ゆめの果て
沢峰 憬紀
しあわせな時間たち
待ち合わせは、いつもの場所。
駅の近くの公園の、右から二つめのベンチ。
赤く色づいた
「待った?」
「ううん、全然」
いつものやりとりをしながら、文庫本を鞄にしまう。
「今日はどこに行く?」
この場所から行き先を決めるのが、わたしたちのスタイル。
カラオケだったり、ボーリングだったり、水族館だったり、遊園地だったり。
今日は、あてのないウインドウショッピング。
可愛いものや面白いものを見つけて教えあって、疲れたらカフェに入る。ただそれだけ。
それだけの、幸せな時間。
隣に彼がいるという、かけがえのない時間。いつも、あっというまに過ぎてしまう。
別れ際に彼が言う。
「じゃあ、またね」
帰ってから、わたしがメールを送る。
“今日も楽しかったよ”
これがわたしたちのデートのかたち。
なにがあるわけでもない。
刺激や変化からはほど遠い。
それでもわたしは、このふわふわっとした幸せな時間が、ずっと続くことを願ってた。
~*~*~*~
彼は今日も先にいる。
散りかけた紅葉の下で、文庫本を開いてる。
「また負けた」
と言ったら、
「なんの話?」
と返ってきた。
「いっつも先に来てるじゃん」
「あぁ。待たせちゃ悪いと思ってさ」
「公園に住んでるんじゃないの?」
「まさか」
彼が笑いながら本をしまう。
「今日はどこに行く?」
「久しぶりに水族館に行きたい!」
「いいね」
いつものように手を繋いで歩き出す。
わたしが握るのは、いつも左手。
右手はむかし火傷をしたとかで、痕が残ってるから、って甲までサポーターで隠してる。
気持ち悪いから、と絶対に見せてくれないのがちょっと不満。なんだか壁を作られてるみたい。
でも、左手をきゅっと握ると握り返してくれる、この瞬間はとても好き。
「なにが見たい?」
「ペンギン!」
彼にも訊き返そうとしたんだけど、すぐに「いいね」って返ってきて訊けなかった。
でも、彼はちゃんと教えてくれる。
「僕は……イワシかな」
「イワシ?」
そんな小さくて特徴もない魚?
首を傾げると、「凄いんだよ」って言われた。
「何千、何万っていう群れで泳ぐんだけど、その群れがひとつの生きものみたいでね。しかも、鱗がきらきら光って、すごくきれいなんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
ちょっと見たくなってきた。
きらきらと光る魚の群れ。
(でも……)
ちょっとだけ引っかかった。
(そんなの、いたっけ?)
水族館は何度も行ってるのに、覚えがない。
見もしないで“つまらない”と思い込んじゃったんだろうか。イワシだし。スーパーでも売ってる魚だし。
うん、きっとそうだよ。
自己完結して彼の手を握ると、すぐにまた、きゅっと握り返してくれた。
* * *
水族館に入ってすぐの大きな水槽。
その中に、イワシはいた。
群れをなして、まるで巨大な生きもののように水の中を移動する。
銀色の体にあたった光が、
きれいだ。とても、きれいだ。
「すごいね」
「でしょう?」
自慢げに彼が笑う。
「今まで気づかなかった」
言ってから、ふと疑問を抱いた。
どうして、気づかなかったのだろう。
あんなにも大きな群れなのに。
こんなにも、きれいなのに。
「あぁ、最近入れたみたいだからね」
彼の言葉に顔を上げる。
「最近?」
「うん。前はいなかったよ」
なんだ、そうか。それなら知らなくても当たり前……。
「あれ? 最近、来たの?」
わたしの言葉に、彼は「あ」という顔をした。
「……うん。デートの行き先を考えるために……」
なんだ、そうか。だから知ってたんだ。そっかそっか。
前来たときから随分経っている。展示内容が変わってもおかしくない。
わたしにイワシの記憶がなかったのは、記憶力が低下したわけでも、スーパーで売っている魚だからとスルーしたわけでもなかったんだ。そっかそっか。
納得して、繋いだ手をきゅっと握った。
「ありがとう、教えてくれて」
お礼を言うと、彼が照れくさそうに笑った。
ペンギンは相変わらず。
数種類のペンギンが入り交じっていて、それぞれが思い思いに行動する。
陸地でじっと
てとてとと歩いていって、おもむろに水に飛び込むもの。
水の中をすごい速さで進むもの。
わたしは、水中から勢いよく飛び出して陸に着地する瞬間が一番好き。
上手に着地すると、思わず声を出したくなっちゃう。
「おぉ~」
あ、出しちゃった。
あわてて口を押さえたけど、遅かった。彼がくすくすと笑い始めた。
「笑わなくても」
「ごめんごめん。かわいいから、つい」
かわいいという単語に一瞬止まる。
――そんなことを言われたら、怒れないじゃん。
「もうっ」
怒ったふりをして、繋いでいた手を腕に絡めた。
(……あれ?)
同じこと、前もしたっけ?
ふいに湧き出た既視感に首を傾げていると、
「どうかした?」
と彼に訊かれた。
「ううん。なんでもない」
ペンギンはずっと前から好きだ。
だからきっと、前にも同じことをしたんだろう。
うん、きっとそうだ。つまり、成長してないんだな。
もう同じ過ちは犯さないぞ。
唇にぎゅっと力を入れたら、彼がまた笑い始めた。
~*~*~*~
いつもの公園。右から二つ目のベンチ。葉っぱが少なくなった
やっぱり今日も、彼が先にいた。
「どこに行く?」
いつもならここで考える。
でも、今日のわたしは違うんだよ。
「ここ行こ!」
鞄からチケットを取り出すと、彼は「いいね」と笑ってくれた。
映画じゃない。美術館でもない。
百貨店でやっている個展のチケット。
でも、ずっと好きな画家さんだったから、「いいね」って言ってもらえて嬉しかった。
半券も大切にとっておこう。
平日だからか、中はがらがら。
悔しいけど、ゆっくり見られるのは嬉しいな。
見覚えのある絵が多いのは当たり前だよね。ずっと好きだったんだから。
でもやっぱり、画集とは全然違う。放たれるオーラが桁違い。
「――すごいね」
「でしょう?」
思わず鼻を高くした。わたしが描いたわけじゃないけれど。
「あっちはもっとすごいんだよ」
早く見せたくて手を引いた。
「順番に見なくていいのかな?」
「
連れてきたのは、大きなキャンバスと小さなキャンバスが交互に並んだ広い空間。
ひとつひとつのキャンバスが草や木や花になって、大きな森をつくっている。そんな空間。
それぞれの絵を見ても、すべてに身を浸しても楽しめる、そんな空間。
「面白いね」
「でしょう?」
興味深そうに絵を眺める彼の横顔に、心の中でガッツポーズした。
絶対楽しんでくれると思ったんだよね。
「ずっと見せたいと思ってたんだ」
「そうなの? ありがとう」
彼の笑顔が嬉しくて、左手をきゅっと握った。
彼はもう一度優しく笑って、きゅっと握り返してくれた。
「じゃあ、戻ろっか」
「そうだね」
幸せな時間。
幸せな空間。
わたしは、気づかなかった。
はじめて行った個展なら、どこになにがあるかなんてわかるわけがないということに――
~*~*~*~
今日はゲームセンターに行こう。
わたしの言葉に彼はやっぱり「いいね」と笑ってくれた。
「いっつもわたしが行きたいところに行ってるけど、いいの?」
手を繋いで歩きながら訊くと、「いいよ」と返ってきた。
「一緒にいるのが大事だから。場所はどこでも」
そんなことを言われて嬉しくならないわけがない。
手をきゅうぅと握ると、さすがに「痛っ」と彼が言った。
「え? なに? 怒った?」
違うよ。嬉しすぎたんだよ。
でも恥ずかしかったから、そっぽを向いた。
「え? あれ? 本気で怒ってる? ごめん」
慌てる声にちょっと申し訳なくなる。
でも、ごめん。まだ顔が赤いままなんだ。
「ちゃんといつも楽しんでるよ。我慢とかしてないから、大丈夫だから」
早口の内容に、顔がにやけるのを抑えきれない。
違うから。そのフォロー、逆効果だから。
そっち向きたいのに、また向けなくなったじゃない。
「あの……」
続けられそうな言葉を、左手をきゅっと握って黙らせた。
「怒ってないから、ちょっと待って!」
なんとかそれだけ言うと、手をきゅっと握り返された。
顔の熱がひいて、ようやく――と思ったのに、顔を見た瞬間、また熱くなった。
ああ、もう。これじゃ話ができないじゃない。
そんなことをやっている間にゲームセンターを過ぎちゃって、二人で笑いながら戻ってきた。
~*~*~*~
いつもの公園、いつものベンチ。
だけど彼は、いつものように文庫本を読んではいなかった。
本に指をはさんだ状態でうたた寝をしていて、わたしが近づいても起きなかった。
(疲れてるのかな……?)
そっと隣に座って、横顔を見つめる。
こんなところで、不用心な。
だけど、なんだか彼っぽい。
起きてると緊張して直視できない彼の顔も、今ならじっと見ていられる。
曇っているのか、なんだか薄暗いのが残念だ。明るかったら、もっとはっきり見えるのに。
(そういえば……)
ふと、右手のサポーターが気になった。
正確には、サポーターに隠された部分。
見せて、と言っても、「気持ち悪いだけだよ」と絶対に見せてくれない右の手の甲。
(いまなら見られるかな……?)
ちょっとだけ、ちょっとめくるだけ……と触れた瞬間、彼がびくりと反応した。
「……あ、ごめん。来てたんだ」
「あ、うん」
後ろめたさもあって、いま来たとこだよ、と嘘をついた。
「疲れてるの?」
「ううん。ちょっと寝るのが遅くなっただけだよ」
彼はそう言って、いつものように「どこに行く?」と訊いてきた。
そのあとはいつも通りだったから、気にしなかった。
いつものように別れて、いつものようにメールした。
今度はまた、いつものように文庫本を読んで待っているんだろうと思ってた。
でもその次のデートのときも、その次も、彼は待ち合わせの場所でうたた寝をしていた。
彼が起きていることが稀になって、文庫本にはさまれた指の位置も変わることなく、季節だけが過ぎていった。
だけどまさかそれが、この世界の終わりに繋がっているなんて、考えもしなかった。
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