いたずら風
宮森 篠
いたずら風
あれはいつ約束したことだっただろう。
コンクリートを焼いて溶かしてしまうんじゃないかって程に暑い日だったか。
それとも、灰色のそれが白く覆われてしまう程に寒い日だったか。
あるいは、歩く道がピンク色に染まった日か。茶色く染まった日か。
いつか交わした約束。私と彼女と、ふたりだけの約束。
「わっ」
グラリと目の前が揺れ、周りにいる人も少しざわついた。携帯を取り出しSNSを見ると震度3の地震速報が流れてきた。
ビル6階にいたから実際の震度よりも大きく、それでいて鈍く感じたけど大きな地震でないことにホッとする。
エレベーターを使って帰ろうかと思ったけど、地震の後は少し怖い。3階まではエスカレーターをつかい、あとは階段を使おう。
「っと、買ったもの落とさないようにバッグにしまっちゃおう」
小さな紙袋にいれられたレジン用の型をバッグの中へ入れ、急いで帰路に着く。早くしないと明日の発送に間に合わない。
アルバイトをしながらハンドメイド作品をネット上で販売すること3年。少しずつ、認識され、売れるようになってきた。今が大切な時だ。
エスカレーターの前に行くと大勢の人で溢れており──みんな考えることは同じだったようで──、仕方なく階段を使うことにした。
結論から言えば、運動不足の体で6階を降りるのはちょっと、バカだった。
やっとの思いで店外へ出る頃には肩は大きく上下し、酸素をこれでもかと吸い込まなくては倒れそうだった。
外に出ることなんてこういう買い物ぐらいしかなくて、遠出もしない。歩くこともしなければ運動だってしない。
あまりにも立派な運動不足を実感すると、買い物は少し遠くでしようか、なんて考えてしまう。
借りているアパートも駅近で、本当に歩く事がない。ああ、時間と心の余裕があれば自転車でも買おう。
ひぐらしの声が心地よい。唯一聞いていて涼しい気持ちになるセミだ。
アパートまで徒歩10分。バッグを掛け直し、ひぐらしの声に背を押されるように歩き出す。
疲労からか15分かけてアパートに着き、いつものようにドアを開けるとどこか埃っぽい。おかしいな、掃除は昨日したばかりなのに。
サンダルを脱いで部屋に上がると物の見事に本棚が倒れていた。
「えぇ!? な、なんで……」
1Kの部屋に置いてある3つの本棚のうち、真ん中だけが綺麗に倒れてしまっていた。
さっきの地震のせいか、と思ったけどそれならば1つだけ倒れているのはおかしい。なにより、あの程度の揺れでは倒れないはず。
なにはともあれ、このままにしておくわけにはいかない。窓をあけ、ため息を吐き出してまずは本棚を起し、元の場所へ落ち着かせる。
それにしても、こんなに埃が溜まっていたとは。定期的に本棚も掃除してはいたけど、詰めが甘かったようだ。
なんでこれだけ倒れたのか腑に落ちないまま、ついでに要らないタオルを持ってきて棚を拭く。マスクをしてから掃除を始めればよかった。
こんなことしてる場合じゃないんだけどな。
落ちて散らばった本やアルバムを一つ一つ戻していく。
……この本棚は、彼女と一緒に選んだ本や一緒に撮った写真のアルバムだらけだ。それはもう増えることのない思い出。
「もう、5年かぁ」
最後に撮った写真は紫陽花が水面に浮かんでいる幻想的なものだった。
青と桃色と薄紫の綺麗な紫陽花が水面に咲いているようで、2人で目を輝かせて撮ったことを思い出す。懐かしいな。あの頃はまだ大学生で、次の春には社会人になって……どんな大人になるんだろうって。
次はどこでどんな写真を撮ろうか、って明日が続く事をなに一つ疑わないでいた。
彼女は幼馴染で親友だった。男勝りな性格で負けず嫌い。そのくせ感動ものに弱い、お人好しな自慢の親友。
自分の気持ちがはっきり言えない私と正反対だったけど、その凸凹がうまく嵌ったのか、喧嘩は一度もしなかった。
どこいくのも、なにをやるのも一緒で、まるで双子ねなんて親から言われたりもした。
……だから余命宣告をされたと言われた時は冗談だと思った。
「私、あと半年もたないんだって。わらっちゃうよね、大学の卒業もできないんてさ」
そういって笑った顔が今でも忘れられない。倒れたことは知っていたけど、貧血だって聞いていたから疑いもしなかった。
血液の病気で末期。手の施しようがないと陰りある笑みで口にした。
「だから、ごめん。あの約束、たぶん無理」
身体中の力が一気に抜けて、全身の血の気が引いた。気づいたら私は親友を抱きしめて飽きるほど泣いた。親友も同じようにずっと泣いていた。
どうして親友なんだろう、なんでこのタイミングなんだろう、なんて、不条理なんだろう。
どうしようもない感情が頭の中を埋め尽くしていて、きっとそれは親友も同じだっただろう。
「この先私が死んだって、ずっとアンタの傍にいるから」
泣きながらそう言う親友の下手くそな笑顔は、どんな風景より、花より、綺麗で──脆かった。
それから親友は4ヶ月後、静かに息を引き取った。冬の訪れも聞かずに。
ずっと一緒だった。就職先が違くても近くにいるし、何才になっても同じように旅行に行ったり、写真を撮ったりできると思って疑わなかったのに。
「……いまごろ、なにをしているんだろうな」
セピア色に染まった思い出から現実へと戻る。
──いつか写真集を出そう。自費でもいいからさ、2人で歩いた街並みをいっぱい撮って、いろんな人に見てもらおう。
親友の将来の夢は写真家だった。初めてその夢を聞いたのはいつだっただろう。
その夢を聞く間に、私の夢にもなった。
交わした約束は守ることができなかったけど。
開けた窓から入ってくる空気が涼しい。アルバムを床に置き、窓へ近寄ると夕日が眩しく輝いていた。
どんなに大切な人がいなくなっても時間は止まらないし、世界の目はなにも変わらない。ただの事象が過ぎ去っただけだ。だからこそ、悲しい。なんでもなく進んでいくことが一番悲しい。
結局私は新卒で入った会社を1年で辞め、それからバイトをしつつ3年前にハンドメイドを始めた。
カメラを持つ気にはなれなかった。それでも手入れだけはきちんとしてきたのは、親友が大切にしていたものだったからだ。
本日2度目のため息をつきながら、眺めていた夕日がぐにゃりと歪んだと思った瞬間、突風のような風が室内をかき乱していった。
「きゃ……!」
思わず目を閉じてしゃがみこむ。ああ、いったい今日はなんなんだろう。
そろりと目を開けると本棚へしまっていなかった本やアルバムが風によって散乱し、ガックリと肩を落とす。
なんてことだろう、アルバムから写真がこれでもかと……散乱、して。
「あ、れ」
散らばった写真を一枚一枚手に取る。そこには全部、親友が写っていた。
まるであの風はそれを狙ったかのように。
風景を撮るのが好きで、自分を撮られるのは好きではなかった親友。いなくなってからもっと撮っておけばよかったと後悔した。
そんな数百枚ある写真のなかでごく僅かな枚数しかない親友の写真だけが綺麗に外に飛び出ている。
これじゃあまるで、親友がいまも私を見てくれているみたいじゃないか。
死んだら一緒にはいられない。だから人は泣くんだと、心霊の類を一切信用していなかったから、親友のあの言葉も、その場限りの慰め程度にしか思っていなかった。
この写真は一緒に富士山に登った時、これは沖縄に行った時、こっちは私が好きな人にフラれてやけ酒に付き合ってもらっていたとき……初詣、大学合格の時、写真コンクールで入選した時。
5年間、振り返ることのなかった思い出たちが文句を言うように散らばっている。
見ている写真が、視界が滲んで行く。思い出を振り返ることは辛いだけだとずっと見ないふりをしてきた。
……もしここに親友がいたらなんていうだろう。
「写真は見られるために撮ってるのに、失礼だと思わないの?」
いつか親友が口にした言葉をハっと思い出す。
いろんな人に見てほしい。それが彼女の願いで夢だった。だから見ないふりをするなんて失礼なんだと。
思い出も……そうなのかもしれない。この先重ねていくことはできなくても、彼女を思って振り返ることはできる。それすらしないなんて、まるで彼女が最初から存在しなかったようになってしまう。
生ぬるいフローリングに涙がポタポタ落ちていく。ごめん、ごめんね、ずっとしまっていて。見ないでいて、ごめん。
写真に謝っているのか、それとも親友に謝っているのか……その両方だろうか。ひぐらしの声が軽やかに夕暮れさえも終わると鳴き知らせる。
「……本当に怒っていたのかも」
だってじゃないと説明がつかないから。
この本棚だけが倒れた理由も、突然入り込んだ突風で特定の写真だけが散らばったのも。
写真を愛していた親友がいつまでそうやっているんだと怒ったのかもしれない。もう、お盆は終わったというのに。
「でも、これをいうためだけに抜け出してくるのは、らしいね」
そう、それくらいお人好しなんだ、彼女は。
この涙はきっと埃のせいだと言い聞かせ、立ち上がる。私の手元には親友が撮った何百枚もの写真があるじゃないか。
親友はいない、けど、約束は果たせるんだ。
綺麗なカメラの元へ行き、ケースごと抱きしめる。彼女が愛した世界を、みんなに見てもらおう。私にはそれができるんだ。
「ごめんね、放っておいて。……いろんな景色を見たいよね」
まずは本棚をきちんと片付けて、いま溜まっているハンドメイドの仕事を片付けよう。
その次に今まで撮った写真を整理して、厳選しなきゃいけない。
それから、そう、──私と彼女の、夢の続きを始めよう。
1週間後、ハンドメイドの商品欄に鮮やかで生命力溢れる写真集が並んだのはまた別のお話。
いたずら風 宮森 篠 @miyamori_shino
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