第5話 ナポレオン2世


皇帝ナポレオン、そしてナポレオン3世といえば、世界史に欠かせない重要人物である。しかし「では、ナポレオン2世は?」と勉強中に疑問に思うことはないだろうか。勿論、ちゃんと存在していた。1世の実子である。

ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ)は1811年、フランス皇帝ナポレオン1世と彼の2度目の妻、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた。

ナポレオンは嫡子の誕生を大変喜び、すぐにローマ王の称号を名乗らせた。「ローマ王」とは、元々は西欧キリスト教社会で最も権威のある神聖ローマ帝国の皇位継承者に与えられてきた称号である。しかし、マリー・ルイーズの実家ハプスブルク家が長年治めてきたこの帝国は、ナポレオンの侵攻により既に解体(1806年。同年オーストリア帝国成立)に追い込まれていた。

ここで長男にローマ王と名乗らせることは、神聖ローマ帝国に代わってナポレオン自らとその子孫が西ヨーロッパ世界の新たなる盟主となることを意味する、強烈なるアピールだったのである。しかし……。


1815年、ナポレオンが失脚し流刑になった後、マリー・ルイーズは幼い息子を連れて実家オーストリアに戻った。彼はオーストリアの宮廷で、祖父の皇帝フランツ1世に可愛がられて育てられたが、その実質は体のいい軟禁状態であった。名前はドイツ風に"フランツ"と呼ばれ、ドイツ語で教育を受けた。「ローマ王」の称号は速やかに、かつ意図的に忘れ去られていった……全てをフランス革命とナポレオン以前の時代に戻そうとする宰相メッテルニヒのウィーン体制の中で。

しかしそれでも息子が父を忘れることはなかった。1821年、セント・ヘレナ島で父ナポレオン1世が死んだ時、彼は激しく泣いた。17歳のとき祖父皇帝に一個師団を与えられると「父のような軍人になりたい」と、父の形見のサーベルを佩いて訓練に励んだ。21歳で肺病に倒れたときですら、闘病中の彼の心の支えは、かつて父が使った同じベッドに我が身を横たえていることであった。1832年7月22日、22歳の誕生日を待たずにひっそりと逝去。独身なので子供はない。


シェーンブルン宮殿に残された「ナポレオンの間」には、今でも彼のベッドやデスマスク等、ありし日の彼を偲ばせる遺品が並んでいる。その中に、彼の可愛がっていたトサカヒバリという小さな小鳥の剥製が、鳥かごに納められて展示されている。あたかも、その半生を幽閉の中に送った薄倖の青年その人を象徴するかのように。

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可哀想な王様 じゅり a.k.a ネルソン提督 @Ada_Lovelace

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