が入ることなんて

そう思うのに。



「すみません運転手さん。行き先をを変更してほしいんです。場所は―」


タクシーを降りるとスマホを取り出し電話をかけた。

正直出てくれるかは分からない。

呼び出し音がむなしく響く。

あぁやっぱり無理かもしれないと諦めかけたその時だった。


「はい。もしもし。」


「もしもし。早坂です。」

神はまだ私を見放してはいないようだ。


「…早坂先生。」


「やっぱりどうしても話したくて。今ホテルの前にいるから…」


「ごめんなさい。」


「え?」


「ごめんなさい。先生。」


「…どうして謝るの。」


彼女からの返事はない。

しばらく無言の状態が続いた後いきなりかだっという大きな音が聞こえた。



「こんばんは。早坂先生。」

今一番聞きたくない人の声が聞こえ、

思わず自分の耳を疑ってしまいたくなった。


「…山口先生ですよね。」


「だから言ったでしょう。彼女は僕の元へ戻ってくる…ってね?」




「彼女は今どこにいるんですか?」



「んーさぁどこでしょうか。

ただ今先生がいらっしゃる場所ではないことだけは確かですよ。」




「どこにいるか教えてください。」



「えぇ。教えましょう…なんてね。

まぁそんなことより僕の昔話でも聞いてくださいよ。」



「昔話…ですか?」


この人は急に何を言い出すのだろうか



「それは僕が中学三年生の時の話です。

僕の両親も離婚していましね。

僕は父に引き取られそれなりに暮らしていました。

けれどある日僕は父に言われました。

お前は俺の彼女をたぶらかしたってね。」


「え。それって」


「その頃僕の父は再婚を考えている人がいましてね。

初めはとてもいい人だったんです。

家族仲も良好でした。

けれどある日僕は彼女と関係をもちました

もちろん拒絶しましたよ。

けれどその時の僕は一人で食べてもいけない年頃だったんです。

そうして父はその頃から僕に暴力をふるうようになりました。」


言葉がでない。

まさか山口先生がそんな残酷な経験をしていたなんて。


「これで分かりましたか

彼女は僕で僕は彼女なんです。

僕たちはお互いを必要としているんですよ」


「それは必要としているんじゃありません。

お互い辛い現実から逃げているだけです。」



「逃げているですか。

辛いことからは逃げてもいいと思いますよ。」


「逃げていたら幸せにはなれません。

先生も彼女も辛いことがあった分、これから先たくさんの幸せが待っているんです。」



「どうしてそこまで彼女にこだわるんですか

彼女は結局あなたじゃなくて僕を選んだのに。」


「彼女のことを愛しているからです。

幸せになってほしいからです。」

自然とその言葉がでてくる。

そうかだから私は―



「幸せに愛ですか。

そんな不確かなものを求めるなんて

早坂先生は本当に面白い方ですね。


しかし今日は本当に月が綺麗だ。

私の父は昔税理士をしてましてね

学校が終わると仕事場に行って父を待ってたものです。

そうして今日のような月を見ながら家に帰っていました。

あの時は本当に幸せでした。」



「突然どうされたんですか」


「…いえ。ただの昔話ですよ。」


一瞬ふっという笑い声が聞こえる。

まさか今のって。


「あの!待ってください!」


プツッという音をたてて電話が切れた。

私は急いでスマホを開きその場所を検索した。

山口先生もしかしてあなたは―


タクシーを降り場所を確認する

間違いない。

今は雑居ビルになっているが昔ここの三階は税理士事務所だったそうだ。

パンプスで階段をかけあがると扉にはかすれた文字で山口税理士事務所とかかれていた。



「先生!?どうしてここに」

壁にもたれかかり月を見ていた彼女と目が合う。

月明かりに照らされた彼女の姿は息をのむほど美しかった。

それはまるで月に帰ってしまうかぐや姫のようだ。


(ってみとれてる場合じゃない)


「やぁ山口先生いらっしゃい。」


奥のソファーに座り手をヒラヒラと振っている


「沢口さん行きましょう。」

傍に駆け寄り、手をつかむ。

しかし扉の方へと歩きだそうとすると

勢いよくその手を振りほどかれた。

思わずつんのめりそうになるのを必死でこらえる。


「私は山口先生と一緒に居ます。

そう決めたんです。」


「別れるって言っていたのにどうして…?」


「はい。何度も思いました。

別れよう、もうやめようって

でも私やっぱりだめなんです。

先生が隣にいないと不安になるんです

先生のこと愛して…」


ぱちんというかわいた音が響く。

彼女は頬をおさえ目を大きく見開いている。



「いい?どんなに辛いことがあっても前をむいて歩いていかなきゃいけないの。

あなたにはこれからもっともっと幸せなことがたくさん待ってる。

あなたたちはお互いに依存しているだけなのよ。

それは愛じゃないわ。」


赤くなっているその頬に少し胸が痛む。

するとその言葉を聞いた後、ずっと黙って聞いていた先生が、おもむろに立ち上がり彼女の頬を優しくおさえた。

いつもの山口先生とはまるで違う。

まるで我が子を慈しむようなそんな表情だ。


「楓。僕たちもう終わりにしよう。」


「えっ?先生どうして…」


その瞬間ドンドンと扉をたたく音が聞こえた


「警察です。こちらに未成年者が男性と一緒にいるという通報があったのですが」


「それは僕です。」



「署までご同行願えますか。」


「はい。」

さっきまでの表情と違う

いつもと変わらない笑顔だ。



「待ってくたさい!」

私の声に歩きかけていた足がぴたっと止まった。


「お願いします。少しだけ彼と話す時間を下さい。」


頭を深々と下げる。

そうして私はなんとか許可をもらい

彼女と警察官の人たちは外へと出ていった。

ようやく二人きりで話ができる。



「どうしてこの場所を教えてくださったんですか?」


「さぁ。ただ僕は昔話をしただけですよ。」

いつもそうだ。

肝心な事ははぐらかしてばかり。

けれど今日ははっきり答えてもらいたい。


「本当は誰かに気づいてほしかったんじゃないですか。

そして終わらせてほしかった。

違いますか?」


「いえ。ただもう疲れただけですよ。

すべてにね。」


「嘘です。先生はそんな人じゃありません」


「あなたに僕の何がわかるんですか」


「分かりません。分かりませんけど

先生はそんな冷たい人じゃないです。

じゃないと教師になろうなんて思わないはずです。

数学の教師を目指したのも税理士のお父さんの影響なんじゃないですか。」



「…お気楽な考えですね。早坂先生」


「お気楽でしょうか…

けど私は…!」


「…これは僕の独り言ですが

妻はこの世の穢れを全く知らない太陽のような人でね。

僕のような人が妻にしてはいけない人だったんだ。

僕には眩しすぎたんですよ。

けれど憧れてしまったんだ。

どうしようもなく。彼女のような人になれたらどれだけいいだろう。って」


ぼうっと窓の外を眺めた。

月の光が先生と私を優しく包み込んでいる

あの人はずっとこの光を求めて続けていたのだろう。



軽くふっと微笑み、ドアノブに手をかけゆっくりと扉を開いた。


「先生!待って!私を一人にしないでください…。」


「楓。幸せになってください。

君は誰よりもその権利があるのですから。」


先生のもとへ行こうとする彼女の体を必死でおさえる。

階段を降りていこうとしていた先生が私の方へと振り返った。



「彼女のことよろしくお願いします。 」

何か憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした顔だった。



先生が去っていった瞬間、全身の力が抜け彼女はぺたりと床にしゃがみこみ手をついた。



「何もかもなくなってしまいました。

私にはもう何も…。」


首に腕を回しそっと寄り添う。

その体はひんやりとしてとても心地いい。


「どうして私のためにそこまでしてくれるんですか…。」


「愛しているからよ。」




「愛しているのあなたのこと。」

体を離し独り言のように呟く。



「すみません。

今の私には愛がなんなのか分かりません。」



「…待ってるから。」


「何年でも何十年でもあなたのこと待ってるから。」


五年後

彼女は学校をやめ施設へと引き取られた。

一方の山口先生は退職届を提出し学校を去っていた。

今どうしているのかはわからない。

私は旦那と離婚をし、今は一人でワンルームのマンションに住んでいる。

以前住んでいたマンションよりはかなり少し狭いが一人暮しには充分な広さだ。

かがみの前で薄いグレーのジャケットを羽織り、胸に花のコサージュをつける。

今日からまた新しい気持ちで。

窓からひゅうと吹いた春風が私の背中を押してくれているような気がした。


「いってきます。」



入学式終わり図書室に行き新刊コーナーを確認すると一番目立つところに彼女の本があった。

美人小説家としてSNSでも有名になっている

もちろん嬉しい気持ちもあるがどこか寂しさを感じてしまう自分がいた。



「先生。」

忘れるはずもないその声を聞きあたりを見回す。

けれど彼女の姿はない。

気のせいだろうか。



「先生ならここに来ると思ってました。」

いたずらっこのような笑顔でふふっと笑っている。

彼女はあのときと同じ場所に座りで本を読んでいたのだ。

けれど今は制服ではなくストライプ柄のワンピースだが。

しかしあのときと全く変わらない彼女の姿がそこにはあった。

白く決め細やかな肌も、口角をあげ歯を見せずに笑う所も

全く変わっていない。


何もかもそのままだ。



「まさか本当に小説家になるなんてね。

おめでとう。」



「ありがとうございます。先生のおかげです。」


「私は何もしてないわ。」




「先生がいなかったら今の私はいません。」



突然机の上に置かれていた原稿用紙を渡された。



「一番に読んでほしくて。」


「私に?」


「はい。

約束してましたもんね。一番に読んでもらうって。」


その言葉に思わず笑みがこぼれる。

あの頃の約束を覚えててくれたんだ。


「…ありがとう。早速読むわね。」

原稿用紙を一枚一枚丁寧にめくりじっくりと読み進めた。



ずっと暗闇の中いる。

歩いても歩いても出口は見えない。

助けて。誰か助けて。

助けを求めても誰も返事がない

ただ自分の声が聞こえるだけだ。

そんなとき彼に出会った。

彼は私の全てを理解してくれた。

君は僕で、僕は君。

そうして彼は私の全てになった。

彼は暗闇の中を一緒に歩いてくれた。

これでようやく外に出れる

そう思っていたのに


「これって」


目が合うと彼女は強く頷いた

それは彼女自身の話だった。


彼にはすでに愛する人がいた。

もちろんそれは私ではない。

けれど彼は私のことを愛してると言ってくれた。

あぁこの苦しい気持ちが愛なんだ。

愛とは苦しいものなんだ。

なぜだろう。

まだ暗闇の中にいる。

彼のことこんなにも愛しているのに。

どうして。

けれどある時彼が私の目の前から泡のように消えてしまった

また一人。

けれど私は出会っていたのだ。

私をずっと照らしてくれていた光に。

私はずっと前だけを向いて歩いていたのだ。

上をみれば確かにそこにあるのに。

手を伸ばす。

暖かく優しい。

なんて美しいのだろう。






頬から一筋の涙が伝う。

あぁこれは彼女自身の話だ。

衝動的に彼女を強く抱き締める。

ここが学校であるとか。

私が教師であるとか。

そんなことはどうだっていい。

彼女がいて私がいる。

ただそれだけでよかった。


「おかえりなさい…。」


「ただいま。」

腕にぎゅっと力をこめると私の背中に手をのばしぎゅっと答えてくれる。

私にとってそれはまるで長い冬が終わるかのような雪解けだった。


「ここが先生の家ですか?

すごく素敵ですね」


「ええ。そうよ。

独り暮らしだから前よりは狭いけどね。」


私は旦那とすれ違ってばかりだった。

私はあの日から彼女のことを忘れたことはなかった。

離婚してください。

そうか。今までありがとう。


その一言で私たちの全てが終わった。

彼の言葉はまるで全てを悟ったかのようだ。

優しい人だった。

何年も一緒にいたのに今になってそう思う。



「先生。」

腕をひっぱられベットに座ると彼女の熱い瞳にまっすぐ見つめられる。


さすがにこの意味がわからないほど私は子供じゃない。

ワンピースのボタンに手をかけると彼女の身体がだんだんと熱を帯びていくのが分かる。

頬に手をあてると彼女の手もそこに重なり、だんだんと顔が近づいていく。

そうして彼女の薄い唇に口づけを落とす

触れるか触れないかぐらいの短い口づけだ。

惜しむようにゆっくりと離れる。

「ねぇ…もっと。」

艶っぽくそう呟かれる。

肩を軽く押すとそのままベットへと倒れこんだ。

私の首に手を回し再び目を閉じるとそのまま自分のほうへと引き寄せて口づけをされた。

まるでいたづらっこのようにふふっと笑う彼女を見て何かが崩れていく音がした。

やっぱり彼女には敵わない。

その時、彼女の瞳の奥には見たこともない私の姿が映っていた。



「んん…」

寝返りをうちながら、すやすやと心地良さそうに眠っている。

そっと彼女の額にキスをすると愛しさが胸の中一杯に広がった。

深夜四時。

起きるにはまだすこし早い時間だ。

彼女のやわらかな髪をそっとなでる。

いつまでもこの幸せがずっと続きますように

そんな願いを込めて。

すると彼女の瞼がゆっくりと開いてゆき

目があった。


「ごめんね?起こした?」


「すみません。いつの間にか寝てしまっていて。」


「いいのよ。まだ早いからもう少し寝てて」



「忘れじの行く末までは難ければ

今日を限りの命ともがな。」


「百人一首ね。

いつまでも忘れないと言ったその言葉が未来まで変わらないということは難しいでしょう。

だから今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。」


「ずっと朝が来るのが怖いんです。

私今幸せなこの瞬間に死んでしまいたい。

だってこの幸せがいつまでも続くとは限らないと思うんです。

はじまりがあれば終わりがある。

そうですよね?」


「…なに言ってるの。あなたはこれからもっともっと幸せになってもらうんだから。」


手のひらをあわせ指を一本一本絡める。

私とは違う細くてしなやかな指だ。



「お願いします。

私が眠るまで手を握ってください。」



「ええ。もちろんよ。」


「先生。ずっと傍にいてください。

お願い。いなくならないで…」


繋いだ手にぎゅっと力がこもる。

「絶対にいなくならないから今は安心して眠りなさい。」


その言葉に安心したのか彼女は再び目を閉じ

た。

しばらくすると規則正しい寝息が聞こえ

私もほっと胸を撫で下ろした。


ごめんね。

もし、あなたがこの手を離してと言っても

もう二度と離す気はないのよ。

だってやっと私の手を掴んでくれたんだから。

この手を離すくらいならあなたを殺して私も死んでしまいたいの。


窓から柔らかい太陽の光が差し込み、彼女の体を優しく照らしている。

白く決め細やかな肌には、私がつけた赤い花が点々と咲き乱れていた。

あぁ今ならあの言葉の意味が分かる。

この光景はたしかに―


「美しい。」









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美、し、い 石田夏目 @beerbeer

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