// 26 友のために

「な……!?」


 涙を流す幼馴染の横顔よりも、なお勝る驚愕に僕は思わず声を漏らした。


 Artsアーツは、いかに高度な知性を宿し仕草や動作を生き物のそれに近づけようとも、本質的な部分――――つまり、その存在を構成しているのはタンパク質をはじめとした肉体ではなく、あくまで電子的なデータの集まりである。

 ゆえに、人間が外的要因によって肉体に傷を負うのとは違い、Artsアーツがストラグルによって負うダメージや傷エフェクトはパラメータの変動を外見的にわかりやすく示すための記号でしかなく、実際のArtsアーツのコアデータそのものにダメージを負っているわけではないのだ。


 Artsアーツに危害を加えるとしたら、そのデータが記録されたアーキタイプチップを初期化するか、チップ自体を物理的に破壊するしかない。自律思考する超高度人工知能のデータを保存している最先端メディアであるとはいえ、物質的には親指の爪ほどの大きさの薄っぺらい板でしかないアーキタイプチップは、壊そうと思えば小学生の力でも容易に実行できる。

 だが、ことArtsアーツのデータそのものに直接的なダメージを与える手段は、少なくともストラグルの対戦上では存在しない。


 存在していい、はずがない。


「それって……グランドマッチのバグ、じゃないんだよね……?」


 粘つくような不安感を喉元に感じながら恐る恐る問うと、ユーリは滑り落ちた涙を乱暴に袖で拭って、ぐずっとすすり上げてから答えた。


「当然、私もそれを真っ先に疑った。Ninephニンフを何度も再起動して……イゼルのデータを読み込んで、MRモデル出力したよ。でも……何度読み込んでも、イゼルはボロボロのまま、動かなくて……何回呼びかけても、応えてくれなかった……」


 言葉を重ねるたびに、透明な雫はユーリの目元から否応なくせり上がってきて、絞り出した声の震えであふれ、彼女の頬を再び濡らした。


「あたし、ワケがわかんなくて……ツバサに訊いたの……何が起きてるのかって。そしたら、ツバサが教えてくれた……イゼルが元に戻らないのはたぶん、ジャバウォックのせいだって」


「そんな……」


 恐れていた展開に、僕は脳裏で先ほどユーリが語った、対戦前にジャバウォックに言われたという言葉を思い出していた。

 お気に入りのArtsアーツ、壊れないといいな――――。

 ここまで聞くと、その言葉の意味は一つしか考えられない。


 犯行予告、そのものではないか。


「ツバサ……ジャバウォックとあたしの対戦が始まる前に、大会中のジャバウォックの戦歴を調べて、予選で当たったデザイナーに会いに行ったんだって……。あたしの時みたいに、針で手を麻痺させられたりしてないか確かめるために。それで話を聞いたら、ジャバウォックと当たったデザイナーの人たちは全員、Artsアーツのデータに原因不明の破損が発生してたらしくて……それでツバサ、そのデザイナーさんたちと一緒に対戦が終わったジャバウォックを待ち伏せて、問い詰めようとしたみたい……。でもジャバウォックがしらばっくれるから、デザイナーさんたちが怒って、言い合いになって……それで誰かが、会場にいる運営スタッフに突き出して調べてもらおうって言い出したの……」


 すっかり血の気の失せた唇をきゅっと引き結び、苦い記憶を掘り起こすように少し間を置いてから、ユーリは続けた。


「ジャバウォックは、意外にあっさりそれに応じた……。あたしも……イゼルをどうにか元に戻したかったし、ストラグルの運営はArtsアーツの開発元のヴァーヴス・エンライト社だから、イゼルに起きてる破損エラーも調べてもらえると思って、運営スタッフのブースまでついていったの……。でも、スタッフさんがジャバウォックのNinephニンフを調べても、なんの不正改造もチートソフトも見つからなくて……一応、動作中の状態も不正検出ソフトでスキャニングしてもらったんだけど、それも異常ナシだった……。チェックしてもらったスタッフさんに潔白を言い渡された時のアイツの顔――――思い出すだけでぶん殴ってやりたくなるよ……!!」


 そう言ってユーリは、膝の上で小さな拳をぎゅっと握り、悔しそうに強く歯噛みした。

 僕も、まだ網膜に焼き付いているジャバウォックの悪辣な嘲笑を幻視のように見ながら、自然と眉間にしわを寄せた。


「スタッフさんが言うには、ストラグル中には対戦する両方のデザイナーのNinephニンフの状態を会場のローカルネットを通じて常時モニタリングしているんだって……。だから不正ソフトがNinephニンフの中で作動したら、すぐに検出ソフトが反応するはずだって……。結局その場は、ジャバウォックは普通に対戦しただけで、あたしのイゼルや他のデザイナーさん達のArtsアーツが破損しているのは何かのバグだろうから、後日修理センターに診せにいけって言われて終わり……。麻酔針の件も報告したんだけど、ジャバウォックはもう針をもうどこかに捨ててたみたいで、証拠もないし証明もできないから、無駄だったわ……。でも――――あたしにはわかる……ううん、あの場にいたツバサや他のデザイナーさん達もみんなわかってた。ジャバウォックは……アイツは、意図的にあたしたちのArtsアーツを破損させたんだって」


 語気を強めながら、ユーリは膝の上で握った拳をさらに固く握りしめた。

 感情が溢れだすのを必死に堪えているように震える小さな肩に、僕はそっと左手を乗せる。


 ユーリの胸の内で渦巻いている痛みがどれほどのものか、僕にはよくわかる。

 自分が文字通りの心血を注いで描きあげた作品が、誰かの悪意によって姿かたちを失ってしまう恐怖と怒り、悲しみ。

 かつて、イラストSNS上で一瞬とはいえ頂点を取った自らの最高傑作が、たった一つのいわれのない盗作疑惑によって全ての作家の憎悪の対象となってしまった記憶は、僕のその後のクリエイターとしての生き方に大きな傷を刻み付けた。

 同じように、目の前で大切なArtsを無残な姿に変えられ、しかし明らかな悪意を持った相手を証拠がないために糾弾することもできない。そんな理不尽を呑み込まざるを得ないのは、どれだけ辛く悔しいことだろうか。


 数秒して肩の震えが収まると、僕は左手を離して自分の膝元へと戻した。

 ユーリも少しだけ落ち着きを取り戻したらしく、目元を拭い小さく息を吐いてから話を続けた。


「結局なんの証明もできないまま、すぐにツバサとジャバウォックの対戦が始まる時間になったわ……。他の被害にあったデザイナーさんたちは納得できない感じだったけど、ジャバウォックがやったっていう証拠が出せない以上どうにもできなくて、客席の方に戻っていっちゃった。あたしは、せめてツバサにジャバウォックと対戦した時の感触と、確認できた能力を伝えようと思って一緒にレストルームに戻ろうとしたんだけど、途中の通路で、ツバサがいきなりジャバウォックに掴みかかって……ジャバウォックに言ったの。『次の対戦で俺が勝ったら、さっきの人たちと俺の親友に謝れ』って……。ジャバウォックは最初ヘラヘラして取り合わなかったんだけど、ツバサがランキング9位のハイランカーだって気づいて、急に提案に乗ってきた。なんでかは分からないけど……それで結局ジャバウォックとのやり取りはその場で終わって、すぐにツバサとジャバウォックの対戦が始まったの……」


 そこまで聞いたところで、僕は胸の奥にわずかに引っかかるものを感じて、その正体を頭の片隅で探った。

 初めてジャバウォックと遭遇した時、彼はツバサが公式ランキングのハイランカーであることを持ち出し、それを破った自分の実力をやたらと強調していた。ユーリの話と合わせて聞くと、ハイランカーであるツバサを破って自分の力を誇示したいがために、ジャバウォックはツバサの提案に乗った、ということなのだろうか?


 しかし、僕はその結論を素直に呑み込むことができなかった。

 対戦相手の手に麻酔を打って妨害しようとするような狡猾な人間が、自分にとって何のメリットもない申し出に素直に承諾するだろうか?

 ツバサがランキング9位の実力を持っていると知った上で申し出を受けたのなら、ジャバウォックにはツバサとその相棒・レイヴンを打ち破る算段があったということだ。しばらくストラグル界隈で名前を聞かなかったとはいえ、もとはトレイルブレイザーにあと一歩まで近づいた実力のデザイナーだったのだからその自信は正当なものだが、ならばなぜ麻酔針や、相手のArtsを破損させる不正(これに関しては疑惑でしかないが)を画策する必要があるのか――――?


 得体の知れない寒気が背中を這う。

 ジャバウォックには、力を誇示したいだけじゃない、何か別の目的があるのではないのか……?


「ススム……?」


 不意にかけられた声に、僕ははっとして脱線した思考を中断し意識を隣に座るユーリへと戻した。


「あ、ごめん……!大丈夫、続けて」


 未だ血の気の戻らないユーリの横顔を見やりながら、話の続きを聞き逃さぬよう両耳に意識を集中する。


「序盤はツバサのレイヴンが優勢で、ジャバウォックの骸骨人形Artsアーツはサンドバッグ状態だった。でもあたしの時と同じで、ジャバウォックのArtsアーツは途中からものすごく速く移動して、触手とかレーザーで攻撃するようになったの……。ツバサは最初、急に変化した攻撃パターンに苦戦してたんだけど、レイヴンの特殊能力スキル重力震じゅうりょくしん』でフィールド内の重力を0にしてからは主導権を取り返して、宙に浮いて身動きが取れないジャバウォックのArtsアーツにガンガン攻撃を加えて追い詰めていったわ。あたしも、これは勝った、って思った……でも――――」


 言葉を切り、ユーリはすっと膝の上へと目を伏せる。やはりまだ動揺しているのか、続きを口にすることを躊躇うようにひざ元に向けた視線を泳がせていた。

 やがて、一度短く息を吸ってから、黒髪の少女はさっきよりも少しだけはっきりとした声色で言った。


「――――体力がもう残り2割を切ったっていうところで、突然ジャバウォックのArtsアーツが凄い広範囲のブレス攻撃を放ってきて、攻撃直後だったレイヴンは回避が間に合わなくて、その攻撃をまともに食らっちゃって……そしたらその瞬間、スタンドスペースに立ってたツバサがいきなり血を流してその場に倒れたの……」


 語尾を震わせながら、ユーリは絞り出すように呟いた。

 語られた情景を脳内で思い描いた情景に、網膜に焼き付いた先刻の変わり果てた親友の姿が重なる。鼻と目から血を流しながら、フィールドの端で崩れ落ちるツバサの姿が生々しく脳裏に描き出され、凍えるような冷たさが背筋を走る。

 突如襲ってくる動悸をぐっと飲み込むようにして押さえながら、僕はなんとか口を動かした。


「それって……ジャバウォックの攻撃がレイヴンだけじゃなくて、ツバサにまでダメージを与えたって事……?」


 自分でも突拍子のないことを口にしている自覚はあったが、ユーリは訝しむことなく、むしろ同調するようにこくんと小さく頷いた。


「少なくとも……私にはそう見えた。ジャバウォックの攻撃がヒットするのと、レイヴンが撃ち落とされてツバサが倒れるのがタイミング合いすぎてたし……。結局、レイヴンはその一撃で一気に残り体力を削られて負けが確定……あたしはすぐにツバサの所に行って、スタッフの人と一緒に会場の簡易医務スペースまでツバサを連れて行ったわ……。ツバサ、気を失ってて……あたし、どうしていいかわかんなくて夢中でススムに連絡したんだけど……ツバサを運ぶ途中でヘッドセットが耳から外れて、通路のどこかに落としちゃって……」


 そう言ってユーリは、膝の上に置いていた左腕をすっと持ち上げてから、Ninephニンフが巻かれた手首をくるりと返してみせる。反対側が露わになった最新型のNinephニンフは、発色のいい水色の外装の一部が欠けたように消失していた。

 最近買い換えたばかりだというNinephニンフの新モデルは、外装の一部が小型のヘッドセットとなっているので、本来はその欠けている部分にヘッドセットのパーツがあったはずなのだろう。


「そういうことだったのか……着信はできてるのに繋がらないから、何があったのかって生きた心地がしなかったよ」


「ごめん……何回も着信きてたのは気づいてたんだけど、ヘッドセットがないとインターフェースの操作ができないし、ツバサの血が止まらなくて動揺してて……」


 左腕を降ろしながら、申し訳なさそうにユーリは再び俯く。


「そこから先は、ススムも知ってるとおりだよ……。すぐに救急車が来て、運ばれたところにススムが合流して……」


「ジャバウォックが絡んできた、と……」


 続く言葉を引き取り、僕はずっと喉の奥で留まっていた重苦しい空気を長い溜息として吐き出した。

 ようやくと、頭の中で散らかっていた疑問と不明点が一本の線で繋がれ、二人の身に降りかかった事件の全貌を掴むことができたというのに、胸の奥にへばりつく不安感は晴れるどころかむしろさらに大きくなった。

 聞けば聞くほどに、想像を絶する悪意ときな臭さが漂う話だったし、親友二人がそんな目に遭っているあいだ、別の場所で呑気にしていた自分にやり場のない憤りを覚える。その場にいたところで、自分にできたことなどたかが知れている、なんて理性ぶった考えは浮かんだ瞬間に蒸発した。

 ユーリとツバサ、僕がトレパク疑惑の事件でどうしようもなく消沈していた時に支えてくれた大切な幼馴染を、今度は僕が支える番だったはずなのに。


 発端となったジャバウォックとの邂逅、ユーリとジャバウォックの対戦、それによって謎のエラーが発生し破損したイゼル、そしてツバサの謎の昏倒。

 全体的な経緯は把握できたとはいえ、実際に分かったのはユーリの通信途絶の理由くらいなもので、ツバサが倒れた理由などの問題はほとんど解決していないどころか、むしろ謎はさらに増えてしまっている。


 特にわからないのはユーリのArtsアーツであるイゼル、そしてジャバウォックと予選で対戦したという他のデザイナー達のArtsアーツに現れた正体不明のエラーだが、既に専門性の高いストラグルの運営スタッフに診てもらった上で修理センターでのチェックを促されている以上、一介のデザイナーである僕やユーリでは対応できないほどの損傷、少なくとも異常がアーキタイプチップ……下手をしたらNinephニンフそのものに起きているということだろう。

 もし発生している破損がArtsアーツの電子脳を脅かすほど深刻なレベルだったとしたら、最悪の場合、ユーリは最高傑作と自賛するほど気持ちを込めたかけがえのないArtsアーツと、たった10日も経たずに別れることになる。


 そんなことがあってはならない。Artsアーツは、それを否定するデザイナーもいるが、もはやただのイラストやモデルデータという言葉では収まらないほどに、描いたデザイナーと深く結びついた魂を分けた"もう一人の自分"なのだ。

 Artsアーツが傷つけば自分も痛いし、それが悪意を持って破損させられ二度と会えないとなれば心の半分を引き裂かれるような思いだろう。

 そんな思いは、ユーリにもツバサにも――――いや、デザイナーの誰にもしてほしくはない。


 やはりすべてのカギを握っていると思われるのは、ユーリとツバサに恐ろしい妨害未遂と犯行予告めいた言葉を残しているジャバウォックだ。

 ユーリの語ったジャバウォックの言動やArtsアーツの能力は、確かに何らかの不正を働いていてもおかしくないほど不審な点が多い。

 しかしユーリも、ジャバウォック本人も言っていた通り、彼が不正なツールやソフトウェアをNinephニンフやチップに施していたという確たる証拠はない。ジャバウォックと対戦したデザイナーがことごとく対戦後のArtsアーツの破損を訴えているとはいえ、それも偶然やメンテナンス不足だと言い逃れられてしまえばそれで終わりだ。


 ツバサとの対戦はこの会場の予選の最終戦だったはずなので、それを突破したジャバウォックは明日の決勝バトルロイヤルに出場するだろう。このまま大会を勝ち進めば、最終的には対峙しなければならない相手ということになる。

 ユーリとツバサが経験したという中盤以降での急激な謎のパワーアップも気になるが、それよりも危惧すべきなのは対戦相手のArtsアーツのデータを破損させるという現象が、決勝のバトルロイヤルでも引き起こされるかもしれないことだ。決勝には各会場から10体のArtsアーツが一つのステージ上で戦い合うはずなので、ともすればジャバウォックのArtsアーツを除いた他の9体のArtsアーツが全て破損してしまう可能性すらある。しかも破損の条件が分かっていない以上、それはジャバウォックの勝敗に関わらず起きるかもしれないのだ――――。


 しかし――――どうすれば……


「ごめん……あたしが、あたしがツバサを止めるべきだった……。イゼルに破損が起きた時に……変なことが起きてるって、ちゃんと言うべきだった……」


 予想される恐ろしい事態に言葉を失っていた僕へと、隣に座るユーリのかすれた声が向けられた。

 僕は思考を強制中断し、自分でも少し意外なほどはっきりとした声で、瞬間に喉の奥から湧いた言葉を俯く親友へと返した。


「違う、違うよ!ユーリは悪くない……悪いもんか!」


 珍しく語気を強める僕に、ユーリは少し驚いたように俯けていた顔を上げてこちらを見た。

 赤く腫らした目元と、対照的に青白く血の気の引いた頬に、胸の奥がちくりと痛む。


「ススム……でも、あたし……」


「ユーリが悪いことなんて何一つない!ユーリもツバサも、デザイナーとして正々堂々戦ったんだ!卑怯な手で妨害しようとしてきたのはジャバウォックの方で、ユーリが自分を責める必要なんかないんだよ!」


 きっぱりと断言する言い方をするのは、自分でも珍しいことだった。元から主張することが苦手な性格ではあったが、5年前の事件以降はその気質がさらに強まり、自分に自信が持てず言い切るような話し方をあまりしなくなった。

にもかかわらず、自分でも驚くほど自然にこのような言葉が出るということは、ジャバウォックが親友二人に行った今回の凶行と暴挙に、僕は自分で自覚している以上に憤っているらしい。


『ミューオン!』


 突然、身体の下でかわいらしい電子音声が発せられ、僕は反射的にひざ元へと視線を落とした。

 すると、やはり声の主はMR化したユニだった。予選会場を飛び出した時以来ずっとNinephニンフの中に戻したままだったのだが、どういうわけかまた勝手にMR化して出現している。


「ユニ!お前また……」


 僕は何の操作もしていないのに、ユニがいつのまにかMR化して周囲をとことこ歩いているのはこれが初めてではない。勝手気ままに自分からMR化するのもプライマリーチップによるイレギュラーな現象なのか、それとも僕のNinephニンフが故障しているのか……怖いのでそれ以上は深く考えないようにしている。


 ユニは滑らかな純白の背中をぴんと伸ばし、狛犬のように僕の膝の上に座っている。黄金色の光を湛えた瞳を真っ直ぐにユーリへと向け、話しかけるようにもう一度鳴いた。

 しかし、ユーリは少し驚いたような表情で僕の顔と膝元とを交互に見、かすれ声で呟いた。


「ユニみゃん……そこにいるの?」


 そう言ってユーリは、僕の膝元の少し上で視線を彷徨わせる。

 今のユーリはNinephニンフ付属のヘッドセットを着けていないので、3DモデルとしてMR表示されているユニの姿はもちろん、鳴き声を聞くこともできないのだ。

 そうとは知らず、僕のヘッドセットから周囲の情報を得ているユニは、自分の姿を認識できていないユーリを真っ直ぐに見据えていた。


「うん……ユーリに向かってなんか鳴いてる。たぶん……こいつも元気出せってユーリに言ってるんじゃないかな」


 膝上の相棒の幼獣を眺め、苦笑しながら答えると、色の薄くなった唇をきつく引き結んでいたユーリも、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。


「やっぱ、動物は飼い主に似る、だね。ススム、ちょっとヘッドセット貸してくれない?」


 遠慮がちに小さく笑いながらユーリが右手を差し出してくるので、僕は右耳に引っ掛けていたイヤーフック型のヘッドセットを外し、ユーリの白く小さな掌の上にそっと置いた。

 ユーリは「ありがと」と小さく頷くと、耳元の髪をかき揚げて黒と濃いオレンジ色のフレームで組まれたヘッドセットを右耳に引っ掛ける。何度か目をぱちぱちと瞬いてから、視線を僕の膝元へと落とす。


「あはは、リサイズすると本当のネコちゃんみたいだね」


 ユニの姿を確認したのだろうユーリは、短く微笑みながら両手を僕の膝元へと伸ばし、仮想の生き物を抱き上げるように腕を持ち上げた。

 ヘッドセットをユーリに貸しているため、今の僕にはユーリに抱き上げられるユニの姿は見えていない。

 しかし、網膜には映らなくとも、僕の眼には心で描き出したユニの姿がはっきりと見えるようだった。


Artsアーツってすごいよね……。ヘッドセットなしじゃ見も触れもしないのに、こうしてると本当に生きてるみたいなんだもん」


 持ち上げた手の先をじっと見つめながら、ユーリは切なそうに零す。

 僕はその白い横顔にそっと答える。


「生きてるさ。僕らとは魂のフォーマットが違うだけで、Artsアーツだって僕らと変わらない命と意思を持ってる。ユニを見てると、特にそう思うんだ」


 自然と心から出た言葉をそのまま口にすると、ユーリは腕の先の宙を見つめながら短く「そうだね……」と呟き、小さく息を吐いて両腕を降ろした。それから右耳のヘッドセットを外すと、僕の前へと差し出してくる。

 受け取ったヘッドセットを再度右耳へと装着し直すと、視界に各種インターフェースが浮かび上がると同時に、膝元へと戻ってきたユニの真っ白な体躯が目に入る。首回りのモフモフした被毛エフェクトをそっと掻いてやると、ユニは気持ちよさそうに目を閉じ、やがて後ろ脚でぐしぐしと丸っこい耳の裏を掻き始めた。

 小さな仮想の相棒の、実にリアルなネコ科動物然とした動きを再確認してから、僕はふーっと息を吐いて呼吸を落ち着けてから、厳然とした声で続く言葉を発した。


「……だから、絶対ジャバウォックのしたことは間違ってる。確かにジャバウォックが犯人だっていう証拠が手元にあるわけじゃないけど、僕やユーリが聞いた奴の言葉から、ジャバウォックがこの一連の破損事件を起こしているのは明らかだ。ジャバウォックが決勝戦に出る以上、また誰かのArtsアーツが壊されるかもしれない。この事実を知っている僕らが……奴を、ジャバウォックを止めないと」


 胸中で覚悟を決めてそう言うと、ユーリは再び不安そうな顔で僕の横顔を覗き込んでくる。


「ススム……ジャバウォックと戦うつもりなの……?ダメだよ、それでまたツバサみたいになったら……!」


 シャツの胸元をぎゅっと握り、かぶりを振るユーリに、僕も小さく首を横に振って返す。


「いいや、そんな無謀なことはしないよ。あいつの対戦ログを確認して、何か手がかりが残っていないか調べてみる。運営だって、ジャバウォックと対戦したArtsアーツが軒並み破損してるなんて事実はおかしいと思っているはずだし、スキャンだけじゃわからない何か不正をしているんだとすれば、その手がかりだけでも掴めれば運営にもう一度調べてもらえる。それでジャバウォックの手口がわかれば、奴を失格にできるかもしれない」


「で、でも……やっぱり危ないよ……!無理にあいつを止めるより、春の大会は棄権してまた次の大会に出れば……」


「ううん、ユーリ。決勝のバトルロイヤルで、また何人もツバサみたいな負傷者が出たら、次の大会どころかストラグルそのものだってサービス中止……下手したら終了だってあるかもしれないんだ。そんなことは絶対にさせられない。僕にとってはもう、ストラグルはただのゲーム以上のものだし、ツバサと再戦するって約束も、まだ果たしてないんだ。もう二度と、後悔するような道は選びたくない」


 自分じゃないような自信に満ちた言葉が口から出てくることに内心で驚きながらも、しかしその一言一句に偽りの気持ちはなかった。

 親友二人を深く傷つけ、さらに他のデザイナーをも手にかける可能性のあるジャバウォックを放ってはおけない。

 だからこそ、状況を知る自分が動かなくちゃいけない。もう、動かないで後悔するのはまっぴらだ。シーツにくるまり、部屋で震えていた自分と決別しなくては、きっとツバサの前に立つ資格はないと思うから。


「ススム……」


 ユーリはなおも心配そうな顔で僕を見たが、僕の意思が決まっているのを悟ったのか、やがて小さく息を吐いて呆れたように肩をすくめた。


「ツバサもススムも、一個決めたら本当に頑固だよね……。あたしの心配なんかお構いなしなんだから……バカ」


「バ、バカは余計だよ……!」


 いつものノリで言い返すと、ユーリの表情にも少しだけ元気が戻った。もう一度大きく深呼吸すると、ユーリは腰かけていたベンチから跳ねるように立ち上がり、突然。



「あァ――――ッ!!もうッ!!ムッッカつくぅ――――ッ!!ジャバウォックぅ――――――――ッ!!!」



 身体を反らし、頭上に広がる空に向かって叫んだ。

 真隣にいた僕は耳を塞ぐ間もなく、まともにその咆哮を鼓膜に食らってしまった。一方膝の上で耳の裏を掻いていたユニも、僕のヘッドセットの内臓マイクを通してユーリの罵声を聴いたのか、長いケーブル状の尻尾をビーンと張り、跳ねるようにして膝から転がり落ちた。

 想定外のユーリの行動に仰天して固まっていると、ユーリはくるりと僕の方を振り向いて、小さく咳払いをして言った。


「ススム、あいつの不正を暴けても、失格にはさせないでね!」


「うぇっ!?なんで……」


「あいつの不正をやめさせて丸裸にした後、ススムがぶっ飛ばすのよ!ジャバウォックを優勝なんかさせちゃダメだからね!」


 大声を出したことでスイッチが入ったのか、ユーリはいつものお姉さん口調を取り戻しつつ、ベンチの隣で恐れおののく僕へと何とも剛毅な命令を下した。

 そんな無茶な、と内心思ったが、しかし不正を暴いた後ならば正真正銘の実力勝負ができる。そこでジャバウォックを打ち倒せばツバサやユーリの敵討ちにもなるし、僕自身、ジャバウォックを下したいという思いもある。


 それに忘れかけていたが、もとより目指す目標は優勝なのだ。ジャバウォックが決勝に出る以上、どうあっても戦うのは確定しているのだし、親友二人を傷つけた借りも返さなくてはならない。

 僕はズレた眼鏡を指先で持ち上げてから、小さく息を吐いて正面のユーリへと向き直って答えた。


「――――うん、わかったよ。どこまでできるかは分からないけど、もし不正を暴いたら、ジャバウォックは僕が倒す。ユーリと、ツバサのためにも」


「ミュオン!」


 僕の声に続き、足元からユニの電子音っぽい鳴き声が上がる。

 珍しく言い切った僕の答えに満足したのか、ユーリは怒ったように尖らせていた口を綻ばせ、なんだかやけに久しぶりに思える、いつもの咲くような悪戯っぽい笑顔を浮かべて言った。


「……ありがと、ススム」


「――――うん!」


 黒真珠のようなユーリの瞳を見返しながら頷き、僕もベンチから立ち上がって固まった背中をぐっと伸ばした。


 空を見ると、梅雨前の澄んだ青空のずっと向こうに、分厚い石灰色の雲が迫ってきているのが見えた。

 それはまるで、これからもっと加速するであろう激戦の先触れのように、僕の胸の奥にわだかまった不安をぐらぐらと揺さぶる。

 この後に続く対戦の勝敗、倒れたツバサの容態、そして――――ジャバウォックとの対決。何一つとして不安が解消されたわけではない。むしろ、懸念は数十分前よりもはるかに大きく、重くなったと言っていい。


 だが同時に、やるべきこともハッキリした。

 ジャバウォックの不正を暴き、決勝戦で全ての決着をつける。

 それこそが、ユーリとツバサ、かけがえのない二人の親友に今の僕ができることだ。


 ツバサとの再戦の約束はこの大会ではもう果たせないけれど、それはまたいつか叶えればいい。

 その時、ツバサの前に立てるデザイナーになるためにも、僕はこの大会でジャバウォックを破り、優勝を勝ち取るんだ。


 ひゅう、と音を立てて、並び立つユーリと僕の間を一陣の追い風が吹き抜けていった。

 横目に、ユーリのセミロングの黒髪が風に乱され流れるのが見える。


 正面の澄んだ蒼穹の向こう、やけに大きな雲の中で、一筋の雷光が、不吉の顕現のように不気味に迸った。



**********


カクヨムにて公開しているぶんは以上となります!

本編の続きは【MAGNET MACROLINK】にて公式連載中ですので、ぜひご覧くださいませ!

ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました!!

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ヴァーヴス・ストラグル【MAGNET MACROLINKにて公式連載中!】 天晶 耀 @you_amaaki

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