終章

終章

「今日はいよいよだね。」

武史君にそういわれて、咲は、壁にかかっているカレンダーを眺めた。確かにその日は、赤まるで囲ってあった。

「そうね。」

そう、今日は裁判の最終日。あの、梅津由香子の、判決が下される日なのだ。武史くんはその日は必ず判決を聞きに行きたいと意気込んでいた。

「僕が言ったことは、ちゃんと裁判長さんの耳に入ったかな?」

武史君がくりくりの目で、咲にそう聞いた。まあ、あんな小さな子どもの発言何て、どうせ大人が仕組んだものだろうと、解釈するのが大人なのだが、そういうことは、出来るだけ武史君には聞かせないで貰いたかった。そのトリックを知ってしまったら、武史くんはさぞかしがっかりするだろう。でも、それが大人になるという事なんだろうけど。

「武史君、行きますよ。出かける準備できましたか。」

着物の襟を整えながら、ジョチさんが玄関先にやってきた。本当は父のジャックさんも一緒に行く予定であったが、ジャックさんは、絵のモデルさんの都合があり、どうしても絵を描く仕事に行かなければならなかったのだった。

「あ、お願いします。今日は、ものすごく大事な日だね。がんばっていこう。」

今回も自信満々で行く気になっている武史君。がんばっていこう何て、何をがんばればいいのか、と、咲は思ったが、それはあえていわないで置いた。武史君は、急いで洗面所に行き、小さな頭に

生えている髪を、一生懸命とかしている。

「偉いですね。しっかり裁判が終了するまで見届けたい何ていうとは。単に言いたいことをいって其れでおしまいになってしまうのが子ども何ですけどね。例えば、ものすごい発言をしたあと、ぱたりと寝てしまうとか。」

「そうですね。ジョチさんのいう通りです。あたしたちの方が、びっくりしてしまいましたよ。武史君が、あんな発言するなんて。あたしたちには、いいたくてもいえないことを、武史君が全部言ってしまうのね。」

咲もジョチさんも、苦笑いを浮かべてそういいあった。

「それでは、早くしないと時間に遅れてしまいますから、行きましょうか。」

「わかりました。武史君が、法廷で問題を起こさないといいけれど。」

咲は、化粧を整えて、一つため息をついた。

玄関さきには、もう小園さんの運転するクラウンが待っている。

「じゃあ行きましょう。僕たちに出来る事は、武史君を信頼してやることではないですか?」

三人はクラウンに乗り込む。小園さんが、子供向けの音楽として、おもちゃの交響曲をかけてくれたのだが、武史君は、僕は、そういう曲はすきじゃないよ、なんて言って、笑っていた。そういう所はどうも子どもらしくなくて、可愛くなかった。


そうこうしているうちに、小園さんの運転するクラウンは、裁判所の正面玄関に到着した。また傍聴券を購入することになるのだが、売り場に行ってみると、傍聴人は増えていなかった。何人かの新聞記者らしき人と、雑誌の記者らしき人がいただけだ。医療関係者は影浦だけで、正人君たちが通っていた学校の先生もその他もろもろ、正人君が関わってきた人たちは、誰も来ていなかった。本当に、世間の人たちは、事件に対して無関心だなと思う。後は、いつも通り、法廷には、検察官と、弁護士の小久保さん、そして、面倒くさそうな顔をしている裁判長。あと、速記者や、裁判員たちがいる程度である。

「みんな、早く正人君のことをもみ消してしまいたいと思っているのかな。それとも忘れてしまいたいと思っているのかな?」

武史君が、そんなことをぼそりと呟いた。

本来なら、そんなこと言ってはいけないとか、注意するべきなのだと思われるが、咲は、本当にそうだと思ったので、注意をしなかった。というより注意できなかった。おばさんも武史君と同じ気持ちよ、武史君、本当に正人君は可哀そうね、と声をかけようと思ったとその時。

「ねえ、咲おばさん、あの女の人、」

武史君が、近くに座っていた女性を指さした。確かに、影浦と一緒に座っている。どこか、正人君に雰囲気が似た女性だった。本来指さすのは失礼に当たるのだが、咲はなぜかそれを止めることはせず、同じ方向を向いてしまう。

「あの人、、、。」

化粧気がないので、以前見た女性と雰囲気は違っていたが、

「たしか、正人君のおばあちゃん。」

と、武史君はいった。確かに顔つきが由香子さんにもちょっと似ていた。でも、ちょっと違うなという雰囲気がある。正人くんのおばあちゃんは、武史君の話が正しければ、お母さんと対して変わらない、綺麗な人である筈だ。でも、今ここにいる正人君のおばあちゃんは、確かに黒い着物を身に着けているが、化粧もせず、グレイヘアの髪を、背中に背負ったお太鼓がみえなくなるまで伸ばしていた。

「しかし何で影浦先生と一緒にいるんでしょうね。」

隣にいたジョチが、そんなことを呟いた。影浦先生は、精神科の医者だ。その医者が付き添っているという事であれば、多分何か事情のある人に間違いなかった。その時はそれだけで黙っておく。

やがて、裁判開始の時間を告げられると、裁判長が、裁判を開始すると朗々と述べた。小久保さんに付き添われて、被告人席にいた、被告人の梅津由香子は静かに立ちあがる。今日は判決が下されるという事で、小久保さんや検察官の質問に答えている由香子は、何だかちょっと緊張しているようだった。二人のやり取りが終って、それではまもなく判決が下されると、裁判長が発言した丁度その時。

「由香子!」

ふいに咲の近くから声がした。咲はおもわず、周りをきょろきょろと見回してしまったほどである。誰の声なのかわからないほど、聞き覚えのないこえだったのだ。

「あの、おばあさんですね。」

ジョチさんのいう事が正しければ、その通りなのだろう。咲は急いで、そのおばあちゃんの発言を聞こうと、その席の方を向く。

「あの人、正人君のおばあちゃんだ、間違いないよ!僕、覚えてる!あの時はもっと綺麗にしていたけれど、今でも何となくわかるところがある!」

武史君が、声高らかにいった。咲は急いで武史君の口を塞ごうとしたが、その人は椅子から立ちあがった。

「ごめんね!ごめん、、、!ごめん、由香子!」

と、その人は、涙ながらにいった。

「なんでおばあちゃんが謝るんです!正人君のこと一生懸命守ろうとしてくれたのに!おばあちゃんは、正人君が怒られた時も、正人君を慰めるために、正人君を焼き肉屋に連れて行ってくれたりしたでしょう!それに、正人君の学校にも、保護者会にも、授業参観にもおばあちゃんが行ってくれたでしょう!」

武史君がおばあちゃんを弁護するように言う。まるで弁護人も顔負けである。

「いいえ、あたしがそもそも、この事件を作ってしまったようなものですから、、、。」

と、正人君のおばあちゃんは、泣きながらそういい始めた。由香子に取っては、母親の望月八重子である。

「本当は、あたしが由香子をしっかり育てていれば良かったんです。由香子が、丁度、正人君くらいの時でしたでしょうか。私は、育児疲れで、由香子を親戚に預けて、ずっと入退院を繰り返して居ましたから。由香子には何もしてやれなかったのをすごく後悔していました。正人くんが生まれた時、由香子がノイローゼ気味になって、これは私のせいなのかと思って、由香子の代わりになってやろうとこころに誓いました。それゆえに、由香子の代わりにしてやれることはなんでもしてやろう。そう思ったんですけど、大間違いでしたね。」

みんなが、唖然としていると、小久保さんがこう切り出した。

「これでもわかるように、被告人の母親も、やはり同じく精神を病んでいました。彼女は、正人君が生まれた時、育児に余り熱意のない被告人に代わって、自分が育児をすることが、一番の被告人への償いであったと思っていた様です。今まで、法廷に姿を表さなかったのは、彼女も精神障害者として生きてきたためであり、そのような障害のあるものが発言しても、受け入れられることはないと、知っていたからです。今日は無理を言って来てもらいました。」

なるほど、と記者たちは、一斉にフラッシュを炊き始めた。正人君の祖母が、そのような事情があったということは、今初めて聞かされたことだったからだ。これは事件の重大な鍵であったのだと思われる。

「以上のような事情を踏まえまして、寛大なる処分をお願いします。」

小久保さんは、そう言って、裁判長に一つ頭を下げて席に座った。

暫く、記者たちがペンを走らせている音と、速記者がノートパソコンを動かしている音で、あふれかえった。其れが暫くして静かになった時、

「被告人、梅津由香子。」

と、裁判長が、朗々といった。

「主文、被告人を懲役三年に処する。」

それ以上に言葉は続かなかった。つまり、執行猶予は付かず、そうなってしまうのだ。

という事は、正人君のお母さんの梅津由香子さんは、このまま刑務所で三年間過ごすという事である。

「たった其れだけですか。」

ジョチさんが、ふっとため息をついた。

咲は、その処分が重いのか軽いのか理解できなかったが、少なくとも、正人君はもう帰ってこないということを考えると、正人君の母は、三年罰せられれば其れでいいという考えは、ちょっと甘すぎるという気がした。

「正人君は、三年経ったら、お母さんの事、許してくれるだろうか。」

と、武史君がそう呟く。

「きっと許さないのではないかと思います。だって、正人君は、これからまだまだ、可能性があった少年だったんだし。その命を奪うということは、許されない事です。」

まあ、いずれにしても、日本の法では、懲役何年とか、そういう形で、処罰される。若しかして、その間に、正人君のお母さんだったということを、由香子さんは忘れてしまうのではないか。それとも、正人君を殺害したことを、しっかり心に刻み付けて、生きていくのだろうか。或いは、正人君のところへ行くと言い出すかもしれない。いずれにしても、正人君は、二度と帰ってこないだろう。どんなに一生懸命償ったりしても、だ。

そのうち、いくつかのやり取りを経て、裁判は終了し、記者たちが、早速記事を描き始める中、由香子さんは、看守に連れられて、法廷を出ていく。そのあと、小久保さんたちや裁判長も法廷を出て行った。

「それでは、もう帰りましょうか。一応、これで、控訴審とかそういう事がなければ、正人君のお母さんの処分はあれで、決定ということになりますね。」

ジョチさんそういわれて、咲も武史君ももう帰ることにした。あの、正人君のおばあちゃんも、影浦に連れられて、帰っていく。

咲たちは、手早く帰り支度をして、法廷を後にした。丁度その時、正人君のおばあちゃんが、影浦と一緒に、廊下を歩いているのがみえた。

「正人君のおばあちゃん!」

と、武史君が、声高らかにいった。

「正人君を、最後まで見てくれて有難うございました!僕は、正人君のことは絶対忘れません!僕は正人君を、ずっと親友として、大事にします!」

正人君のおばあちゃんは後ろを振り向いた。そして一言、

「有難う。」

とにこやかに笑って、そういったのである。そのまま、影浦と一緒に、裁判所を出ていくのを、咲も、ジョチさんも、武史君も、なぜかずっと見送った。


「そうですか。懲役三年、、、。」

水穂は、新聞を枕元に置いた。トップ記事ではなく、社会面の片隅にそっと、正人君を殺害した母親に、判決が出たという記事が書かれていたのだ。新聞を置くと、二、三度咳が出たので、浜島咲は、心配になって、大丈夫?と声をかけた。

「控訴審をする予定もないそうで、これで一応決まりらしいわよ。全くね、普通の人間だとテレビも新聞も大げさなくらい報道するのにね。そうじゃなくて、相手が発達障害とか、精神障害だと、これだけしか、周りの関心もなくなっちゃうのねエ。」

「まあ、そうなると思いますよ。浜島さん。普通の人は弱い人たちに関心を持つこともないし、というより持つ暇もないし、もって得をすることもないでしょうから、報道もしないんですよ。」

水穂は、そんなことをいった。

「まあ、右城君も、そんな冷たいことをいって。此間の、殺されたほうが良かったていうせりふ、あれ、撤回して貰えないかしら?あの、正人君のおばあさんの顔を見ても、そういうことはいえるかしら?」

咲はちょっとむきになって、そういった。

「あのおばあさん、本当に綺麗な人だったわよ。何も悪いことしていないのに、自分が悪いんだってそういってたわ。」

水穂は、少し考えて、そうですね。とまで言いかけたのだが、咳に邪魔されて、こたえは出せなかった。

「もう、そう逃げないで、ちゃんと撤回してよ。絶対、今度は右城君がまちがっている。どんな重い障害があったって、ちゃんと生きていけるようにするべきなの。此間も言ったけど、障害のある人は殺しても構わないなんて、ナチスドイツの考えと同じよ。」

「おじさん、たまの散歩行ってきたよ!」

咲がそういうと、同時に玄関先で武史君の声がした。すぐに鴬張りの廊下がきゅきゅとなって、武史君が四畳半に走ってきたのを知らせている。

「あら、武史君、たまは?」

武史君が単独やってきたので、咲はおもわずそういうが、

「うん、理事長さんが、たまの足を拭いておくから、先にいっていいって。」

といって武史君は、水穂の枕元にちょこんと座った。そうなるとやはり子どもだった。大事なことはジョチさんに任せきりにして、自分のやりたいことを優先させるのだから。

「でも、咲おばさんは、武史君はそのほうがいいと思うな。」

と、咲はいった。

「子供は変に大人びているのではなくて、そうやって自分のやりたいことを、押し通すのが一番だと思うの。だから、大人の真似なんかする必要も無いのよ。」

武史君は、咲の言葉が届いているか居ないのか不詳だが、それを無視して、ねえ、おじさんと笑顔を浮かべて水穂に声をかけた。

「どうしたの武史君。」

水穂がそう返事を返すと、

「お願い、読んで。」

と、枕元に置いてある自分の鞄の中から、本を出して水穂さんの目の前に突き出した。これには咲も笑いたくなってしまう。法廷で、あんな風に朗々と発言して、まるで大人にも出来ないことを成し遂げた正人君が、一気に子どもに逆戻りした瞬間であった。これには、水穂も呆れてしまって、一度どうしたらいいのかわからないという態度を取ったが、少し、何か考えた様で、

「いいよ。貸してごらん。行くよ。ライオンとネズミ。昔昔、、、。」

と、ところどころ咳をしながら、ライオンとネズミの本を読み始めた。咲は、これをしてくれたんだから、右城君も、先日の発言を撤回してくれないかなあとわずかばかりの期待を寄せた。

「ねえおじさん。」

ライオンとネズミの本を読み終わると、武史君はいった。

「僕、やっぱり学校に行こうかな。」

もし、ここにジャックさんが居たら、よろこんで涙を流すに違いない。ジャックさんは、本当にそれを望んでいたようだから。

「正人君のことはどうするの?」

咲は、武史君に聞いてみた。

「ううん、正人君のことは、僕の思い出として取っておくんだ。きっと僕がいつまでもうじうじしていたら、正人君は、きっと何やっているんだこいつって、笑うんじゃないかなあ。」

「そうね。確かに、正人君は、きっと武史君のことをずうっと見てると思うわよ。武史君が、学校に行くときも、家で宿題やってる時も。」

咲は、そんなことを言うと、武史君はにこやかに笑って、

「そうだよね。それが、正人君だもん。そうなったのが正人君だから。」

といった。

「僕は。」

と、水穂さんは何か発言しようとしたようだが、ちょっと考えて、

「やっぱりいわないで置きます。」

とだけ言った。それをみた咲は、ちょっと右城君にまとわりついているものが、取れたのかなあと予測した。予測だから、正確な答えではないけれど。

「武史君。せめて、たま君の足を拭くことは手伝って貰いたかったんですが、武史君が、電光石火のように部屋に入っていくから。」

と、ジョチがたまを連れて四畳半にもどってきた。たまも、武史君のことを気にしていたのか、ワンと言って、武史君の近くへ来た。

「たまごめんね。僕、どうしてもおじさんと話したかったの。」

そういうところは、やっぱり武史君は、子どもだなあと思う。何も言い訳も反抗心もなく、素直に認めるところも、やはり子どもだ。たまは、それを許すように、武史君の顔をなめた。

「ねえ、ジョチさん、武史君、また学校へ行きたいそうです。正人君のことは、思い出として取っておくそうです。」

咲はジョチさんにそういうと、

「そうですか。それは良かったじゃないですか。じゃあ、これからも里村学校に行くんですね、武史君。」

と、ジョチが確認するように武史君に聞く。

「うん、あの学校が今まで行っていた中で一番いい学校だったと思うんです。先生も優しくしてくれるし、何よりも、正人君との思い出があるから。」

「武史君、正人君の思い出を背負ったまま、学校に通うのは、お辛いんじゃないの?」

水穂さんが、武史君にそう優しく問いかけた。確かに水穂さんのいう通り、苦い記憶を背負って生きていくのは、ちょっと辛いことになるのかもしれない。

「そうねえ。まだ小さな子どもなのに、誰かの思い出を何ていう言葉は、辛すぎるかもしれないわねえ。そういう事は忘れて、思いっきりたのしい人生を送った方が、正人君も安心するかもよ、武史君。」

「嫌だい。」

武史君はきっぱりと言った。

「僕は、何時でも正人君と一緒にいるんだ。だって僕は、正人君を本当に親友だと思っているからな。」

「そうですか。でも、正人君は、うじうじとしている武史君は、すきではないと思うよ。これからも生き生きと生活してくれた方がよほどいい。それを忘れないでね。」

水穂はそう言うが、咲は、そうした方が良いのではないか、と思った。

「きっと正人君もよろこぶよ。」

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楫枕 増田朋美 @masubuchi4996

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