翼をください

kiki

翼をください

 



 私には、翼という名前の幼馴染がいた。

 彼女との出会いはあまりに突然。

 とにかくやんちゃだった翼は、うちの屋敷の柵を乗り越え、勝手に侵入し、部屋の窓を叩いてきたのだ。

 そこで、明らかに怯える私に向かって、一言。


『お友達になろうよっ!』


 正直――なに言ってんだこのすっとこどっこい、と思った。

 けれど翼は、学校の前で出待ちしてみたり、休みの日は堂々と玄関から友達を名乗って遊びにきたりと、驚くべき度胸と鬱陶しさで私に付きまとい、ずるずると関係は続いて、親友と呼べる関係になった。

 誰よりも仲が良くて、なによりも特別で、一緒にいる時間が一番幸せで。

 そんな関係に……なってしまった。

 私は日本を代表するゼネコン、久遠寺建設の社長令嬢、遥。

 そんな私の人生は、両親によって生まれた瞬間から決められている。

 結婚相手も、友達になるべき相手だって。

 そして両親は、当然のように私がその道から逸れることはないと確信している。

 いや、仮に道を踏み外したとしても、力ずくで戻せる自信があるんでしょうね。

 今までずっと――そしてこれからも、狭い檻の中で生きていく。

 そんな私にはじめてできた友達の名前が“翼”だなんて、とんだ皮肉よ。

 目の前に突然現れて、いきなり友達になった翼はいつも自由奔放で、私はとにかく彼女に憧れていた。

 いつか、私をこの檻の中から連れ出して、広大な世界を二人で旅することができるんじゃないかって――本気で信じてた。




 ◇◇◇




 十六歳の冬、私と翼は旅行の計画を立てていた。

 お金は、バイトを始めた翼が出してくれるらしい。

 確かにうちは金持ちだけど、自由に持ち出す権限は私にないから、こうでもしないと旅行には行けない。

 もちろん、親の許可なんて取ってなかった。

 絶対に許さないだろうし、私があいつらの言うことを聞かないのは今に始まったことじゃない。

 だってそうでしょう? 親らしいこともせずに、顔も知らない相手と婚約させて、金稼ぎの道具としか思っていない連中の命令を聞く子供なんていないっての。

 旅行の予定日が近づく中、私と翼は放課後に喫茶店で待ち合わせして、雑誌を開きながらあーだこーだと話し合う。


「乗馬とかいいなぁ、あとここボルダリングできるらしいよ!」


 体を動かしたがる翼とは対照的に、


「なんで疲れてまで高い場所に登らないといけないのよ。私は綺麗な海が見えるこのホテルでゆっくりしたいわ」


 私は移動が少ない、楽な場所ばかりを選ぶ。


「えー、冬なのに海なんて行ったってしかたなくない?」


「冬のほうが空気が澄んでるから、景色が綺麗に見えるのよ。それに季節外だから安いじゃない」


「お金はあたしが出すんだから変に倹約しなくても……」


 意見は真っ向から対立して、どっちも譲らなくて、じきに言い合いにみたいになって――でもそれが楽しかった。

 だって、こんな風に本音で話せる相手なんて、翼ぐらいしかいないから。

 そしていつも、最後は彼女のほうが折れて、私の意見が通るのである。

 面と向かって言ったことはないけど、翼はとても優しいと思う。

 話し合いのときはなんとなくそっけない態度を取っちゃったけど、彼女との旅行を、私はすごく楽しみにしていた。

 まだまだ予定日までは間があるのに、毎晩のように遠足の前の晩みたいにそわそわしてたし。

 そしてあっという間に時は過ぎ、約束の日の一週間前――


「……なに、これ」


 私は、信じられないものを見た。

 今日も会う約束をしていたのに、翼は待ち合わせ場所に来なくて、一時間待っても二時間待っても姿を現さないから、痺れを切らして彼女の家の前まで来た。

 けれど翼はそこにもいない。

 家には『売家』の看板がかけられている。


「なによ……なんなの?」


 近所の人曰く、誰にも伝えずに、急に出ていってしまったらしい。

 もちろん引越し先だってわからない。

 あいつは――あの馬鹿は、私っていう世界の誰よりも大事な友達がいるくせに、なにも言わずに、忽然と姿を消してしまったのだ。


「私が、どれだけあんたとの旅行を楽しみにしてたと思ってんのよ……!」


 家族旅行の経験がなかったわけじゃない。

 だけどそれは、『取引のついで』とか、『次女のお披露目』のついででしかなかったから――純粋に、楽しむための旅行は初めてだった。

 隣にいるのが翼なら、絶対に楽しい。

 言葉には出さなかったけど、そう思って、妄想して、にやけて、心の底からそわそわして、どきどきもして!

 なのに、なのに――!


「勝手に希望を抱かせて、勝手にどっかに消えるなよぉっ! この女たらしのノータリンのアンポンタンッ! どっか行っちゃうなら……私のことも連れていきなさいよぉっ! あんたの無駄に温かい手で、いつもみたいに強引に引っ張っていきなさいよぉおおおおッ!」


 叫んだって翼には届かない。

 それでも私は泣き叫んで、日が暮れても叫び続けて、久遠寺建設の社員に無理やり連れ戻されるまで、もう会えない大切な人を罵倒し続けた。




 ◇◇◇




 それから四年の月日が経ち、私は二十歳になった。

 トップの成績で高校を卒業し、一流の大学に通い、上流階級の友達に囲まれた私は、傍から見れば充実した毎日を過ごしているように見えるに違いない。

 だけど、中身はからっぽだ。

 婚約が決まっている相手は、あの大財閥の御曹司。

 人生の成功は確約されている。

 だとしても、そんなものには意味もなければ興味もない。

 嫉妬されることもあったけれど、久遠寺建設の社長令嬢に喧嘩を売る愚か者はいない。

 つまらない。

 もちろん、翼のように打算無しで気軽に話しかけてくる阿呆も。

 本当につまらない。


「こんにちは、遥さん。今日もお美しいですね」


 けれど、私のステータスを利用して自分の地位をあげようと、おべっかを使って近づいてくるゴミや、金魚の糞のようにつきまとうクズなら存在している。

 できれば認識すらしたくないんだけど、勝手に視界に入ってくるからそういうわけにもいかない。

 今だって、ただ食堂で時間を潰しているだけなのに、勝手に正面に座って、『私は親しい人間ですよ』周囲にアピールしている。

 うざいな、死ねばいいのに。

 私は無視してスマホの画面に集中した。


「なにをなさっているのですか?」


 無駄に丁寧な口調が鼻につく。

 喉を引きちぎってゴミ箱に捨ててやりたい。


「ゲームよ」


「ゲーム……ですか。なるほど、マネーゲーム――つまり株をなさっているのですね」


 それを真剣な顔で言ってのけるこいつは、人を不愉快な気持ちにさせる名人なんだろうか。

 あるいは脳みそにスポンジでも詰まっているのか。

 海外のスラムにでも放り出して、飢えた男どもに囲まれボロボロになってほしい。


「違うわ」


 私は吐き捨てるように言った。

 反応してあげるだけ優しいと思う。


「それでは、どのような遊びをなさっているのですか?」


「スカイアークオンライン、空と翼のファンタジア」


「……はい?」


「だからスカイアークオンライン、空と翼のファンタジア、よ。レイドボスの真っ最中だから黙っててもらえる?」


「れいど? それはなんですの?」


 まったく理解できていない顔だ。

 別にわかってほしいわけじゃないから放置をきめこむ。

 確かに、私の周囲にいる“自称”高貴な連中がこういうゲームをしているとは聞いたことがない。

 それは彼らが下流市民を見下せる自分の立場に優越感を覚え、下界の遊びを忌避しているからに違いない。

 もしくは、現状に満足しているから、ファンタジーに浸る必要がないのか。

 でも私は違う。

 ずっと夢を見ている。

 なにも、こんなファンタジー世界で冒険したいとか、そんなことじゃない。

 旅に出たい。

 翼が連れて行ってくれるはずだった旅へ。

 そんな憧れが、私をこの手のファンタジー的なゲームや漫画に駆り立てているんだろう。

 無視してゲームに没頭していると、ゴミはいつの間にか消えていた。

 よかった、これでようやく集中できる。




 ◇◇◇




 大学を卒業したら、私は結婚する。

 避けようのない決定事項。

 常に気だるげなのはそれが理由である。

 だって、学歴に箔をつけるため“だけ”に大学通ったって、楽しくないでしょ?

 講義は適当に聞き流しておけばいいし、それでも大抵の単位は簡単に取れた。

 これは自慢だけど、私は人よりも頭がいいから。

 でも、どんなに成績がよくたって――小学校の頃の私がテストで百点を取ったとしても、両親が私を褒めることはなかった。

 しょせんは使いみちの決まった道具でしかないってことだと思う。

 大学を卒業したら財閥の跡継ぎの嫁になって、望まれるままに、それっぽく振る舞う人生を送るのだ。

 久遠寺建設の未来のために。

 私の意思はそこになく、自我も必要なく、ずっと檻の中に閉じ込められたまま。

 外に連れ出してくれるはずだった翼はもう無い。

 無意味に日々を過ごし、生きがいと言えばレイドボスのレアドロップを求めて周回することぐらい。

 講義が終わる時間になると、時間を伝えてもいないのに、正門の外には決まってやたら目立つリムジンが待っていた。

 まるで私の逃げ道を塞いでいるよう。

 他の門にも見張りが立っていて、自由に外に出ることなんてできない。

 かと言って、構内から出てこないと中にまで探しにやってくる。

 だから最近は、タイムリミットギリギリまで、中庭で暇を潰すのが日課になっていた。

 まあ、友達はいないから、大抵は人のいないベンチに腰掛けてスマホをいじってるんだけど。


「ああもう、なんなのこいつ! また無課金でパーティに入ってきて……!」


 悪態をつきながらゲームをプレイする。

 すると、スマホの画面に集中する私の前に、突如、一台のワゴン車が止まった。

 清掃業者の車だ。

 なんで視界を遮るような場所で止まるのよこの社会的敗北者――って思ってたら、中から作業服姿の二人組が現れ、素早く私の口に布を押し付ける。


「んぅっ!? んううぅぅっ、んふううぅぅうっ!」


 もちろんじたばたと抵抗するけど、やたら力が強くてびくともしない。

 布に染み込んだ薬品のせいか、意識が遠ざかっていく。

 そしてそのまま、私は車の中に詰め込まれ、素早く縛り上げられると、どこかへと連れて行かれるのだった。




 ◇◇◇




 次に目を覚ました私は、腕を結束バンドで拘束され、目隠しで視界を塞がれ、猿ぐつわで声も出せない状態だった。

 現状をまったく把握できない中、偶然にラジオのパーソナリティが、午後七時をお知らせした。

 どうやら二時間ほど寝ていたらしい。

 前のほうから話し声が聞こえるってことは、私が寝ているのは後部座席。

 変態誘拐犯は二人組で、声質からして女みたいだ。

 まあ、性別がどっちだろうと関係はない。

 私をこんな目に合わせるなんて、自由になったら絶対に工場のマシンにセットして雑巾みたいに血の一滴まで搾り取って殺してやる……!

 ――と、殺気は十分。

 けれどそれは、ネット上でのみイキるバーチャル猛獣のようなもので、リアルの私は運動が苦手な“もやし”にすぎない。

 いくら私がスタイルの割に軽い体をしているからって、ひょいっと軽く持ち上げるような筋力バカに勝てるはずがない。

 だから本音を言うと、めっちゃ怖かった。

 目的はなに? 身代金? まあそれしかないよね。

 いや、ひょっとすると両親への復讐のパターンかもしれない。

 あいつら血も涙もなくて、死後は百パーセント最低ランクの地獄に堕ちるようなキングオブクズだから、殺したいほど恨んでる人間はいくらでもいる。


「……ありがとね」


「なんだよそれ、今生の別れみてぇな口利きやがってよ。お前、マジでカタギに戻れるとでも思ってんのか?」


「思ってない。でも戻らないと」


「そうかよ……じゃあ好きにしろ。オレは面倒見ねえぞ」


「最初からアテにはしてないから」


 オレって……女のくせにオレって……タバコ臭いし、話し方も気取ってるし、なんか自分に酔っちゃってるタイプみたいな?

 絶対に髪はショッキングな色だし、体タトゥーだらけだわぁ、下級国民の極みすぎる。

 そういうのに限って、現実見えてないから私を誘拐とかしちゃうんだよね。

 うちの両親、本当にやばいから、きっと口では言えないようなことされて殺されるんだろうな。

 ま、誘拐犯の末路に興味なんてない。

 それより、なんか車が止まったんですけど?

 しかも私の体、また持ち上げられてるんですけど? 外気にさらされてるんですけど?

 どうも別の車に乗り換えてるみたい。

 追手を撒こうとしてるってこと? 無駄だと思うけどなあ。

 次に乗せられた、小さめの……軽ってほどじゃないけど、私の肌には合わない安い車。

 粗悪な座席シートに素肌が触れてチクチクする。

 チッ、お姫様を運ぶんだったらリムジンの一台でも準備しとけっての。

 そして、車は再びどこかに向かって走り出した。


「ごめんね、乱暴なやり方になっちゃって」


 犯人Aは、運転しながらたぶん私に向けてそう言った。

 誘拐の時点でマックス乱暴だから、謝られても困るんですケド。

 でも残念、猿ぐつわされてるからカウンター罵倒はできない。


「ふぐっ、ん―! んううぅぅっ!」


 だけどなにも反撃しないのは嫌だから、体をバタつかせてうめき声をあげる。


「うわ、元気だね。さっきまで寝てたから体力が有り余ってるのかな」


 なんなのこいつ、馴れ馴れしく話しかけてきて、気持ち悪い!

 とか思ってると、そのあとは急に無言になって、車の運転に集中しはじめた。


「……ほんと、変わってないね」


 最後に微かに聞こえてきた言葉には、やけに感情がこもっていて、それがめちゃくちゃ気持ち悪かった。




 ◇◇◇




 そっからさらに二時間走り続け、車はようやく止まった。

 ここが目的地ってことなのかな。

 私は狭っ苦しいバッグに詰め込まれて、外に運び出された。

 昔の芸人じゃないんだから、うら若き乙女をバッグに詰め込むとかありえないでしょ!?


「とうちゃーく」


 ふかふかのなにかの上に投げ出された私はついに、文字通り目障りな目隠しと猿ぐつわから解放された。

 そして開けた視界に写りこんだ誘拐犯は――どっかで見たことがある、女の顔をしていた。


「久しぶりだね、はる――」


 他人の空似に決まってるじゃない、こんなの。

 さあ覚悟なさいよマダニ以下の大罪人! ここまで溜まりに溜まった鬱憤、フルスロットルで晴らさせてもらうわ!


「よくも私をこんな目に合わせたわねこのド変態低偏差値誘拐犯ッ! あんたなんかまず私の手で包丁使ってめった刺しにしたあと、うちのボディーガード呼んで関節という関節を外したあとにハンマーで細かく骨を砕いて『殺してくれて』って命乞いするまで苦しめてやるんだからぁっ!」


「は、遥? いや、あたし」


「知り合いヅラするんじゃないわよっ! 高貴な家の出の私にはねぇ、あんたみたいな外国人コンプレックスこじらせた無駄に明るい髪色の、将来のことなーんも考えずに腕とかにタトゥー入れちゃう脳みその足りない知り合いなんて一人を除いていないわよっ! その一人だって、こんなところで奇跡的に再会するわけないじゃないっ! あいつは逃げたんだから! 私の前から! 尻尾を巻いて!」


「ひどい言われようだし、たぶんその一人が……」


「だいたいさっきからなに涙ぐんでんのよっ! なに? 前世で恋人でしたパターン? 現実世界転生? 薬のキメすぎで現実と空想の違いがわからなくなっちゃった痛い子? 窓の無い病院に入ったほうがいい頭くるくるパー? そんなのあんたに使う医療費のほうがもったいないわ! おとなしく自分が生まれてきた罪を認めて死になさいっ! 今すぐ! この場で! 自分の手で! 世の中を浄化するためにっ!」


「だーかーらーっ!」


 誘拐犯はキレ気味に声をあげると、四つん這いになって私の顔を見下ろした。

 ヤバ……超怖い、マヂで泣きそう。

 でも、ムカついてるのも事実だから、これでも自分の非を認めないってんなら、もっとハードに罵倒してやるしかない!

 ――と、思ってたんだけど。


「遥、あたしだって! 翼! 鳥飼翼っ!」


 誘拐犯は、そんなことを言い出した。


「……はぁ? 翼?」


 鳥飼翼と言えば――あの子しかいない。

 四年前、死ぬほど楽しみにしてた旅行の約束を投げ捨てて、私の前から姿を消した稀代の腰抜けにして、唯一無二の親友。

 あの頃は、もっと子供っぽい顔してたし、眉毛ももうちょい太かったし、ピアスも無くて、なにより髪は黒で、腕にタトゥーなんて入れてなかった。

 だけど、一瞬見てわかるレベルでよく似てる。

 いや、わかってたけど、まさか誘拐犯が翼だとは思わないじゃない?


「本当に、翼なの?」


「間違いなく。顔を見たらわからない?」


「……わかる」


「良かった。じゃあとりあえず、バンド外すからうつ伏せになって」


 言われるがまま、私は素直に指示に従った。

 そして翼を名乗る誘拐犯の手によって、結束バンドが外され、手足が自由になる。

 ――ふふふ、かかったわね愚か者め!


「ちょっと翼に似てるからって調子に乗ってんじゃないわよ、社会に存在する価値のないド底辺がッ!」


 翼が私の弱点だと調べ上げた上で整形までしてきた執念は認めてあげるわ。

 でもそんなもんで、あのクソ両親によって、腐った大人の世界を嫌というほど見せられてきた私の人間不信メンタルを騙せると思ったら大間違いなんだから!

 私はガッと誘拐犯に掴みかかって、ブォンッと腕を振り上げて、ヒュンッとそいつの頬にビンタをぶちかます。

 するとパシッと簡単に片手で止められて、そのままグイッと押し倒されて、ドサっと覆いかぶさられた。

 びっくりするぐらい弱いわ私。


「だからあたしは本物の翼だって!」


「翼なら、なおさらビンタしてやらないと気がすまないわ! あんたさえ……あんたさえいなければ、私は自分の人生に希望を抱くことなんてなかったのにっ! 四年前、勝手にいなくなったあのときみたいに、絶望を味わうこともなかったのにぃっ!」


 どんなに力を入れても、掴まれた腕はびくともしない。


「あたしが勝手にいなくなった?」


「勝手だったじゃない!」


「……はぁ。別に同情を誘うわけじゃないけどさ、あたしだってできれば遥とずっと一緒にいたかったよ」


「嘘ばっかり!」


「嘘じゃないッ!」


 今までで一番感情のこもった強い声に、私は思わずびくっと震えた。

 怖い。

 けど、なぜか温かい。


「両親は職を奪われて、身に覚えのない借金を背負わされて、せっかく手に入れた家も奪われて! あたしたちは、あの町を出ていくしかなかった! あんなことがなければ、一週間後には旅行に行って、そこで自分の気持ちを伝えるつもりだったのに!」


「なに……それ」


 初めて聞いた。

 そりゃそうだ、あれから一度も翼と話してないんだから。

 そして、そんなことができる力を持った人間なんて、あいつらしかいない。


「あれだけ仲がよかった家族は壊れて、全部あたしのせいだって責められて、居場所がなくなって、“こういうこと”をして生きていくしか無くなって――」


「全部、久遠寺家がやったってことなの?」


「それ以外に無いよ」


 翼は悲しげに言った。

 胸がきゅっと締め付けられる。

 少し考えれば想像できたことなのに、なんで考えなかったんだろう。

 ひょっとして、私はまだ、あのクソ両親に一縷の望みでも抱いてたの?

 人間らしい一面が残ってるかもしれない、なんて甘ったれたことを考えてたの?

 馬鹿だ、大馬鹿者だ、きっと死んでも治らないレベルの。

 あいつらは、人間の形をしただけの、化物だよ。

 心の底から、一滴の善意もなく、邪悪に腐敗しきった、悪魔だ。


「だから、復讐のために私をさらったってこと?」


 それしかないよね。

 だって、久遠寺家は翼や、翼の家族にひどいことをしたんだもん。

 でも――彼女は首を横に振って否定する。


「それは違う。あたしはもう一度、遥と一緒に過ごしたかった。ただそれだけ」


「嘘よ、ただの友達のためにそこまでする?」


「“ただの”友達じゃない。少なくともあたしにとっては、遥はそこまでしたいと思える相手だったの」


 わけわかんない。

 私のせいでなにもかも失ったくせに、なんでそこまでして私に執着するの?

 ああ、でも……翼がわけわかんないのは、昔からだったね。

 そんで、そのわけわかんない翼の言葉に喜んじゃう私もわけわかんないや。

 わかんない。

 なーんもわかんない。

 でも、翼のそういう言葉を聞くと、胸がぽかぽかしてくる。


「ねえ遥、窓の外を見てよ」


 言われるがまま、私は外の景色に目を向けた。

 そこには月明かりに微かに照らされた、大海原が広がっていた。

 耳をすませば、波のせせらぎが聞こえてくる。

 もちろん私は、ここがどこかなんて知らない。

 だけど、この景色を見たことがあるような気がする。


「わかんない?」


「……もしかして、ここって」


 夜だったからすぐは気づけなかったけど、間違いない。

 四年前、私たちが旅行で来るはずだった、海の見えるホテルだ――

 てっきり、連れ去るのに都合のいい場所に移動したのかと思えば……本当に、全部私のためだったんだ。


「は、はは……わざわざ、こんな演出するために、私を連れてきたの?」


 さすがにこれには、私も動揺を隠せなくて。

 思わず声が震えちゃって。

 涙腺もゆるんだけど、弱さを見せるのは嫌だから必死でこらえる。

 でもそれにも限界がある。

 だって、こんなの、ときめいちゃうに決まってるじゃない。


「久遠寺家に逆らえば、今度は命だって危ないかもしれないのよ? バッカじゃないの!?」


 だから強がって、声を荒らげた。

 そうでもしなきゃ、今すぐにでも涙が出てきそうだったから。

 翼は、そんな私の気持ちも『わかってる』とでも言うように微笑んで、優しい声でささやく。


「いまさらだって。あたしの人生はとっくに終わってる。残ってるのは、遥への気持ちと思い出ぐらいだもん」


「……それはちょっと重いわ」


「そりゃ重いよ。家族に見捨てられたあたしにとって、大切なのは遥だけなんだよ?」


 そう言って、翼は額を私の肩に押し付けた。

 彼女は私がどんなに嫌がってもスキンシップを取りたがる鬱陶しいタイプだったから、私の体はすっかりその温もりに慣らされて、“心地いい”と感じるように躾けられている。

 だから悔しいけど、彼女の体温が心地よかった。

 それにしても……いくら会いたかったからって、誘拐なんてしたところで久遠寺家から逃げられるわけじゃないのに。

 どうせすぐに見つかって、翼は殺される。

 まあ、そんなことになったら私も一緒に死ぬつもりだけど――それにしたって、こんなひとときの再会のために命まで賭けるなんて、本当に翼は馬鹿よね。

 そうやっていつも、彼女は他の誰よりも私の感情を強く揺り動かす。

 気づけば私は、両腕で彼女の頭を包み込んでいた。

 翼は抱きしめられたまま私に語りかけてくる。


「ねえ、遥……もしかしたら気持ち悪いって言われるかもしれないけど」


「ええ、気持ち悪いわ」


「……まだ早いよ」


「先読みしたのよ。でも、たぶん私も同じように気持ち悪いわ」


 目を閉じる。

 狂おしく翼を求める気持ちは、別れたあの日よりも熱く、大きい。

 冷めた心の中で、まるで太陽のように輝き続けている。

 私の中にある数少ない情熱の全ては、そこから湧き出すものだ。

 ははは、クソッタレの両親め、ざまあみろ。

 あんたたちが安易に引き裂いたりするから、私たちの想いはこんなに強くなったのよ。


「前を走られるのは嫌いだから、私から言うわね」


「これまた遥らしい」


 そう、私はどこにいたって、誰が隣にいたって、私らしいの。

 自分を殺して生きていけるわけがない。

 そして、そんなわがままな私を本当の意味で受け入れくれるのは――翼、あなただけよ。


「翼のことが好き。何年も前から、ずっと」


 今さら“友達”とは呼ばない。

 この感情の大きさは、恋愛経験のない私でもわかるぐらい明白に、友情の枠組みを飛び出していたから。


「そっか……よかった。ここまでやって断られたらどうしようって、ずっと不安だったから」


「へたれ。腰抜け。甲斐性なし」


「耳が痛いなあ」


「私だけに言わせてたら、もっと痛くなるわよ?」


「……ああ、ごめん」


 翼は顔を上げて、昔みたいに馬鹿っぽく笑いながら言った。


「遥、好き。愛してる」


 胸が高鳴って、頬がにやける。

 私にもこんな、初恋に憧れる中学生女子みたいな純粋な心があったんだって驚いた。

 本来ならそういうの、『反吐が出る』って切り捨てるタイプなんだけどな。

 けど今は、湧き上がる乙女の衝動にしたがって、翼の頬に手のひらを当てた。


「本当はこの手でビンタしてやるつもりだったのにね」


 私の言葉に翼は苦笑いして、そこに自分の手のひらを重ねた。

 顔が近づく。

 自然と私たちは瞳を閉じて、唇を寄せた。

 触れ合い、その感触を噛み締めて、想いは結実する。

 唇を離すと、翼は上気した顔で言った。


「さすがにファーストキスじゃないよね、婚約者もいるんだし」


 なんてムードのない言葉。


「馬鹿なこと言わないで」


 私は翼の額を人差し指で小突く。


「私は、本気で好きになった相手以外に唇さえも捧げるつもりはないわ」


「……へへ、そうなんだ」


 でこをさすりながら、めっちゃ嬉しそうな顔してる……なによその反応、そんな顔されたら私だって嬉しくなっちゃうじゃない。


「翼こそ慣れてる感じがしたわ。いかにも腐れビッチみたいな格好してるし、どうせもう非処女のヤリマンで汚らわしく男とズッコンバッコンやることヤッてるんでしょう?」


「さすがにそれは下品だよ遥。あたしも同じ。確かに誘われることはあったし、そういう奴らがいたのも事実だけど――でも、唇もなにもかも、あたしのはじめては全部遥のものだよ」


 とか言いながら、妖艶に笑う翼。

 処女でその表情ができるわけ? 愛が為せる業ってこと? 恐ろしいわね私の恋人は!

 そうやって戦慄してると、翼は私の胸元に手をやって、服越しに乳房に触れる。


「んっ……」


 反射的に、甘い声が漏れた。

 恥ずかしさに顔が熱くなる。

 私は片手で口元を隠しながら、翼から目をそらした。


「遥、かわいい」


「やめなさいよそういうの……っていうか、まさか、するつもりなの……?」


「うん、もっと慎重にやるつもりだったけど、我慢できそうにない。嫌ならやめるけど」


「嫌なら……あんな声、出してないわ」


 私はこれまでの人生において、檻の中で許される範囲で、自分の感情に素直に生きてきた。

 檻から解き放たれた今なら、なおさらにそうだ。

 羞恥心を隠すために見栄を張ることもできたけど、本心は、翼に触られて嬉しいと思ってたから……素直に生きる私は、それを隠したりはしない。

 彼女も私が本気だってわかってるからか、そのまま器用にボタンをぷちぷち外し、私の胸元をはだけさせる。

 やっぱり慣れすぎてない? 片手で他人のシャツのボタンを外すとか、素人には無理よね!?


「ね、ねえ翼、本当にはじめてなの?」


「もちろん。でも、毎日のようにイメージトレーニングはしてたかな」


「それって……」


 一人でそういうことしてた、ってことだよね。

 私のことを想像して。


「遥は?」


 ここで聞いてくるかなぁ!

 いじわるに笑ってるし、翼のくせに生意気な。

 でも、まあ、今日は正直に答えてあげるわ。


「……したことは、あるわ」


「私で?」


「当たり前じゃない」


「嬉しい」


 翼は衝動に任せるように、再び私の唇を奪った。

 今度は激しく舌を絡めあいながら、さらにボタンを外していく。

 そして私たちは――




 ◇◇◇




 私と翼がベッドの中でじゃれあっていると、彼女は棚の上に置かれたタバコの箱に手を伸ばした。

 そして手慣れた手付きで一本取り出すと、ライターで火を点けようとする。

 私は彼女の手を強めに掴んで、ジト目で睨んだ。


「タバコは嫌い」


「わかった、やめる」


 彼女は素直に聞き入れてくれて、タバコの箱をくしゃっと丸めゴミ箱に捨てた。

 翼のそういうとこ、ほんとに好きよ。


「さっきはタバコの匂いなんてしなかったのに」


「匂いで足取りを追われる可能性もあるし、嫌がるかもしれないと思って、ここ数日は我慢してたんだ」


「そのまま一生我慢しなさい、じゃないとキスしてあげないから」


「わかってるよ、お姫様。元から付き合いで始めただけだしね」


「付き合い……ふーん、付き合いねぇ」


 たぶん、あのオレ女のことなんだろうな。

 翼とはどういう関係なのかしら。

 本当に処女だったから、そこを疑うつもりはないけど、私の知らない翼を知ってるって意味ではジェラシーを感じる。


「その髪の色やタトゥーも付き合いなの?」


「髪は嫌ならやめるよ。女で黒だと、舐められることが多かったから。体を武器にするならそれもアリだろうけど、あたしには向いてなかったんだよね」


 確かに男受けしそうな色気はあんまり無いかも。

 私受けはするんだけどね。


「タトゥーは消せない?」


「これは……アザ隠しも兼ねてるからさ」


 言われて、私ははっと気づく。

 よく見てみると、タトゥーの下にはアザや火傷の跡があった。


「誰が私の翼にこんなことっ!」


「仕事も、ってのはあるんだけど……あはは、ちょっと家族がね」


 ああ……そこまで、壊れちゃったんだ。

 あんなに、私が羨ましく思うぐらい仲良かったのに。


「ほんと、うちの親はろくでもない……」


「まったく、そこに関しては同意するしかないよねぇ」


 翼にだって恨みがないわけじゃない。

 ただ、それが私ではなく、うちの親に向いてるってだけで。

 でも全部が全部を親のせいにするわけにはいかない。

 多少なりとも私にも責任があるわけで、軽くもやっとした気持ちになっていると――ライターの横に置かれたスマホが震える。

 今度はそっちに手を伸ばす翼。


「取らないで、今はまだ抱き合っていたいわ」


「そういうわけにもいかないの」


「お姫様の言うことはなんでも聞くのが騎士の務めじゃないの?」


「そのお姫様にも関係があることなんだってば」


「私に?」


 そう言われると止めるに止められない。

 彼女は今度こそスマホを手に取り、誰かと会話しはじめた。


「もしもーし。うん、あたし。こっちはうまくいってるよ、今のところは嗅ぎつけられた気配もない。ん、そっか、そっちもうまくいったわけね。テレビを点けたらわかる? りょうかいーい、さんきゅ」


 相手はなんだから親しそう。

 またもやジェラシー。

 軽く二の腕をつねると、翼は苦笑いを浮かべた。


「うん、うん。これで最後。ん? 長い付き合い……って、まあそうか、あたしら以外はみんなくたばっちゃったもんね。腕は及ばないけど、しぶとさじゃ負けないから、お互い様にね。んじゃ、生きてまた会えたらいいね」


 通話はほんの二、三分で終わり、その後、翼はふいにリモコンを使ってテレビの電源を点けた。

 画面に写ったのは、いつもどおりつまらないニュースだ。


「通話が終わったんなら、テレビなんて見ないで私にかまって」


「その誘い文句にはそそられるけど、あれを見てよ」


 促され、しぶしぶニュースに目を向ける。


『本日、社員の内部告発によりデータ改ざん、巨額の不正融資、殺人教唆等、多数の疑いが浮上した久遠寺建設。このあと二十三時から、社長である久遠寺哲朗氏の会見が行われる予定となっており――』


 その内容は、あまりに衝撃的だった。


「……へ? うちの会社が、なんで?」


 日本を代表するゼネコンにとってみれば、不祥事のもみ消しや人殺しなんて、家を建てるよりたやすい。

 これまでも不正は腐るほど行われてたけど、表沙汰にならなかったのは、久遠寺建設が主要マスコミのスポンサーでもあったからだ。

 なのに、その本社や実家の屋敷が、リポーターやカメラマンに取り囲まれてる……。

 呆然とする私に、翼はどこか誇らしげに語った。


「協力者を募るのは簡単だった。恨みを持つ人間なんて、数え切れないほどいたから。彼らはバラバラで動けば無力だけど、統率するリーダーがいれば、あるいは巨大な組織をひっくり返す力になりうる」


「翼がやったの?」


「あたしじゃない。あたし“たち”がね」


 そう言って、翼は得意げに笑った。

 どうしよ……初めて翼のこと、かっこいいって思っちゃった。

 今までは、馬鹿な子ほどかわいいみたいな惚れ方してたけど、そこにかっこよさまで加わったら、そんなのべた惚れするしかないわ。


「これで久遠寺夫妻に、家出娘を追いかける余裕はなくなったね」


 すでに家には画像つきのメールを送り、『誘拐ではなく家出だ』というアピールをしている。

 もちろん信じないだろうから、翼は位置情報やあれこれのデータを改ざんしてたみたいだけど――彼女の言う通り、“誘拐”が確定した事実ならともかく、家出の可能性が残っているのなら、優先順位からして後回しにされるはず。

 どのみち、不正だけならまだしも、殺人教唆まで証拠有りでバレちゃったんじゃ、もう久遠寺家はおしまいだよ。


「遥はもう、自由だよ」


 翼が言った。

 お腹の奥底から、これまでの人生で一度だって感じたことのない、大きな感情の奔流が湧き上がってくる。


「翼ぁっ!」


 私は感極まって、彼女に抱きついた。

 ぎゅーっと強く体を密着させて、感触も体温も匂いも堪能すると、次は両手でしっかりと頬をホールドし、至近距離で愛しい人を見つめる。


「本当に……馬鹿ね、あなたは。私のために久遠寺建設まで潰しちゃうなんて、世界で最高の馬鹿よ!」


「最上の褒め言葉として受け取っておくね」


「当たり前じゃない! これ以上に私が誰かを賞賛することなんて無いわ! もう好きっ、大好きっ、あなたと出会えたことが私の人生における一番の幸福よ!」


 浮かれて気持ちが高ぶっているうちに、ありったけの“好き”をを伝えておこうと思った。

 どうせ普段の私は素直じゃないから、こういうときじゃないと言えないもの。

 だから私はさらに『好き』を何回も、何十回も繰り返してそのたびに顔の色んな部分にキスの雨を降らす。

 翼も嫌な顔ひとつせずに――ううん、むしろ楽しそうにそれに付き合ってくれた。


「ふふふ……私の翼。私に自由を与えてくれる、私だけの翼……っ」


 気づけばそんなポエムめいたことまで口走っていて、それでも翼は笑わずに、優しく抱きしめてくれる。

 しばらくしてキスが落ち着くと、今度はベッドの上で寄り添い見つめ合い、ピロートークみたいに触れ合いながら言葉を交わした。


「そういえばこのホテル、二泊三日しか取ってないんだけど、そのあとはどこに行こうか」


「どこにだって行けるのよね」


「しばらくは遊んでも困らないぐらいお金もあるよ。なんだったら海外だって」


「頼もしいわね。なら……あのとき、翼が行きたがってたところはどう?」


「遥が行きたいところでいいんだよ」


「翼が行きたい場所は、私が行きたい場所でもあるの」


 そんな私らしからぬ言葉が自然と出てきてしまうぐらい、胸いっぱいに幸せが満ちていた。




 ◇◇◇




 そして私たちは、自由気ままな旅に出る。

 家に縛られることもなく、行きたい場所に行って、飽きたら立ち止まったっていい。

 全ての選択を、私たち自身で行えるという充足感。

 もちろん旅にトラブルはつきもので、時に面倒事に巻き込まれたりもするけれど、それさえも自分の選択によるものなら楽しく感じられる。

 満ち足りた日々の中、私たちはいつまでも仲睦まじく、なにに縛られることもなく、その後の人生を共に歩み続けた。

 まあ、仲睦まじくといっても――例の無課金雑魚プレイヤーが、私の行動を探るために近づいてきた翼だってことがわかったときは、さすがに喧嘩になったけど。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

翼をください kiki @gunslily

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ