半身
下村アンダーソン
半身
わたしはときどき、左手の指先に針を押し当てて、皮を突き破るか否かのすんでのところで均衡を保たせながら、その甘やかな感覚に痺れてみることがある。
左腕は鉛のように重く冷たく、ぶたれても水をかけられても焼き鏝を押し当てられてもなんとも思わないものだから、ママに御仕置きされているときでもまるで他人のことを傍観するかのような気分になる。
そんなふうだから、ようやく敏感な極小の一点を見つけ出せたときの慄きは忘れられない。もっとも、わたしが一日じゅう針と糸を手にしていなかったらこの方法を思いつけたかどうか怪しいのだけれど。その点ではママに感謝しなければいけない。がたついた窓に布切れを吊るした昼間でも仄暗い部屋にあっても、こんなに素晴らしい愉しみを見つけ出すことができたのだから。
たまに力加減をあやまって、人差し指に紅い玉がぷっくりと浮きだしてしまうことがあった。それにしばし見惚れたあとで口に含み、舌先で転がしてみると、なんと思ったとおりに甘いのだ。その味がどれほどわたしの喉を喜ばせたろうか。背筋にぞくぞくと走るような感覚――誰にも知られたくないような秘密を目の当たりにしたような感覚が、わたしを溺れさせた。わたしはたちまちに虜になり、それからは散々に焦らしたのちに肌を穿つようになった。
蝋燭の灯りで手元だけを照らしながら、半ば手探るように己の柔らかいところをちくちくと苛めるわたしの姿は、どれほど惨めに見えたことだろう。それでも、わたしはこうして自分を慰めることをやめられはしなかった。
そんなわたしを見かねたか、ママはあるときから必要最低限にしかこの部屋に足を踏み入れなくなった。命令は扉越しに聞かされた。ライーサのための服を縫いなさい、そうママは言った。
わたしはドアの隙間から差し入れられた布を鋏で断ちながら、どんな服に仕立て上げようかと考えた。ライーサはどんなお洋服を好いていたか――あれほどいつも一緒にいたというのに、ちっとも思い出すことができないのだ。
ちっぽけな頭を悩ませながら、わたしは使い慣れない鋏に手こずっていた。針のようにわたしの思い通りには動いてくれない。だから無性にいらいらして、いつものように一人遊びに耽りたくなった。
鋏は遊びの道具としてもあんまりいいものではない。もちろん試してはみたのだ。何しろ左手の指は五本ある。小指は先のほうから、薬指は根元から、二度に分けて綺麗に切り落としたのだ。それでも例の甘美な感覚は訪れず、ただどす黒い血がどくどくと噴き出してくるばかりだった。切り口を咥えてみても味気ない。鉄錆のようなざらついた苦味があるだけだ。
止血のために貴重な布を無駄にしたとママに咎められ、背中を鞭打たれたのはいつだったろうか。そのときは壁といい床といい部屋じゅうを汚して、片付けるのに馬鹿みたいな労力を費やす羽目になった。これ以上布を粗末にしてはいけないと思い、ママが出て行ってから飛び散った体液をすべてわたしが舐め取った。黴臭いささくれ立った木目に舌を這わせながら、それでも染みになってしまった箇所には唾を吐きかけて熱心に擦った。
そうまでしたにしろ、部屋の環境になどわたしは興味がない。しゃがみこむだけの場所があればいい。椅子もあればなおのこといい。眼も利かないのだからせいぜい手元だけが見えれば仕事に支障はない。
そう、仕事の話だ。ライーサのことだ。あの娘はとても愛らしい少女だった。わたしたちは無二の親友だったし、家族だったとも言えるかもしれない。そうでしょう? ママ。
むろん返事はない。ライーサがあんなことになってしまってからというもの、ママはどこかおかしくなってしまった。夜な夜な交霊会というものに出かけては、ウィジャ板の示す言葉を受け取って戻ってくる。ウィジャ板は命のないものの意思を代弁することのできる道具だそうで、それによるとライーサはお洋服が欲しい、とのことらしかった。
だからわたしは服を作った。左腕が、というより身体の左半分がまともに動かない身にはなかなか辛い職務だ。何日もかけてどうにか仕立てた服を扉の隙間から外に滑らせておくと、ママがそれを拾って持っていったようだった。
それから数日して、今度はライーサの脚を作れ、とママは命じた。ライーサがあんな目に逢ったのはおまえのせいなのだからおまえがどうにかしろと怒鳴りながら。
ライーサに不幸があったのはわたしのせいだろうか。確かにあのときわたしはライーサと一緒に遊んでいた。わたしに夢中になるあまりライーサは不注意に道に飛び出して、車輪の下敷きになった――それがママの言い分だった。
わたしが己の役割に没頭するあまり、いっさい警告を発しなかったのは事実だ。いつだったかライーサはわたしに言ったのだ。いい、あなたはお人形さんなんだから。一言だって喋っては駄目よ。じっとして、おすまししているのよ。
誰のせいにしろライーサは車に轢かれた。片腕はおかしな方向に折れ曲がり、太腿から下は千切れていた。
わたしはライーサの小さな身体を思い出しながら、木片を軸にして布で覆い、綿を詰め、粘土で固めて脚を作った。ほんとうにこのくらいの大きさだったろうか、できあがったそれはわたしの掌にすっぽり納まってしまうほどしかなかった。
いつものようにそれを扉の外に置いておくと、やがてママがやってきた。ママは珍しく扉を開けて、これでは駄目よ、作り直しなさい、と強い口調で言った。その右腕にライーサを抱いていた。ライーサはわたしが縫った服を着せられて、すまし顔をしていた。
ちょっとだけライーサを貸してくれれば、きちんと寸法を測って作り直すのに。そう思ったけれどわたしは口を利けない。しかたないのでライーサの姿を凝視した。
かわいいライーサ、まるでお人形みたい。ラドールのきめ細やかな肌、金色の豊かな髪。
ママが出ていったときにかたん、と軽い音がした気がした。床に目をやると、落ちていたのは青い硝子球だった。
ライーサの瞳だ。わたしは椅子から崩れ落ちるようにして降りると、右腕だけで床を這いずって、ようやくそれを摘み上げた。
半身 下村アンダーソン @simonmoulin
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