第4話 香奈と僕と、そして赤ちゃん

 バツが悪そうに香奈は玄関に立っていた。

「大学の卒業式からもう三年。この三年間一回も家に帰って来なかったのに、連絡も寄越さないで急に帰ってきて。何の用事?」

と瑞穂母さんがキツイ口調で言った。

ワンワン!

(誰だお前は?!)

チラッと僕を見てから香奈は

「ちょっと〜、久しぶりに娘が帰って来たのにそう言う言い草は無いでしょ、もう少し優しくしてよ〜お母さん。」

肩をすくめる瑞穂母さん。

「だって本当の事じゃない。」

ワンワン!

(お前が香奈か。話には聞いてるぞ。ヨロシク!)

また香奈は僕をチラッと見た。

「先に荷物を部屋に置いてくる。そしたら下に降りてくるから、お母さん、美味しコーヒよろしく。」

と靴を脱ぎ、ズカズカと二階の自分の部屋に上がっていった。しょうがないわね〜と呟きながらも嬉しそうに台所に消えていく瑞穂母さん。玄関先で、チョコンと座っていると、二階から香奈が降りてきた。颯太とは似ても似つかないな〜と思って香奈の顔を眺めていると

「何よ?人の顔をじーっと見て。私の顔に何か付いてる?!」

と何やら御機嫌斜め。

ワンワン!

(何だ〜その態度は!)

っと一声上げて、僕は香奈の足下にぶつかって行った。香奈は、転びそうになりながらもフンッと鼻を鳴らし

「何よあんた!ここは私の家なんだからね!!」

っと言い残し、さっさと台所に入って行った。それを追いかける様に僕も台所に入って行く。台所では、瑞穂母さんに、クマも家族の一員なんだから優しくしなさいっと怒られている香奈の姿があった。僕はわざと後ろ足をびっこを引いて瑞穂母さんの所に歩いて行った。そんな僕を見て、また香奈が怒られていた。優しく抱っこしてくれる瑞穂母さんの腕の中で、とんだお姉ちゃんが帰って来たなと考えていた。


 颯太も、広宣父さんも、突然の香奈の帰宅に少し驚いてはいたが、せっかく帰って来たんだから、少しはゆっくりしていけと口を揃えて言った。香奈は、ありがとうと答え、会社には三週間ほど休暇届けを出してあるから、しばらくのんびりさせていただきますと言っていた。それから家族五人の楽しい生活が始まった。

 ある日、香奈が友達と飲みに出かけて、夜中の2時過ぎに帰って来た。僕は強烈な酒の匂いで目を覚ましてしまい、それからしばらく眠りに戻る事ができなかった。香奈は、何回か階段で転びながらも無事に自分の部屋にたどり着いた様子で、家の中はまた、いつもの静けさを取り戻した。

 その日の朝、寝不足気味の僕は、香奈の部屋へこっそりと入っていき、気持ち良さそうにベットで寝ている香奈の上に乗り、香奈のお腹の上でジャンプしながら大声で吠えまくった。

ワンワンワンワン!!

(あんな遅くに帰って来やがって!こっちは寝不足だ!起きろ、香奈!)

うゎーと声を上げる香奈。

「ちょっと二日酔いで頭が痛いんだから、クマ!やめて!」

無視。何を言われても無視。

ワンワンワンワン!

(知るか〜〜〜〜〜〜起きろ〜〜〜〜〜〜〜〜!!)

とジャンプしながら吠えまくる。しばらくすると、布団の中から香奈のごめんなさいと言う声が聞こえて来た。僕はそれを聞いて、十分満足したので、満ち足りた気分で香奈の部屋を後にした。後ろから、香奈の

「このバカ犬!!」

と言う声が聞こえて来たが、僕が振り返るとまた布団の中に隠れたので、許してあげた。

 

 そんな楽しい日々が続く中で僕は、一つ気になる事があった。それは、家の中で赤ちゃんの泣き声やキャキャと笑う声が聞こえてくる様になって来た事だ。それはほんの一瞬の出来事で、1日に一回か二回聞こえるだけで、最初は近所の赤ちゃんの泣き声かな〜と思っていた。しかし、日が経つにつれて、その回数はだんだんと増えていき、ついには夜中まで聞こえる様になってきた。あまり眠れない日々が続くようになり、これは何とかしないとと思っていた矢先、ある出来事が起きた。

 ある日、みんなで夕食を食べていると、例によってまた、赤ちゃんの笑う声が聞こえてきた。キャキャっと本当に楽しそう。うんざりしていた僕は、またかと思い周りを見渡すと、みんながご飯を食べているダイニングテーブルの下を、赤ちゃんが、裏庭に向かって四つん這いで進んでいた。僕は驚きの余り、ご飯を食べるのも忘れてその赤ちゃんを見つめていた。颯太が僕のおかしな行動に気づき、僕に声を掛けてきた。

「クマ、どうした?固まって?ご飯食べないのか?」

相変わらずその赤ちゃんから目を離せないでいると、広宣父さんが

「犬は、人間には見えないものが見えるって言うからな〜何か見えるのか?」

と軽口を叩いた。周りの家族からは、まさか〜などと言う声も聞こえてきたが、僕は聞こえないふりをして、その赤ちゃんを見つめていた。その赤ちゃんは、リビングに置いてあるソファーをすり抜け、裏庭のガラス戸もすり抜けて裏庭に出て行った。僕は急いで赤ちゃんを追いかけて、ガラス戸の前に走って行った。赤ちゃんは裏庭の中央に座って僕を見ている。僕はその赤ちゃんに向かって懸命に吠えた

ワンワンワンワン!!

(そこで何してる?って言うかお前は誰の子供だ?何がしたい?)

赤ちゃんはそんな僕を見てキャキャと笑っている。

ワンワンワンワン!

(笑ってないで、何か喋れ!あ〜〜僕もこのガラス戸通り抜けられないかな〜?邪魔なだな〜。おい、何がしたい?答えろ!)

突然、後ろから誰かに抱きかかえられた。それは颯太だった。颯太は心配そうに僕を見ながら

「どうしたクマ、そんなに吠えて?裏庭に誰か居たか?」

と聞いてきた。

ワンワンワン!

(誰か居たなんてレベルじゃないよ。赤ちゃんだよ赤ちゃん!!)

と颯太に答えたが、颯太は続けて

「ほら、見てみろ。誰も居ないじゃないか。まだご飯が終わってないんだから、みんなの所に戻ってご飯食べよう。」

と優しい声で言ってくれた。颯太の言う通り、裏庭の赤ちゃんが座っていた場所には何もない。僕は、颯太に抱えられたまま皆んなの所に戻り、残りのご飯を食べ始めた。しかし、僕の頭からあの赤ちゃんの存在が消えることは無かった。あの赤ちゃんは何をしたいのか?何か伝えたい事があるのか?そんな考えが頭から離れなかった。

 その日の夜、いつもの様に眠りについた。寝不足と夜ご飯時の出来事のためか、ベットに横になると、すぐに眠りに落ちていった。しばらくすると、誰かにくすぐられている様な感覚がして、目を覚ました。辺りを見回しても、颯太が寝てるだけだ。気の所為かとまたすぐに眠りに戻ったが、しばらくすると、今度は誰かに耳を引っ張られた。驚いて目を覚ますと、今度は目の前に、夕食時に見た赤ちゃんが座って、キャキャと喜んでいる。赤ちゃんはまた、僕の耳を引っ張ろうと、僕に手を伸ばしながら近づいてきた。僕はサッと身を翻し、その手から逃げた。赤ちゃんはムッとした顔をしたけど、また、手を伸ばして近づいてきた。今度もその手をかわすと、ますますムッとした顔をして、僕を指差している。僕は訳が分からずにいたが、なんとか頭の中を整理しようと、今の状況を観察した。しかし、なぜこの赤ちゃんがここに居るのか、全く分からない。また、赤ちゃんが手を伸ばしてきた。また、その手から逃げると、赤ちゃんは手足をバタバタさせながら、大きな声で泣きだした。颯太が起きるんじゃないかと思い、慌てて颯太を見るが、何も聞こえない様子で幸せそうに眠っている。僕は大きな溜め息をついて赤ちゃんに近づいて行き、赤ちゃんの顔をペロペロと舐め始めた。赤ちゃんはくすぐったいのか、ケラケラと笑い、僕の体を撫で始めた。その瞬間、誰かの声が頭の中で響いてきた

(クマ、驚かしてごめんよ。僕は、生まれてこれなかった子供なんだ。)

僕は驚いてその赤ちゃんを見た。

(でも、この世界に留まれる時間も、もうすぐ終わり。僕は、旅立って行かないといけない。)

僕の目の前に座っている赤ちゃんは、相変わらず笑いながら僕の体を撫でている。

(もし生まれてくる事が出来ていたら、僕は、犬と一緒の生活を夢見ていたんだ。)

と少し悲しそうな顔をしながら赤ちゃんは

(だからクマ、僕のお願いを聞いてくれないか?少しの間でいいから、僕と一緒に遊んで欲しいんだ。だめかな?)

僕はコクリと頷いた。赤ちゃんの表情が急に明るくなり、僕を優しく抱きしめた。その瞬間、暖かな光に僕たちは包まれた。その中で、僕と赤ちゃんはいろんな事をして遊んだ。赤ちゃんは僕の背中に乗っかたり、一緒にハイハイ競争をしたりと、時間が経つのを忘れて遊びまわった。不思議なことに、僕は全く喉も乾かなければ、疲れることもなかった。

(クマ、僕はね、生まれてくる事は出来なかったけど、お母さんを恨んではいないんだ。なぜかって?だって僕は、僕のお母さんを愛しているんだもん。これからもずっとね。だからね、お母さんの幸せを遠くからいつも祈っているの。)

赤ちゃんは笑顔で言った。この赤ちゃんがなぜ生まれて来れなかったのか、僕には知る由も無い。僕は無邪気に笑っている赤ちゃんを只々見つめていた。

「クマ〜〜〜」

と誰かが遠くで僕を呼んでいる声が聞こえた。辺りを見回しても誰もいない。すると赤ちゃんが

(クマ、君は君のいるべき場所に戻らないと。ありがとう、クマ。とっても楽しかった。また遊べるといいね。)

そう言い残し、僕が何か言おうとするよりも早く、赤ちゃんは僕の目の前から消えていった。気がつくと僕は、家の裏庭に一人で座っていた。鳥のさえずりが頭の上から聞こえてくる。朝の柔らかな光が、僕を包み込んでいく。今、目の前で起こった全ての事が、まるで夢だったかの様に。


 裏庭のドアが開いて、颯太が僕に駆け寄ってきた。

「クマ!こんなところで何してる!起きたら居ないから家中探したぞ!」

と僕を抱きかかえる。

「って言うか、どうやって裏庭に出たんだ?俺の部屋のドアは閉まっていたし、家中の鍵も閉まってたぞ?こんなに泥だらけになって、まったく。」

ワンワンワン!

(颯太、おはよう!何をしていたかは、秘密だ。でも、とっても楽しかったぞ!)

他の家族たちも裏庭に集まってきた。無事に見つかって良かった、心配させやがって〜と言う声が聞こえてくる。香奈がジッと、何かを言いたそうに僕を見ている。

「こんなに汚れて〜。クマは今からシャワーを浴びないとな。」

と颯太が呟いた。その時

「私にクマを洗わせて。」

と香奈が颯太に言った。みんなが驚いた顔をしていたが、結局、朝はみんな仕事の準備などで忙しいと言う事で、香奈の提案を喜んで受け入れた。

 香奈は、僕を洗いながら、昨日、香奈が見た夢の話を聞かせてくれた。それは、僕と赤ちゃんが楽しそうに遊んでいる夢だったそうだ。香奈は

「私ね、二年ほど前に流産したの。医者から気をつけなさいと言われていたのに、遅刻しそうだったので、急いでアパートの階段を駆け下りたら足を踏み外してね。気がついたら病院で、先生から流産した事を聞かされたの。」

淡々と香奈は話した。

「で、その時の彼氏ともそれが原因で別れちゃって、でも、そんな事があったなんて誰にも言えなくて、なんか人生嫌になってね。ずっと自分を責めて生きて来たの。私は幸せになってはいけないんだってね。」

僕を見つめる香奈。

「夢の最後でね、その赤ちゃんが私に『僕の分も幸せな人生を送ってください』って言ってきてね。その時ね、気付いたの。私は一人じゃないんだって。この人生はもう、私一人のものじゃないんだって。だから私、もう、自分を責めるのはやめる事にする。だってそれが、生まれてこれなかった赤ちゃんへの最大の供養なんですもの。」

香奈は泣きそうな顔で笑った。僕は香奈の手を優しく舐めてあげた。


 その週の日曜日、香奈は東京に帰って行った。帰って来た時とは見違えるほど清々しい顔つきだった。玄関で香奈は僕の頭を撫でながら

「クマ、また帰って来るから、今度は私と遊んでね。」

と笑顔で言った。

ワンワン!

(おう!二人で楽しい事たくさんしようぜ!)

と僕は答えた。香奈はずっと笑ったまま、颯太の運転する車に乗り込んだ。

「お父さん、お母さん、電話するね〜」

と香奈は大きく手を振りながら、颯太の運転する車は空港へと向かって出発した。

 人間はその深さや大きさに関係なく、心の中に何かしらの傷を負って生きているのだと思う。そしてそれらの傷を癒せるのもまた、他人ではなく自分達自身なのだと、僕は思う。香奈はこの先も、誰にもその小さな心の中の大きな痛みを話す事なく、それを抱えて生きていくのだろう。そしてそれを癒す事が出来るのは、香奈以外に誰も居ないのである。これからも、香奈の人生には色々な事が起こっていくであろう。しかし、その瞬間その瞬間に感じる小さな幸せや喜びを心の中に大事にしまって、これからの人生を生きていって欲しいと僕は切に願う。

 颯太の運転する車が走り去った後、瑞穂母さんは僕を抱っこしながら

「香奈、行っちゃったね、寂しくなっちゃうけど、また四人の静かな生活に戻れるわね、クマ」

とウインクをして僕に話しかけた。

ワンワン!

(そうだね、もう寝不足に悩まされる事も無くなりそうだね)

抱っこされたまま家の中に入って行く。もう、赤ちゃんの笑い声や泣き声も聞こえてこない。この何気ない日常に幸せを感じれる事こそ、本当の幸せなのかも、と僕は思った。


つづく



 


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クマという名の犬の物語 @LazyLadies

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