第34話

 あたふたとグラスを拾う江見を見るともうこれまでのわだかまりを有耶無耶にしてしまって明日からいつも通りの平和なやり取りをしてもいいのではないかと事勿れ主義が顔を出す。拗れた関係を直視する事に怖気付いているのだ。


「卿はそれでいいのか」


 心中でラインハルトがそう問う。


 良い事あるか! 言われるまでもない!


 薄弱なる自我を排斥! ここにきて情けない真似ができるか! 俺はただいまから恥と不信を受け入れけじめるのだ! 断固として決意は揺るがぬ!


「江見」


「あ、すみません。今、グラス片付けているので……」


「そのままでいい聞いてくれ」


「……」


「俺は、ずっとお前を侮り、時に蔑ろにし、時に嫌な作業を押し付けてきた。それを謝りたい」


「謝る事なんてないです! 上尾さんがいなかったら、学祭に向けて何もできなかったんですから! それを忘れて勘違いして、身勝手な振る舞いをした僕の方こそ謝らないと駄目です。本当に、すみませんでした」


 いかん。逆に謝罪されてしまった。なにかとと面倒な奴だな。これでは何を言ってもこいつに頭を下げさせる事になるではないか。


 かくなる上は過程を吹っ飛ばすしかあるまいな。


「江見。俺を殴れ。そうでなければ、俺は貴様と今後を共にする資格がなくなる」


 単刀直入な無茶に取ってつけたような理由を添えた完璧な支離滅裂。もはや勢いで押すしかないだろう。さぁ。あれこれと知恵を働かせるなよ。一言「分かりました」と言って俺に拳を突き立てろ。そうして初めて禊は完遂されるのだ。頼むぞ。


「え、いや、無理です。訳わからないし……」


 まぁそうなる。

 おのれ江見め。こういうところは常識的だ。


「……俺はな。お前と真正面から向き合いたいんだ。そのためにも、殴られなくてはならないし、お前は殴らなくてはならないんだ」


「そんな、走れメロスじゃないんですから……」


「メロス。結構じゃないか。俺が納得するからいいんだ。さぁ殴れ」


「無理ですよ。無理無理」


 あくまで拒む姿勢を見せる江見め。少し頰を緩めているのが腹立たしい。まったく舐めている。


 だがまぁ、これはこれでいいか。


 諦観か、あるいは喜びか。予断を許さぬ不退転の心持ちであったが、俺は問答の中で江見に殴られる事をすっかり断念してしまった。しかし何処か心地いいこの気持ちは安堵を生み、そうこだわる事ないかという妥協を受け入れられたのだった。そう思うと、あながち今回のような経験は無駄ではなかったような気もしなくもない。


「江見」


「はい」


「これからも、よろしく頼む」


「……はい!」


 握手! 人間の手は拳を握るためにあるのではない! 互いと互いが結びつき合うために……


「痛」


「あ、すみません!」


 思わず引っ込めた手にはガラスの破片が刺さっていた。わざとか?


「あ、すみません! すみません!」


 どうやら素でやらかしたらしい。まぁ、らしいといえばらしい。こんな事もご愛嬌か。


「お取り込みのところ失礼しますが、お仕事お忘れなきよう」


 やってきたのはそよぎ。相変わらず空気を読まない女だ。


「それから、レーズンとチーズ代は上尾さんのお給料から差し引かせていただきますから悪しからず」


「……分かった。仕事を続ける」


「お早目に」


 なるほど。先生に出したあれは梵の私物だったか。通りであんな顔をするわけだ。


「あの、上尾さん」


「? なんた」


「あの、改めて、よろしくお願いします」


「……あぁ!」


 差し出された手を硬く握る。そこにある友情が、俺は嬉しかった。

 


 程なくして俺と江見はアエギュプトスを去る。面倒はあったが、この温もりと力強さだけは、生涯の宝となるだろう。俺は初めて友といえる人間を得たのだ。これが嬉しくないはずがない。


「上尾さん! 早くしてください!」


「了解した!」


 締まらぬ働きぶりだったのは、否めないがな……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラインハルトに憧れて(一部終了 休止) 白川津 中々 @taka1212384

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ