夕紅とレモン味

いいの すけこ

ソーダ水の中に。

 海が見たいな。


 私が言うと、

「じゃあ、今から行こうよ」

 葉月はづきは明るく言った。


 夏休みも終わって、九月も半ば。残暑という言葉など戯言に聞こえる程に、暑い毎日が続いていた。

「今からなら、四時頃には着くでしょ」

「四時って遅くない?」

 放課後、学校から駅までの短い道のりを歩くだけで汗だくになりながら、海が見たいとなんとなく言った。そうしたら、葉月は駅の改札を抜けて、いつもと反対側のホームへ降りて行ったのだ。

 四時は遅いよなあ、家に連絡しようかなあと思いながらも葉月について行って、そのまま家とは逆方向の電車に乗る。そこから四〇分ほど赤い電車に揺られ、終点の駅に降り立った。


「ほんとに来ちゃった」

 確かに多少の時間はかかったけれど、乗り換えもなしに目的地にたどり着いてしまった。駅からは見えないけれど、駅名と同じ海岸があるところ。

「なに、美久みくが海見たいって言ったんじゃん」

「そうだけど、こんなにあっさり来れるとは思わなくて」


 私にとって、海といえば、県外に住む祖父母の家に遊びに行くついでに連れていってもらうところだった。両親の帰省が夏休みの旅行と同義だったので、海は、鞄にたくさんの荷物を詰め込んで、お泊りの用意をして行くところだったのだ。

 こんな、放課後に気軽に来るような場所ではなかった。


「まだバスに乗るけどね」

 中扉からバスに乗車する。

 私の生活圏内を走るバスは前乗り先払いだから、後乗り後払いのバスはなんだか戸惑ってしまう。

 

 思ったより遠くない。けれど、いつもとは違う場所に来たんだな。


「ほら、海見えた」

 葉月が窓の向こうを見やる。

 駅前の商店街に挟まれた、狭い道路を抜けたところで海が見えた。まだ少し遠くて、建物の向こうに見える車窓越しの海だけれど、私の胸は確かに躍っていた。

「でも、何気に結構時間たってるね。もう五時近いよ」

 スマホの時計を確認する。駅には四時過ぎにはついていたはずなのに、気づけばずいぶんと時間が経過している。

「バスの待ち時間、結構あったしね。泳ぐつもりはないし、ほんとに海見に来ただけだけど、ちょっと勢いだけで行動しすぎたか」


「よし。降りよう」

 葉月はそういうと、停車ブザーを押した。ピンポン、という軽快な音の後、『次、止まります』と綺麗な声のアナウンス。すぐにバス停に停車する。

「え、ここで降りるの」

「そ。降りたらすぐ道路渡るから」

 きちんと運転手さんに「ありがとうございます」と言って、葉月は軽やかにバスから降りた。こういう葉月の振舞いには素直に感心してしまう。

「うわー、もう夕方なのに暑いー」

 強めのクーラーが効いた車内から外に出ると、むっとした空気がまとわりついた。

「さっさと渡っちゃおうねー」

 葉月は少し離れた横断歩道の押しボタンを押す。ボタンに連動して、すぐに歩行者信号が青に変わった。

「あそこに行くの?」


 白い外観の建物。採光の良さそうな大きなガラス張りで、傾きかけた日差しの中で眩しく映えた。道路を渡ってすぐにあるそれは、カフェのようだった。

「海岸まで行くのはもうちょっと時間かかっちゃうし、海の家も閉まっちゃうしね。今日はここにしよう」

 葉月はカフェに臆せず入って行った。私はほんの少しだけおっかなびっくり後に続く。なにせ普段は、ファミレスとファストフードを愛する女子高生だから。果たして女子高生同士で入店するような店なのだろうかと辺りを見回す。

「ここ、高くないの?」

「ドリンクぐらいなら平気そう」

 店名の描かれた青いウェルカムマット。店内は大きな碇やガラスのブイなど、海を思わせる装飾で飾られていた。

 けれど何より、美しく店を彩るのは。

「わ……」

 

 全面ガラス窓の店内から見渡すのは、輝く水面みなもの青い海。


「綺麗……」

「ね、いい景色」

 満足げに葉月が言った。

「なんでこんなお店知ってるの?」

 葉月はずっといろんなことに慣れた風で、ここまで私を連れてきた。

「夏休みに、海岸の花火大会に来たの。その時、バスの中からこのカフェを見つけてね。行ってみたいなって思ってたんだ」

「え、じゃあ来るのは今日が初めて?」

「うん」

「じゃあ、この辺に遊びに来るのは、何回目くらいなの」

「二回目だよ。この前の花火大会が初めて。確かに時間はかかるけど、うちからだと電車一本だから、そんなに大変でもないってわかって」

 こんなに堂々としているのに。葉月の思い切りの良さに驚くやら、感心するやら。

「ほんと、はーちゃんのそういうとこ、好きだわ」

 その勢いに巻き込まれるのが、私はとても好きなのだった。


「申し訳ありません、店内は一八時以降バータイムになりまして。アルコール提供が始まりますので、未成年の方はご遠慮いただいています。昼営業のラストオーダーは一七時半になりますが、よろしいですか」

 丁寧に説明してくれた店員さんの言葉に、私たちは時計を確認した。時間は一七時を越えたところだった。

「一時間もないや。美久、それでもいい?」

「んー、いいよ。せっかく来たんだし、喉乾いたしね」

 申し訳ありません、と頭を下げる店員さんからメニューを受け取る。

 紺色のカバーがかかったおしゃれなメニューを広げると、丸々一ページを使ってドリンクメニューが並んでいた。半分はアルコールだったので、残り半分、なじみ深い名前の飲み物をなぞっていく。

「はーちゃん決まった?」

「私はレモンソーダにする」

「んー、悩むな。私もレモンソーダにしよっかな」

 乾いた喉に、サイダーの刺激とレモンの爽やかな香りが恋しくなった。

「決まり。すみませーん」

 店員さんに注文したら、おしゃべりに花を咲かす間もなくレモンソーダが運ばれてくる。


「わー、瓶だ」

 運ばれてきたレモンソーダは瓶入りだった。海というよりは青空に近い、水色の瓶はいかにも涼し気で綺麗だ。トクトクと音を立てて、氷入りのグラスにレモンソーダを注ぐ。

「んー、冷たい」

「おいしーい」

 乾いた体にレモンソーダが染み渡っていくようだった。グラスを持つ指先が冷えて気持ちがいい。


 一息ついて視線を上げれば、果てのない海が広がっていた。

 落ち始めた日は、空と海面の両方をうっすらオレンジに染めていく。美しい光景に、二人、言葉もなく海を眺めた。

 

 遠くの方に一隻の船が見える。

 私はグラスを持ち上げた。

「……何してるの、美久」

「歌になかったっけ。ソーダ水の中に船が通る、ってやつ」

 うまくグラスと船を重ねて、まるでレモンソーダに船が浮かんでいるかのような図を作り上げようとした。船は動くし、遠近感を掴むのも難しいので、船はグラスの中を出たり入ったりした。

「なにそれ、知らないよそんな歌」

「そんな歌とはなにさ。有名な歌だよ、四〇年くらい前の」

「古いよ!」

 葉月のツッコミを聞き流しているうちに、船は彼方へと消えてしまった。私はグラスをテーブルに置く。


「でもいいね、それ」

 今度は葉月がグラスを持ち上げた。船のいなくなった海は、ただ夕焼けを映して広がるばかり。葉月はグラスを揺らしながら、目を細めた。


「ほら、夕日捕まえた」

 葉月と同じ高さの目線で、彼女の手の中のグラスを見た。

 

 レモンソーダの中に、夕日が浮かんでいた。


「……はーちゃん、ロマンチストだね」

 照れたように葉月は笑った。

「でもさ。こうやって、蓋をしてさ。閉じ込められたらいいのに」

 葉月はグラスを手のひらで塞いだ。少し陰ったグラスの中には、まだ夕日が浮かんでいる。

「夕日も、時間も、何もかも閉じ込めてさ。なんにも変わらずにいれたら、いいのにね」

「どしたの、はーちゃん」

「色々、変わっちゃうのって嫌だなって、美久は思うことない?」

 グラスの中の夕日が、だんだんと光を小さくしていく。

 夜の時間が迫り来る中で、夕日が届かなくなった葉月の顔が陰った。 

「ちょっと、わかるよ」


 期末試験の後の三者面談。

 夏休み中のオープンキャンパス。

 新学期の進路調査。


 高校生活も半分を過ぎて、私たちの青春と呼ばれる日々は、いったいいつまで続くものなのだろう。

 今のままでいられるのは、いつまでなのだろう。


「海見たかったの、私なんだ」

 ぽつりと、葉月が言った。

「うん。でも私も海、見たかったよ」


「すみません。もうお時間なんですが」

 黙った私たちのもとに、店員さんが申し訳なさそうに告げに来た。

「わー、すみません!」

 私たちはいつもの調子で騒がしく帰り支度を始めて、慌ててレジへと向かった。 終始、低姿勢の店員さんに、私たちも何度も頭を下げながらお会計をする。

 レジが置いてあるカウンターにはとりどりの酒瓶が並んでいて、店内は夜の準備を始めていた。


「あの、レモンのお酒ってあります?」

 たくさんの酒瓶を眺めて、私は店員さんに尋ねていた。店員さんは怪訝な顔をする。

「あ、飲酒しようっていうんじゃなくて。ただ、あるのかなって」

「そうですね、うちだとレモンサワーのご用意がありますね。他にも、リモンチェッロってイタリアのリキュールがありますし、レモンジュースベースのカクテルなんかもお作りできます」

 鮮やかな黄色の液体に満たされた酒瓶が目に入る。それが今説明されたお酒のどれかなのかはわからないけれど、丁寧な説明をしてくれた店員さんにお礼を言った。

「ありがとうございます!」

 財布を鞄にしまって店を出る。

 外はすっかり日が落ちて、明かりを入れたカフェが、夏の夜にぼんやりとした光を放っていた。


「なに、美久ってばお酒飲みたいの?」

「大人になったらね」

 葉月を振り返って、私は笑顔で言った。

「楽しみくらいなくちゃ、やってられないじゃない」

 

 変わってしまうのなら、その先に。

 なにかが、待っているのなら。


「じゃあ、約束。大人になったら一緒に飲もう」

「うん、約束」

 でも、はーちゃん酒豪になりそう。そう言ったら葉月は、多分なるね!と明るく答えた。


 約束の時までは、レモンソーダを飲んでいよう。

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