第3話 乙女と大人
今日は珍しく目覚まし時計を使わずに日光の力だけで目覚めることができた。市護は朝に弱く、いつもならチャイムで無理矢理叩き起こされて低血圧な状態で学校に行く。そのせいで不機嫌に見られてしまうのだが今日は体はスッキリしていた。昨日のこともあってか憂鬱な気分は抜けており、ベッドからするりと起き上がることができた。
「よし、起こそう」
昨日までは一人暮らしだったがこの家には新たに同居人が増えた。自室を出て旧母の部屋の前まで行くと扉をノックした。
「紗南さん、朝ですよ」
「……うーん。後五分~」
「そ、そうですか……」
扉の向こう側から紗南の声が聞こえた。最初見たときもそうだったがよく眠る人である。一緒に暮らすようになったが規則正しい生活リズムを送っている市護とは違い紗南は特に学校とかに行くわけではないので別段朝に起きないといけないわけではない。もちろん土曜日の市護にもそれは当てはまるのだが彼には彼でやることがある。
一旦起こすのは諦めた市護は風呂場に行き、風呂のスイッチを入れた。昨日色々あったのでお風呂に入っておらずさっぱりしておきたかったのであった。風呂が溜まるまでの間朝ごはんの準備、布団干し、洗顔など一人暮らしの身にはやることが尽きない。すぐに風呂が沸き、浴場に向かった。
「ふぅ、それにしてもすごかったな……」
風呂に入りながら昨日のことを反芻した。自分にだけ視える綺麗な女の人、幽霊ではなく幽体なのだが初めて見た衝撃は大きかった。またそんな人と一緒に暮らしていると考えるとまたドキドキしてきた。
「ダメだダメだ。意識しすぎると心臓がバクバクしてしまう。一旦落ち着こう」
強面の市護とは言え、怖いのは見た目だけ。中身は普通の高校生であるので年上の美人お姉さんと同居というのは精神的にも毒である。
「綺麗な紗南さんと……これから上手くやっていけるのかな……」
目を閉じて色々なことに考えを巡らす。すると様々な不安が押し寄せてきた。特に紗南さんの肉体についてである。自分には特に霊的能力があるわけでもないし何も手助けができないかもしれない。しかし市護は昨日の紗南の悲しそうな顔を忘れてはいなかった。
「……まぁ、なんとか頑張るしかないか」
「うんうん。その意気だよ!」
「ありがとうございます」
今までの市護ならおろおろして前向きには受け止められなかっただろう。しかし昨日の出来事で少し人間的にも成長したのかも知れない。そう、紗南もこうして応援して……え?
「さ、ささささ紗南さん!? こ、ここ……お、お風呂!?」
「おはよう市護君!」
「な、ななななんでここに」
一応入浴剤を入れてお湯が濁っているとは言え真っ裸の状態でバッタリと出くわしてしまった。男同士でならば別段恥ずかしくないが目の前にいるのは昨日出会ったばかりの女の人。体を縮こめて驚きの表情で見る。
「こら、おはようって言ったらおはようって返すのがマナーでしょ。挨拶は大事だよ」
「え、あ、お、おはようございます……ってそうじゃなくて! なんでここにいるんですか。というか恥ずかしくないんですか!?」
どうしてこの人は男の裸を見て平気でいるのだろうか。実質21歳とは言ってもまだまだ年頃のレディであり、恥じらいと言うものがないのだろうか。
「うん。私時々透視できるみたいで裸見ても特に何も感じないよ。昨日も時々見えてたし」
赤裸々に話す紗南に市護は顔を真っ赤にしていた。思春期男子が喉から手が出るほど欲しがる能力で見られていたと知り、非常に恥ずかしくなった。挙動や仕草だけ見ると市護の方がよっぽど乙女である。
「あ、そうそう私代謝しないから朝ご飯いらないからね。お風呂も入れないし」
それだけ言うと風呂場から出ていこうとしていた。まさかそれだけ言うためにわざわざ人の入浴中に乱入してきたのだろうか。食べないとかは正直予想はしていたがタイミングがおかしいのである。
「……肉体戻ったらさ」
「は、はい」
「一緒に入ろうか?」
「な……っ!」
「アハハ、冗談だって。可愛いなー」
からかうためだけに来たようだ。肩どころか頭まで湯に漬かっていた市護はぶくぶくと気泡を生み出していた。
「ごちそうさまでした」
「ねえ、今日時間ある?」
「はい、ありますけど」
「それじゃあ早速だけど病院に来てくれないかな?」
「病院って……ああ紗南さんの本体があるところですね。大丈夫ですよ」
こんなこともあろうかとしなければならない課題等は昨日の内に片付けている。行く時間は十分にあった。それに紗南のことをもっとよく知りたいという市護の気持ちもあった。二人はしばらくしてから朝早い内に出かけた。病院は東京内にあるのだが歩いていける距離ではなかったので電車で行くことになり、およそ一時間後に病院に着いた。
「ここですか? ずいぶん時間がかかりましたね」
「事故してから動いてないからね。私の家の近くの病院がここだからね」
紗南と市護の家はお互い結構な遠距離に位置している。だからこそ二人が出会うのに三年もかかったのである。紗南の周りには紗南を認知できる人間がいなかったのである。
「それにしてもさっきの電車内すごかったね。皆サーッて避けて」
「まぁ、いつものことですから」
身長186cmの怖そうな大男がいきなり電車に現れたことですでに乗っていた乗客たちが蜘蛛の子を散らすように市護の周りを避けていた。近づいたら殴られそうという怯えられているという雰囲気を察する力は紗南よりも上であると思っていた。紗南は乗っている間たくさん話しかけていたが全て無視していた。誰もいないにも関わらず誰かに話しかけているところを見られたらますます人が遠ざかってしまうからだ。市護はメモ帳に打ち込んで筆談で返事をしていた。今会話をしているのは周りに人がいないのを確認したからである。
「うん? 市護君入らないの?」
「僕はここで待っています。僕が入るとパニックになりそうですし」
これは物事をマイナスに捉える思い込みだけではなく、実際の経験に基づいて判断した結果である。一年ほど前に街中で倒れている子を病院まで運んで行ったときに受付の人が過剰にビックリして病院内の他の患者の人たちが怖がっていた。そういうことがあったため病院内で待っていようと思っていたのである。
「うーん、そっか……あ! じゃあ携帯貸して」
「携帯ですか? あ、はいどうぞ」
紗南は携帯を預かると病院方向にピューっと浮かんでいった。六階の窓際の一室がカーテンで遮られており彼女はそこで静止した。どうやらそこが彼女の部屋らしい。室内には人がいるようなので大きな物音は出せない。紗南は気づかれないように窓を携帯が入るくらいのスペースで開き、録音モードに切り替えた。
およそ十分後、紗南は地上に舞い戻ってきた。傍から見ると携帯がひとりでに浮いているように見えるがどうやら周りに人はいないようだ。
「お待たせ。録音してきたよ。早速聞こうか」
ベンチに座り先ほど録音した音声を再生する。中を撮ろうとすると気づかれる可能性があったのでカーテンしか映っていないが音声は問題ないようだ。しばらく無音が続いた後扉の開く音がした。
『お待たせしましたお母さん。一か月ぶりですね』
『はい。それで娘の状態に変化はあったでしょうか』
『残念ながら……これといった変化はございません。それで、本当によろしいのでしょうか?』
『……娘が眠ってもう三年が経ちました。もう回復する兆しも見られませんしこのまま辛い思いをするなら……』
『あと一年の内にこちらとしても全力を尽くしたいと思います』
『はい。よろしくお願いします。それでは失礼します』
『……お大事になさって下さい』
音声はここまでであった。紗南は市護の後ろで見ていたが振り向かずとも悲しげな雰囲気は伝わってきた。
「紗南さん。今の人たちって……」
「私のお母さんとお医者さん。ああやって三年間付きっきりで看病してくれているの。二人とも忙しいのにね」
紗南の主治医はこの病院の中でも高い地位にいる人であり受け持っている患者は山ほどいる。紗南の母親も多忙な毎日を送っており中々来ることができないでいた。しかし二人はいつか快復することを信じていた。
「とりあえず今日やることはこれだけ。じゃあ帰ろうか」
「……紗南さん。何か僕にできることはありませんか」
帰ろうとする紗南を市護は引き留めた。安請け合いはしたと思う。自分の力量と見合っていないことを引き受けたのは事実である。しかし昨日も思ったが簡単に諦めるにはまだ早すぎる。それを直に目にして感じ取った。今すぐにでもお手伝いをしたいという気持ちに駆られていた。
「ありがとうやっぱり優しいね。でも今はどうすることもできないからね。下手に動いて面倒事が増えるのも困るし。気持ちだけ受け取っておくよ」
当事者であるにも関わらずしっかりと客観的に自身を観察することができている。三年も経ったからある意味達観していられるのだろうか。いや、期限はあとたった一年である。発狂してもおかしくないが紗南はどっしりと構えて冷静にしている。焦る気持ちを抑えて前をしっかりと見据える様は市護よりも遥かに大人であった。
「それに君も学校とかあるでしょ? その時間を奪いたくないんだよ」
「で、でも……」
「できるときでいいから。ね?」
少女のような可愛らしい仕草の中に大人の貫録を垣間見た。市護はそれ以上は何も言えなかったが昨日よりもやる気が倍増していた。ひとまず自分にできることから始めよう。そう心に誓い、病院を後にした。
次の日からやる予定だった部屋の掃除と様々な授業の予習に加えて医学の勉強も加わった。図書館に行き紗南の症状に役立ちそうな文献を読み漁った。しかし素人も素人なのでチンプンカンプンであり、それが市護をさらに暗い気持ちにさせてしまったのであった。
紗南さんが憑依します! 海老の尻尾 @nattyannsann
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