彼からのおくりもの

 彼はいったい誰だったんだろう。

 名前も知らない。連絡先なんてわかるわけもない。

 せめて残された模様がなんなのか調べようとしたけれど、ネットでは見つけられなかった。


 気持ち悪い、と母は言った。

 拭いたり洗ったりして、なんとか消そうとしていた。

 だけど薄くなる気配すらなくて、すぐに諦めてくれた。

 お医者さんに相談もしてたけど、お医者さんは「本人が希望すれば」って答えてた。

 わたしが希望しないことがわかってるみたいだった。


 ある日、そのお医者さんに誘われた。

 いつもは鍵が閉まっている屋上に出してくれた。


「ありがとうございました」


 お礼を言ったら、不思議そうな顔をした。


「これ、消そうとしないでくれたので」

「ああ……よかったかい? かなり目立つけど」

「はい」


 頷くと、お医者さんは嬉しそうな寂しそうな複雑な顔で微笑んだ。


「“彼”は、優しかったかい?」


 唐突に表れた“彼”という単語に、驚きもしたが、やっぱりとも思った。

 このお医者さんは、彼のことを知っている。

 手の模様についてなにも言わなかったから、そんな気がしてた。


「優しかった、です……」


 口にすると泣きそうで、それだけしか言えなかった。

 お医者さんは、それがわかったのか、それ以上質問はしなかった。

 代わりに、自分のことを話し始めた。


「僕は小さい頃、心臓が悪くてね。入院していたときに彼に会ったんだ。

 こっそり病室を抜け出して、彼と遊んで戻ってくる。それが楽しくて楽しくて、毎日遊んでた。

 走るとすぐに苦しくなるはずなのに、彼といるときは思いっきり走っても平気で、不思議だったけど、楽しかったから気にしなかった」


 静かに紡がれる思い出話。

 まるでその光景が映っているかのように、お医者さんは空を見つめていた。


「あるときね、夢だって気づいたんだ。きっかけは忘れたけど。

 でも彼と遊ぶのが楽しかったから、夢でもいいやって思って、そのまま遊んでた。

 現実では走れないんだから、せめて夢の中でいっぱい走ってやれ、って思ってた。そしたらさ」


 空を見つめていた顔がわたしに向く。

 懐かしいものを見るような笑顔で続きを口にする。


「いつのまにか、現実でも走れるようになってたんだ」

 

 その瞳が、一瞬だけわたしの右手に向けられた。


「手術ができるように体調を整えるために入院していたんだけどね、手術の必要もなくなっちゃったの。

 もう、病院の人も両親もびっくりで。

 それでようやく、僕は彼に訊いた。“君は誰なの?”“なにをしてくれたの?”って」


「……なんて、答えたんですか?」


 震えそうな声を抑えながら訊いた。

 彼が誰なのか、知りたかった。

 一拍の間のあと、お医者さんは静かに言った。


「悪魔、だって」


「悪魔……?」

 意外な答えにそれしか返せなかった。

 彼と遊ぶ夢を見ていた。いつのまにか病気が治っていた。

 その話の流れで、どうして“悪魔”なんて単語が出てくるんだろう。


 疑問が顔に出ていたのか、お医者さんが「僕もよくわからないんだけどね」と前置きをしてから説明を始めた。


「彼が言うには、生命エネルギーを自在にやりとりできる存在を“悪魔”っていうらしい。

 実際に人のエネルギーを吸い取るだけの存在が多いから“悪魔”って呼ばれるようになったみたいなんだけど、彼は、余裕のある人から集めたエネルギーを弱っている人に分けていたんだ。

 だから余裕のある人からしてみたら紛れもなく悪魔なんだよ、って言ってたな」


 懐かしそうに笑う顔。恐怖は微塵も感じられなかった。


「僕は、知らないうちにエネルギーをもらっていたらしい。手術の必要もないくらいに元気になって、ついには、他の子と同じように遊べるようになった」


 ここまで聞けば、もうわかる。きっと、わたしも――


「わたしも、彼にエネルギーをもらっていたんですね……?」


 いつのまにか痩せていた彼。

 待ち合わせの場所で眠るようになった彼。


 わたしは、彼の身体をどれだけ蝕んでいたんだろう。

 彼はどこまで、わたしにくれるつもりだったんだろう。


「医者になってからね、何度もあったんだ。助かる見込みがなかったはずの患者さんが、元気に退院していくことが」


 医師として、人として、喜ばしいはずのことを寂しげに話す。


「彼のおかげだってことはすぐにわかった。心の中でお礼を言っていたら、一度だけ、夢に出てきてくれた」


 もうお医者さんはわたしを見ていない。遠く遠く離れた、空の向こうを見つめていた。


「そのときに言われたんだ。“いつまでやれるかわからない”って。――どうやら現在いまは、エネルギーに余裕のある人が昔より減っているらしい」


 お医者さんはそこで言葉を止めた。

 だけどもうわかる。きっともう、わかってる。

 彼は、自分の身を削ってわたしを助けてくれた。エネルギーの補給が満足にできない状態で、わたしを助けてくれた。そして、最後は――


「言っておくけど、君の場合は助かる見込みは充分にあったんだよ。確かに頭は打っていたけど、たいした異常は見当たらなかったんだ」


 それはきっと真実で、慰めだった。

 彼が手を出さなくても、助かる可能性はあった。だから――彼がいなくなったのは、わたしのせいじゃない。

 そう思えとお医者さんの言葉は、言っていた。彼が勝手にやったことだと。気にしなくていいと。

 だけど。


 右の手に遺された模様。

 きっとこれが、彼に残っていたすべてのエネルギー。

 もう少し長く夢を見ていられたら、わたしが彼の正体に疑問を抱かなければ、きっとエネルギーを少しずつ補給をしながら、わたしを治してくれたんだろう。

 わたしが、気づきさえしなければ。 


 ぎゅっと模様を抱き寄せる。

 涙がぽとぽとと地面に落ちた。


 わたしのせいだ。


 わたしが事故に遭わなければ。わたしが頭を打たなければ。わたしがなにも気づかずに彼とのデートを楽しんでいれば。わたしが、もっと馬鹿だったら――

 悔やんでも戻らない。彼はきっともう、戻れない。


 どうして人を助けていたんだろう。

 どうしてわたしを助けようとしてくれたんだろう。

 どうして――わたしにすべてをくれたんだろう。


 会ったことなんてない。名前も知らない。

 それなのに、どうして――

 

 理由を答えられる人は、もういない。

 右の手の黒い模様だけが、彼が確かにいたことを示していた。


  ~*~*~*~


 以前のように動けるようになったわたしは、水族館に向かった。

 建物も、入り口も、中の水槽も、とても見覚えがある。たぶんここが、彼と一緒に来た水族館。

 でも、イワシはいなかった。

 水族館の人に訊いても、イワシがいたことはないと言われた。


(そっか……)


 残念だったけど、やっぱりな、とも思った。

 ここはわたしが子どもの頃から何度も来ている水族館。夢の中でも大水槽には見覚えがあった。その中で、イワシだけ覚えていなかった。

 あれは彼が見せてくれた幻。とても大きな、きらきらと輝く幻。

 見せたいと思ってくれたのだろう。わたしが、個展の作品を彼に見せたいと思ったみたいに。


(少しは好きでいてくれたのかな……?)


 だとしたら嬉しい。

 治すためだけじゃなく、少しでも想って傍にいてくれたのなら。

 ふわふわっとしたあの幸せを、彼も感じていてくれたなら。


 でももし違っても、だまされたなんて思わない。

 だって、あの優しさは本当だった。

 ううん。本当は、もっともっと優しかった。

 だから、だからね。


「ありがとう――」


 空に向かって手を伸ばす。

 甲にえがかれた翼が、陽の光の中ではばたいていた。


  ~*~*~*~


 走り回る音。甲高い声。あっちで「おしっこ」と言われたかと思えば、こっちでは喧嘩が始まる。

 子どもたちに囲まれる生活は、なかなかに過酷だ。息をつく暇もない。

 でも、はじけるような笑顔を見ていると、やっぱりこの仕事を選んでよかったと思う。


「ねぇ、これなあに?」


 右手のサポーターを指して園児が訊く。わたしはそっと手を押さえながらこう答える。


「この下には大切な人が助けてくれたしるしがあるんだよ」


「みたい」とねだられても決してはずさないで、と園長先生には言われている。気味悪く思う人もいるから、と。

 彼は正体を隠すため。わたしは自分と思い出を守るため。

 同じようにサポーターで隠しながら、日々を過ごしている。

 そんな中。


  “よかった。笑えるようになったんだ”


 どこかから懐かしい声が聞こえてきた。


「せんせー、せんせー」


 エプロンの裾を引っぱられ、我に返る。

 その日転園してきたばかりの子が笑いながら、わたしを見上げていた。


「どうしたの?」

「こっちこっち」


 引かれるままについて行くと、くちばしがついた岩のような物体がカラフルなブロックで作られていた。


「ペンギン……?」

「うん、そう!」


 作品を見せて嬉しそうに笑う。

 その姿に彼の笑顔を思い出す。

 面影はない。どこも似ていない。

 それでもわたしの視線はエプロンを握ったままの右手に向いて、そこに不思議な形のほくろを見つけ出した。


「……ありがとう。せんせいね、ペンギンさんすごく好きなの」


 湿りそうになる声でそう告げた。

 男の子は、もともと知っていたかのような顔で「でしょー」と言った。


 その右手にそっと触れる。

 絶対に触らせてくれなかった、見せてもくれなかった右手。

 だけど小さなほくろがあるだけのその子は、まったく嫌がる素振りを見せなくて。

 きゅっと握りしめたわたしの手を、小さな力で握り返してくれた。



             <了>




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ゆめの果て 沢峰 憬紀 @keiki_s

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