第4話 リフト・オフ
表に出た糸川先生は新聞売りから関東圏の最大手新聞社、大宮新聞の夕刊を買った。
日米安保についての記事のすぐ下のあたりに、鉛筆で印を付け、彼は見出しの一枚を私に寄こした。
「此処をごらんなさい」
「米大統領選ですか」
民主党候補のジョセフ・P・ケネディ・ジュニアと、共和党候補のリチャード・ニクソンが接戦を繰り広げているとの見出しの周辺に、黒鉛が擦り付けられていた。
「ケネディ氏はその政策として、国民をあらゆる面においてニューフロンティアへと導くとの指針を持っている」
ニューフロンティア。流暢な発音でそう述べられた言葉を口の中で咀嚼する。
「新天地ですか」
「そうだね。人口のニューフロンティア、生存のニューフロンティア、教育のニューフロンティア………。私を選んだ先では新天地を見せてあげようと、そういうスローガンを掲げている」
「なるほど」
記事に目を這わせる。両候補は各州で接戦を繰り広げているとの特派員の報告が、そこに踊っている。
「その中の一条項にね、科学・宇宙技術のニューフロンティアを目指すというのがあるんですよ」
「科学・宇宙技術………」
糸川先生の丸眼鏡の奥が、鈍く光る。
「要するに、人間を月に送ろうと言うんです」
「月!? 月ってあの………夜空に光るお月さまですか?」
「そうです」
糸川先生は、ひとつため息を付いた。呆れているのか、それともその計画の途方もなさに、感嘆しているのか。
あるいは、そのどちらもか。
「大方、最近宇宙開発競争を激化させている相手のソビエトを睨んでの発言でしょう。人工衛星の打ち上げでは先を越されてしまっていますから、明らかに出遅れている。焦りがあるのです」
「なるほど………」
おまけに、米国の手が多分に入っているとはいえ、フォン・ブラウン氏が逃げた先の日本にすら、有人宇宙飛行で先を越されそうな有様である。
「景気付けの大ぼら、という訳ですね」
「いえ」
彼の否定の声は、妙に硬かった。そのことに、違和感を覚える。
「彼ら、米国の人々は本気です。本気で、月へと人間を送り込もうとしている」
嘘だ、と思った。しかし、糸川先生の目は本気そのものだ。
四十万キロメートル先の上空に浮かぶ月へと人間を? 想像もつかないような大計画をしかし、海の向こうの連中は本気で考えているのだと、糸川先生は言う。
「そのために、内山君は殺されたのですよ」
午後の昼の月が、私達を見ている。何も言わずにただ空中に浮かんで、私達を見ていた。
本当にあそこに手が届くというのか? そんな政治闘争の為に。
内山は殺されたというのか?
◇ ◇ ◇
線路の傍らには、もはや住むものが狸くらいしかなくなったであろう冷たいコンクリート塊が宵の闇に黒く落ちている。たしか昔、このあたりは銀座だった。
やがて最後の利用者が降車して、帰りの都電の中は、いつかの時のように私一人になった。
今度は違えない。狼狽えない。真実を直視できる。そう自分自身に言い聞かせてから深呼吸して、進行方向隣、やや下を向く。
いつかの時のようにそこには、黒いコートの小柄な少女が座っていた。かつて出会った時と同じように。
いや、今度は私から話しかける。
「やあ」
彼女はゆっくりとこちらを向いた
「B-1」
「なに? あなたから話しかけてくれるのは久しぶりね」
その後、無言が続いた。クレーター跡を乗り越える振動が、私達を揺さぶる。
「君、米国のスパイだって?」
「ええ」
「”どちら派”の?」
「え?」
彼女は呆けた顔を見せた。その間抜けな顔を見て、私は自分の推理が正しかったことを確信する。
「内山という男がいる。君の同僚なはずの男だ」
糸川氏から教えてもらったこと。それは、内山はアメリカの密偵だったということだ。
「彼はニクソン派だった。そして、ケネディ派の同胞に殺された」
この産総研宇宙観測研究所には、アメリカから来た二派閥のスパイが紛れ込んでいた。ニクソン派とケネディ派だ。
どちらもこちらの動向を監視し、所員を共産圏のスパイから守ることが目的だったが、ある男に対するスタンスが真逆となっていた。すなわち、ニクソン派は本国での宇宙開発に興味がなく、国際世論を憂慮して、フォン・ブラウンが日本に居てくれる現状を維持したいという考え。
そして、ケネディ派は、フォン・ブラウンを日本から本国に取り戻し、月世界旅行の計画の中心人物に据えたいと考える派閥だ。
「今大統領選で米国が揺れ動く中、少しでもケネディの政策に説得力を持たせるため、ケネディ派の工作員はフォン・ブラウンとの接触を図った。それを阻止しようとしたニクソン派の帰国子女、内山は、ケネディ派の人間に殺されたんだ」
「それは聞いているわ」
私は傍らの少女を見つめた。少女は何かをごまかすように、笑みを顔に浮かべる。
「聞いていないでしょう?」
「なぜ? 組織の末端とはいえ連絡くらい来るわ」
私は深呼吸をする。真実を告げるために。巨大な嘘を、ここで暴くために。
「君は、米国のスパイなんかじゃないね。ソ連のスパイさん」
B-1、これも偽名だろうが、そう名乗った彼女は、こちらを見た。うさんくさい笑みを解き、ゆっくり、ゆっくりと真顔になっていく。
無言が続いた。夜の荒野を、都電が走る音だけが響いている。利用客の減少から、ほぼ使われなくなってしまったつり革が互いに触れ合って、かちゃり、かちゃりと鳴った
かちゃり。
彼女は座ったまま、黒光りのするものを、僕の頭に突き付けた。その音がつり革の音に紛れて車内に響く。
それが何なのかは、見なくてもわかっていることだ。火薬の圧力を利用して、金属塊を加速させる装置。きっとこれも薬莢が袖口へ回収されるようになっている、用途が限定されそうな、特別製のそれ。
「いつ、気付いたの」
温度を感じさせない声で彼女が聞く。
「ほんの、違和感だけだったよ。さっきの君の派閥論に対する反応で、ああ、そうだ、と分かった」
ぎり、と鉄塊を頭に突き付ける力が強くなる。きっと引き金にはしっかりと指が掛かっていて、安全装置は外されているだろう。彼女は、いつでも僕を殺すことができる。
でも構わない。そう思った。
どんな人から指示を受けて、指令を何を考えて、寒い土地からこの日本まで来たのか。そんなことはどうだっていいと思った。初めて本性を見せた彼女と、少しでも会話ができたら、それでよかった。
話題がいささか無骨なのは、ご愛想である。きっと。
「君、日本のサンタクロースは赤いんだって言ったね」
「ええ、言ったわ」
「こんなうわさ話を聞いたことがある。帰国子女の内山からだ。まあ彼はスパイだったんだけどね。それはいいとして、コカ・コーラ社の宣伝広告が、赤いサンタクロースを生んだって」
”「赤くないのもいるのかい?」”
”「そもそも聖ニコライの衣服は色が決まっているわけじゃないのよ。」”
そう。サンタクロース、聖ニコライの衣服の色は決まっていない。しかし、コカ・コーラ社のせいなのかは別として、米国国内と日本においてのサンタクロース像は、赤で統一されているれている。
疑問に思って調べた結果、ソ連圏においては、そもそもサンタクロースはサンタクロースとして存在しないのだそうだ。ジェド・マロースという名前でプレゼントを配り歩く彼の姿は、青かったり緑だったり赤かったり様々だ。
「それが疑問の始まりで、さっきの君の反応がその答えだ」
彼女は鋭い目をさらに鋭くする。
何秒経っただろうか。いや何分? 何時間ではないだろう………。
彼女は唐突にふっと息を吐いて、拳銃を持つ手を緩めた。そしてそのまま、重力に従ってだらりと腕が降ろされる。
「スパイ失格ね………自分からぼろを出すなんて………」
立ち眩みの真似をして、くるりと一回転した彼女は、顔だけこちらへ向けて問いかけてきた。
「じゃあ、私の目的も分かったりする?」
表情には疲労感、否、徒労感とでもいうべきものが満ちている。
私は悪戯が成功したような気分になった。今顔を触れば、自分が少年のような笑顔を浮かべている事が分かるだろうだろう。
「暗殺じゃなければ、ヘッドハンティング。私を妙に買っているのが変に思えたけど、いずれ周辺の人間ごと引き抜きたかったんじゃないかな?」
「フォンブラウン」
彼女は短く答えた。
「えっ!?」
「フォンブラウンを引き抜きにかかれって指令が来たの。無茶苦茶でしょ? 死ぬほどいる工作員から、わざわざ彼の従妹に似た私を選んできたのよ」
それは思ったより大胆な話だった。
瞬間、頭の中で計算がはじけた。それは、電算機の中で起きている不具合を寝ている最中に夢の中で解決してしまうような、無意識化の閃きだった。
いや、これは面白いかもしれない。あまりに非現実的なことが起きすぎて、脳がマヒしているのかもしれないが、ともかくも私の脳内には、ある一つの面白い試みが点灯した。
「内山って友人が居たんだ」
「え?」
「彼への手向けになるかもしれない。よし、じゃあ会ってみようよ、フォン・ブラウンとさ」
風圧に揺れてたわむ窓ガラスに、Bー1の呆けた顔が映った。
私たちは急いで、今向かっていた方向とは逆向き、研究所への終電へと飛び乗った。
◇ ◇ ◇
「こんばんは、フォン・ブラウンさん」
所内のいちばんいい部屋で、深夜まで残業をしていたフォンブラウン氏へ、内線電話は容易くつながった。私は電算機の筐体から剥がして来た鉄板に声を当てる、簡易の変声機を介して廊下の電話機から要求を伝えた。
「良い話がある。ウチヤマの死の真相を外部に公表されたくなかったら、東京第一発射台の上階まで来い」。そう脅しただけで、宇宙工学の権威はひょこひょことやって来たのだった。
影に落ちた少女が、フォンブラウン氏と面会する。
「こんばんは。こんなところに呼び出して、何の用なのかな、可愛いお嬢さん」
少女の、スパイならではの流暢な英語(本当に死ぬほど訓練させられた、と言っていた)に対し、ドイツ語なまりの英語で応対するフォン・ブラウン氏。
B-1は物怖じせずに、単刀直入に切り出す。
「ニクソン派もケネディ派も捨てて、ソ連にまで来ませんか」
年相応と言わんばかりの、正直な物言いだった。まるで、これ以上嘘をそぎ落とせないほどに本音を洗練させたかのような、率直な言葉を、フォン・ブラウン氏は目を瞑って受け止めた。
「それはできません」
今この場で射殺されるリスクすらあることが、彼には分っているだろう。ではなぜここまで来て、そんな素直に返答できるのか?
「素直ですね、隠すという事をしない」
思わず私も声を掛けてしまった。フォン・ブラウン氏はこちらをちらりと見て、やがて発射台の外の景色へと目を移した。
彼の眼には、遠く多摩に見える、新興の街の光が映っている。
「………私は、沢山の人を殺してきました。ドイツでV2ミサイルを作るのに死んでいったユダヤ人たち。着弾し、爆発に巻き込まれたロンドンの人たち。あまりに惨かった」
「いまさらそんなことを言うのですか」
少女が、ちらと敵愾心の欠片を見せた。何か我慢のならないことがあったのか、私にはそれは分からない。
「でも」
彼は言葉を区切った、そして顔を下へ向ける。
彼の目の焦点は足元に定められて動かない。
発射台を見ているのだ、と私は気づいた。
「例え悪魔と契約してでも、宇宙へと人間を到達させたかった」
フォンブラウン氏はB-1へと、優しく語りかけた。
「ソ連には宇宙開発の環境があるのかい?」
少女は胸を張って答える。
「ええもちろん。柔らかいベッドとボルシチもあります」
それを聞いた彼は指を一本立てた。提案のサインだ。
「じゃあこうしよう。私達が宇宙へと人類を送りこめたら、この話は無しだ。でも送り込めなかったら、アメリカに戻るんじゃなくてソ連に行こう」
「え、いいのですか………?」
「もちろん。期限は………そうだな」
フォンブラウン氏は、だしぬけにこちらを向いた。
「何時がいいかな?」
私は瞬時にその意味を理解して、胸を張って答える。
「ええ、それは」
違えるはずもない。糸川先生の口癖で、内山が見れなかったその季節のことを。
「梅の花が咲く頃に」
夜風が吹いて、発射台の骨組みを駆け抜けていった。
◇ ◇ ◇
10、
9.
8.
7.
6.
5.
《イグニッションスタート》
4.
「燃焼、安定しています」
3.
2.
「行ける!」
1.
0.
《リフトオフ》
◇ ◇ ◇
目の前で起きたことがまだ完全には理解できていない私を、フォンブラウン氏がちらりと見た。そして一言。
”Gewonnen”確かドイツ語で「勝った」の意味。にやりと笑う彼の隣には、糸川博士が微笑んでいた。
規制が解除されるのと同時に、私は管制室から飛び出した。
三月の快晴に、東京第一発射台から飛び出した銀と赤のオメガ十一号ロケットが、飛行士を先端に乗せて、まっすぐと駆け上がっていく。
その下に、もうすっかり見慣れてしまった少女の姿があった。
彼女はあるものを手渡してきた。大切そうにくしゃくしゃの蝋引き紙に包まれたそれは、
「………梅の花」
「東京の本当にはじっこの方に咲いてたわ。暇だから探してたの」
私の眼から、不意に熱い液体が流れる。どうやら制御に失敗して、液が漏洩してしまっているらしい。
「あなたのせいで任務、失敗ね」
そう言うと、彼女は後ろを向いて、柵の向こうへと去っていく。
「なあB-1!」
私は大声で叫んだ。
「梅の花、ありがとう!」
彼女はいつかのようにふんわりと微笑むと、今度こそ、早春の風のように去っていった。
テレメーターの紙束を抱えた同僚が、泣いている私を心配しながら教えてくれたのは、軌道上からの第一声だった。
それは英語と日本語の混じった台詞で、世界で初めての、宇宙からの声であった。
私は天を仰いだ。見えないバベルの塔が、この荒野の東京の地に、そびえたっている事を感じた。
そしてきっと、そのバベルの塔の頂上には、木が一本生えていて、梅の花が咲いているのだ。
わたしの腕の中に収められた一個の花を付けた一本の細い枝が、そのことを耳元でそっと教えてくれたのであった。
<おわり>
拳銃弾より高く放て ボンタ @hahahanoha
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