人魚は夢を希う

玉山 遼

人魚は夢を希う

 気がつくと、そこは海だった。

 さざ波の音は心地良く、太陽が帰ろうとしている海原は、橙色と空の青が混じった色をしていた。差し迫る夕闇に抗うように、輝いていた。

 僕は浜辺に置かれている椅子に腰かけ、同じく置かれているテーブルに肘をついている。海のうつくしさに見惚れるあまり、隣に座っている女性にはしばしの間、気づかなかった。

 女性は、茶色く毛先のうねった髪を、指で弄んでいる。巻きつけては放し、巻きつけては放し。表情はよく見えなかったけれど、煉瓦色のワンピースは小麦色の肌によく似合っていて、夕焼けの光はその肌に照り映えていた。

 僕は、その人と恋仲らしい。誰かと恋仲になったことがないくせになぜ分かるのか。でも、分かるのだ。二人の間に漂っている空気が、穏やかで、それでいてどこか張り詰めていて、落ち着くけれど微かな緊張を孕んだそれが、心地よかった。

「ねえ」

 やっとその人の声を聞く。長い時間過ごしていたのに、声を聞いたのはこれが初めてだった。

「起きて」

 起きて? 僕は眼を開いてあなたを見つめているというのに、どうして。

 口を開こうとした、その途端、夕陽がとぷんと海に沈んだかのように、真暗になった。

 やや後に、結の呆れ顔が、講義室を背景に浮かび上がる。さざ波の音は、クーラーの動く音だったらしい。

「……夢かよ」

「は?」

「いや、なんでもない」

 教壇を見ると教授は既におらず、周囲は騒がしく、立って歩いている奴もいた。

 僕のノートにも、レジュメにさえも、書き込みはない。結のノートたちとは対照的だ。テストも近いのにどうするの、と結はそれらを差し出す。

「寝ているとき、なんかニヤけてたけど」

「んー、良い夢見たんだよな」

 夢の内容を話すと、結は眉間に皺を寄せながら、至極つまらなそうに「ふぅん」と言い、短い髪を耳にかけた。

「谷本の妄想はどうでもいいけど、さっさとノート写してよね」

「妄想じゃねーよ。あれ、今日シフト入ってたっけ?」

「そう。あんたもでしょ? ほら、早くして」

 結に急かされ、手を動かす。動かしながら、考えているのは先程の女性のことだった。

 講義の最中に見た夢。たったそれだけだというのに、脳裏にこびりついて離れない。いくら教授の話がつまらなくったって、夢がここまで鮮明に残ることはなかった。

 バイト先へ行く途中、歩きながらさまざま思い巡らせていた。

 あの人はどんな顔なのだろう。長くて、柔らかそうだった髪。それに触れたらどんな心地なのだろう、どんな香りがするのだろう。僕たちはどうして恋仲だったのだろう。まさか運命の人だったりして。バイト先に、お客様として来たりして。

 すると結に小突かれる。ぼーっとしてると、車に轢かれる、と。

 バイト先はカフェ、と言うより喫茶店、と言った方がしっくりくる、昔ながらの店である。夜はバーになる関係もあり、店主のことを僕たちが「マスター」と呼ぶのも、この店の雰囲気に合っていると僕は思う。結は「マスター」呼びがどうにも気に食わないのか、お客様の前以外ではマスターを「店長」と呼ぶ。

「なんか居酒屋みたいじゃん、店長だと」

「店長であることに変わりはありませんから」

「結ちゃんは冷たいなあ」

 以前、結とマスターはそんなやり取りをしていた。

 バイトは僕たち二人きり。マスター、結、僕で、テスト期間中はシフトが減る。それでも切り盛りできるほどの小さな店だ。

 薄暗くて、コーヒーの香りがして、ジャズが流れる喫茶店。ド田舎から上京してきた僕にとっては、カッコいい大人の空間そのものだが、生まれも育ちもここである結にとっては、特に何の感慨もないらしい。

 結は高校生のときからここで働いている。受験期間のブランクはあれど、大学から始めた僕なんかよりずっと手際がいい。

 教えてもらい、会話を交わすようになって、大学も同じことから、僕たちは仲良くなった。初めてできた女友達に最初はどぎまぎしたが、今となっては特に何とも思わない。ただ、手際が悪いと叱られる。叱るときの結は、それはもう怖い。そんなものだから特別、女として見なくなっていた。

 今日は少し空想気味で、手際が悪かった。結はまだ気づいていないが、それに気づいたマスターは、

「結ちゃんに叱られるぞぅ」

 と囁いてきた。それに驚き、危うく拭いていたコーヒーカップを落としかけた。マスターも驚いていた。

 しばらくするとまた、夢のことを思い出してぼんやりしてしまう。それを繰り返し、とうとう結に叱られる。それを見ていたマスターは、「おー、こわ」と面白がっていた。

 バイト終わりに、マスターに呼び出される。さすがに注意を受けるのだろうか。

「谷本、今日は心ここに在らず、って感じだな。何があったんだ?」

 僕は少し拍子抜けして、まずはぼんやりしていてすみません、と謝った。それから、講義中に見た夢の話をした。素敵な人だった話も。

 するとマスターは「童貞拗らせたか?」と茶化してきたので、それ以上話すことは止めた。

「ま、気ぃつけろよ。カップ割って怪我したら大変だからな」

 マスターの優しさが身に染みる。そういえば、あの人は来なかった。さすがにそれは、出来過ぎか。


 気がつくと、そこは海だった。

 海の様子も同じで、僕は浜辺の椅子に腰かけ、テーブルに肘をついている。隣を見ると、期待通りあの人がいた。見たい夢を二日続けて見られるのは、幸運かもしれない。

 僕はその人の頭を撫でていた。心地よさそうに、身を委ねている。長くて、ふわふわした髪は、指通りがとても良かった。


 夢だと知って見た夢ではあったが、目を覚ました瞬間、落胆した。

 おそらくあの人は僕の妄想が作り上げた人物であって、運命の人なんかではない、とは端から分かってはいたが、それでも、とバイト中に来店されるお客様をついまじまじと見てしまった。

 その翌日も、同じ夢を見た。寝覚めは最悪だ。もっと寝ていたかったと思うほどだった。

 もう一度夢を見ようと布団を被るが、けたたましいアラーム音に引きずり戻される。仕方なしに起きて、大学へ向かった。

 再履修中の語学でも、僕は寝た。夢を見られやしないかと。

 見られたことは見られたのだが、すぐにチャイムで現実に引き戻されてしまった。どうしても続きが見たかったので、男友達の昼飯の誘いを断って、食堂から離れた階の空き教室で寝た。

 夢の中で、僕は女性の肌に触れていた。さらりと乾いているのに、掌に吸い付くような触り心地は、経験したことのないものだった。華奢ではあるが、骨と皮だけではない、健康的な身体つきだ。よく見ると、指先には夕陽とよく似た色のマニキュアが塗られていた。

 その肌触りも、身体つきも、爪の先までもしかと覚えている。覚えているのに、目覚めて隣に彼女がいないことが不思議だった。どうしてだろうか、しばし考えて、あれは夢であるから、と納得がいくまで、かなりの時間を要した。

 ふと窓の外を見るとすでに夕暮れ時で、昼飯後の三限と四限の講義に出席もせず、代返も頼まなかったことを思い出した。

「テスト、近いのに……」

 まあ、なんとかなる。そう思わないとやっていられない。リュックを背負い、帰路についた。

 その晩、結からスマートフォンにメッセージが来た。

「谷本の友だちに、アイツどうかしたの? って訊かれた」

「どうかした?」

 昼飯を断ったことだろう。そういえば、今月限定のつけ麺を食べに行くとかで、普段の僕だったら一も二もなく飛びついたであろうことを言っていたような気がする。それで心配したのか。

「どうもしてない」

 結にまた夢の話をしたら叱られそうで、何も言わないでおいた。すると「あっそ」とだけ来て、やりとりは終わった。そうして僕はまた眠りの世界へと足を踏み入れた。

 それから何度も、あの人は夢に出てきた。夢に出てくるたびに、うつくしく、魅力が増していて、僕は夢が色鮮やかになっていくようだと感嘆した。

 表情は相変わらず見えない。顔つきも分からないままだ。それでもうつくしいし、煉瓦色のワンピースが風にたなびく様はいつまでも見ていられる。

 なのに、うっかり目を覚ますとそこは味気ない僕の部屋で、海辺ではないし、外からは排気ガス臭い風しか吹きこまない。

 表に出ても、自然と呼べるものはない。ほぼほぼが人工物で、海はない。あってもどぶのように汚い川だけだ。

 大学へ行っても授業はつまらないし、友達と一緒に食べる昼飯も、味がいまひとつ伝わらない。

 髭を剃るのも億劫で、ここのところ無精髭で顔の下半分が埋まっている。テストが近いので、バイトがない。すなわち剃るための決定打に欠けている。鏡を見ても、覇気の無い僕しか映らず、それを見ながら剃るのもなんだか嫌だった。

 だんだんと、日を追うごとに、確実に、寝て起きるほど、色褪せていく。

 現実と、僕の存在が。

 そのうち、大学へ行くこともしなくなり、寝て過ごすようになるだろう。その日は、決して遠くない。なぜなら夏休みが迫っているから。

 テストもどうでもよくなった。再々履修が確定した語学のテストでは、名前と、書けるところ数か所だけを書き、あとは寝た。そのときも、あの夢を見た。

 夢では、彼女が誕生日を教えてくれた。八月の中旬。もうじきだ。起きた頃には、彼女に渡すプレゼントのためにバイトをしなくては、と考えていた。

 マスターには、急遽シフトを入れてもらえないか掛け合った。テストはどうなんだ、と訊かれたので、ひと段落ついた、と答えた。

 そうして髭を剃り、入れてもらったバイトの最中、僕は彼女のことを考えながら働いた。

 どうしてそんなに必死に働くの、と問われたが、曖昧にした。誕生日プレゼントを買いたくて、なんて言ったら茶化されてしまいそうだから。

 この薄暗いバーカウンターで一緒にカクテルを飲む。それも素敵かもしれない。

 視線が気になって、マスターを見る。怒っている、とは違うが、険しい顔つきで、僕の足元を見ていた。


 そこは僕の働く喫茶店のバーカウンターだった。カクテルを飲みながら、誕生日に欲しい物はあるか、僕は尋ねていた。

「うーん、テディベアが欲しい」

 声は聞こえなかった。しかし、そう言ったことが分かった。茶目っ気溢れるしぐさと、目の輝きから、本当にテディベアが好きだと伝わってくる。特にどこのメーカーが好きなのか。返ってきた答えを後々調べると、かなり値の張るテディベアがずらりと表示された。

 そのために僕は働いた。講義も、テストも放り出して。

 スマートフォンのアプリには、友達からと結から、何通かメッセージが入っていた。

「テスト来ねーけど大丈夫か?」

「谷本、次のテストの範囲わかってる?」

 そうやって現実に引き戻さないでほしい、鬱陶しい。そうして、アプリを端末から消した。マスターとのやり取りはメールで行っているから、別段問題はない。そうして僕は給料を増やすべく、彼女のことだけを考えていた。

 七月も終わりのころ、テストが終わったのか、結のシフトが入っていた。そこに僕はかち合う。

「久しぶり」

 結は不機嫌そうに、声をかけてくる。そんなに嫌なら声をかけなければいいのに。

「あのさ、谷本」

「何?」

 結はエプロンを身につけながら、僕の目を見る。つい、視線を落とす。結の爪には、何の装飾も施されていない。

「単位、いくつ落としたと思う?」

 それから結は、ちゃんとしなきゃ。何のために大学へ来たの。親御さんは心配していないの。と立て続けに僕を責めた。

 聞いているだけで嫌になってくる。僕は彼女と話がしたい。しかめっ面の結ではなくて、微笑んでくれる、誕生日がもうすぐの、テディベアが好きな、彼女と。

「それに――」

「なあ、結。お前、何様のつもりなの?」

 しまった。と思ったときにはもう遅く、口から滑り出ていた。結は口を真一文字に結び、わなわなと震えている。これはどんな怒号が飛ぶか分からない。

 僕は身構えた。しかし、結は僕に背を向け、ホールへと出て行ってしまった。


 そこは僕の部屋だった。味気ないと思っていたが、彼女がいるだけで華やぐ。バイト先の子と喧嘩をした話をすると、女の子には優しくしなきゃ、と軽く叱られた。それも微笑みながらだったので、すんなりと受け入れた。

 誕生日、もうすぐだね、と言うと、やっとお酒が飲めるの、と声を弾ませた。どうやら、僕と同い年らしい。そんなことすら知らなかったなんて。

「ねえ、そんなことより」

 唇がそう動く。彼女は僕の肩を軽く押し、横たわらせた。そして――。

 目を覚ますと、心臓が恐ろしいほどに速く打っていた。幸い下着は無事だ。未遂だし。でも、隣に彼女がいない。同じ部屋のはずなのに、彼女がいないだけで、素っ気なくてつまらない部屋に思えてくる。

 そしてバイト先へ向かう。そこで待っていたのは、恐ろしい顔をしたマスターだった。

「お前、結を泣かせたろ。謝ったのか?」

 あまりの気迫に、声が出なかった。

 あの結が、泣く? 彼女なら、はらはら涙を落とす姿すらもうつくしいだろうが、結が泣く姿なんて想像もつかなかった。

「マスターには、関係ないことです」

 やっとのことでそう口にする。するとマスターは大きく荒く、息を吐いた。

「あのなあ、今のお前じゃ仕事にならないんだよ」

「どうしてですか。ミスもしていないのに、そんなの心外です」

「心がこもってない。どうせ夢見心地なんだろ、そんなんで仕事されても困る」

 それに、と言い差して、言い淀む。視線をうろうろさせた後ようやく、言いたかないし、信じたくもねえけど、と続けた。

「お前の足、透けてんだよ」

「……は、」

「夢の世界に片足突っ込んでんだ、無理もねえ」

 僕は自分の足を見下ろした。確かに、指定の黒いローファーから、木張りの床が透けて見える。

「なん、で」

「そんなのオレも知らねえよ。とっとと、目ぇ覚ませ」

 そう言われ、僕は帰された。シフトも消されて、することがなくなってしまった。

 夢の世界に、入りかけている。

 つまり、このまま眠り続ければ、夢の世界で生きていけるのではないだろうか。

 それは僕にとって最高に幸せなことだった。すぐさまスーパーへ赴き、冷凍食品を買い込んで、自室に籠ることにした。何日で身体全体がすっかり消えるのか、見当がつかなかったが、ざっと二週間分ほどだろうか。

 そうして、眠りについた。


 そこは、甘美な世界だった。彼女と共に寝起きし、彼女と共に食事し、彼女と交わる。交わりは緩やかなものではあったが、僕にはそれで十分だった。

 彼女の豊かな髪が身体をくすぐる。僕はその髪に口づけをし、甘やかな香りを自らも纏うように彼女へ身体を寄せる。どの瞬間も、うつくしい瞬間だった。貝の中にいるようだった。

 しかし時折目を覚ます。仕方なしにおいしくもない冷凍食品をぼそぼそ食べ、余ったものはそのまま棄てる。部屋中が饐えた臭いで満たされている。堪らなくなり、僕は眠りにつく。

 そんな日々を何日も過ごした。最初のうちは長く一緒にいられて嬉しい、と言っていた彼女の空気は次第に強張り、このままじゃいけないよ、と言い出し始めた。

「ちゃんと起きて、ちゃんと生活しなきゃ」

「どうして? 僕はあなたと一緒にいられれば、それでいい」

 初めのうちは、そういえば微笑んで口を噤んだ。しかし、日が経つにつれて、声の切実さは増していった。早く目を覚まして、と。

「このままじゃ、あなたをダメにしてしまう」

 そう言われても彼女を優しく抱きしめれば、うやむやにできた。けれど以前のように、二人で蕩けていられなくなった。

 ある日、私と別れてほしい、と切り出される。なぜかと問えば、あなたをダメにしてしまうから、と苦し気に言った。

「いいんだ、そんなの。あなたの為ならダメになったっていい。透明になったって」

 彼女も心から別れたがっているわけではないから、抱きしめればまた大丈夫だろう。腕を伸ばし、身体を寄せようとする。しかし彼女は突っぱねた。

「いい加減にして」

 頬に軽い衝撃を受ける。ぶたれた、と気づくと、夢の世界が壊れだした。

 それはさながら人魚姫の鱗が剥がれていくようだった。一枚いちまい、はらりと落ちては断片がきらきらと輝くが、次第に輝きは薄れていく。

 壊れて、剥がれて、僕たちを包んでいた貝は、僕の部屋へと戻っていた。

 夢の欠片は全て輝きを失い、最後に残った女性だけが、ほんの僅か、輝いていた。しかし、なぜそんなにこの女性にのめり込んだのか、わからなくなっていた。

「ダメなの。谷本は起きなくちゃ」

 女性が初めて、僕の名前を呼んだ。そして頬の辺りにぽつりと、雨のようなものが当たる。部屋の中なのに。

「起きて」

 その声は、知っている人の声だった。

「あなたが好きなの、わかって」

 泣き笑いのその表情は、光に包まれて全ては見えなかった。でも、その顔は――。


 ☆


 その顔は目の前にあった。髪は短い。しかし、あの女性と同じ顔だった。

「……結?」

「大家さんに、鍵借りた」

「なんで」

「――何日もメッセージ無視して。友達誰一人にも連絡入れないし。マスターも見ていないって言うから」

 結は、幾分低い声でゆっくりと話す。

「どれだけ心配したと思ってるの」

 その低い声は鼻声であるとわかったため、いつもの迫力はなかった。

「ゴミ出し手伝うから、起きて」

「お、おう」

「そんなに夢が良かった?」

「いや……」

「谷本がいないと、寂しい」

 その言葉に、はっと顔を上げて結を見る。そっぽを向いているが、耳が真っ赤に染まっていて、なぜか、なぜだか、胸が締め付けられるような心地がした。

「って、友達や店長が言ってた!」

 そしてその場で、メッセージアプリを入れなおし、友達に詫びた。

 ゴミ出しを終え、結を帰し、髭を剃ってシャワーを浴びた後、マスターのもとへ謝りに行った。靴を履くときに確認したら、足はもう透けていなかった。

「大変ご迷惑をおかけしました」

「なーに改まっちゃってんの」

 そして、夏休み中のシフトを書き込んだ。追試の日は外してある。

「結ちゃんにはちゃーんと『お礼』しろよな」

 なぜお礼を強調する? しかし、お礼はしなくてはいけない。何が良いだろうか。

「そういや結ちゃん、もうすぐ誕生日だな」

「えっ?」

 カレンダーを見ると、今は八月の中旬だ。聞けば日付も、あの女性と同じだった。

 結は普段、可愛いものが好き、という性格には見えない。しかし。


「先日は、多大なるご迷惑を……」

「口上はいいから! 次からはちゃんとしな」

 マスターに教えてもらった、結の好物であるオムライスの店。僕は結に昼飯をごちそうする約束をしていた。

 オムライスはふかふかしていて、固まっているそれを切ると、中からとろとろの卵が溢れ出す。昔ながらのケチャップライスに、結はご満悦の様子だ。

「それでなんだけど、これ、お詫びの品です」

「えぇ?」

 そんなもの、用意しなくていいのに、だのなんだかんだ言いつつ結は素直に受け取った。そして、包みを開けて目を真ん丸くする。

「私、ここのテディベア、すごく好きなの。……なんでわかったの? 店長?」

「そうじゃないんだ。結は嫌がるかもしれないけど――」

 僕は、夢の内容を話した。女性の顔も、声も、結に似ていたこと。そしてそこのテディベアが好きだと言っていたこと。

「……な人の夢に出る、って言うもんね」

 結はとても小さな声で、独り言らしきことばを呟いた。それは、中学だか、高校だかで習ったことだった。

 あの女性は、結の理想の姿だったのかもしれない。夢は理想を映す鏡、とも言うし。

 僕は顔を火照らせながら、そっと結の手に触れる。結の手はぴくりと跳ねたが、抵抗しなかった。水仕事でかさかさで、痛々しいほどの手。あの女性のなめらかな肌と対照的だ。

 なのに、どうしても離したくない。なぜだろう。なぜなんだろう。

「今度、どこかに行こう」

「なに、その漠然とした誘い方」

 結は照れくさそうに笑う。僕はシフトの空きを、頭の中で探していた。

 八月も中旬を過ぎ、入道雲が大きく立っている。

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人魚は夢を希う 玉山 遼 @ryo_tamayama

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