せかいの終わり

 雪が降った日。

 彼は結晶が見えないかと頑張っていた。


 桜が咲いた日。

 わたしたちは手を繋いで、首が痛くなるまで公園の木を見上げながら歩いた。


 タンポポの綿毛を見つけた日。

 何本も手に持って、一息でどれだけ飛ばせるか競争した。


 そんな子どもみたいなこともいっぱいした。

 いつだって楽しかった。

 くだらなくて馬鹿みたいで、はたから見たら絶対にバカップルだねって何度も言った。

 いっそのこと、本当に救いようのないくらい馬鹿だったら、わたしは。


 もっと、彼と一緒にいられたのに。


  ~*~*~*~


 セミの声が減ってきた。

 公園の近くまで来て、そう思った。

 そういえば最近は、赤トンボを見ることも多かったな。

 見上げると、いつのまにか空も高くなっていた。


(もう秋かー)


 なんだか一年があっというまだ。

 ついこのあいだ、赤く染まった葉っぱが散るのを見た気がするのに、もうひとまわりして次の夏が終わるなんて。


 でも過ごしやすい秋が来るのは大歓迎。

 夏は暑くてじめじめして、汗もべったりして、嫌なん、だ…………――あれ?


 ふいに覚えた違和感に足を止めた。

 

(……暑かった、っけ……?)


 あわてて服を触って、体に押しつけた。

 だけど服はさらりとしたまま、手を離すとすぐに体から離れていった。


(なん、で……?)


 まだセミは鳴いている。

 少なくても鳴いている。

 そんなときに、外を歩いてきて汗をかいていないなんて――


 だって夏って、服が貼りついて気持ち悪くなったり、汗で化粧が落ちちゃったり、むわっとした熱気で息苦しくて、思わず濁点をつけながら「あっつー」って言っちゃったりする季節だよね?

 エアコンの効いた建物に入ると「助かったー」みたいな気分で息を吐いたり、逆に出るときは自動ドアが開いた瞬間にぶつかってくる熱気に顔をしかめたり、水分を摂っても摂っても喉が渇いたり、アイスを食べた数分後にはぐでってしたくなる季節だよね?

 それなのに――どの記憶もない。

 何回もデートしたのに。真夏の公園で待ち合わせをしていたのに。

 不快に思った記憶が、ない。

 

 今だって、空は晴れている。太陽も眩しい。

 それなのに暑くない。風が吹いているわけでもないのに。


(――――え?)


 顔を戻して気づいた。

 ――暗い。

 空は晴れている。太陽も眩しい。

 雲もほとんどないくらいの青空が広がっている。

 それなのに、暗い。


(どうして……?)


 いつから暗かったっけ?

 電車を降りたとき? 家を出たとき?


 思い出そうとして、記憶を探ろうとして、息をのんだ。

 探る記憶が――ない。

 電車に乗ったことも、家を出たことも、思い出せない。

 思い出せたのは、この公園に向かって歩いているところまで。

 それも、どこから始まっているのかわからない。


 そもそも――この公園は、どこにあるの?

 何度も何度も、この公園から駅に向かって電車に乗ったはずなのに、駅名が出てこない。彼と電車に乗った記憶もない。

 ウインドウショッピングしたことも、水族館に行ったことも、デパートの個展に行ったことも、ちゃんと覚えているのに――


 怖くなって走り出した。

 必死に公園の入り口に向かっていった。


 右から二つめのベンチにいるはずの彼に、とにかく会いたかった。


  * * *


「大丈夫? どうしたの?」

 

 息を切らせて現れたわたしに、彼氏が駆け寄ってきた。

 その顔を見て、また疑問が湧いた。


 いつからこの人は、こんなにも痩せたのだろう――

 どうして、気づかなかったのだろう――


「ねぇ……」


 話しかけようとして、愕然とした。


(……名前……なんだっ、け……?)


 彼氏だ。もう一年はつき合っている彼氏だ。

 それなのに、名前が出てこない。


「どうかした?」


 心配そうな彼氏。優しい彼氏。わたしの言葉にいつも「いいね」って言ってくれる彼氏。

 大好きで、とても大切な存在なのに、思い出せない。

 この人は、誰だっけ?

 どこで会ったんだっけ?

 いつからわたしの彼氏だったんだっけ?


 水族館は何度も行った。ウインドウショッピングだって何度もした。お気に入りのカフェだってある。

 何度も何度もデートを重ねた記憶はあるのに、“はじめて”を思い出せない。


「ねぇ……初デートって、どこ行ったっけ?」


 訊きたいことが色々ある中で、わたしが選んだのは一番安全そうな質問。

 それでも、終わってしまいそうでどきどきした。


 瞬きすら忘れて彼の顔をじっと見て、「いきなりだね」と驚く彼の答えを、心臓をばくばくさせながら待っていた。


「えーっと……デートじゃないかもしれないけど、合コンのあとにファミレスで朝までしゃべったのが最初かな」


 その答えに、ほっとした。正確には、その答えを聞いて思い出せたことに、ほっとした。

 そうだ。そのときわたしは失恋したばかりで、やけになってお酒を飲んでいた。

 そしたら「飲み過ぎだよ」って止めてくれたのが嬉しくて、二次会の前に二人で抜け出して、ファミレスで愚痴を聞いてもらった。


 よかった。覚えてる。

 そうだよね。出会ったときのことを覚えていないなんて、あるわけないよね。

 ほっとして、「ごめんね」って謝った。ごめんね、変なこと訊いて。


「今日はどこに行く?」

「えっとね……」


 いつもの問いに考えながら腕を絡めた。

 お詫びのつもりでそうした瞬間――よみがえった映像に、はっとした。

 絡めた腕をほどいて彼を見つめた。


 ――違う。この人じゃない。


 失恋してすぐの合コンで知り合った人に愚痴ったことはある。そのあとその人とつき合いもした。それは覚えてる。

 だけど、違う。それはこの人じゃない。


「どうしたの?」


 彼の声が優しく響く。

 あたたかくて柔らかい、大好きな声。

 怖いわけじゃない。

 でも、口の中がからからに乾いていた。

 首を傾げた彼の顔を見つめたまま、動けなかった。

 見つめているのに、彼がどんな表情をしているのか、わからなくなった。


「……ねえ……なまえ、なんだっけ…………?」


 それを訊いたらきっと終わる。そう思った。

 だけど、訊かずにいられなかった。


 掠れ震えた声で紡いだ問いに返ってきたのは、とても寂しそうな笑顔だった。


「……もう少し、一緒にいたかったんだけどな」


 彼が呟いた次の瞬間、強い風が辺りを包んだ。

 いつのまにか周囲は真っ暗になっていて、彼だけが浮かぶように立っていた。


 わたしは、ふいに思い出した。

 デパートでやっていた個展に、何度も何度も行ったことを。

 開催期間が長いわけでもない。チケットを貰ったのももちろん一回だけで、買ってはいない。

 それなのに、何度も行った。“はじめて”を何度も繰り返した。


「……じゃあ、元気で」


 彼の姿が歪む。

 闇に飲み込まれていく。


 待って!


 崩れていく世界の中、その言葉が言えたかどうかもわからない。

 ただ、世界が閉じてしまう最後の瞬間まで寂しそうに笑う彼の姿は見えた。

 風にあおられていた文庫本の中身は真っ白で、なにも書かれてはいなかった。


  ~*~*~*~


 暗闇から一転、わたしは白い部屋の中にいた。

 見覚えのない天井。かすかな薬品の匂い。


(病院……?)


 頭だけ左右に動かして、辺りを見渡す。

 やっぱり病院だ。しかも個室。

 起き上がろうとしたけど、なぜだか動けなかった。

 そしてなぜだか、頑張る気も起きなかった。


 かちゃりと音がしたのはそんなとき。

 なにを考えればいいのかもわからなくて、ぼうっと天井を眺めてたとき。

 なんとなく音のしたほうに顔を向けると、とても驚いた顔をした母がいた。


(おかあさん……?)


 口は動いたが声は出なかった。

 母が叫んだわたしの名前が室内に響き渡る。

 駆け寄ってきた母がわたしの手をきゅっと握る。

「わかる? おかあさんよ?」

 頷いたときには、母のほっぺが濡れていた。

「よかった……よかった……!」


 なんだかものすごく心配させていたみたいだ。

 十何年かぶりに抱きしめられて、それはわかったけど、なにがあったのかはさっぱり思い出せない。

「あぁいけない。先生を呼ばなきゃね。喉は渇いてない? なにか飲む?」

 風邪のときによく訊かれる質問に「いい」と返したけど、やっぱり声がまともに出ない。なんでだろ。

「そう? でもやっぱり飲んでおきなさい。あんた、一ヶ月も寝てたんだから」

 一ヶ月……?

 そんな、ばかな。

 だってわたしは――


 さっきまで彼と一緒にいたのに(彼とあんなに会っていたのに)。


 …………え?

 一ヶ月“も”という想いと、一ヶ月“しか”という想いがぶつかった。

 そして同時に、彼のことをはっきりと思い出した。


「おかあ、さん……」


 掠れる声を懸命に出す。

 ナースコールを手にしたままの母が「ん?」とわたしの顔を見た。


「いま、なんがつ、なんにち……?」

「九月二十八日よ」


 九月……下旬……。

 あのあとわたしは倒れでもしたんだろうか? そうだとしても計算は合う。

 夏の終わりに公園で倒れて、一ヶ月、目を覚まさなかった――


 祈るような気持ちで母に訊いた。

 わたしって、どうしたんだっけ?

 母は、泣きそうな顔をしてわたしをぎゅっと抱きしめた。


「車に、はねられたのよ」


 聞こえた瞬間、呼吸が止まった。願いが届かなかったことを悟り、静かに強く目を閉じた。知らないうちにシーツを力いっぱい握っていた。


 横断歩道を渡っているときにね、車が曲がってきたの。前をよく見てなかったみたいでね、すぐにブレーキを踏んだけど止まれなかったって。

 スピードは出ていなかったから車がぶつかったところはたいしたことなかったんだけど、倒れたときに頭を地面に打ちつけちゃって、ずっと……寝てたのよ。


(ああ、それで……)


 母の説明で納得した。

 わたしはずっと、病院の空調が完備された快適な場所で寝ていたんだ。

 だから、夏も暑くなかったし、冬も寒くなかった。セミが鳴いたり、葉が落ちたり、雪が降ったりしたけど、気温は変わらなかったんだ。

 ずっと――夢を見ていたんだ。

 夢、だったんだ。


 優しい時間。

 幸せな時間。 

 なにがあるわけでもない、

 刺激や変化からはほど遠い、

 ふわふわっとした幸せなあの時間は、全部、夢だったんだ。


“じゃあ、元気で”

 

 最後に彼が口にした言葉がよみがえる。

 指が痛くなるくらいシーツを握りしめても、足りなかった。

 歯を噛みしめて、虚空を睨みつけて、全身で涙をこらえた。

 けれど――虚空を睨んでいたはずの瞳が、右手に刻まれた模様に気づいてしまった。


 黒い羽のような模様と、そこから湯気のように上に伸びる四行の、見たことのない文字。

 見覚えなんてない。だけど、わかった。


「うそつき……」


 火傷の痕だって言ったのに。気持ち悪いって言ってたのに。

 全然、違うじゃない。なんで、嘘ついてたの?

 本当のことを言ってくれていたら、右手だって繋げたのに――


 涙が頬を伝っていく。もう、こらえることなんてできなかった。


 この模様がなんなのかは知らない。どうしてわたしの手にあるのかも知らない。

 だけど、きっともう彼には会えない。それだけはわかった。


“じゃあ、元気で”


 そんなところだけ律儀に台詞を変えられて、“また”はないって知らされた。

「じゃあ、またね」っていつもみたいに言ってくれたら、まだ希望が抱けたのに――


 泣き出したわたしを母が抱きしめた。

 扉が開く音がした。

 お医者さんと看護師さんが入ってきたのがわかっても、涙は少しも止まろうとしなかった。



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