となり近所の殺人事件

@suzukiyume

となり近所の殺人事件

Ⅰ となりの家の殺人事件

 1 取り調べ

 一言でいって狭かった。テレビなんかで見るよりずっと圧迫感がある。

(狭い)

 窓はあるが小さいし。奥の間に連れられた小鈴は、自分の状況が徐々にわかってきた。小鈴の額にじっとりと冷たい汗がにじんだ。

(まずい)

 カメに似たおやじの顔が迫ってきた。

「あんたねえ、こっちだって、何の根拠もなく呼んだ訳じゃないんだ。第一にあんた、病院じゃすこぶる評判悪いよ。知ってるかい、自分のあだ名」

 小鈴はいやな予感に駆られたが、顎をしゃくり上げて言った。

「うるさいね。美人女医だろ」

「フンだ、ふてぶてしい」

 カメがそういいながら顔を横に向け、丸い鼻をならした。

 机を挟んだこちら側で、小鈴はさらに顎をしゃくって虚勢を張った。

「わかった、若い美人女医、あ、若く見える美人女医」

「あんたねえ、自分のことがちっともわかっちゃいないようだね。人があんたのことをなんて呼んでいるか。教えてやるよ。喧嘩犬、喧嘩犬だよ」

「犬とは失礼な、犬とは。しかも喧嘩犬?ちがう。ただの小犬だ」

 カメが横目で小鈴を見ていった。

「どうせろくな子犬じゃあるまい」

「余計なお世話だ。小さくてかわいらしい小犬だ。闘犬の」と小鈴はちょっとだけ正直に言った。正直は大切だ。

 カメが濃くて短い眉毛を精一杯吊り上げて、あきれた顔を見せた。

「誰にでもかみつくからだ」

「理由がなきゃ喰いついたりしないよ」といって小鈴は歯をむき出した。

 カメが核心に触れるかのように勿体を付けていった。

「それにあんた、あんたの家の近辺をうろついている野良猫のことで、ガイ者ともめていたそうじゃないか」

「大したことじゃありませんよ。少々のもめ事で、動じたりする喧嘩犬がいるもんですか。どうせあたしゃ喧嘩犬、奥様方とは違います。いくら言い合いしたって、殺すまでもないですよーだ」

 カメの斜め後ろで気配を消すようにして座っていた山形が、端正な眉を怪訝そうにあげながら初めて言葉を発した。

「ほどもないというと?」

「労力が、いやいや、奥様方がもったいないと」

「労力ときたね。ずいぶんご立派だ。その誇り高い人生に文句を付ける隣の奥さんが癪だったんじゃないかね」とカメが口を挟んだ。

 このカメはどうして口を閉じているのに金歯が見えるのだろう、と小鈴は思った。

「癪な奴を殺していたら、忙しくてね。カメさん、あんたはどう?癪な上司を殺したいと思うかな、そして殺したりする?」

「ばっかもん。本官が殺しなんかするはずなかろうが。しかも、カメとは何だ、カメとは」

「本官?へー」といって、小鈴は鼻から空気を抜きながら目をきょろきょろさせた。

 カメが血相を変えた。

「なんだ、なんだ、なんだ」

 山形が割ってはいった。

「鈴田さん。いい加減にして下さい。取り調べをなめちゃいけませんよ」

「取り調べ?ただ話を聞きたいといわれただけですよね、いい加減なものなんですね」

 そういって小鈴はふてくされたように頬を膨らませ、横を向いた。

「まあ、今日はこのくらいにしておきましょう」

 山形が今日はこのくらいにしてくださったお蔭様で、小鈴は夕日が差してありがたく黄金色に光る山下警察署を出ることができた。これで三度目のお調べだ。西日がまぶしい。

 初めはソファに座らせてくれた。お茶も出たっけ。次には殺風景な小さな会議室。そしてとうとう、あれが有名な取調室というものなのだろうか。人目に付くと都合が悪いでしょう、とあたかも小鈴のために用意したといわんばかりの小さな部屋だった。あんな湿っぽいところに閉じこめられていると、まぶしすぎてまともにはお天道様が仰げなくなるんだ。小鈴は実感した。

「なんてこった。取り調べだって?何で私が取り調べなんかを?事情を聞きたいという話だったのに。事情聴取ってヤツか。怪しい調書を作られたんじゃあなかろうな」と小鈴はぼやいた。

「たとえ殺したとしても、白状なんかするもんか、腹立たしいカメめ」と、小鈴は小さな声で言ってから、あたりを見回わした。

 夕暮れの山下警察署周辺、歩行者も少ない。角の横断歩道を渡り切り、小鈴は後ろを振り向いた。夕日が警察のとがった屋根に引っかかっている。

 小鈴が呼ばれたのは隣の奥さんが殺されて数日後だった。殺人の話だったので、三度目ともなると大部屋というわけにもいかず、かといって会議室は使用中だということで、せまっ苦しい部屋に閉じ込められる羽目に陥ったのだった。しかし、会議室が使用中なんて、本当だろうか。小さな警察署、おいそれと、会議があるわけでもあるまい。なんだか、だまされているような気もして、小鈴は部屋に入る歩みを緩めたのだった。

 眼光鋭い中堅の刑事と、よりによって前歯に金を入れたカメ顔のおやじ。これが小鈴の係の人たちらしい。

(よく見たらこのカメおやじ、今朝未明、あたしの夢にお出ましだった。人の夢に乱入しておきながら、家宅捜索だとかなんだとか、ぬかしていたっけ。前歯の金属を乱反射させながら、小さな目をギロギロさせていた)

「だから、やったんだろう」

「やったって、なにを」と小鈴は聞き返した。

 小鈴の返事には全く無関心な様子で、カメおやじが続けた。

「やったって言っちまえよ」

「やってないって」

「お、やってないって言ったな、なにをやってないんだ、なにを。隣の奥さんをやってないってことか。本当はやったんだろうが」

「だから、やってない、なんにもやってない。なんにも」

「やったって言わないでやる、やってないって言ってやる、やったって言って、やる」

 訳の分からないことをいいながらカメおやじの脂っぽい顔が近づいてきた。

「うわあ、だからやってないって」

 今朝、小鈴はこのカメおやじの金歯にうなされて目を覚ましたのだった。


 小鈴は悪夢はともかくとして、「取り調べ」を思い返していた。

 眼付きこそ悪いが、山形刑事は物腰柔らか、口調は穏やかだ。本当の取り調べって、こんな風に地味に行われるのだ。テレビドラマとは大違いだ。

 カメが言った。

「警部さんまでお出ましになっているんだ。とっとと吐いちまえ」

「いや、警部補、ホです。ついでにわかりやすく言うなら、係長といったところですね。県警本部で警部になれればかちょーホサです、ホサね」と山形が謙虚に訂正した。

 へー、昇進すればかちょーホサさんか。それにしても、ずいぶん若い課長補佐さんだから、きっとさらに偉くなるのだろう。デパートのバーゲンでよく売っている位のスーツを着て、明るいみず色のネクタイを締めている。何でデパートかというと、縫製がよくて、決して縫い目のところに妙なしわが溜まったりはしていないのだけれど、だからといって、色、柄、形があか抜けているというわけではない。きわめて無難でいやみのかけらもない。でも、あとから思い出そうとしても金輪際思い出せない。そんな観察をしながら小鈴は山形を見ていた。

「鈴田さん。その日は何時に家を出られましたか。仕事の具合はいかがでした。そして何時頃病院をでられました」

 穏やかに、しかし何度も何度も何度も同じことを聞くのだ。

 今朝何を食べたかも、仕事の内容も、どんな風に病院をでたかもさっぱり覚えていないそんな平凡な一日。機械的に流れていくのだ、時間が。

 はじめのうちはまじめに思い出そうと努力した。でも、ちっとも思い出せないので、何度も何度も、同じように特に変わった日でなかったと答える。そして、若い書記係の刑事は何度も同じことを書いているのだろうか。よく飽きないものだ。

 小鈴は同じような状況を思い出した。いつだったか、事務上の些細な行き違いに文句を付けて病院に電話をしてきた輩に、面倒なので謝ることに決めたときのことだ。何を言われても、そのたびにすみません、すみませんと繰り返すこと百回。百回謝ると自分の足下が揺らぐような錯覚にとらわれた。自分は何をしているのだろう。一体何のためにここにいるのだろう。ここはどこ、わたしはだれ。

 そこが山形警部ホとカメの狙いなのだろうか。

「だから、思い出せないといっているじゃありませんか」といいながら、泣きがはいりそうなのを小鈴は必死でこらえた。

 山形警部ホが身を乗り出した。

「思い出していただきましょう」

「といっても、何変わることのない取り柄のない一日。水曜日ですから、定時に家を出て、いつものルートで病院に行き、病院に着いたのが午前七時です。その日は外来日ですから、部屋で雑用を済ませてから、外来診療をぶっ続け。夕刻には秘書の高木さんを相手に、冷めた昼の弁当を食べた。夕方まで一日じゅう飲まず、食わず、出さず、ですよ。夜はパソコンで仕事をして、帰った。十一時半頃、病院を出た」

「証明するものは?」

「さあ、病院も裏口から出たし、医局員がとなりの大部屋にでも来ていなければ、私が仕事をしていた証明はありません。その日は、私が帰るときに通った医局の大部屋にはだれもいなかった。駐車場もひと気がなかったし」

「何かないんですか。タイムカードとか、残業録とか」と山形警部ホが言った。

「うちの大学病院じゃあ、そういった管理器機は導入していないんです。もしタイムカードで時間外業務を記録したら、あっという間に時間外手当分の予算がなくなるわ、労働基準監督署はうるさく入ってくるわで、大変なことになるんです。レジデントなんか、病院に棲み付いているようなものですからね。みんなサービス残業なんですよ」と小鈴は大袈裟に眉を動かしていった。

「そりゃ大変だ。それはそうとして、何か思い出しませんか。ハイテクの大学病院でしょう?あなたが病院にいたことを証明するものはないんですか」

 探るように小鈴を見上げる刑事のまなざしに小鈴はぞっとするものを感じた。

(こいつあ、狙った獲物は逃がさない。その脇に控えるカメは忠実なしもべだ。しかも狙われているのはわたし。何でまたわたしなんぞを狙うのだ、こんなか弱い女医で、しかも、しがない大学病院の勤務医だというのに)

「あっ、そうだ、パソコンの記録とか。使った履歴が残るでしょう。調べてくださいよ」と、小鈴は明るい気持ちになって言った。

 以前、小鈴はパソコンの使用履歴を調べたことがある。休み明けに小鈴専用のパソコンの設定がわずかに変わっていた。

 大学病院の講師ともなると敵も多いのだ。まして女講師ともなると。

 パソコンには操作した日にちと時間が記録される。何のソフトでどの文書をいじっていたかも記録する機能が、パソコンには隠れているはずだ。それを思い出し、小鈴はその機能を発見したときと同じようにほっとし、全ての重い荷物を一気に下ろしたように感じた。しかし、その大きな安堵も次の瞬間、山形によって吹き飛ばされた。

「ダメですね。パソコンの時計機能は操作できますからね。時刻の設定を変えればいいんだ。そしてあとで元に戻す。アリバイづくりにはありがちなトリックです。テレビの安手のサスペンスでもよく使われているでしょう」と山形警部ホが言ったのだ。

「ええ?そんなあ。安手のサスペンスってねえ、見る暇ありませんよ。夜遅くまで仕事をしているんですから、ご存じのように。それになにがテレビのサスペンスです。こっちは真剣なんだから」

 淡々と存在証明をつぶしにかかる警部ホ山形は、小鈴に何の恨みがあるというのだろう。

 金歯のカメさんはカメさんで脂臭いオヤジ臭を放ちながら、小鈴をじろじろ見ている。

 よほど珍しいのだろう、警察にしょっ引かれた女医が。女の医者なんてみたことないのだろう。もしかすると、そんなものが実在することすら信じられないのかも知れない。

 カメにとって地球はまだ平たいのだ。

「だから、何度もいっているじゃあありませんか。証明するものなんてないって。だって、そんなこと考えて毎日を暮らしているわけではないですからね。どこにいたって、何の問題もなく、証明の必要もないじゃないですか、ふつう」

「そう、ふつうね。しかし今、あなたはふつうの状況にはないのです。証明してくださらないと、あなたの立場が悪くなるのですよ」と山形が言い聞かせるように小鈴に言った。

「そんなこといったって、思い出せないものは思い出せないし、ないものはない。もう、いいかげんにしてくださいよ。私の存在証明が必要なら、逆に私が隣の奥さんを殺したことを証明したらどうなんです」

「何だ、このお」

 甲高い声をあげながら金歯のカメさんがいきなり近づいてきたので、小鈴はシューッと口で音を立てて牽制した。

「鈴田さん。心証ってものがあるんですよ、心証ってものが。気を付けたほうがいい、その奇妙な態度」と、山形警部ホが単調な声で小鈴にいった。

「うるさいなあ。心証ってものがあるんだろうから、私だって、これまで我慢してきたんじゃあありませんか。限界ですよ、そのしつっこさ」

 小鈴は顔をしかめながらべろべろばっと舌を出して精一杯の感情表現をした。

「あんたねえ、医者だと思うから、こちとら、手加減してやってるんだよ。それを何だ、そのべろべろは」

 カメさんがべろべろばっをまねして文句を付けた。自分の顔もこんなに変なのだろうか、と小鈴は思った。

 小鈴は、自分の扱いに気を付けないと偉くなれないよ、と言おうとした。何といっても、当て外れの的外れ、殺しちゃいないんだから、と喉元まででたが、全部飲み込んだ。心証、心証。

 しかしそうも言ってはいられない。もう、小鈴の根気だって限界だ。

 と思った瞬間、しびれを切らした小鈴の口が勝手に動いた。

「あのねえ、あたしは少なくとも人を助けるためにこの職業を選んだ。だから、殺さない。隣近所でもめ事はあるかも知れない。でも、殺す程じゃあない。今あたしをこうやって拘束しているその間にも、隣の奥さんを殺した奴が、次を狙うかも知れないじゃないか」

「ほう、次をね。ていうとなんですか、通り魔かなんかだと」

 山形警部ホが厚みのあるケツ顎をいじくりながら言った。立派な顔にはつきものだ。おしりのような割れ目が入っている顎、ケツ顎。

 何かとっかかりをつかんだといった風だ。物言えば唇寒し。

「さあ、そうは言っていませんよ。金は取られてないっていうし、恨んでいるのがあたしだなんて思うくらい世渡り上手な奥様なんだから、殺されるとしたら、理由は何でしょうね。殺され方もわからないのだから、何とも言えませんがね」

「ほう、なんとも言えない」

 山形警部ホが再び探るように小鈴の目を見た。小鈴は探られるおぼえのない腹を抱え、顎をしゃくって挑み返した。

 こういう態度がよくないのだろう。わかっちゃいるけど、ここで泣きを入れたりするようにプログラムされていない。男ばかりの大学病院、講師になるまでには、相応のことがあって小鈴は強くなったのだ。

「殺され方、知ってんじゃないの。お医者さんだしね、人が死ぬのには慣れっこでしょ。何人位送ったんだい、今までに」と、カメさんが口を挟んだ。

「知るわけないでしょう。ばかばかしい。それに、何人送ったとは失礼な、人をやぶ医者のように」

「でも今鈴田さん、次を狙っていると、まるで通り魔のようなおっしゃり方をしたじゃありませんか。やぶ医者はともかくとして」と山形警部ホが割って入った。

「さあね、恨みかもね。奥様方はうるさいですからね。そこのカメさんがにらんでいるように。古来、殺人の動機は痴情、怨恨、そして物取り。それ以外は通り魔と、相場が決まっているんだ。このごろは変態が横行しているから、猟奇殺人ってこともあるか。世も末だな、ともかく」

 カメさんが目をむいた。

 カメといわれたことは今までなかったのだろうか、このおっさん。


 2 小鈴の本音

 たとえそれが隣近所であろうが、そんじょそこらであろうが、小鈴にとっては単なる生命の終わりに過ぎなかった。人が死ぬことに慣れている訳ではない。しかし、一体全体何の因果で隣のうちの奥さんが殺され、よりによって自分が身のあかしをたてなければならないのか、と小鈴は思った。

 カメさんに突っ張ってはみたものの、しょっ引かれてみるとまことに情けなく、泣き言の一つもこぼしたくなる。こんなの、そこらに転がっているありふれた殺人事件じゃないか。小鈴は自分が言い訳をしなければならなくなるなんて、思ってもみなかった。だって、警察になんか捕まるような悪事を働いたことなんか金輪際、ないんだから。

 小鈴は思った。

(いつどこで何をしていたか、みんな詳しく覚えているものなのだろうか。もしかして、警察に捕まることもあるかも知れないから、よく覚えておかないと、なんて常日頃から思って暮らしているヤツがいるのかなあ。普通の人々でも、アリバイなるもの、常に準備しておくべきものなのだろうか。

 昨日の晩飯はおろか、今朝、朝飯に何をかきこんだかだって、ろくすっぽ覚えちゃいない。だというのに、一週間前の水曜日とか、まして、その前後といわれたって、さっぱりわからない。いつものように、仕事に出かけ、帰ってきた。それ以上のことも、それ以下のこともない。仕事は自分の部屋でいつものようにしていたのだから、たまに医局にやってくる当直医が部屋の電気が付いていることを確認するかどうか。しかし、当直医が見張っているわけではないし。それでも存在証明はそんな心許ない事に頼るしかない。仕事は一人でするものだし。

 それに隣の奥さんだって、短いなりにそれを天寿と考えるほかなかろう。短いったって、薄命と言うほどでもない。ちっとも佳人ではないし、美人でもない。昔の早死にに比べたらゆうに二倍は生きているんだし。そう思ってあきらめてはくれんかね。死んでまで私を煩わすことなく、成仏しておくれ。

 こんな風にぼやくと、不逞の輩め、殺されたんじゃ、天寿全うじゃあないだろうと思われるだろうか。病魔にとりつかれて若死にしたり、まして死にたくもないのに殺されたりしたら、それを天寿だなんて呼べるわけがない。でも、人がいつまで生きるかなんて、所詮自分の思うとおりになどなりはしないわけだし、行き着いた最後の時点を天寿というほかないじゃないか。だれしも永遠に生きることなんか出来ないのだから、与えられた命の長さを天寿と考えるべきだ。定めじゃ。

 第一、言っちゃあ悪いが、殺される者のなかには、これじゃ殺されても致し方ない、といった気持ちを彷彿させる奴もいる。大きな声では言えないが、もっと積極的に、くっそー、死んじまえと、喉元までたびたびこみ上げてくる名前の一つや二つ、いや三つや四つ、誰しも軽く思い浮かべられるのではないか。死んでくれてもちっとも悲しくない奴とか。お通夜の席でさえ、みんなが心の隅にほっとする自分の気持ちを見つけてしまうような奴。告別式ともなると、お前のためじゃなく、世のため人のために、さっさと成仏しろよと心の中で声をかけたり。

 たとえば、ここだけの話、大学病院、先代の宮田講師。あんなにいつもこそ泥みたいに病院のものを持ち帰り、患者やその家族にうるさく金品を催促しているようでは、世間様からいつ抹殺されても文句は言えない。あるいは、先々代の講師なんか、患者を実験の食い物にすること甚だしく、その非道ぶりじゃあ、近々、患者の霊に取り囲まれてあっちに連れて行かれるんじゃないかと、他人事ながら心配したりしたもんだ。というより、巻き添えにあっていっしょくたんに連れて行かれないよう、気を配ったり。それに名医然と自慢げにちょび髭をひねくる山路主席講師先生。患者のためにためにといいながら、命の危険は患者持ち。危ない治療をしておいて、命あっての物種といいこけた。あいつも患者を食い物にする悪徳医師。いっそ自慢のちょび髭と一緒にそのクビったま、きゅっとひねくってやりたいものだ)

 小鈴ははっと我に帰った。今考えに浸っていた心の声を口に出したら、言われそうだ。そういうあんた、あざといねえ、ほんとは、犯人だったりしてとか。

 確かにこう考えると、自分、口には出せないようなことを、よくもまあ、しこたま腹に抱えて過ごしてきたものだと小鈴は思った。反省、反省。口に出さなくてよかった。口にしていないから、だあれも聞いちゃいないはずだ。聞かれでもしていたら、今や悪人としてのそしりを受け、そしてついでに隣の奥さん殺人犯人として、とっつかまっていただろう。

 くわばら、くわばら。誰にもいったおぼえはないな、右と左を指さし確認。

 じゃあ任意とはいえ、何で自分がしょっ引かれたのだろう、と小鈴は思った。


 3 小鈴のアリバイ

 病棟業務を終えて、小鈴は医者のたまり場である医局に戻った。

 夜の医局はかえってにぎやかだ。レジデントたちの取った釜飯が湯気を立てている。今日も急患がたくさん来たのだろう。みんな帰れやしない。釜飯を食べたらまた病棟へ行ってしまう。

 気のいい医局員の柴田が心配そうに言った。

「先生、何度も休まれて、どうしたんです」

 七三分けの柴田の髪はいつも同じ長さだ。柴田の頭を見るたび、小鈴はどのくらいにいっぺん理髪に行くのだろうと思った。いつも腹痛を抱えていて、顔色が蒼白気味だ。そんな柴田に比べたら、小鈴は丈夫、いや、頑丈ともいえた。だから、警察署に三度もしょっ引かれながら、平気で通常業務をこなしているのだ、柴田の様に腹痛も下痢も起こさず。

 小鈴は、ニッコリ笑うだけで詳細について答えるのは保留した。まさか、殺人容疑で取り調べめいたものを受けているなんて言えなかった。

 背後にいやな気配を感じた小鈴は、不意に振り向いた。いつの間にか、至近距離に山路主席講師がいた。

「そうそう、噂によると、山下警察に頻々と出入りしておられるとか」と山路主席講師はちょび髭をひねくりながら、知った風にいった。

「うるさいね。頻々とはなんだ、頻々とは。たった二回。その二回をかぎつけるとは、耳の早い奴。誰だ、そんなことをいっているのは」と小鈴が言うと、山路は反射的にクビをすくめた。

 本当は三回だ。

 気を取り直した山路が横を向いてぺろっと舌を出して言った。

「さあ、だれでしょうね」

 そうだ、法医学の札付き解剖医三田は山路の同級生だったっけ。その解剖医はスピード違反は愚か、酒酔い運転さえ、もみ消すと評判だ。司法解剖を引き受けていて、警察のお偉方の知り合いであることを匂わせるのだ。交通巡査はせっかく切った切符を、署長の名前にびくって手からポロリと落としてしまうらしい。自慢げに話しているのを聞いたことがあるが、どうせ大げさに言っているのだろう。

 カンファランスでいつもこき下ろしてやっている山路は、小鈴を煙たがっている。

 山路をにらみつける小鈴に、田所が声をかけた。

 田所も髪を七三に分けてはいるが、長めだった。黒縁のメガネが田所を老けさせて見せているが、まだ若い。少なくとも小鈴よりは。男にしては色が白かったが、柴田より顔色は良い。

「先生、ちょっと」

「何?」

「外来の佐藤さんという患者さんが電話を入れてきたんですが、先生に確認したいことが。外来予約の件で」

「ああ、そうそう、予約を変えてあげたのだけれど、電話したら本人がいなくて」

「そのかたから伝言が。メモが部屋に置いてあるので」と言いながら、田所助手は自分の助手部屋に向かった。

 数人いる助手は研修医と違って、助手部屋にデスクを与えられている。とはいえ、そう広くはないのだ、助手部屋。助手たちは一つの部屋でひしめいていた。

 小鈴は田所に従った。後ろ姿が小鈴を呼んでいたのだ。田所の部屋に入った小鈴は、伝言メモが存在しないことを知っていた。

 デスクが並ぶ細長い助手部屋には誰もいなかった。他の助手たちはまだ病棟業務なのか、実験室にこもっているのか、どちらかだ。

 バサッと音を立てて白衣を翻し、振り向きざま、顔にかかる前髪を手でよけながら、田所が単刀直入に言った。

「鈴田先生、水曜日のことですよね。先生に必要なのは」

「え、まあ、そうだけど。ということはもう筒抜けってわけね」

「まあ、そんなところです。お困りならご相談下さればいいのに」

「だって、当日の当直医はフレッシュマンの野田君で、病棟に張り付きっぱなし。医局で仕事をしていた私を見た者はいないわ。私が病棟に行ったときには、急患が来て、野田君は急患室。ナースも病棟をラウンドしていて、私は誰にも会わなかった。患者はもう寝ていた。医局ではパソコンで仕事をしていて、その記録は私の存在を証明するには足りないんですって」

「そうですか」そういって田所は考え込んだ。

「ところで一体、何で受け持ち患者も持たない先生が病棟なんかに行ったんです、しかも夜夜中」

「そうそう、だからその患者さんの予約を変更に」

「私が電話を受けたのは木曜日でしたが」

「水曜日の夕方、電話が来て、来週の予約を再来週に変えてもらえないかっていうのよ。変えておきますと返事をしたのだけれど、なんやかんやで夜になってしまって、外来も閉まっているだろうから、帰りがけ、十一時過ぎかしら、病棟まで行って、電子カルテのコンピューターで予約修正を入力したの。翌日渡辺さんが確認の電話をしてきたので、田所先生の手を煩わせたというわけね」

「とすると、水曜日の夜、病院のコンピューターをいじくられたわけですね」

「そうです、いじくられたのです」

 詳しくない者がコンピューターを使うと、田所がいじくると表現するのを小鈴は知っていた。

「じゃあ、その記録が残っているはずだ」

「ダメよ、コンピューターに残っている時間の記録は操作できるからあてにならないって、捜査員がいっていた」

「そうです、パソコンや小さな組織の端末はあてにならないかも知れません。しかし、これくらい大きな病院となると中央のコンピューターに記録が残っていて、特に予約については事務方にも情報が行くんですよ、予約日と時間の。だから、予約の変更なんかについては細かく中央情報管理室に記録が残るんです。変更をくわえた時系列で。しかももし時計機能に変更を加えれば、その記録も詳細に残る」

「本当に?」

「本当です。先生は病院の中央医療情報をいじくられたのです、端末機を通して。中央のコンピューターの時間は容易には変えられません」

「なあんだ、なるほどね、だから端末って言うんだ。みんな、中央の巨大コンピューターをいじくるための末端なんだ」

「そうです、形は先生がお持ちのちゃちいパソコンと似ていますけどね。中身はえらい違いです。やっとおわかりになりましたか」

「はい、はい。やっとおわかりになりました」

 小鈴は数日後に再び呼ばれるであろうことを覚悟していたが、幸い、隣の奥さんの死亡時刻がほぼ特定され、その時間に小鈴が病院で仕事をしていた記録を、医療情報係の田所助手が掘り出してきた。パーソナルコンピューターではなく、病院の医療用コンピューターの端末をいじくったことが幸いした。病院中央情報管理室の時間操作は個人には出来ない。病棟のコンピューター端末をいじくったのはわずか二、三分で、患者一人の予約時間を変えたに過ぎない。それでも小鈴の認識番号と静脈認証で開いた端末の記録が秒の単位まで情報管理室に残っていた。その時刻の記録と、隣の奥さんの家までかかる時間が、死亡推定時刻とバッティングしたのだった。

(そりゃそうだ。わたしは一生懸命仕事をしていた。隣の奥さんが襲われようが殺されようが、遠く離れた病院でつまらない仕事に時間を費やしていたのだ。私はやっちゃいないんだから)と思いながらも、小鈴はほっとした。


 4 百ベエの窮地

 大きな図体と厳つい顔に似合わせない泣き言を百ベエが言った。涙目になっている。

「センセー。助けてくんろよ」

「助けてくれって、また何をしでかしたんだ」

「何にもしてねえ。今度ばかりは何にもしてねえ」

 こいつは本当に困っているんだろう、と小鈴は思った。組の金をチョロまかして落とし前に小指を持って行かれたときでさえ、泣き言を言わなかった百ベエだ。飛び込んできた市中病院で当直をしていた小鈴が、指の断端をタバコ縫合で始末してやったのだ。痛かったろうに、脂汗をかきかき我慢していた。

 まるで、その時のようにはげた頭のてっぺんがギラギラとしている。外来の白々とした蛍光灯が百ベエの広いおでこにくっきりとその姿を映している。脂の浮かんだ額がぎろっと光った。ゲジゲジ眉毛を動かして、こっちを見上げたのだ。

 小鈴の第二のオフィスはいつも使う大学病院の外来ブース、つまり診察室だ。小鈴は自分の講師室と外来の診察室を往復するのだ。診察室には電子カルテの端末とキーボードが置かれ、自動血圧計のおかげで聴診器など、どこにあるのかわからない。用なしになったのだろう。昔、胸部エックス線を見たシャウカステンにも、事務からの通達のメモが張り巡らされていて、見るかげない。エックス線写真は電子カルテの端末でくっきりと見ることができるのだ。しかも撮影とほぼ同時に。たいていの用は診察室で済んでしまう。

 そんな診察室、病気でもないのに小鈴を訪ねてくる者がいた。まあ、手がしびれたり、頭が痛かったり、と一応主張するので、小鈴の領域の病気がないわけではないから、拒む理由もない。

 しかし、時には全くの専門外の相談もあるのだ。警察に捕まりそうだから、助けてくれとか。無理筋だ。

「今度ばかりって、いつもはやってるんだね。だいたい、行いが悪いから、しょっ引かれるんだ。諦めなさいよ」といいながら、小鈴は自分の行いのどこが悪くて、このおっちゃんと同様の目にあったのだろうと考えた。

 しょっ引いたのはどうせまたカメだろう。

「だってよう、まずいよ。いきなり重要参考人にさせられちまうよ。俺、マエがあるからよ、しょっ引かれれば、嘘でもなんでも、吐くまで締め上げられるんだ。持病があるっていって、やっとセンセーのとこだけは来られたってわけだ」

 へえ、やっぱり、ドラマの世界は存在するんだ。じゃあ、小鈴の受けた取り調べなんて、お調べのうちにはいらないチョロいものだったんだ。

 確かに、あれはきちんとした取り調べでなんかない。話を聞きたいといわれただけで、病院にカメが出入りするのが目障りだった小鈴がわざわざと、見物もかねて警察に出向いたのだった。個室に入れられたにはそれなりのわけもあったし。

 しかし、狭い部屋であのカメににじり寄られて締め上げられたら、確かにあることないこと口走ってしまうかも知れない。金歯の奥から吐き出されるカメの生ぬるい息を想像して、小鈴は身震いした。部屋を暗くしたうえで、電気スタンドの明かりを当てられて、周りが見えなくなったうえ、カメに攻め立てられるのだろう、百ベエ、少々かわいそうかも。

「しょうがないでしょ。その日何をしていたか思い出してごらんて。そしてありのままを言えばいいんだ」

「だからよう、思い出せないんだって」

「へえ、思い出せないんだ」と言いながら、小鈴は自分もその日何をしていたのかさっぱり思い出せなかったことを思い、百ベエに至っては、そりゃそうだろうと思った。

 しかし、そうも言っていられず続けた。

「どうせ、どこぞでおクスリの取り引きでもしていたんでしょ。どの薬をどこで売ったか、思い出してごらん。帳面にでもつけていないのかい」

「ギクッ、だから先生はいやなんだ」

 百ベエは本当にぎっくりと身を引いた。小鈴は手を伸ばして百ベエの禿頭を叩いた。

「ばっかじゃないの。カマかけただけだよ、カマ。そんなんじゃあ、すぐに犯人にでっち上げられるよ。あのカメおやじに」

「そうなんだよ。あいつ、昔、横浜から千葉まで追っかけて来やがってよう」

「なんだあ、腐れ縁か。がんばりなよ」

「冗談じゃあないよ。先生、頼むから、先生の病院にいたことにしてくんろよ、盲腸かなんかでさあ。こんなでっかい大学病院だ。患者の一人や二人、いてもいなくてもわかんねえだろう」

「ばかばかしい。病院には病院の記録というものがあって、あんたが来院していないことぐらいすぐにばればれだ。それに、そんな嘘つけばかえって怪しまれるじゃないか。そんなことより、真犯人を捜すことだよ。その道に詳しいお友達とかいないの?」

「いねえこたあないけど、銭こがかかってよ」

 百ベエが上目遣いに小鈴を見た。

「何言ってんの。金惜しんでる場合じゃないでしょう。売ったおクスリのお代で情報仕入れておいで。だいたいもう……」

 だいたいもう、あんたみたいな知り合いがいるからまっとうな医者と思われず、隣の奥さんが殺されただけで、しょっ引かれたりする羽目に陥るんだ。その言葉を小鈴はぐっと飲み込んだ。

 困るとやってくる患者の一人だ。強がって問題を起こすことはあるが、患者であることに代わりはない。

 とはいえ、来てないものを来たとは言えず、従って百ベエの現場不在証明もしてはやれない。まあ、ご本尊たる己の現場不在証明も自分じゃあ満足に出来なかったのだから、裏町で白い粉のパックを手にうろついていたかもしれない百ベエに手が回ろうはずもない。

「あー、しかし何で百ベエは困ると私のところになんか来るんだろう。この神聖な私の外来診察室に」と小鈴はぶつぶつ呟いた。

「それにあんた、何でよりによって隣の家なんかにカツアゲしにきたのよ」

 小鈴は百ベエがしょっ引かれたワケを思い出した。強面の百ベエが隣の奥さんにご丁寧な口を利いているところに通りかかったのは一月ぐらい前の夜だったろうか。小鈴を見てびっくりした百ベエは挨拶もそこそこに逃げ帰ってしまった。もう少しやってくれてもよかったのだが、小鈴としては。こざかしい隣の奥さん、少しは薬になっただろう。

「カツアゲたあ、きこえが悪いよ、センセー、ガキじゃないんだから」

「じゃ、大人の、れっきとした恐喝、なんでやりにきたの」

「いや、センセーにあっちゃかなわないな。実はあそこのオヤジ、やり手でよう。いい背広着てアイティーっていうの?パソコンのソフト開発やってますなんていってるから、みいんな騙されてるんだろうけど、実はサギまがいなんだ」

「サギ?」といいながら、小鈴は目をむいた。

「んだとも。きったねえ手口で、金集めてよう。おらっところのパシリがやられて、いてえめにあった。買ったソフトがまるっきしでよ、それをよぉ、頭がワリイから使えねえんだとぬかしやがってよぉ。いまはよぉ、オレッチの業界でも、ビジネスよ、ビジネス。だからパソコンの一つも使えねえと勝負にならねんだ。ってことで、その道の経理ソフトを売ることにしたんだがよ、作らせてみたら、これがぱあよ。おかげでパシリの小僧がよぉ」

「指つめ?」

「あーあ、ありゃ、一本、二本じゃすまねえ、うちわだぜ。あぶねえところだった。で、オレッチが話を付けにいったってわけさ。そんで、よりによって、センセーに見つかっちまったってとこよ」と言って、百ベエがうちわのように手のひらで顔を扇いだ。

「うちわ?指全部ないの?そりゃ、穏やかじゃないねえ。しかし、あんな閑静な住宅街でガアガア騒ぐから、あたしが見つけなくても大騒ぎだ。なまじ知り合いだってんで、あたしの評判が落ちたわよ、隣近所一帯で」

「すまねえな。でも、あのくそばばあにちっと挨拶したおかげで、オヤジ、やっと金の半分返して来やがった。小僧の指が半分くっついたってことよ」

「そうか。隣のオヤジ、結構危ない商売してんだ。あの住宅街じゃ一番若くて、しかも外車二台も持ってるんだ。あやしいはずだよ」

「そうさな。サギだ、サギ。税金もチョロマカシてんでないかい」

「脱税まで。それは許せん。納税は国民の義務だ。そのうえ、サギか、風下にも置けない。あ、風上か。しかし、サギねぇ」

 小鈴はその「サギ」という言葉の響きに思い当たる節があってしばし考え込んだ。やっぱりあいつしかいない。

「そうだ。エンジェルに聞いてみよう」

「エンジェルってと、なにかい?きれい所のパツキンのおねいさんかなんかかい?」と百ベエがゲジゲジ眉毛を下げて言った。

「そうね。ま、そんなとこ」

 誰が詐欺師のエンジェルなんて想像するだろう。

(百ベエもよおく知ってる、詐欺師だよ)


 5 詐欺師のエンジェル

 小鈴は講師室からエンジェルに電話をした。いつも通り、なかなか捕まらない。五台目の携帯にかけるとやっと返事があった。

「もしもし、エンジェル?」

「お、学級委員の鈴田さん。おひさしぶり」

「なんだよ、その呼び方、バカにしてんの?」

「こりゃ失礼、うら番の小鈴ちゃんといった方がぴんときますか」

「なにいってんの。もう少しまともな呼び方はないの、まともな。センスないんだから」

 エンジェルはシロサギだ。アカサギはやらないと自慢していたが、ペーパー詐欺も、結婚詐欺も詐欺に変わりはないじゃないか。小鈴は一度株の証書のことで彼にだまされそうになって以来彼をエンジェルと呼んでいる。天使のエンジェル。ペ天使のエンジェル。ペテン師のエンジェルだ。この呼び方は小鈴しかしないので、電話でもすぐに小鈴を特定でき、慎重なエンジェルもすぐに応答する。

「うちの隣のいやみなおばさんが殺されてさあ」

「ああ、あの高級住宅街のマダム殺人事件ね」

「高級っていう程じゃあないのよ。なんといっても、あたしが住んでるんだから。でも、殺人なんかには縁のなさそうな単なる住宅街よ」

「小鈴ちゃんのうちのそばだからさ。また暴れてるのかな、なんて思ってはいたけど」

「冗談じゃない、でも隣だって言うだけで、事情聴取みたいに、警察に連れて行かれて、えらい目にあったわよ」

「うら番の小鈴ちゃんにしちゃあ、弱音吐くじゃないか」

「うら番、うら番ていうのやめなさいよ。この上妙な噂たてられたら、またしょっ引かれるじゃないの。捕まったことないのが自慢だったのに」

「わかった、わかった。逃げ足速かったよね、運動音痴のくせに、かけっこだけは速くてさ。しかも逃げる時のあしの速さと言ったら天下一品、俺も追いつかないくらいだった。しかし、かたぎになった小鈴ちゃんがこのペテン師のエンジェルにお電話とは、よっぽどお困りなんでしょうねえ。なんなんだい」

「ちょっと待て。かたぎになったって、その聞こえの悪い言い方、やめなさいよね。そういうこと言うから、誤解されるんじゃないの。あたしはもともとかたぎなの。今もそうだし、これからもずうっと。だいたい、あんたみたいな知り合いがいるからしょっ引かれたんだよ。あのとき、身元なんか引き受けるんじゃなかった。何が悲しくてあたしの名前なんか出したのよ」

「わかった、わかった。その節はお世話になりました。柄受けしていただき、助かりました」

「そう、そう、まずはよおく思い出してよ、あの時、あたしがあんたの身柄を引き受けなきゃ、あんたは宙ぶらりんで、あそこから出ることが出来なかったんだからね。なんだってあたしの名前なんか思い出したのよ、よりによってブタバコでさ。この恩はよおく覚えておくように」

「はい、はい、決して忘れません。それで、この鬼門のエンジェルは何をしたらいいのでしょうか」

「ま、それはそうとして。で、で、で、だねえ。まあ、あたしのアリバイは、何とかなって、放免されたんだけど、カメおやじが、キャリアと組んでるもんで、ヤマあげたいらしくて、やっきなのよ。で、百ベエがあげられちゃって」

「何でまた百ベエが」

「百ベエったら、横浜うろついているときに、隣のおやじの会社がらみで、不良品つかまされた代金を金巻き上げ返そうとしたんだけど、これが渋くて、出さないこと出さないこと。で、ちょっとおうちによって奥さんにご挨拶したわけ。どっこい、それがあたしんちの隣だったなんて知らずにね。で、つい、通りがかりに百ベエ何してんの、なんて声かけたものだから、あたしの知り合いって言うより、あたしが百ベエをけしかけたみたいになっちゃってさ」

「なんでまたけしかけたなんてことに。うまくなかったの、お隣のマダムと」

「それが、私がかわいがっている五匹の小猫ちゃんたちに、ケチ付けて、保健所まで動員したのよ。でも、猫ちゃんたち、避妊手術もしてあるし、まあ、そこに猫が用を足すかどうかは別として、トイレも作ってあるし。マダムとしちゃあ、付けたケチの収まりがつかなくなったのね。嫌がらせをしたり、再三、再四、文句を言ってきたりしたんで、一度、怒鳴りつけたの。でもそれだけ。それからは、もう口きいてないからわからない、どう思っているのかとか、まだ文句あるのかとか。それに今後に及んじゃあもうきけない、死んじゃってるしねー。あはははは」

 笑う小鈴の大口を想像して、エンジェルがたしなめた。

「小鈴ちゃん、そういう物言いが、不謹慎なんだよ。だからしょっ引かれるんだ。同じこと言うんでも、するんでも、言い方とか、やり方があるんだ。だまされるんでも、気持ちいーいだまされ方とかさ」

「まあ、ペテン談義は別の機会として。今度からは気持ちのいい殴られ方とか気持ちのいい殺され方とか、とにかく今後は気を付けるから、今は早く百ベエのアリバイを証明してやらないと、カメおやじにやられるよ」

「しょうがないなあ。口割らないかも」

 エンジェルがつぶやいた。


 6 百ベエのアリバイ

 小鈴は横浜の裏町、あやしいコーヒーショップでエンジェルと落ち合った。駅からそう遠いわけではないのに、何やら特殊な人のたまり場のような空気が満ちている。そこにエンジェルが座っているだけで、十二分に怪しかったが。

 エンジェルは背の高いイケメンだったが、やはり、何か危ういものを感じさせる男だった。口では説明できないのだが、小鈴がもし人目の多い横浜のレストランで一緒に食事をしようものなら、翌日には行き遅れの女医が、怪しいホストクラブの一等怪しいホストに騙されている、というまことしやかな噂が、まるで全館放送をかけたように病院中を駆け抜けるだろう。

 いつもきちんとスーツを着ていたし、髪も短い。決して感じが悪くない、というより、好感度は満点だ。このよすぎる好感度がくせ者だ。外見の好感度が中身にまで浸み込んだ人間なんてこの世に存在するわけない。こんな見映えのよすぎる男を信用する方がアホなのだ。

 サラリーマンが着るよりもちょっとだけ明るめのスーツ、アルマーニか。織り模様の入ったワイシャツ、きっとエルメスだ。ネクタイは明るい色で、少しだけ細身になっている。エンジェルの長身にピッタリ合っている、というか、合わせたのだろう。

 優男に見えるが、実のところ一枚剥げば(小鈴が剥いだことはないのだが)テコンドウをやっていて、鍛えあげたマッスルが修羅場に威力を発揮し、痛い目には遭わないことになっている。そしてダッシュの速さと、全力疾走をセカンドウィンドにのせて中距離につなぐタイミングとを心得ているので、テコンドウを披露しなければならないような窮地に陥ることはまずない。

 まあ、一言でいって、逃げ足が早いのだ。

「やあ、小鈴ちゃん。いつまでも若いね」

 コーヒーを飲みながら待っていたエンジェルが、店に入ってきた小鈴に向かって右手を挙げて、大きな声で言った。

「うるさいね。ことさらにいうんじゃないよ。年寄り向けの挨拶みたいに」

「いや、いや、全く変わらないよ、中学時代から」と言いながら、エンジェルが手招きで小鈴に向かいの席を勧めた。

「それじゃ、バケモンか、バカモンかどっちかだ」と言いながら小鈴は勧められた席に座った。

「どっちでしょうねえ」とエンジェルがにやにやして言った。

「それより、百ベエはどうなるの?」

「先々週の水曜日ね。百ベエはどこにいたんだ、一体全体」と、エンジェルがもう一口コーヒーを口に含んで言った。

「それが、怪しいことしていたらしくて、とっても警察の方々には言えないらしい」

「そうか。何だろうな」

「おくすりかなんかじゃないの」

「いや、百ベエ、ヤクはやらないんだ」

「へー、そうなの、知らなかった。またなんだって」

「身体に悪いからだろう」

「やくざが人の身体のことを心配するの」

「まあね。一体どこにいたんだろう」

「それを調べるのがあんたの仕事よ」

「そうだね。百ベエじゃ、放って置くわけにもいかないな。ただ…」

「ただ、なに」

「ただ、俺が動いていることを言わないでくれよ。あいつ、いやがると思うんだ」

「だいじょうぶ。エンジェルとしかいってないから、あんただとは思わないと思うよ」

「そうか、それなら動きやすい」

「また、なんで」

「あいつ、意外と純情なんだよ、実はね。小鈴ちゃんには言ってないこともあるんだよ。たぶん、百ベエが口を割れない困ったことっていうのはそれだと思う」

「ふうん、そうなんだ」


 7 ヒロちゃん、アリバイ、自分で消した

「先生、何とかしてやって下さいよ」とまた百ベエが泣きついてきたが、それでもこの間より余裕綽々だ。百ベエは無罪放免されたのだ。

 つい一週間前に半泣きで小鈴の前にやってきたことはすっかり忘れたかのようだ。泣きつかれた小鈴はエンジェルに百ベエのその日の秘密を探らせた。確かに言えない秘密を持っていたらしい。よりによってちょうどその日のその時間、百ベエは人には言えないところで、人には言えないことをしていた。相手のあることだが、相手も百ベエのその時間の存在は都合が悪いのだ。エンジェルが器用に動かなければ、百ベエはカメさんに捕まっても口を割らず、そのために現場不在証明できずに、隣の奥さん殺人罪でムショ入りだったろう。危ないところだった。

 エンジェルは百ベエに固く口止めされていて、実は小鈴も一体百ベエにどんな秘密があるのか知らない。

 百ベエの脇では一見、どっちつかずの、つまり、お兄さんと言っていいのか、お姉さんと言っていいのかわからないのが、外来の小さな椅子に納まっている。短い茶髪にピンクの口紅、明るいもも色のTシャツ、蒼い縞がらのズボンは水商売風とでも言うのだろうか。派手だ。その目立つ外見とは裏腹に、中身は串をぬいたおでんのこんにゃくのようにナヨッとうなだれている。スキンヘッドのおっさんと、派手などっちつかずが、よりによって夕刻の小鈴の外来客だ。

 ナースは寄りつきもしない。あたりまえか。

「こいつのダチがさ、センセーのうちの隣の奥さん事件で、カメにしょっぴかれたんだってさ。さ、先生にごあいさつしろって」と、百ベエが声を潜めていった。

「そーなんです。人殺しなんかできゃしないんです、ヒロちゃんってば。虫一匹ころせやしませんよ。ヒロちゃんは心が優しいんです。あ、申し遅れました、あたし、黄金町で店やってる、アカネです」

 そういってアカネちゃんは可動域を超えた動きをする白い指で名刺を差し出した。

「ふうん、アカネちゃんね」

「ええ、どうぞごひいきに」

 アカネちゃんは小首を傾げるようにして会釈した。ひいきったってねえ、と小鈴は思ってそれを口にした。

「え?ごひいきったって、あたしの出入りする店じゃないでしょう」

「そおんなことありませんよ。このごろは職業もったご婦人方が日頃の憂さをお晴らしにたくさんいらっしゃいますよ。センセイもたくさん溜まってそう、う、さ」

 手の甲を口元にあてて、うふっと笑われると、少々ぞっとしたが、それでもその道のプロに言われると、日々のウップンが湧きだして来て、小鈴の頭の中で渦を巻いた。

「こら、センセーになんてぶしつけなこと言うんだ。お困りじゃないか。ねえ、センセー、気にしないでください」

「申し訳ありません。それはそうとして、ヒロちゃんは本当にいい若者なんです」

 アカネちゃんが野太い声とは裏腹な、濡れた瞳で小鈴を見上げた。

「じゃ、何でしょっ引かれるのよ。あやしくなきゃ、そんな目には遭わないの」

 そっけなくそういいながら、まずしょっ引かれ第一号の小鈴はちょっぴり気が引けた。知ってるのだろうか、小鈴がまずは第一号だったこと。

 それはそれとして、何でアカネちゃんの顎はぽっちゃりしているのだろう。小鈴はとんがった自分の顎に手をあてた。小鈴の顎は張っていて、まるで男みたいだ。何で……。

「そりゃちょっとね、くせが…あって…」

 アカネちゃんがうつむき加減になって、言葉を切った。

「なんなのよ。はっきり言いなさいよ、わからないじゃないの」

 小鈴はアカネちゃんにきつい言い方をした。アカネちゃんたちはこんな言い方をあまり気にしない。自分たちのためを思っていってくれているのだと、かえって喜んだりする。

「ノ・ゾ・キ」とアカネちゃんが声を潜めていった。

「ノゾキーっ?」

 小鈴が大きな声で繰り返すと、アカネちゃんは、小さいが厚ぼったい唇に人差し指をあててから、両手を会わせて小鈴を見あげた。

 小鈴の声は外来中に響いたので、遠い処置室で翌日の処置の準備をしていた若いナースがジロッとこちらを見た。たとえ百ベエがここでひっくり返って人事不省になっても、彼女は決して手伝いには来ないだろう。

「なっさけない。なんでまたノゾキなんか」

 小鈴が強調してもアカネちゃんはうなだれるばかり、百ベエもぺこぺこと頭を下げるばかりだ。

「で、隣の奥さんとはどんな関係なんだ」

 あきれはしたが、とにかくいろいろはっきりさせないと、ことが進まない。

「のぞいたって言うんですけど。ヒロちゃんは新聞配達してただけだし。それにあんな見苦しいおばんをのぞき見したりしませんよ、ヒロちゃんだって。週間文潮の写真見た?ひっどいおばんじゃないのよ。ヒロちゃん好みじゃ全くない。あんなおばんを覗いて何が面白いってのよ。変態じゃあるまいし」

 アカネちゃんの言うことももっともだと思いながら、小鈴は腑に落ちないものを感じた。

 ヒロちゃんはそもそもノゾキ魔なんだろう?

 え?

 変態じゃないのか?

 確かに一年ほど前だった。新聞配達員がのぞきをしたと、殺された隣の奥方が大騒ぎをして、警察官が聞き込みに来たっけ。それっきりその配達の男は来なくなった。クビにでもなったのだろう。集金に来たときに二、三度見かけることがあったのだが、やはりその男は小鈴の変態センサーにひっかかった。うつむき加減で、人を見るにも上目遣い。後ろ暗そうに玄関に立っている若者の肩には、陰が差していた。その陰に、こいつぁ変態だと小鈴は直感したので、隣の奥さんが騒いだときも、さして疑いをはさまなかった。そして辞めていった配達員はやっぱりのぞいていたんだろうと、納得してしまった。あれがヒロちゃんか。

 世の中には隣のおばさんを覗き見するような奇特なノゾキ魔もいるのかと、その時、ちょっとだけ世界観が変わったのを小鈴は確かに覚えていた。いろんな種類の変態がいるものだ。高級住宅街に住んで、金持ち然とするマダムのたるんだお肌を見たい変態もいるのかも、などと自分を納得させたが、小鈴は変態を侮っていたようだ。

 今思えば、アカネちゃんの言うことの方に説得力がある。変態じゃああるまいし、ノゾキのヒロちゃんにも選ぶ権利があるっていうものだ。全国の変態の皆様には大変失礼なことをしたので、訂正広告を出さなければならないくらいだ。

 ヒロちゃんは変な変態じゃない。

 こういう輩とつきあっていると、何が正しくて何が間違っているのか、何が常識で、何が非常識なのか、時々襟を正して考えなければならなくなる。ぼうっとしていると、向こうのペースに巻き込まれて、物差しがだいぶんとずれてしまうのだ。

 こうして小鈴は何の因果かノゾキのヒロちゃんのアリバイまで何とかしてやらなければならないはめに陥った。こうなったらきりがない。もう真犯人を捜すまでだ。

 山形もカメもこまごました雑魚を引っかけて、一体全体、真犯人をあげる気はあるのだろうか。いや、まったくない。手近なところから、任意同行、重要参考人まででっち上げ、果ては一年前のノゾキ魔をしょっぴく。

 しかもヒロちゃんは隣の奥さんなんか覗いていないっていうし。ヒロちゃんをシロと証明したところで、また誰か的はずれなのをしょっ引くのだろう。

 それに、ヒロちゃんはノゾキ魔だ。隣の奥さんが殺された夜だって、どこで何をのぞいていたものやら。警察になんか金輪際言えやしないのだろう。もし、ヒロちゃんが殺しよりノゾキの方がまだましと悟って正直にどこで何をのぞいていたか吐いたところで、誰にも見つからないようにのぞいていたヒロちゃんを見かけた者はいないだろう。誰にも気づかれないようにヒヤヒヤしながらのぞくのがノゾキの真骨頂というものだ。ヒロちゃんのアリバイはヒロちゃん自身によって消されている。

 ノゾキで捕まらなかったのだから、アリバイはないのだ。

 こんなことしているうちに、またいつ何時振り出しに戻ってお呼びがかかるかわかったものじゃない。危なくて、枕を高くして眠りこけていられないではないか。仕方がない。真犯人を捜すとするか、と小鈴は決心した。


 8 となりのオヤジ

 エンジェルが上品な薄さに切ってあるトマトをフォークでつつきながらいった。

「小鈴ちゃん。百ベエによると、となりのオヤジはかなりあくどかったようじゃないか。一体どんなだったんだい」

 フレンチレストランは、エンジェルの好みだ。

 明日には病院中の評判だろう、闘犬鈴田、しゃれたフレンチレストランでホスト遊びとか。

「そうね、もう中年だけどね、若いころに戸建ての家持って、外車二台。周りの人はうらやむくらいね。初めの頃は奥さんも若かったし。まあ、つきあいもなかったからどうって事はなかったけど」

「ふうん、あたりの評判はどうだったんだい」

「つきあいないからね、子供もいなかったし、まあ二人で気ままにやっていたんじゃないかしらね。奥さん、専業主婦だし。暇だったろうね。中年といってもまだ四十そこそこだし」

「夫婦仲は?」

「そこまではわからないのだけれど、あたしの勘ではね、なんかあるような」

「っていうと?」

「証拠はないのよ、でも奥さんのあの潔癖ぶりはちょっと変だったもの」

「潔癖?」

「そう、猫が庭をうろつくからって、うちに文句を言ってきた挙げ句、柵を張り巡らし、庭に砂利を敷き、猫よけの超音波発生器を二機も玄関先につけたのよ。それがピーピー妙竹林な音を立てるんで、うるさくて、うるさくて」

「本当にどら猫がうっとうしかったんじゃないの。小鈴ちゃんちの猫でしょ。なんか、悪そう」

「し、失礼な。うちの猫ちゃんは飼い主に似ておとなしいんだ。それに向こう隣の野々山さんに聞いたら、猫は特に悪いこともしないし、歩いているだけだから気にならないって言ってた」

「野々山さん、小鈴ちゃんのことが怖かったんじゃないの。どんな風に聞いたのよ」

「うるさいねえ。隣近所じゃあ、評判いいんだから。あんたみたいのと付き合いがあるなんて、金輪際、近所には言ってないからね。だから大丈夫」

「はいはい、そうですか。で、それがなんだって」

「猫ってねえ、何を象徴すると思う?」

「猫ねえ」

「思いつくものをいってごらん」

「猫。そうだね、女性的なものかな。まあ、端的に言って、女。それから、そうね、女」

「何よ、女ばっかりじゃないの。それはあんたの頭の中じゃないの」

「こ、こりゃ失礼、しかし猫でしょ。そのほかには……」

「そう、その通り、女、あとは妊娠とか、多産とか、まあ、出産。子猫。とにかく足元にまとわりついてくる女性的な動物よね」

「そうね、男っぽくはないな」

「それを追い出そうと必死になる姿には、女のかげを感じさせるわね。家の回りや庭を横切ることも許せないってのよ。要するに目にしたくないということ」

「ふうん、旦那にこれがいたのかな」と言ってエンジェルは小指をたてた。

「そうね、それもいつ妊娠して子供を産んでも不思議はないような状況。特に奥さんが躍起になっていたのは、子連れの猫を追い出すこと」

「ふうん、そりゃ確かに女がいたんだ」

「それに、旦那のほうは、家もあり、金もあり、車もあり。次にほしいのは何、エンジェルなら」

「そうね、愛かな」

「ばっかか」

 あまり勢いよく言ったので前菜のキャビアが一粒口から飛び出た。テーブルに散ったキャビアをフォークに載せて自分の皿の端につけながらエンジェルが言った。

「や、まあ、端的に言って愛人ですね」

 ああ、あたしのキャビア、と口には出さねど、小鈴は惜しそうにその小さな黒いツブに見入ったが、あきらめて言った。

「そうよね。愛人。いないのが不思議なくらい。四十代前半。まだまだやりますよってとこ」

「離婚話は?」

「そこまではねえ。奥さんの実家から事業に出資してもらっているようだったから。簡単に離婚は出来ないんじゃないかしらね」

「とすると、この殺し、小鈴ちゃんの推理としては女関係ですかね」

「うーん。痴情、男女関係のもつれ?」

「痴情かあ。その筋から仕入れた情報としては、怨恨なんだ」

「どうして?」

「殺され方がね」

「ひどかったの?」

「そうね。小鈴ちゃんが恨む相手を殺すとしたら、どうする」

「そうねえ」

 小鈴は殺したいほど憎いと思う相手も本当にはいなかったが、もし、許し難いことがあったら、そしてそれが鼻持ちならない相手だったらどうするか考えた。

「そうねえ、鼻っ柱をへし折ってやるかな、まずは」

「なるほど、鼻をね、狙いますか」と言って、エンジェルが自分の鼻をかばうように触った。

「で、どんなだったの」

「顔をめった打ち。鈍器でね。まずはど真ん中。そのほか、生活反応のない傷もあったそうだ」

「ってことは、何度も痛い思いをさせたいくらい憎かったのね」

「そう」

 メインディッシュを運んできたウェイターの都合上、小鈴は声を潜めていった。

「で、ほかには?防御創とか、死体の様子とか」

「そうね。防御創は腕に打撲が数カ所。基本、逃げる暇もなくやられたらしい。仰向けに倒れていたのが、玄関に続く応接間」

「夜でしょう。夫は出張で不在、確か午後十一時前後でしょ。玄関を開けたのだから、顔見知りじゃないと。しかも鈍器で何度も殴るなんて、執念深そうね」

「そうね、玄関は疑いもなく開けられ、締めてから殴った。応接間まで犯人は奥さんを引きずり、そこで犯行を続けた。奥さんは声を出す暇もなく、顔を鈍器で殴られ、逃げることもなく倒れた。しかも死体の顔には応接間にあったムートンがかけられていた」

「ムートンが…」と小鈴は場面を想像しながら言った。

「そう。その執念深さは、痴情と言うより、怨恨の線なんだ。一体、夫の愛人がそこまで奥さんを憎むかなあ。それに馬鹿力出したって、遺体を引きずって、玄関から応接間まで。結構大変だよ」

「どうかしら、でも、奥さんって、異常な感じになるのよね、こと猫に関しては。しつっこくて。だから、その女に対しても同じような異常な扱いをしたのかも」

「そうね、で、我慢ならずに、がしっと、顔のど真ん中?」

「そう」

「小鈴ちゃん。確かに痴情と怨恨がオーバーラップすればそうなるかも知れないが、一体、夫の愛人が、夜、夫の留守に凶器片手にやってきたら、正妻さん、構えないものかな。こりゃ、何をしに来たんだろうって。真夜中だよ。それを、何の疑問も持たずにドアを開け、家に入れたんだ。騒ぎもなかったんでしょ」

「そうね、そういわれれば不自然かも」と、当日の夜は特段の騒ぎもなかったことを思い出して、小鈴は考え込んだ。

「もし、夫に愛人がいれば、わかり次第で事情聴取されているだろう。もうされているだろうよ」


 9 カメさんと飲み比べ

 エンジェルの言ったとおり、隣の旦那の愛人は警察に任意同行していた。

 しかし、彼女に殺しは出来ない。臨月だった。

 夫は出張。もちろん警察は夫の裏もとってある。それでまずは小鈴がしょっ引かれたわけだ。

 だれが小鈴のことを言ったのだろう。次に品行あやしい百ベエのことを。それからノゾキのヒロちゃん。

 全てだれかが警察にほのめかさなければ、カメの気づくはずのない些細な関係ばかりだ。

 一体、誰が小鈴たちをはめたのだろう。小鈴は隣近所に聞いた。百ベエが奥さんに挨拶に来たことを覚えているか、カメに言ったかどうか。誰もそんなことを警察に言ってはいないと。ノゾキのヒロちゃんに至っては、誰も覚えてさえいなかった。

 アカネちゃんの店に集った小鈴たちはそれぞれの好物をすすりながら、思い思いのクッションを抱えてソファに座っていた。

 アカネちゃんのおかまバーは通ってみると、なかなか居心地がよかった。アカネちゃんの仕込みで、どの娘もみんな、暑っ苦しく寄ってくるわけでなし、かといって、放りっぱなしであるわけでなかった。さりげなく誇りをくすぐり、さりげなく、弱みをかばった。

 下戸の小鈴にはウーロン茶の水割りとか、のんベえの百ベエには色が濃く見えるウーロン杯とか、飲み屋での小鈴の立場や百ベエの健康を考えた飲み物を作ってくれるのだ。

「百ベエはどこにいたの、殺しの時間に」

「一生のお仕事」とエンジェルが意味ありげにいった。

「百ベエの一生のお仕事って?」

 エンジェルは百ベエをちらっと見ていった。

「ある人を守ることらしいよ」

「うそぉ。一体誰を」

「百ベエに聞けよ。なあ、百ベエ」

「うん、そうさな、センセーには助けてもらったし。秘密はよくねえ、秘密は。こうなったら全部白状しまさあな」

 百ベエが白状しそうになったその時、アカネちゃんが言った。

「カメさん、飲み比べしたら、鈴田先生と」

 その日は何の因果か、カメさんまでがひょっこり店に現れたのだ。いつもはどうせ些細な事件の聞き込みに来るぐらいだろう。一杯勧めるアカネちゃんの誘いにカメさんはちょっと恥ずかしそうにソファに座ったのだった。

「何だって、こんなおなごと飲み比べせにゃいかんのだ、本官が」

「ねえ、だって、カメさん、先生をしょっ引いたんでしょ。あたしたちの大切な先生。そしたら、そのかわり、ちょっとだけ教えてくれてもいいじゃないのよ。捜査の進み具合とか」

「そんなこたあ、できまっしぇん」

 私生活では九州弁が丸出しになるらしい。

「だから、飲み比べで決めましょうって。負けちゃったらカメさん、仕方ないじゃありませんか。でも、まさか負けるなんてないでしょ。九州男児のカメさん、お酒はお強いんでしょ」

 アカネちゃんはしゃべりながら手を動かし、水割りをマドラーでかき混ぜている。カメさんの分だ。

「もちろんです。で、何を知りたいんです」

 への字眉の両端をめいっぱいあげて聞いてくるカメさんは、いつになく人の良さそうな目をしていた。

 小鈴は乗り出して言った。

「ガイ者の夫のアリバイ。一体どこで何をしていたっていうんです。一番あやしいのに、ちっともしょっ引かれない。どんなに固いアリバイなんです」

「それは言えまっしぇん。職務上知り得た秘密だから」

 カメさんがありがたくのたもうたが、アカネちゃんは既に勝負開始のゴングを鳴らしていた。

「ハイハイハイ、堅い話はいいから、さあ、一気でどうぞ」

 条件反射のようにカメさんはアカネちゃんが差し出した水割りを受け取って飲み干した。アカネちゃんは間を空けずに小鈴にカメさんのと同じ色をしたグラスを差し出した。

 小鈴はカメさんとほぼ同じタイミングで杯を空けた。

 小鈴が見るとアカネちゃんがウィンクした。小鈴のグラスはウーロン茶の水割りだ。

「ハイハイハイハイ、空けて、空けて」

 面白い趣向にシズカちゃんもモモカちゃんも集まってきて景気をつけた。景気づけされると、ウーロン茶の水割りはすっかり酒に見えた。誰もこんな大騒ぎしてウーロン茶を飲んでいるとは思わない。しかも小鈴の方はがぼがぼになったお腹を抱えて、汗をかきかきグラスを空けているのだ。誰がウス茶だと思うものか。しかし、お茶だから苦しい。

 まさに、飲み過ぎだ。

「いっき、いっき」

 カメさんは五杯目を飲み干そうとしたが、ぷうっと吹きだした。

「いやあ、参った、参った、強いおなごじゃなあ。もうだめじゃ。約束だからな。教えにゃいかん。男の約束じゃ。致し方あるまい。お上も許してくれるじゃろう」

「わあ、さすが、カメさん、九州男児、男の中の男!」

 アカネちゃんが持ち上げると、シズカちゃんやモモカちゃんが大きな手で拍手喝采した。

「夫は出張だと言っていたが、実は完全には裏がとれていない。金沢だ。行きと帰りの飛行機には確かに乗っている。そして途中、ガイ者を殺しにもう一往復した形跡はない。小松から羽田は一時間だ。市街からとしても三時間で、自宅まで帰るとすると、時間的には往復が可能だが、ガイ者の死亡時刻までに横浜に着くことができる時間帯、航空機の搭乗者名簿に名前はない。それに殺害時間は遅くて、土台、金沢への航空機や新幹線の最終便には間に合わない」

「偽名は?」

「その日の便の搭乗者全員の裏はとった。全て本人で、ガイ者の夫を含む余地はない」

「ふた晩金沢だったんですね」と小鈴が矢継ぎ早に質問した。

「そうだ。小松は市街地に行きにくい空港だ。リムジンバスか、タクシー。足取りは確かだ。火曜の朝、市街にはいり、仕事の打ち合わせをして、木曜の午後戻る。そして空港で妻の死を知らされる。しかし、なんで、今日び、新幹線を使わんかったかなあ」

「そうですよね。いい時間帯の新幹線にも乗っていないんですか?」と小鈴がカメさんの顔をのぞき込んで聞いた。

「もちろんだ。新幹線は指定も自由席も、ガラガラだった。客に夫がいれば、わかる。ガイ者の遺体を発見したのは隣の隣の奥さん。町内会費を集金に、毎月第二木曜にあんたのとこを含めて回っている。ちなみに猫好きの犬山さんだ。こともあろうに夫は文屋あがりだ」

「こともあろうにって?」

「現場の写真をすっぱ抜きよった」

「あーあ、週間文潮にね。あれ、そういうことだったのか」

「様子がおかしいことを察した奥さんは警察より前に夫に知らせた。夫は遺体を発見して、写真を撮りまくったんだ」

「写真をね」

「そう、全部押収したつもりだったが。きょうび、デジタルはいかん、デジタルは」

「電子データを取ってあったのね」

「そういったことだな」

「ってことは?」

「おっと、遅くなっちまった。女医の先生には悪いことしたな。締め上げちまってさ。たれ込まれちゃ仕方ないさ」

「たれこみって、だれ?」

「さあな。じゃあ、酒に飲まれないうちに帰るとするか」

 そういってカメさんは店を出た。その後姿に見入りながらアカネちゃんがつぶやいた。

「カメちゃん、いいとこあるじゃないの」

「いいとこ?」と小鈴が怪訝そうにつぶやいた。

「そうそう、ほんとはもっと飲めたのにね。強いのよ、あのカメさん」とモモカちゃんがしゃくれた顎をさらにしゃくって言った。

「へーえ、そうなんだ」

「まあ、詫びってとこだろう」とエンジェルが言った。

 百ベエが脅された恨みで呟きながら、塩辛のついた箸の先を舐めた。

「カメが詫びたりするんだか」

「写真が犬山さんの家にあるんだ。それにしてもたれ込んだのは誰だろう」

 小鈴がぼやくと百ベエがこともなげにいった。

「そりゃ、おめえ、真犯人だろう」


 10 現場写真は週刊文潮

「いやあ、ご近所には隠し通すつもりだったんですがね。ばれちゃいましたか。フリーの記者というと、怪しむ人もいるもんですから、あまり仕事のことはいわないようにはしていましたし、それにご近所の事件を飯の種にしたと思われるのもなんだから、写真、一枚だけ、恩のある週刊誌の編集長に渡しました」

「ああ、週刊文潮ですね」と小鈴が確認した。

 週刊文潮のトップを飾った記事だった。遺体は映っていなかったが、現場の部屋であることは見て取れる写真とともに、住宅街で起こった凄惨なマダム殺しを興味津々で書いた記事だった。写真は犬山さんの提供だったのか。

「ええ、あとは、押収されたので、まあ、なかったことにしようかと。かなりきわどいので。遺体の様子とか」

 そういいながら犬山さんはノートパソコンを立ち上げた。

 応接間に黒味の強いシェパードがやってきて、上目遣いに小鈴たちを見た。特にエンジェルの顔を胡散臭そうに見上げている。しかし、しつけがよいので、色白な犬山さんの奥さんが手を振ると、そのシェパードはすごすごと自分の居場所である部屋の隅に戻った。

「ところで、誰が犯人なんでしょうかね」

「さあ、ひどい遺体ですからね。恨んでいる人でしょうが、かなり深い恨みでしょうね」

「犬山さんは誰だと思います」

「いやあ、なんとも」

「私だとは?」

 犬山さんのご主人は大きく手を振りながら小鈴の目を見ていった。

「まさか。動物好きにそんな人はいませんよ」

 そうだ、犬山さんも動物好きだ。とすると犬山さんでもない。

「でも、誰かが私をあやしいと言ったために、私がしょっ引かれました」

「そうでしたね」

「一体誰がそんなことを」

「ご存じなかったんですか。てっきり警察からお聞きになったかと。私、旦那さんがいらしたとき、居合わせたんですよ。現場で警察に説明しているところ、間もなく帰ってこられたんです。呆然としていましたが、開口一番、鈴田さんのことを。私もそれにはちょっとびっくりしました。いさかいがあって、鈴田さんが家に怒鳴り込まれたとか」

「じょ、じょ、冗談じゃない。逆ですよ。隣の奥さんが怒鳴り込んできたから、怒鳴り返しはしましたよ。でも、それっきり。あたしは何にもしてやいません」

「わかってますって。うちだって、猫や犬は好きですからね。あの奥さんの潔癖ぶりには辟易でした。アリの行列さえ許しませんからね、あの人は。だから、おつきあいもなく。それなのに鈴田さんの名前をいとも簡単に出していました。鈴田さんはそんな人ではないと、あとで警察のほら、あの亀みたいな顔した刑事さん、あの人にいったんですよ」

「そうなんですか。ありがとうございます。でも、旦那のたれ込みのおかげでたっぷり絞られましたよ。ただそのおかげで、こうして犬山さんが撮った写真を見せていただけるわけなんですけれどもね」

「そうなんですか。いいですけれども、大丈夫ですか、死体の写真ですよ」

「大丈夫ですよ、見慣れていますから。いやまあ、それほどでもないですが、まあ、いいから。それに遺体の写真より、家の中の方に興味があるのです。何か犯人が残したものとか」

「そうですね。まあ、まずこれが玄関です」

「鍵は?」と矢継ぎ早に聞くエンジェルに、犬山さんが答えた。

「かかっていませんでした。だから家内がドアを開けられたのです」

 犬山さんの奥さんが大きな目をくりくりさせながら、あとを引き受けた。

「ええ、そうなんです。先月も町内会費の集金日にいなくって、今度こそ先月分ももらわなきゃと思って、返事がなかったのですが、ドアノブを回してみたら、開いたんです」

 隣の奥さん、金についちゃあ、渋かったようだ。

 小鈴は話の進行を促した。

「そして」

「声をかけてもこたえがなく、でも、鍵がかかっていない。この辺は物騒でこそありませんが、隣の奥さんは潔癖だし、妙に几帳面で、ケチ、鍵をかけ忘れるなんてこともなさそうですしね」

「それにノゾキ魔もいるしね」

「そうそう、鈴田さんに言われるまですっかり忘れていましたが、隣の奥さん、確か一年ぐらい前に、ノゾキ魔がいるって騒いでいましたっけ。そんなことですから、鍵がかかっていないことが不自然に思えたんですね」

「で、あがってみたんですか」

「いいえ、玄関に血が飛び散っていたところで、あたしはフォールです。くらくらして、家に帰って夫に電話をしたんです」

 色白な犬山さんの奥さんが貧血を起こして卒倒するところは容易に想像できた。

「私もちょうど、遅い昼飯を食べに帰ろうかなんて思っていたところだったんで、急いで車で家に帰ったんですよ」と、犬山さんのご主人が話を引き取って続けた。

「で様子を写真に撮ったわけですね」

「そうです。家内に百十番させ、警察が来るまでの三分で撮影したものです。玄関には家内の言うとおり、血が飛び散っていましたが、遺体は応接間で、ムートンをかけられていました。上半身だけでしたが。見える部分から、こりゃ死んでいると。死体はともかくとして、じゃあ、部屋を見ますか。これが応接間。私は事件記者じゃありませんから、詳しくはありませんが、争ったあとはありませんでしたね。いつもと同じような、応接間で、遺体だけが非日常でした」

 そういいながら犬山さんのご主人はコンピューターを操作して、写真を見せた。

 玄関の壁には大きな絵皿がさがっていた。きっと高いのだろう。写真映りがいい。廊下にはひからびた血のあとが飛び散り、さらには筆で引いたような線をなしていた。写真より、コンピューターのディスプレイで見ると臨場感が増した。テレビドラマのようでもある。

 応接間では革張りのソファの上に、大きな白いムートンが一匹のされていた。もう一匹は奥さんに覆いかぶさっている。いやな役回りだ。色の変わった足が見え、犬山さんの旦那さんが、こりゃ死んでいると思ったのもむりない。

 暖炉が切ってあり、使われることもないのだが、その上には、純金の大黒様とか、小判とか、とにかく山吹色に光る物がどかどかと置いてある。しかも大きい。メッキでなければ、重くて素手で持ってはいけないだろう。床には血のあとしかない。塵一つないのだ。潔癖性の奥さんのことだから、毎日拭き掃除は欠かさなかったのだろう。

 小鈴はためつすがめつ写真に見入ったのだが、とにかく床に落ちている物はムートンを被った奥さん以外ない。こりゃあ確かに、警察といえども何の手掛かりも得られず、隣の旦那の言うままに小鈴をしょっ引くぐらいしかなかったのだろう。

 小鈴は次ぎ次ぎと画面を送って写真を見た。エンジェルが、小鈴の見終わった画面を検閲するように見直していた。

「何見てるのよ、エンジェル。私が見ても何にもないんだから、何にもないって。疑い深げにじろじろ見るのやめなさいよ」

「そうね。まあ、興味の範疇がちがうからさ、小鈴ちゃんと。まあ、いろんな目で……」

 エンジェルが食い入るように画面を見つめ、言葉を切った。

「なによ。どうかした」

「いや、ファックスがね、来てるじゃない」

「どうかしたの、そのファックスが。まったく白い紙には目がないんだから。儲け話でも載ってるの」

「いやあ、まあ、その……」

「二通かしら」と、ディスプレイに見入って小鈴が言うと、犬山さんのご主人が説明した。

「そうですね。確か二通来ていましたね。一通はホルダーに、一通は脇によけてありました。ノゾキ趣味みたいで悪いんですが、写しときました」

 エンジェルはパソコンのディスプレイに見入っている。

「ペーパーには興味津々ね。あんたが喜ぶようなニセペーパーじゃないわよ」

「え、ニセ?ペーパー?」とつぶやいて、犬山さんのご主人が怪訝そうにエンジェルを見たので、小鈴は慌てて手を横に振って話を変えた。

「いや、いや、こっちの話」

「ホルダーにあるのは時間が、そう、木曜日の午前十時。脇によけてあるのは水曜日の午後十時三十二分だなあ」

「そう。死亡推定時刻頃だわ。確か、水曜日の二十三時前後、まあ、ずれても前後一時間と特定されたのよ。だから私は無罪放免になったの。ちょうど、二十三時ごろ、私は病院の電子カルテの端末をいじくっていて、その記録が中央情報管理室にあったの。だから、家に帰りついたのは十二時半過ぎだし。季節柄、部屋の温度もそうは変わらず、死亡推定時刻はかなり正確だといっていたっけ、カメさんも」

「ということは、このファックスは奥さんが殺される前後に来たと言うことか。じゃ、誰がホルダーからよけたんだい?」と言って、エンジェルが小鈴の顔を見た。

「そりゃ、それを読んだ人じゃない?」

「だれ?」

「そうね、奥さんを殺した人かな」

「そうだな。それにしても、うまそうなファックスだ」

「何がうまそうなんだ」

 小鈴も身を乗り出して、ディスプレイに見入った。

「いやね、これ、株のインサイダー情報だぜ。どっから来たか知らないが、急いで手離せってさ、遅くとも翌日昼までに。誰が持っているのかな」

「なにそれ?」

「インサイダー情報、つまり内部情報を流して、株を取り引きさせ、マージン取ってるんだろう」

「それっていいの?」

「いいわけないでしょ」と、エンジェルが小鈴の方を振り向いていった。

「で、それって、当たってるの?」

「当たってるね。この会社、大手なんだけど、不具合品だして、リコールしたんだ。この翌日の朝いちだったかな、記者会見。株さがった」

「じゃあ、さがる前に売ったのかしら」

「さあ」

「売れるわけないじゃない。奥さん、死んじゃったんだし、旦那、帰ってきてびっくりなんだから。このファックスを見つけて株売ってる場合じゃないし」

「そうだね。そう。もし、このファックス見てなきゃね」

「見たとしても、よる夜中だし、翌日は移動日、株売り買いする余裕あったかな」


 小鈴はカメさんに面会を申し込んだ。

「カメさん。この写真。そちらにもあるでしょう。ファックスの文面、写真からも見えるけど。内容確認してくださいよ」

「はいよ。で、なんなんだい?」

「そちらでも写真取り直していますか」

「もちろんだ。あんまり撮りまくってくれたから、同じ様に撮るのに苦労した。でも、こっちのカメラの方がいいからな。文字の一つ一つまで、こんな写真よりよっぽど……」

「どうしたの」

「これか。ふむ、時間が……、特定される。ふむ。一枚はよけてある……」

「そう、その中で、会社の名前があって、株を手放すように書いてあるでしょう。これに書いてあるように、この会社の株、翌日大幅にさがっているのよ。もし、ガイ者の旦那がここの株を手放していたら」

「どういうこった?」

「このファックスは来た。でも、脇によけてある。誰かがこのファックスを見て、読んで脇によけた。ファックスが来たあとに、誰かがよけたとしか考えられない。しかも時間が書いてあるし。時刻は十一時半過ぎ。もし、これを読んだ奴が株を持っていたら、急いで売るだろう。損をしないようにね。旦那が株を売っていたら、旦那はこのファックスを手に取って見たということよ。そして、脇によけ、株を売る」

「ふむ。合点した」そういいながらカメさんが初めて小鈴の目をまともに見た。


 11 夜の解剖実習室

「よけいなことを」

「冗談じゃない、あんたの奥さん殺しでしょっ引かれたのよ。しかもあんたがちくったそうじゃないの。初めから、あたしを売った奴はろくな奴じゃないって思っていたんだ」

 小鈴はやっとの事で息を整えた。

 少し前だった。その日もいつも通り、仕事を終えて駐車場へ向かっていた。十時を回ったというのに暑苦しくて、湿った空気が腕にからみつく、いやな日だった。

「くそ、あっちいな」

 小鈴は一人で毒づきながら病院の裏口を出た。暗い中、石段々に躓かないように気をつけて、それでも急ぎ足で歩いた。小鈴の車は今日に限って遠いところに置いてある。

「やだなあ」

 小鈴には変態センサーと、変センサー、そして、あやしいセンサーがある。今日はなんだかあやしい。背中の毛がザワザワと騒ぐのだ。

 やっと自分の車を見つけ、そのはす向かいに止めてある車を見た瞬間、背骨の上に並んで生えている毛が列を成して立った。ビーッと音を立てたような気さえした。

「ゲッ、色も形も隣んちの外車と同じだ。まさか!」

 そう思ったと同時に、色も柄も隣の家の車にそっくりなその外車が急発進した。

 小鈴のボロ車のはす向かいに止めてあったスポーツカーが小鈴めがけて突進してくる。小鈴は飛び上がって方向転換した。この時間ではもう誰も、滅多に駐車場には来ないだろう。まばらにおいてある車は、当直医のものだろうし。守衛は午前0時にならないとこのあたりを回らない。

 そんなことを考えながら、小鈴は隣の家の外車にそっくりな車の気配を背後に感じた。

 あわてるな、地の利はある。そうだ、いくらエンジンの大きな車でも、石段々三十センチは越えられまい。毎夜暗闇で悩まされる石段々に向かって、小鈴は走った。薄暗くて、目を凝らしていないと、いつも石段から足を踏み外しそうになるのだ。

 生け垣の切れ目から石段々に飛び上り、ゴツゴツした石畳の上を走った。

 隣の車にそっくりな車は大きな音を立てて石段にぶつかり、とまった。

 大切なスポーツカーだ。さぞやくやしいことだろう。小鈴は振り向いてそう思った。ライトをつけないで人のことを追っかけるからだ、怪しいやつめ。と思った瞬間、車のヘッドライトが煌々とついた。小鈴はまぶしくて幻惑された。腕で光を遮ると、車のドアが開くのが見えた。大きな人影が光を遮りながらこちらに向かって来る。

 だれだ。隣の旦那に色柄もそっくりだ。

 手には長いバット状のものを持っている。あれは確かにバットじゃないか。光沢からいって、金属バットだろうか。ヘッドライトに照らされて鈍い光を放っている。

 小鈴はとりあえず走り出した。駐車場は基礎医学系の実習室に面している。解剖学とか、生理学とか。学生はもうみんな帰ってしまい、電気がついていない。病院と違って、誰もいないのだ。

 しかし、かまってはいられなかった。

 手っ取り早く入れるのは解剖学の教室だ。途中には茨のつるが延びていて、知らないものは必ず足をとられる。小鈴は慣れた夜目でつるを飛び越えながら解剖学教室のドアにたどり着いた。思ったとおり、図体の大きな男は勢いよく茨に足を引っ掛けて転び、泥まみれだ。

 ついでに言うなら、今朝そのあたりには犬のウンコが落ちていたっけ。泥まみれにくそまみれだ。ざまあない。

 残念だが、振り向いてその無様を見る余裕もなく、小鈴はドアを力一杯開けた。誰もいない階段教室。左右の木製ベンチの間に気長に続く階段を勢いよく上がった。教室の後方のドアを開けて振り向くと、隣の旦那にそっくりな男、いやもう、隣の旦那そのものがドアを開け、足早に教壇に近づき、階段教室の階段を上がってこようとしている。

 小鈴は階段教室の後ろのドアから出て廊下を走った。足音を忍ばせたいが、スピードを出さないとあの大男に追いつかれる。

 小鈴は意を決して実習室に入り込んだ。

 そこは解剖が佳境に入った頃の実習室だった。

 実習室に充満した固定液が目にしみる。ステンレス製の実習台には数十体のご遺体が青いビニールシートにくるまれて、ひもで結んである。

 一つの台が空だ。小鈴は台の下から畳んであるビニールシートを引っ張り出して広げた。幸い真新しいシートだ。シートを台に広げてその上に飛び乗り、自分でくるまった。

 どんなにせっぱ詰まっていても、素人が解剖体の入っているはずのこのブルーシートを広げて中身を見る気にはなるまい。まして、真夜中の解剖実習室だ。たとえ医学生だとしても、部屋の扉を開けるのさえ、かなりの決意がいる。

 小鈴は頭までシートにくるまって息を潜めた。旦那の無遠慮な足音がどすどすと聞こえる。実習室の扉の前で止まった。足音は止まったままで、荒い息づかいが聞こえてくる。

 解剖学実習室という札に躊躇している旦那の姿が目に浮かんだ。小鈴は心臓の鼓動がシートを揺らし、音を立てているように思った。静寂の中でその音はステレオで聞くハードロックのドラムスより大きな音のように感じられた。時間はゆっくり過ぎていく。まるで止まってしまったようだ。

 ぎーっとドアが開いた。向こうも必死なのだ。しかし、いくら人を殺したって、たかが一人だ。この数十体の遺体をよる夜中に見て、しかもシートを剥いでその中の遺体の顔を拝もうなどと言う罰当たり、できるはずがない。

 時間が止まったように旦那も動かない。小鈴は完全に息をこらえ、そして念じた。

 ここは神聖なる解剖実習室だ。おまえの入れるような場所ではない。

 しかし、いい加減、小鈴の息こらえにも限界がある。

 と思った瞬間、ばたっとドアが閉まり、旦那の足音がゆっくり廊下を遠ざかっていった。小鈴は放心して、シートを勢いよくよけた。

 暑いこと暑いこと、蒸し暑いのだ。汗が脂汗と混じって、じっとりと体中にへばりついた。小鈴はゆっくりと解剖台を降りた。ぬーっとなまあたたかい汗が小鈴の背中を這って降りた。まるで滴る血のようだ。

 と、その時だった、ポケットの携帯がぶるぶると震えた。小鈴はあわててスイッチをオフにしたが、勢いよく動かした腕が解剖台に当たった。そしてさらにその振動で、どこのどいつが置いていったか知らないが、解剖鋏がステンレスの台からタイルの床に勢いよく落ち、かちーんと癇に障る金属音をたてた。小鈴はあわてて、解剖実習室を出た。よりによってこんな時に携帯かけてくる奴なんて。

 小鈴は旦那が去った方とは反対側に走った。

 実習室は二階だから、外に出るには降りなければ。階段を下り、とにかく外に出ようとした。小鈴はドアノブにしがみついた。

 入ってきたドアとは長い廊下を挟んで反対側のドアだ。

 開かない。

「うそ、鍵がかかっている。どうして」

 小鈴は力一杯ドアを引いたが、ドアはびくともしない。

「うそだ。このドア、鍵なんかないはずだ。いつもは向こうから簡単に出入りできたじゃないか。壊れてんのか、このくそドアめ、このお」

 小鈴は階段を下りてくる旦那の足音を聞きながら、渾身の力を込め、さらに目いっぱい体重をかけてドアを両手で引っ張り続けた。二枚のドアに挟まれた廊下は、非常灯だけに照らされている。閉じこめられたも同然だ。今日に限って誰か鍵をかけたのだろうか。

「開け、開いてくれ、頼むから。ダメだ。開かない」

 諦めて開かずのドアにもたれ掛かったときだった。身体ごと小鈴は外に勢いよく出た。

「何だ、押すんだったか」

 小鈴は走った。医局のある臨床棟の方に向かった。病院に続く臨床棟になら必ず誰かいる。当直医とか、呼び出された当番医とか、仕事の終わらないレジデントとか。誰かのいるところにたどり着かなければ。

 しかしドアでのロスタイムはきびしかった。旦那は小鈴に追いつき、服の後ろをつかんだ。小鈴は地面に転がった。幅広な顔で小鈴を見下ろして、隣の旦那がいった。

「よけいなことを」

「だって冗談じゃない、あんたの奥さん殺しでしょっ引かれたのよ。しかもあんたがちくったそうじゃないの。初めから、あんたは胡散臭い奴だって思っていたんだ」

 小鈴はやっとの事で息を整え、上体を起こした。

「おまえは無罪放免になったんだ。あのやくざを助けるなんて余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった。ノゾキ魔もしかりだ。どうせろくな連中じゃない、放っておけばいつか別の事件で警察の世話になってムショ行きだ。少し早まっただけじゃないか」

「なんてこと言うんだ。あいつらはそんな奴じゃない。殺人して、素知らぬ振りするおまえとはちがう。おまえこそ、姑息に稼いでいやがって、脱税だってしているに決まってるんだ。ムショのお世話はおまえの方だ。まずはゼイムショ呼ぶぞ」

「ばかな。脱税だって能力のうちだ。金持ちの妻を騙し、実家から金を出さまねここまで来るのにどんな辛酸をなめたと思っているんだ。おまえなんかにはわからない。優雅にお医者さまヅラしていやがって、女のくせに」

「誰が優雅にお医者さまヅラだ。解剖実習室に足も踏み入れられなかったおまえに言われる筋合いはない。いったい何で殺したんだ。しかもあんな殺し方を」

「だからおまえなんかにはわからないんだ。金のない暮らしから、ここまで、どんな風にやってきたか。潔癖性の妻と暮らすのにどれだけ気を使ってきたか。はした金を出しているっていうだけで大きな顔をする妻の両親。そのはした金を転がして、大もうけさせているのは俺だってことに気づきゃしない」

「だから、愛人のもとで、気を抜いていたのね。臨月だったそうじゃないの」

「あいつのためにも妻には死んでもらわなければならないんだ。あいつのことが知れたときの妻ときたら、まるで汚いもののように俺のことを。しかも、今の暮らしを維持するには、金がかかる。妻と離婚すればたっぷり搾り取られるからな。何も失わずにここまで来たんだ。はいってくるものを逃したことはない。金もチャンスも。いまさら、生活レベルなんか下げられないんだ。事情ってものがある。妻の両親にはもう貰った以上のことはした。今度は俺の番だ」

「何いってるの。外車二台も持って、これ以上何を望むのよ。あんたは、まずは自分優先。自分の生活、自分の車、自分の愛人、奥さんの親だって、あんたにいい生活を与えてくれるから大切にしたんじゃないの、自分が。そうやって自分中心に世界が回っていると思うから、ひずみが出るのよ。人間じゃないよ、自分の奥さんをあんな風にめった打ちにするなんて。あたしの友達はろくな奴いないけど、そんな風に人を傷つけたりはしない」

「何が友達だ。おまえも同じ穴の狢だ。医者のくせに貧乏でやがって、安穏と親の家に住んで。嫁にもいけないくせに。俺が医者ならガッポリ儲けて、屋敷の二つや三つ、建ててやる。意気地もないくせに。それにお付き合いはやくざにノゾキか。友達が聞いて呆れらあ。どいつもこいつも生きている価値もない意気地なしだ」

「意気地だって?そんなのは意気地でもなんでもない。あたしの友達はやくざにノゾキ、それに聞いて驚くなよ、ペテン師だぞ。でもどいつもおまえよりよっぽどましだ」

「うるせえーっ!」

 そう怒鳴りながら、旦那は持っていた野球バットを振り上げた。

 小鈴は地面を転がって、何度も振り下ろされるバットをよけた。そのたびにうち下ろされる金属バットが地面に当たって火花を散らすのが見えた。

「すっごい力だ。当たったら死ぬ」

 小鈴は必死によけた。

 とその時だった。

「こっちですよ、こっち」

 エンジェルの声だ。カーブしてくる車のヘッドライトが小鈴たちを照らした。隣の旦那はまぶしそうに腕を額にあてた。手には金属野球バット。その脇には髪を振り乱した小鈴が転がっている。

 現行犯逮捕だ。

「大丈夫か」

「遅いじゃないかよ、エンジェル」

「小鈴ちゃんこそ、ちゃんと携帯に出てくれなきゃ」

「携帯って、出られるわけないでしょ。とりこんでたんだから」

 パトロールカーからこぼれ落ちるように警察官が出てきた。とりあえず金属バットを投げ捨てて逃げようとする隣の旦那を、体格のいい警察官数人が取り押さえた。

「大丈夫ですか」と走り寄って声をかけたのはカメさんだった。

「カメさん」と小鈴がつぶやいた。

「もういい加減立ち上がったら」と言いながら、エンジェルが手を伸ばして小鈴を起こそうとした。

「ばっかか、腰が抜けて立てないんだ。どんなに大変だったか。くそっ。あし腰に力が入らない」と小鈴が言いながら立ち上がろうともがいていた。

「あんたのような気の強いおなごでも、腰、抜かすんかい」といって、カメさんが目をぱちくりしながら小鈴の両腕を引っ張った。

「来てくれてよかった。でもどうしてわかったの」

「守衛さんから、駐車場の方で変な音がしたって」とエンジェルが言った。

「何であんたに連絡が」

「守衛さんに頼んでおいたんだ。何か変なことがあったら、連絡くれるように。で、小鈴ちゃんの携帯は応答しないし。カメさんに連絡したってわけだ」

「そうか、助かった。え、じゃ、あの携帯呼び出し、あんただったの」

 小鈴は転がり回った地面に散らばるへっこみを見てぞっとした。金属バットにしたたか打たれた地面が丸くへこんでいる。ふにゃっと力が抜けるのをエンジェルが支えた。

「さてと、アカネちゃんのところにでも気分を変えに行くか」

「その前に、署まで」とカメさんが機械的に言った。

「まさかまた絞られるんじゃあないでしょうね」

 小鈴が本気で言うとカメさんが笑った。そうだ、カメさんの笑い顔を見るのは初めてだ。

「いやいや。もう旦那の殺しは殆ど立証できました」

「株、売っていやがったんだよ。大もうけさ。暴落寸前、一番高いときに売ったことになる。うまくやりやがって、くそぉ、俺ならもうちょっと高めに勝負を」とエンジェルがとんちんかんなことを言った。

「何言っちゃってくれちゃってんの!」と小鈴があきれて言った。

「あのファックスを見たことは間違いありません。夜間取引で、売りを指示したんです」

「そうか。でも、状況証拠ですよね」

「いや、金沢の足取りをたどったところ、あやしい金属バットの届けがあり、血痕がガイ者と一致しました」

「どうやって、金沢に戻ったんだろう」

「列車さ、在来線。飛行機だとの思い込みが誘導された。来た時と帰りが飛行機だったからな。新幹線も乗車記録は残らないが、列車を絞れば乗務員の記憶に残る。在来線は盲点だった。最終は午前零時過ぎにあるんだ。大垣で乗り換え、朝の十時過ぎには金沢について、ホテルをチェックアウトして航空機で帰ることが可能なんだ」とエンジェルが言った。

 ホシが挙がり、係長の警部ホさんはその犯人のアリバイ崩しが見事であるということで、半年の異例の早さで、本部に戻っていった。警部になったろうか。カメさんは堅苦しいキャリア警部ホとの仕事が終わり、ほっとしたところだ。アカネちゃんのおかまバーではまたウーロン茶を酒に見立て、小鈴はちびちびとやり、百ベエはヒヤヒヤするほどの勢いで色の濃いウーロンハイをあおり、エンジェルは水割りを飲んでいる。

 アカネちゃんもモモカちゃんも、シズカちゃんも小鈴たちの周りでごきげんよく騒いでいる。ヒロちゃんは恥ずかしそうに隅の方に小さくなっていた。

 百ベエの秘密が何だったんだか、結局聞けずじまいだが、その方が百ベエらしい気がして、あれから聞いちゃいない。大切にしているものがあるなんて、いいじゃないか。小鈴はうらやましく思った。


 12 エピローグ1 

 隣家の夫が小鈴への傷害現行犯、および自分の妻殺人容疑でダブル逮捕されたとき、何かを叫んでいるのを小鈴は聞いた。しかも小鈴を睨んでいた。

 くるりと顔を小鈴に向けたその犯人は、

「今に見ていろ、おまえも終わりだ」と叫んでいたのだ、思い出してみれば。

 なんで私が終わりなんだ、と小鈴は思った。

 その声は日増しに小鈴の心の中で大きく響いていった。

「おまえなんかひとひねりだ、メーヨーソーチョーが」

 あいつ、最後には確かこんなことを遠くから叫んでいたような気がする。

 ひとひねりとは何なんだ、一体。

 メーヨーソーチョーって、一体誰なんだ。アメリカのメーヨー大学の総長?

 小鈴の頭は混乱した。


 

Ⅱ そんじょそこらの殺人事件

 1 小鈴の独り言

「あれは確かにそんじょそこらの殺人事件だった。あたしにとって、隣の奥さんが殺されることよりはずっと日常的で、ありきたりなことだ。それが目と鼻の先で起こったからといって、しかも三件続いたからって、またあたしがしょっ引かれなければならないのか。しかも、被害者はあたしとなんの関係もないホームレス」

 小鈴は不満だった。隣の奥さんを殺したのが小鈴でなかったので、絞り上げすぎたと思ったのか、今度は、少しは丁寧な扱いを受けたが、ほんの少しだけだった。山形警部ホの後任、杉田警部ホの目の奥に潜んだ不遜な光は、今度こそ女医の小鈴をとっつかまえ、もののついでに隣の奥さん殺しも、初めに署がにらんだとおり、実はこの生意気な女めの仕業であったと世間に知らしめたいという功名心を混ぜ、複雑に屈折していた。

 しかし小鈴とて、今度ばかりは、たじろいだりせず、だってやっちゃいないのだから、しかもそれでもしょっ引くからには相応の覚悟をしろという気持ちを眉間に刻んで杉田警部ホに臨んだ。

(だいたいがあたしたちのおかげで山形警部ホが県警本部にホのとれた警部として戻ったんじゃなかったのかい。よおく思い出してほしいもんだ。せっかくあたしが隣の旦那をしとめてやったっていうのにその恩も忘れて、またしょっ引くのかい)と小鈴は思ったが、口には出さなかった。

 カメさんは所在なさそうに脇で小さくなっている。キャリアにもう一旗揚げさせなければならないようだ。新警部ホさん、こともあろうに、山形警部ホのライバルとか。そうか、山形警部ホが早々と本庁に戻って「ホ」が取れたために、杉田はこんな平凡な警察署に回されたのだ。

 山形警部ホが証明できなかったヤマを洗い直そうと思ってしまうのも無理はない。

「しかし、それとも何かほかの力…」と、小鈴はつぶやいた。

 こう何度も警察に呼ばれるには、それなりの理由があるのだろう。小鈴は、何か、納得できない漠然とした力を感じだ。


 2 えりちゃん

「なんか文句あっか、コラ」

 小鈴の姪、えりちゃんが、お団子のような丸顔にはおおよそ不似合いなせりふを路傍で連発している。

 学校帰りだろう。

 あー、とめなくちゃ、とめなくちゃ、と小鈴は少々うろたえた。

 こともあろうに、えりちゃんがすごんでいる相手は身の丈二倍はある強面だ。スキンヘッドにゲジゲジ眉毛、眼光鋭く、ホッペの傷もお約束どおり。この分だと、小指も二、三本はないのだろう。

 しかし、よくよく見てみれば、その強面、小鈴には見覚えのある顔だ。ぎょろ目の上方でゲジゲジ眉毛が上下している。スキンヘッドかと思ったら、なんだ、百ベエの禿頭ではないか。

 なあんだ、なんだ、と小鈴はすっかり安どして歩みに勢いをつけた。

「これこれ、やめなさいって」

 小鈴は走り寄って、えりちゃんと百ベエの間に入った。

「何だね、センセー。センセーの子かい?しつけわりいなあ」と百ベエが言うと、

「何いってみそらまねこの、ヌケ作が」とえりちゃんが、百ベエのきわめて少なくなった頭の毛を見ながら応戦した。

「やめなさいっての」と、小鈴は一応、えりちゃんをたしなめた。

「だってこのおっさんが、文句つけるから」と、えりちゃんがおっさんを見上げながらまた毒づいた。

「そうじゃないよ、人聞きの悪い」と、百ベエは血相を変えていった。

「そうはいっても、あんたのその格好じゃ、やくざが善良な女子中学生に絡んでる図よ」と、小鈴は百ベエが悪くないことを重々承知しながら、苦し紛れにいった。

「全く腹立つなあ。センセー、もう少し何とかしつけをしてくんろよ」

「ハイハイ、そのとおり。でもうちの子だけど、あたしの子じゃないから」

「おらおら、帰るぞ、小鈴」

 えりちゃんは丸い鼻を上に向けていった。

「小鈴ってねえ、呼び捨ては止めなさいよ、呼び捨ては。少なくともお外では」

「おら、いいからおうち帰る」

 えりちゃんは兄の子供で、小鈴の家族と住んでいる。えりちゃんにいわせると、小鈴がえりちゃんの家族と一緒に住んでいるのだそうだ。兄も一緒に住んでいて、まあ、確かにそうとも言える。

 兄の嫁さんはえりちゃんが小さいときに事故で亡くなったので、こういう家族構成になった。おじいさんもおばあさんもえりちゃんがかわいくて仕方ないらしい。えりちゃんはおじいさんやおばあさんの前では決して妙な言葉遣いをしないし、毎日、行って参ります、ただいま帰りました、という丁寧な挨拶を欠かさない。ぱっつんとそろえた前髪に、黒髪のボブスタイルは、まさに善良な中学生だ。

 テストはよくできたときだけさりげなく食卓に広げてあり、白内障の日帰り手術でなんでもよく見えるようになったおじいさんがすぐに見つけて、迅速にお小遣いを与えるシステムが確立されている。

 隣の家で殺人事件があったときなど、えりちゃんには外出禁止令が出た。学校だけは行き帰りのお見送り、お迎え付きで行かせてもらえた。お見送りは小鈴、お迎えはお手伝いのマツさんだった。今となってはお見送り、お迎えはえりちゃんが周りにカラまないように見張るために必要だったというのに、そんなこと、おじいさん、おばあさんには想像もつかないようだ。

 えりちゃん、一歩外へ出ると、人が変わる。今日も学校帰り、出くわした百ベエにイチャモンを付けたらしい。これが百ベエだったからよかったようなものの。同じような格好の、似たような、別のおっちゃんに同じ口を利いたら、結末は違っていただろう。小鈴がその秘めた底力を披露せざるを得なくなる。えりちゃんをかかえて、借り物競走のようにダッシュするのだ。小鈴、運動音痴のくせに足だけは速かった。

「えりちゃん、お母さんはいないけど、何一つ不自由はなかったはずよ。何で、そう態度がよくないのかしら」

 帰りの道々、小鈴はえりちゃんに説教するのだが、柳に風だ。

「大丈夫だよ、学校じゃ、なにげにチョーマジ、やってるから」

「そうはいっても、いつかバレるよ」と、小鈴はついうっかり、ヘンな言葉遣いをしてからシマッタと思った。

「わかったよ、バレないようにやるって」と、えりちゃんがニヤニヤしながら言った。

「そうじゃないでしょ」

「わかったって」

「何で、そんななのよ、一体」

「家庭環境じゃないの」と、えりちゃんがしれっと言った。

「こんなにいい家庭環境のどこが悪いっての」と言って、小鈴は鼻じらんだ。

「悪かないよ、だからこんなよい子が出来たじゃないか」と、えりちゃんが丸い鼻を指で差していった。

 あー、もう話し合ってもムダだ。問題意識が全くずれている。確かに悪いことをするわけじゃないのだ。だからといって、買い食いしたゴミを道に捨てる高校生を追いかけて怒鳴る中学生がいるか。

「おら、落とし物だよ。なんだ、なんだ、ゴミか。公道にごみ捨てんじゃないよ。どういう学校教育受けてきたんだ、ボケ」

 中学生がいきなりごみを捨てる高校生に、怒鳴ったら、一体なにが起こるだろうか。よくもまあ、今まで無事に来たものだ。

 昨日はコンビニの前にたむろっていたがらの悪い高校生を見過ごした巡査を捕まえていった。

「おりゃあ、マッポ、あの愚連隊、成敗せんかい。善良な中学生がビビッて店の前を通られんじゃないか。職務放棄すんな!」

 で、マッポのかたは致し方なくその不良たちに注意をした。若いマッポさんだったのでちょっとびびったらしい。もちろん、えりちゃんに対してだ。

 ああ、お恥ずかしい。一体誰に似たものやら。小鈴は赤面した。えりちゃんのお母さんは、本当の佳人薄命というやつで、おとなしい色白美人だった。兄はといえば、働き者の心臓外科医で、こんなじゃなかった。小さいときはおとなしかったし。小鈴がいじめられた兄の仕返しによくいったものだった。やられたらただで済ましてはならないと、何度兄に言いきかせたことか。一発殴られたら二発蹴り返さなければまたやられるのだ。蹴られたら張り倒す、しかも三倍返しで。大外刈りもいいかもしれない。とにかく、普通にやり返しただけではまた狙われるのがお約束だ。

 しかしいくら勧めても、気のいい兄は仕返しなど決してしたりしなかった。

 しかし、えりちゃんはいったい誰に似たというのか。

 小鈴はもうこれ以上詮索する気になれなかった。

 道々、エリちゃんが言った。

「小鈴、殺人事件。もう三件目だよ」

「そうねえ。このあたりも物騒ねえ。えりちゃん、学校の行き帰り、気をつけるのよ」

「大丈夫。それにしても、一体なんだっていうんだろう」

「何が?」

「だって、やられるのはみんなホームレスなんだ。一人目は坂下公園で。二人目は川沿いの空き地。三人目は最近ガード下に住み着いたおっさん。友達のホームレスなんだ。そのおっさんは秋田から来て、怪我してから、仕事なくなったんだって。かわいそうに」

 そんな話をしながら帰路を急いだのだった。

 しかし結局その事件は、犯人が見つからないまま、忘れ去られていった。


 3 アカネちゃん

 その日の帰り道、小鈴はもっと変なのと出くわしてしまった。アカネちゃんだ。

 知らん顔を決め込んで通り過ぎようとしたのに、はるか遠くから小鈴を見つけて、大きく手を振りながら駆け寄ってくるではないか。

 あ~。オカマバーのアカネちゃん。

「まあ、かわいい、先生のお子さん?」と、アカネちゃんが息を弾ませながら言った。

「んなことあるわけないだろう、あほか。結婚もしていないのだから。私に子などいるわけなかろうが」

「あーら、結婚なんかしてなくたって、子供がいてもいいじゃないの。こんなかわいい子なら、あたしがほしいくらいだわぁ」と、アカネちゃんがえりちゃんを見て言うと、小鈴がふふふ、と笑った。

 欲しいならくれてやる。今のうちだけだ、かわいく見えるのも、と小鈴は密かに思った。

 しかし、今日に限って、怪しい奴ばかりと出くわす。百ベエの次がアカネちゃんか。アカネちゃんも小鈴の知り合いの中ではかなり怪しいほうなのだ、実は。

「あ、こんにちわ」とえりちゃんが、いつになくあいそよく言った。

「まあ、礼儀も正しいし」とアカネちゃんが目を細めて言った。

「まあね」と小鈴はしょっぱい顔になった。

 それにしてもえりちゃん、バカに愛想がいい。そうか、アカネちゃんを見て驚いているのだろうか。今日のアカネちゃんは和服だ。ご丁寧に真っ白な割烹着を羽織っている。手にはスーパーのビニール袋、大根の葉っぱと長ねぎの青いところが顔を出している。完璧な主婦姿だ、首から下は。

「先生、ごはんたべにいらっしゃいよ。ちょうど、開店までにはたっぷりあるから。私がご馳走するわよ」

「でも、未成年連れてるし。帰るところなんだ、帰るとこ」と言って、小鈴はそそくさと歩みを進めた。

「大丈夫よ、遅い時間じゃないし。もしえりちゃんがよければ」とアカネちゃんがニッコリ笑って言うと、

「あ、いきます、いきます」と、えりちゃんがうれしそうに言った。

「え、でも、えりちゃん、アカネちゃんのお店って…」と小鈴が会話のテンポについて行けず、口ごもった。

「ああ、いきたいなあ。なんか雰囲気よさそう」とえりちゃんが言ったので、小鈴が慌てて説明した。

「雰囲気ってね。そう、アカネちゃんみたいなおねいさんっていうか、おっさんてゆうか、まあ、そういったたぐいの人がたくさん」

「もしかして、それってオカマバー?ああ、行ってみたかったんだぁ」とえりちゃんがさらにうれしそうな顔をして言った。

「は、はっきりいうんじゃないよ、はっきり。オカマバーとか」と小鈴はアカネちゃんが気を悪くするのではないかとちらりとその眼を見て言った。

「じゃ、なんていうんだ、ゲイバーか」と、えりちゃんがお構いなしにずけずけと言った。

「うちは由緒正しいオカマバーよ」と言って、アカネちゃんはちっとも悪びれず、にっこり微笑んでいる。

「オカマバーに由緒もヨイショもあるものか」と小鈴はつっけんどんに口を挟んだ。

「あーら、せんせいったら面白い。じゃあ、行きましょう、行きましょう、ヨイショ正しいオカマバーに。アハハハハ、面白い、今度お客さんにいってみようっと。えりちゃんは何が好き、スパゲティとか、ハンバーグとか」

「ええ、もう何でも」

「そうそう、今日は楽しいゲストも来ることだし」

 アカネちゃんのヨイショ正しいオカマバーではモモカちゃんもシズカちゃんも遅刻もせず、ヨシ子ちゃんにリリコちゃん、総勢五名が、五時に集結、いや、出勤していた。壮観だ。

 アカネちゃんはえりちゃん御所望のスパゲティを作り、モモカちゃんとシズカちゃんは、えりちゃんの両脇に陣取って、接待していた。 

「そうなのよねえ、そうそう、おかしいわよ、あのタレント」とえりちゃんが言うと、

「でしょ、でしょ。えりちゃんもそう思う?」とモモカちゃんが何度もうなづきながら言った。

「もち。モモカちゃんもそう思う?だって、へん、ぶりっこで、こびこびで。へんよだよね」とえりちゃんが言うと、今度はシズカちゃんが参戦した。

「そうそう、ぶりっこっていやよねえー」

 なんという教育をしているのだろう、小鈴としたことが。これが、兄はともかくとして、昔かたぎのおじいさんにばれでもしたら、小鈴は勘当だ。家の敷居をまたがせてもらえないことは確かだ。まずい。非常にまずい。

 えりちゃんはすっかりモモカちゃんやシズカちゃんと意気投合している。

 えりちゃんにとって、モモカちゃんやシズカちゃん、ちょっと変わって見えないのだろうか。見慣れているはずもないのに、ちっとも違和感ないようだ。なんで。

 それにしても、えりちゃんは、なんでこう母親風のものに弱いのだろう。早いうちに母親をなくしたからだろうか。母親を写真でしか知らないのだ。しかも家にはエプロンをかけてご飯の支度をしてくれるお母さんはいない。マツさんは料理はうまいが、小鈴の母の年に近い。つまりばあやのようなものだ。だからって、白いエプロンをかけているというだけでアカネちゃんになつくことはないじゃないか。どこか間違っていないか?

 えりちゃんには母親がいなかったから、何かの掛け違いが起こっていたのかもしれない、と小鈴は思った。

 小鈴が仕事に出かけると、追いすがってきた。

「小鈴、小鈴」

 小鈴はそんなに深刻なものとは受け止めていなかったのだ。かわいらしい子猫が追いかけてくる程度に思っていた。

 小鈴が大雪の日に早く帰れたことがあった。今までで、ただ一度だけだ、明るいうちに家に帰れたのは。えりちゃんは走って玄関まで出てきて、大きな目で小鈴を見て言った。

「寒かったでしょう、小鈴」

 嬉しそうにするえりちゃんを見ても、それほど小鈴を必要としているとは思っていなかった。遊び相手が帰ってきたと喜んでいるのだ、と小鈴は思っていた。

 小鈴がぼんやりとえりちゃんの顔を見ながらそんなことに思いをはせていた時だった。突然、安っぽいスポットライトに灯がともった。モモカちゃんとシズカちゃんが、奇声を上げた。彼女らにしたら声援なのだろうが。

 野太い奇声におされるようにして出てきたのは、白いミニドレスを着たまねこちゃんだった。

「まねこ、まねこ」という、モモカちゃんの低い声が店に響いた。

 それに比べると、高く澄んだ声の持ち主、まねこちゃんの清楚なたたずまいが目立ち、それに少し前に流行った歌を上手に歌った。

「本当にうまいね、まねこちゃん」と言って、えりちゃんが目をぱちくりした。

「たしかに」

 実は小鈴もまねこちゃんの歌があまりに上手なので驚いていた。

「うまいね、あのこ」と、小鈴はアカネちゃん達の方を向いて言った。

「あはははは。そーでしょう?あの子、ものまねまねこちゃんっていうの」と、ももかちゃんがうれしそうに答えた。

「ものまね?まねこちゃん?真田真知子じゃなくて?」

「ははははは。そうそう。本名は全く違うけどね」とアカネちゃんが言った。

「そうなの」

 歌い終わったものまねまねこちゃんが店の小さなステージを降りて、アカネちゃんの隣のソファにすわった。

「お疲れ、まねこちゃん。今日も上々ね」といって、アカネちゃんがウィスキーのソーダ割りを作ってまねこちゃんに渡した。

 まねこちゃんはそれをぐっと飲み干していった。

「あー、おいしい。あ、新人のお客様?この店、気に入っていただけましたか?」

 そういってまねこちゃんがにっこりと小鈴に笑いかけた。右ほほにくっきり浮かぶ片えくぼもそっくりだ。いや、本物は左だっけ。

「ええ、もちろん。それに今日は特別なゲストのショーがあったし」と小鈴は言った。

「ありがとうございます」と言って、まねこちゃんが特製のティッシュ―を小鈴に差し出した。

「営業用のお土産です。どうぞ使ってくださいね」といって、小首をかしげた。

 そのしぐさが、真田真知子にまたそっくりだった。

「アカネちゃんのお店にしちゃあ、気の利いたゲストだね」と小鈴が言うと、アカネちゃんは悪びれずにいった。

「そうなのよ。この子が来る日はお店が明るくなるしね。感謝しなきゃ」

「誰の紹介?」

「それがねー、おかしいのよ。百ベエさんなの。こんなかわいい知り合いなんていそうもないような強面のくせに」

「そうなの。まねこちゃん、百ベエとはどこで知り合ったの?」と、小鈴はついつい切り込んでまねこちゃんに尋ねた。

「さぁ。小さいころから近くにいたっけ」と笑って言いながら、まねこちゃんはアカネちゃんのサービスのスパゲティをほおばった。

「そうなの」と言って小鈴はそこで話を止めた。百ベエのようなおっさんが小さいころからそばにいたなんて、あまりいい環境ではなかったのだろう、まねこちゃんの育ったところ。この件、深追いはよそう。

「そういえば、このあたりでホームレスの殺人が続いているって?」

 小鈴が言うと、モモカちゃんが太い眉をひそめていった。

「そうなのよね。物騒ねえ」

「なんか、数日いなくなってから、死体になって発見されるんですってね」と言って、アカネちゃんが身震いした。

「あー、やだやだ。ホラー映画みたいじゃないの。あたしたちも気をつけようっと」と、モモカちゃんが再び太い眉をゲジゲジと動かして言った。

 ホラー映画ね、と小鈴はなぜかモモカちゃんの顔を見ながら、心の中で繰り返した。

 小鈴はすっかり遅くなってからアカネちゃんの店を出た。

 ホームレス殺人はそれからすっかり忘れられていった。小鈴が警察に事情を聞かれたのも一回きりで済んだ。

 そして、小鈴にとってはもっと大きな災難が降ってわいたのだった。


 4 チューター

「小鈴先生。お願いがあります」

 白滝教授は勿体をつけて、咳払いをした。

 黒石先代教授のあとを継いだ金田教授は暴君ぶりがたたって、部下の反乱に遭い、着任三年ももたずに失脚してしまった。その跡目を継いだのが白滝教授だった。寒いところの医大から、教授の席を埋めるために黒石から招かれたのだ。

 黒石は黒石で、頼りない白滝でも、小鈴とセットならなんとかなると思ったのだろう。そういうわけで、小鈴はいまだに大学病院から放免されないでいるのだ。しかも、相変わらずの中間管理職。

 白滝が言った。

「実はですね、先生を見込んでお願いが。実はお預けしたい学生が…」

「見込まないでくださいよ」と小鈴が答えた。

 こういうときはどうせろくな頼みではない。この教授が咳払いを前置きにして、あらたまって頼むことに、たやすい仕事であったためしはなかった。それはよくわかってはいたが、上司の教授の言うことでは断るわけにも行くまい。

 今回もまた面倒な用件だった。

「先生には、そのお力を見込んで」

「だから、お力なんてありませんてば」

「まあ、そうおっしゃらず。結局、やるしかないんですから」

「はい、はい、そうですね。ご命令とあらば、やるしかない、確かに。で?」

「学生さんがね、ちょっと、よからぬことをしたので、再教育を先生にお願いできないかと」

「はあ、で、どんな、よからぬことを?」

「いや、まあ、大したことでは。私の講義で、欠席者の代理で返答をしたという、まあ、いわゆる、代返ですな」

「ふうん、代返か、こわっぱが」

 小鈴はそういいながら、白滝教授の隣の椅子に座っている、小鈴にお預けしたい医学生をじろじろ眺めた。

 そしてこわっぱが、学生のくせに講義に出ない不埒な同級生の代返をする姿を想像して、むかついた。授業には出ろ。あ、こいつは出席していたのだ、代返していたのだから。しかし、欠席の者の代理の返事などしてやる必要はないではないか。ルール違反だ。

 小鈴はこわっぱの医学生を自分の部屋に連れて行き、小さい椅子に座らせて言った。

「ばっかじゃないの」

 小鈴が言うと、こわっぱがうつむいた。ここにたどり着くまでにたっぷり絞られているらしい。

「何でまたそんなことしたんだ」

「頼まれちゃったんです」

「ばっかか、おまえ。あたしが言ってるのは、何で代返したかではない」

「えっ?」

「なんで口を割ったかということだ」

「は?」

 こわっぱの亮介は小鈴のいうことの意図を図りかねて固まった。

「なぜ、やすやすと、言っちゃったのかと訊いているのだ、代返したなどと。知らん顔を決め込めば済むではないか」

「だって、白滝教授が」

 そう、このこわっぱは、欠席している同級生に頼まれて代理で出席の返事をする、いわゆる代返をしたのだ。しかも、とりわけまじめで通っている白滝教授の講義だ。そもそも、その判断が間違っている。

 まじめな白滝教授を怒らせたのだ。

 学内一まじめな白滝教授の講義で代返をしたことがばれてしまったこのこわっぱに、チューターをつける、つまり、念入りな教育的指導を行うという処分が下ってから、まもなくだった。一年坊主の名ばかりの担任だった白滝教授が、そのお仕事を小鈴に丸投げしてくるまで、三分とかからなかった。

「代返したと、おまえがぺらぺらとしゃべくらなければわからなかったのだ。なぜ口を割った。だいたい、やるならやるで、徹底しろ。返事など、してしまえばわからない。それとも、なにか?ええ?返事した声が誰だかわかるというのか。録音でもしてあったか。今後は一切、認めるな」

「だって、白滝教授、全部の声を覚えていて、はじめっから最後までまねするんですよ。だから言っちゃったんですよ、僕ですって」

「もっと声を変えればよかったではないか、声を。声を変えれば中身も一緒に変わるのだ」

「は、はあ……」といいながら亮介は首をかしげた。

 小鈴はこのこわっぱの教育係を白滝教授に命じられた。どっちもしょうがない、と小鈴はため息をついた。教育係などと言う、似合わない役を小鈴に命じる白滝教授も、代返がばれて、小鈴なんぞに教育を受けなければならないこわっぱも。しかし一番しょうがないのはその丸投げを引き受けざるを得ない小鈴だった。

 こわっぱは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。無理もない。教育係の言うせりふではない。

「これが私の流儀だ。よく飲み込んで置け」

「はあ、りゅ、流儀ですか。飲み込むんですね、はい」

 ため息をつきながらこわっぱが肩を落とした。学則違反がばれて絞られた挙げ句、教育係という名前の、わけわからん女医にいいように言われているのだ。次々に襲いかかる難題の荒波に次の瞬間の予想も付かないのだろう。

「さあてと、まずはだなあ、来週、ありがたーい学術的催しがある。そのボランティアをただでしろ、代返は抜きだぞ、代返は」

「え、代返はともかく、ただで」

「あたりまえだ。謹慎処分の身、外に連れ出してやるだけでありがたいと思え。犬の散歩みたいなもんだ」

「犬、ですか」

「そうだ、生き物であるだけましだ。それともブロッコリーとでも呼ぶか?」

「ブロッコリー?意味わかんない」

「なにが、意味だ。意味などない。おまえはもう考えんでよろしい。言うとおりにしていろ」

「はい、はい。それから」

「うーん、それから。それから、それから」

 小鈴は言葉に詰まった。

「そ、そうだ、家庭教師でもしてもらうか!」と小鈴は思いついた名案に我ながらほれぼれしながら言った。

「か、家庭教師ですかあ?」

「そう、家庭教師」と小鈴は思慮深げに眉を寄せて言った。ふと思いついた自分の考えに満足しているのだ。

「おれ、そういうの、苦手なんですけど。体育会系なんですよ」

「何が苦手だ。大体おまえは、なんだかんだと、注文を付けすぎるぞ。ついこちらもうっかりその手に乗ってしまうところだった。気をつけないと。本来主導権はこちらにあるのだ。長ければ二年間の観察だ。二年は長かろう」

(こっちだって、おことわりだ。何が悲しくておまえのようなこわっぱの子守りを二年もしなければならないのだ、この私が。私の青春を返せだ。いや、いっそ、人生を返せ。私にもしなければならないことがいくつかあるのだ。何があっても、品行方正であったことにして、三ヶ月、うーん、うまくすれば三週間でこの仕事は、返上だ)と小鈴は思った。

「で、だ。うちにそれは可愛い女の子がいる。私の兄の子だ。丸顔で、おとなしい中学三年生だ。かわいいぞ。それに数学を教えてくれ」

「え、家庭教師、ですか。それに女の子ですかあ。やだなあ。女の子ってすぐに泣くから、苦手なんだ」

「ほーお。自慢か、それは。で、何人泣かせたんだ(ひ、ひ、ひ、今度泣くのはおまえのほうだ)」

「そういう意味じゃなくっ」

「そういう意味も、こういう意味もあるものか。何でもいいから、うちのえりちゃんに苦手の数学を教えろ。ただで」

「また、ただですか」

「当たり前だ。これもおまえに必要な精神修養のうちだ」

「精神修養?家庭教師が、ですか?」

「や、まあ(そうそう、たっぷりの精神修養だ)」

 というわけで、こわっぱ高田亮介はえりちゃんの家庭教師をすることとなった。

 あの一筋縄ではいかないえりちゃんだ。おとうさんは寡黙な心臓外科医。あまい、あまーい、おじいさんとおばあさん。誰も乗りこなせないじゃじゃ馬が、この、おイタが過ぎて怒られちゃっている未成年に、家庭教師として牛耳られるのだ。そして、この未成年はえりちゃんを相手に、七転八倒、四苦八苦。のたうち回る姿が目に浮かぶ。いい気味だ。

 今までのどんな責め苦よりつらいことだろうよ。


 えりちゃんは椅子の上で正座をしていた。机には数学の参考書が積んである。本棚には中学生向きの、教育に良い書籍が並んでいた。部屋は広からず、狭からず。ベッドには可愛らしい模様の付いたベッドカバーがかぶせてある。ぬいぐるみなどもその上に二、三、散らばっている。女の子らしい部屋だ。

 何だ、行儀のよい子じゃないか、それに、たかが中学生の女の子だ。小鈴先生の親戚筋であることを除けば他愛もない、と亮介は見積もった。浅はかなことだった。

 亮介はできるだけ胸を張って、正座するえりちゃんの隣の椅子に座った。

「高田」と、開口一番にエリちゃんが言った。

「た、た、高田って、呼び捨てはないでしょう、呼び捨ては。いくらなんでも。一応、先生なんだから」と、機先を制された亮介がうろたえて言った。

「ふうん。一応の先生か。出席は取るのかな。返事しようか?」と言って、えりちゃんはしゃくりあげるように視線を上げて亮介を見た。

「うぷっ。さては小鈴先生、しゃべったな、代返の件」と、亮介は思わず言った。

「いーや、小鈴は何にも言ってない。そんなことばらしたら、力関係がうまくなくなるからね。これが何かの罰だなんていうことになったらまずいんだよ。小鈴は高田亮之介を通して、あたしを牛耳ろうとしているんだ」

「どうでもいいけどねえ、人の名前に勝手に之とか、入れないでくれるかなあ。おれは亮介だ」

 きっぱりといわれたえりちゃんは黙った。じっと見つめる目が潤み始めた。これにおじいさんもおばあさんも騙されるのだ。

「えりちゃん、ど、どうしたの」

 えりちゃんは何も言わずに大きな目をさらに見開いて亮介を見ている。

「えりちゃん、わかった。わかったから。たのむ、泣くな。泣かせたなんてことになったら、おれ、小鈴先生にどんな目にあわされるか。たのむ」

「だって。おにいさん、こわいんだもん。」

「わかった、亮之介でも、馬之介でも、鹿之介でもいいから、好きなように呼んでくれ」

 下を向いていたえりちゃんがにやりと笑った。

「じゃあ、鹿之介、原宿に行くぞ」

「な、なんだって。だれが、どこへ」と、鹿之介呼ばわりされたことも忘れて亮介が叫んだ。

「鹿之介とエリーが、原宿へ行くんだ」

「何で、何でだ。意味わからん。なんだって一体おれが、おまえと、いや、えりちゃんと原宿なんかに行かなきゃならないんだ」

 えりちゃんが黙った。

「わかった、わかった。行く。行くから。さては泣いて言いつけるのが常套手段なんだな。小鈴先生に言いつけるのだけはやめて。それ、禁じ手にして、お願いだから」

「よくわかったな、鹿之介。その通りだ。しかもこれからはエリー様と呼べ、エリー様と」

「エ、エリー様?なんだそれ」

「エリー様だ。それとも女王様とでも呼ぶか?」

「おまえ、おまえ、悪魔のような子供だな。一体誰に似てるんだ」

「さあ、誰でしょうねえ」といって、えりちゃんが再びニヤリと笑った。

「おまえ、とうさん似か。」

「いいや」

「じゃ、かあさん似?」

「いいや」

「まさか、まさか」

 亮介はやっと合点した。なぜ、小鈴がえりちゃんの家庭教師なんかを自分に頼んだのか。面倒だっただけではない。オニのような小鈴にそっくりな小オニのえりちゃんを自分に押しつけようというのだ。しかも、今後、様付けで呼ばなければならないのだろうか、この小オニを。

「何でおれが、家庭教師のおれが、原宿なんかに行かなきゃならないんだよ、エ、エ、エリー様」

「鹿之介。二、三の代返だけか、おまえがやったこと」

「なんだって」

 えりちゃんと亮介がにらみ合った。えりちゃんは目をそらさない。

 五秒、十秒。亮介が一瞬、まなざしを落とした。

 負けだ。

「どういうことだ」と、視線を落としたまま亮介が小さな声で言った。

「何人分やったのかな」

 えりちゃんは、亮介の落とした視線を拾いあげるかのように、あごをしゃくった。

「な、なんだよ」とようやく言って、亮介が精いっぱい虚勢を張って鼻を上に向けた。

「おまえ、五十人分の代返したろう」

 大学生の代返などそんなに珍しいことではない。が、こともあろうに、このこわっぱ、五十人分の返事をしたのだ。一人、二人ならわからなかったろう。五十人分の返事をまとめて一人ですれば、どこかの誰かが見つけなくても、わざわざチクらなくても、さすがの白滝もわかるというものだ。

 白滝教授、まずは学生の名前を名簿通りに呼ぶことに熱中していたらしい。出席を取り終えて顔を上げたときには八十人いるはずの学生が、三十人しかいなかったのだ。しかもいたのは二十九人の女子学生と亮介。

「それがどうした」

「ええ?いいのかな、そんな態度で」

「だから、なんだっていうんだよ」

「小鈴は知らないんだ。まだ。おまえが五十人分の代返したこと」

「そ、そ、それがどうした。いや、もう知っているかもしれないし」と言いながら、自分の声がうわずっているのが亮介にもわかった。

「いーや、絶対にそれはない」と、えりちゃんが自信たっぷりにいった。

「なんで」

「小鈴はあれで、意外とまじめなんだ。おまえが分別もなく次から次へと代返を請け負って、五十人分の返事をしたと知ったら、もう、どうなることか」

「ちょっと待て。どういう意味、それ」

 亮介が弱気を見せた。

「鹿之介、おまえがやったことがどんなにバカかっていうことだよ」と、えりちゃんがじろーりと亮介を見おろしていった。

 えりちゃんが椅子の上で正座をしていた理由がその時初めて、亮介にわかった。決してお行儀がいいわけではなかったのだ。亮介より、目線を高くするためだ。

「なんだよ。それに、鹿之介はやめろよ。バカの介って聞こえてくる。せめて亮之介と」と亮介は中途半端な妥協をした。

「じゃあ、亮之介、わかったな。人数については黙っていてやろう」

「え?」

 えりちゃんはじっと亮介を見据えた。完全勝利だ。

「でも、なんで小鈴先生の知らないことまで知ってるんだ」

「調べればわかることだ。それに、白滝教授は小鈴のことをよく知っているから、資料から、書類を一枚抜いたのさ」

「資料って?」

「亮之介についての厚ぼったいファイルだ」

「厚ぼったいファイルって?」

「だから、亮之介がやって、怒られている経過が記録されている、ぶ厚いファイル。小鈴が白滝教授から奪い取った」

「それ見たのか?」

「見た。小鈴の部屋にある」と言って、えりちゃんがしたり顔をした。

「おまえ、小鈴先生の部屋に入って、こっそり覗き見するのか?」

「いいや」と言いながら、えりちゃんが首を横に大きく振った。

「じゃ、なんでわかるんだ。」

「こっそりなんか、覗いたりしない。堂々と部屋に入って見るの。小鈴がいないときに」

「う、そ」

「その中に、経過が詳しく書いてある紙があったけど…」

「わ、わ、わかった、言うな」

「五十人分の代返してばれちゃったこと、ネットにもあがっていたっけ。なんか、スポーツ新聞にも載ってたよ」とえりちゃんがあっさり言った。

「さあ、原宿、行こうか」と今度は亮介が結論を引き出した。

「そうしよう」とえりちゃんが鼻を上に向けて返事をした。

「わかった、じゃあせめて、電車の中で、すこーしでいいからお勉強しような」

「じゃ、少しな。でも、ちょっとだけだぞ。馬鹿之介」とえりちゃんが言った。


 しかし一体誰が、なぜ、このこわっぱの五十人分の代返をネットにアップしたのだろう、と小鈴は思った。

 余計なことを。

 亮介の精神修養はそれとして、小鈴の修養もそれはそれなりにうっとうしいものだった。

「さあて、今日は何をするかなあ。まったく、週二回もおまえの面倒を見なければならないなんて」と、小鈴は間延びした声を出した。そうはいっても、チューターを落としどころにしようと白滝教授に知恵をつけたのは小鈴だ。いたし方あるまい。しかも亮介はそれを知らないのだから文句を言っても始まらない。しかし、それを白滝教授が丸投げしてくるとまでは、小鈴も思っていなかったのだ。

「すみませんねえ」と亮介が半ばふてくされていった。

 しかし、このこわっぱも,えりちゃん相手に悪戦苦闘していることだろうよ。それだけが小鈴の気を引き立てた。

「じゃあ、英語でイッチョ絞るとするか」

「英語ですか?」

「そう、英語。わたくし、こう見えても英語に一日の長があるのよ。まずは、一等恥ずかしい、発音矯正から行くか」

 小鈴はかつて英語の家庭教師が小鈴に課した発音矯正をいずれ誰かにやってみたいと常々思っていた。あの、アー、とかウーとか、発情期の猫の喧嘩のような、ずっと同じような音をのどから搾り出す発音矯正、むっふふふ。

「いいですけど、この部屋、暑いっすね」

「うん、日当たりいいからね。借りれば高いよ、このお部屋。まあ、不動産屋のチラシに書くとすれば、たとえばだな、日当たり良好、見晴らしよし、職場直近徒歩十秒、風呂とトイレは共同です、ってとこかな」

「はあ、医局でしょ、ここ」

「そう。だからたとえばといっているだろうが。寝心地いいぞ、このソファベッド」

「そうですかね」

「そう、熟睡、熟睡っと」

「熟睡しちゃあ、いけないんじゃないですか、泊まるのって、当直でしょ」

「ん、まあね、それだけじゃないけど」

 そういってから、何度となくえりちゃんとの喧嘩の挙句、医局に立てこもったことを思い出した。えりちゃんが折れるまで何日も、何日も。

「そう、ちょっと暑いのね、ここ。おっと、お顔に日が当たる。場所変えよう。紫外線はお肌の大敵、大敵、しみしわの元」

 小鈴はそういって、暑がる亮介を尻目に席を移した。

「先生、暑いんですけど、ここ。場所変わっていいですか」そういって亮介が上着をばさばささせた。

「ああ、いいよ、逃げるなよ、暑いからって。誰も代返してくれないぞ」

 一瞬、亮介が言葉を呑んだ。

「わかってますよ。当たり前じゃないですか」

「そうね、当たり前と。五十人ね、五十人」

 小鈴は教授が抜いた一枚の書類をすでに手に入れていた。

 まじめな白滝教授は五十人の代返をした学生の存在に腰を抜かしたのだろう。大体、五十人の学生が抜けるようなつまらない講義をしていると思われるのがシャクだった。だから小鈴には言えなかったのだ。しかも五十人の代返を、顔を上げるまで気づかなかった自分にも腹が立った。さらには、自分の名前も含めてネットに上がり、さらにはタブロイド紙が記事にした。五十人の代返に気づかなかった教授。どうも、自分は笑われているらしい。

 タブロイド紙など、小鈴は買って読まないだろう。どうしても小鈴には知られたくなかった。

 しかし、ネットを検索すれば容易にそんなの手に入ること、白滝教授は知らないらしい。


 5 取材

 取材を掛けられたと言えば聞こえはよい。しかし、小鈴は「週刊実際」の女性記者の取材という名のぶしつけな質問を受けるべく、自室でコモモと対峙していた。

「小鈴先生、とってもいいお名前ですね。物静かでかわいらしい。まあ、お名前負けっていうか」とコモモが言った。

「名前負けとは失礼な。余計なお世話だ、初対面で言うことか」

「いえ、いいお名前だと褒めているんじゃあないですか」

「そうなの?あら、名前といえばあなたも。記者さん。大桃コモモ」と、小鈴が渡された名刺を再度手に取って言った。

「ええ、かわいい名前でしょ」

「ほんと、その口には似合わせないかわいらしさ。だけど、なんかちょっと違和感が。結局そのモモは大きいのか小さいのかとか。まあ、考えさせられる名前ということか」

「恐れ入ります。でも本当は桃子。平凡な名前」

「え?大桃桃子?早口言葉のような名前だな。じゃあ、この名刺のコモモは?」

「通称っていうか、まあ業務用。わかりやすくいうと源氏名みたいな」

「げ、げ、源氏名?水商売か、おまえ」

「まあ、そんなもんですよ、この業界」

「ぎょ、業界?水商売?」と言って、小鈴が目をむいた。

「そうそう。先生なんか、水商売に、お知り合いもいないでしょうが」

「え?まあ」

 モモカちゃんやシズカちゃん、はてはアカネちゃんの姿が脳裏をよぎったが、小鈴は必死で振り払った。まともなのはまねこちゃんぐらいだ。しかしそれも、偽物だし。あー、さらに百ベエの禿頭が目の前をかすめた。もうだめだ。

「どうなさったんですか、先生。浮かないお顔を。何かお心当たりでも?」

「余計なお世話。さあ、本題に入りましょうよ、本題に」

 小鈴は目の中や頭の上にもやもやするアヤシイ連中の姿を手で振り払った。

 延々続きそうなコモモの調子にすっかり巻き込まれそうだったので、小鈴は自分のペースを取り戻そうとした。

 しかし、まてよ、コモモは週刊誌のライターだ。ゴシップネタには強いかもしれない。そうだ、あの件のことを聞いてみよう。

「うちの学生が医学生のくせに代返をして処分うけたことがネットに書かれた件、しかもタブロイドにも取り上げられた。もちろんコモモさんは知ってらっしゃるでしょう」

「ええ、まあ、少々は」

「少々っていうとどれくらい少々?」

「いや、もうほんの少々ですよ、少々、聞きかじった程度」

「というと?」

「そーですね。あの件がくすぶりだしたのが十月二十三日の水曜日、二誌が翌日の夕刊に食いつきました。っていっても、夕刊しかないタブロイドです。しかも、ネタはつまらない医学生の学則破り。事件性もなく、こんなことを詐欺だ何だと騒いで社会で摘発していたら、ブタ箱がいくつあっても足りませんしねえ。大学という大学の周辺に設置しないとね、ブタ箱を。先生は代返などしたこともされたこともないんでしょうね、真面目だし」

「そりゃそう、いや、いや、うるさいねえ、私のことなぞ。しかも少々といいつつ、やけに詳しいじゃないか。それでほぼ全容だ」

「そうですか。まだまだですよ。まあ、聞いてください。その学生、なんと、その数五十人、断ることなく頼まれて、声色変えずに五十回。白滝教授が顔を上げれば学生さん、半分ほどもいなかった。外聞気にした大学が、処分は厳しくとのことで、いつもは学生教育に、厳格きわまる白滝教授ならは、それは厳しい措置が必然、そう踏む大学当局の、意向が丸見え、見え隠れ。調査委員に選ばれた白滝教授、当局の方針にもかかわらず、穏便、注意ですませようと、忖度なしの公平さ、教育守る意固地さが、意地っ張りにもみえますが、まあ、相当の頑固者。っていうところですかね。しかし、確かに代返程度で厳しい措置を声高に言う当局からのプレッシャーには、きな臭いものを感じます。その学生を個別につぶそうとしているような」

「むむ、コモモ。実はおのれ、相当のテダレだな。なんでそこまで」

「うん、まだまだですよ。しかも、誰かが白滝教授を操り人形のように操って処分を相応のものにする、つまり、不相応に重い処遇を避けさせようとしている。教育的処分、つまり大学らしい品格を保とうと。チューターをつけるという処分です。しかし、まあ、一説によると、チューターは学内一おそろしい女の先生だとか。闘犬とか呼ばれている。学生もうれしいんだか、かなしいんだか」

 コモモは一気にそこまで言って、眼鏡を両手ではずした。眼鏡を取ったコモモの顔は、取材で外勤が多いせいだろう、こんがりと日に焼けてはいたが、元はきめ細かい白い肌であることを思わせる張りのある肌だった。眼鏡で隠れていたが、奥二重のアーモンド型のまなこが、キラキラと光を放っている。何か大きな獲物を狙っているのだろうか。淡い色の口紅にパールが入り、立体感を出していた。思わず小鈴は言った。

「コモモ、眼鏡かけないほうがいいよ」

「そ、そうですか。まあ、これも商売道具です」といって、コモモが外したメガネを両手で掲げて眺めた。

「だから、眼鏡かけないほうが鋭く見えるって。」

「だから、かけているんですよ。ま、能ある鷹は、ってやつですよ。先生みたいに、はじめっから牙、爪むき出し、鋭さ全開にすると、敬遠されるんです。警戒されたら最後、記事が取れませんからね」

「そ、そ、そうか、牙、爪むき出し?そうかな。まあ、想定内ってわけね」

「その通り、想定の範囲内です」

「安心させたところでぱくってワケ?で、いったい、なんで私のところなんかに。なんにもないぞ、いいネタなんぞ。その様子では、チューターが私であることは、もう知っているようだし、もう新ネタはない」

「ええ、まあ。実は私、この件に少なからずの関心を持ちまして。まあ、いわば、重大関心事。先生に取材をする、まあ、モノのついでに、伺っちゃおうかなと。あくまでもついでですよ、ついで」

「なあんだ、逆だろう、逆。行きがけの駄賃はこっちだな。どうせそんなことだろうと思った。あたしのところなんぞに大手週刊誌が取材に来るわけないんだ。しかもテーマは活躍する女医だって。面白くもなんともないうえに、私はどう考えても活躍なんかしちゃいないんだから」

「いいえ、そんなことありませんよ。先生は頑張ってらっしゃる。結婚もしないで。仕事一筋。このごろは結婚して子供も作り、ついでのごとく片手間に仕事をするというやからが勝ち組などと呼ばれてハバ利かせ、お上もライフワークバランスなど提唱し、われら、仕事一スジ組みは肩身が狭いったらありゃしない。ですから、あえて先生を選ばせていただきました。男どもに媚を売ることなく、ご自身は売れ残り、信じた道をひた走る先生のお姿は、雄雄しくもあり、りりしくもあり、またまぶしくもあって、まともには拝めません」と言って、コモモがなぜかそこで両手を合わせて頭を下げた。

「なにいってんの。褒めてんだかなんなんだかわからないじゃないのよ。で、一体、重大関心事ってのは、どういう観点なのよ」

「まず第一に学生さん、留年しているとか」

「そうもうすでに」

「私も留年しています」

「またなんで」

「ついうっかり」

「ついうっかり留年するものかね」

「まあ、いろいろ。留年していると、なにかと偏見とかあるものです」


 一体、コモモは何者なのだ。小鈴の記事は「女ブラックジャック」などという大仰な見出しとともに、大手写真週刊誌に掲載された。コモモ、本物のジャーナリストだ、確かに。言ったことは実行する。他大学の凄腕女性医師から、なぜ自分を載せないのかと横やりも入ったというが、蹴散らしたらしい。それほどまでにして、小鈴に近づくのは、なぜだ。

 コモモが小鈴の載っている週刊誌を持ってやってきたが、話題は活躍する女性医師とは全く別話だった。

「小鈴先生、一体どんな教育を行っているのですか?聞けば、学会と称する学者さんらのお遊び会に連れて行ったり、ちっとも罰らしい罰ではないとうわさされていますが」

「まさか。うわさになどなっていない。まあ、罰っていう罰は科していないが」

「具体的には」

「ま、まあ、外に連れて散歩してやったり、あ、そうそう、うちの姪の家庭教師させたり」

「そのどこが罰なのですか?」

「え?ええ、まあ、そこは、いろいろ」と、小鈴が口ごもったが、コモモはそのあたりには全く興味を示さず、続けた。

「そうですか。で、大学当局の動きは?」

「そうね。学会中何があったかというと、学会自体はまあ、滞りなく進み、終わったのだが、実は、白滝のいない時期を狙ったかのように、多分、狙ったんだと思うのだが、我々が学会で大学病院を留守にしているのをいいことに、こわっぱに関する教授会声明というのが、学内メールでまわったのよ、大学当局の指導で。あの事件に関しての声明で、かなり厳しく学生を糾弾する四行があり,しまいには、年末年始、飲酒の機会が多くなるので気をつけましょう、というまるで勤務の職員宛書面のような書き口。教授会ともあろうものが、こんな、低俗な文書を出してよいのかっていうくらいのものでね」

「ふむふむ。それで」

「来たのが、たしか、火曜日。うちの若いのが、大学病院からは遠く離れた学会本部でも学内メールを読めるようにしたのが幸いして、我々の目に触れることになったのよ。私はトサカに来たので、メール発信者のうち、与しにくい縞河医学部長はおいといて、与し易い方、まじめが取り柄の研究科長の教授にまず電話をして、もういい加減反省しているし、処分も下って、私が厳しい指導をしているのだから、教授会というような威厳のある会、こんなへんてこりんな文章の声明なんか出すのはやめて欲しいし、百歩譲って出すとして、学生を糾弾するような下品な言い回しは削除してくれ、といったの」

「ほうほう」とコモモがおっさんのような相づちをいれた。

「そうしたら、『そうだよね〜』ってぼやくのよ、研究科長が。ただ、『でもこの文章を出したのはスチャラカ運営委員会で』って、正式名称はわすれたけどね、『白滝教授もおられましたよ』っていうから、出鼻をくじかれ、あわてて電話口を押さえて、『白滝教授、この文書、見たことあるんですか、スチャラカ運営委員会で、出ているそうじゃあないですか』って聞いたの」

「そうしたら?」

「『う〜ん。見たような気がします』って」

「な、なんと、なんと、白滝教授の股下スルーってワケですかっ!」とコモモがだてメガネの奥の目を見開いて言った。

「えー、まあ、そういうことで…。何で見逃してしまったんでしょうねえ〜、トホホホホ。っていう、まことになんとも引っ込みのつかない事態に。電話のこっちのどさくさは、なんとかおいといて、もうこうなったら開き直るしかないっ」

「そのとおりです。で?」

「しかしですねえ〜、ってね」と、小鈴はまずは必要以上にエラソウに構えた。

「『こういった品格に欠ける文章を権威ある教授会として出すのは、いかがなものかと、忖度、忖度』とまあ、少々流行語を散らばしてですね、『学生教育が至らなかった点を素直に反省して、今後教授会として頑張ってはどうか」とかって言ったのね」

「なるほど、なるほど、しかし、忖度はそこに散らばしていいのでしょうかね。ま、いっか。そしたら?」とコモモの合いの手。

「『ハイハイ、それでは、小鈴先生からそのような意見が出たって、縞河医学部長にも伝えておきます』ってね。」

「で、先生は?」

「そお〜?よろしくねぇ、って言っておいた」

「ほうほう、ずいぶんな上からな目線。で?」とコモモが先を急いた。

「それから、一日中暗室みたいなところにこもっている放射線科の根暗な教授に電話をして、一学生を糾弾するような四行を削除して、修正案に賛同するよう脅かした、じゃなかった、促した。そうこうしているうちに、修正案どころか、リハビリ科の教授が中心になって、そもそも、もう教授会声明など必要ない、重要なのはリハビリだ、と。学生人権擁護派、果ては強硬グループも出現しての意見をうち出し、なんとこれまた、麻酔科の教授が賛同、安全管理の教授なぞ、『お父さんの気持ちになってみなさい』という温情論をだしてきて、もうすったもんだ。ところが、どっこい、逆襲が来た!デ、デンデン」

「デ、デンデンって?」とコモモが尋ねた。

「合いの手」と小鈴が答えた。

「そ、そうなんですか、デ、デンデンですね。で?」

「今度は自分の身が惜しい本学出原学長から、二、三のマスコミからも、処分についての問い合わせが来ており、厳しい処置が必要であって、あーんな、こーんな意見はけしからんというお触れが回った、デ、デンデン。さてさて、その出原学長のお触れメールを見た白滝は、デ、デンデン、ここは男だとばかりに、『白滝、よおく考えましたが、やっぱ、声明なんていうものはいらないと、おもいまーすっ』ていうようなメールをそちこちに出した、デンデデ、デン。教授連はあらかた、白滝の修正案に賛同、デ、デンデン」

「ほうほう、白滝教授、おとこを上げましたなあ、評判、評判、デン、デデ、デデデン」とコモモが調子よく合いの手を入れた。

「そうそう」と小鈴も機嫌良くそれに答えた。

 気が合うかも、コモモ、と思って、小鈴はにっこり笑った。


 6 発見、縞河医学部長の死体

「おまえ、目を付けられていたな」と小鈴が亮介に言った。

「そんなばかな」と亮介が目を大きく見開いて言った。

「だいたい、おまえの高校はちっとも進学校ではない。しかもそこで、ラグビーなんていう野蛮な格闘技を行っていたそうではないか」と小鈴が続けた。

「ラグビーは格闘技ではありませんよ、先生。れっきとした球技です」と、亮介が珍しく小鈴に抗った。

「うるさい、あんなわけもわからず走り回って、変な形をした名ばかりのボールを奪い合うなぞ、皇族方のなさるテニスと同種の球技であるわけがない。けっ。スポーツはサッカーまでじゃ。あれは平安貴族の蹴鞠に通ずるからのう、ありがたや、ありがたや」

 高田は気を悪くしてうつむいた。少々言い過ぎたろうか。しかし、このこわっぱ、進学校でない学校から、突然、降って沸いたように現役入学している。うわさの、プラス2であろうか、と小鈴は思って言葉を止めた。

 高田は小鈴の前の椅子に座り、まっすぐに小鈴を見ている。なんだ、その不敵な目は。小鈴はそう言いたかった。しかし、このこわっぱが受けてきた必要以上の罰に、内心、もう責める気は皆無だった。「五十人分代返事件」がウェブサイトに乗って広まり、しかも面白おかしく、タブロイドに書き立てられた。それを大学が騒ぎ立てて、処分を下したのだ。タブロイドは二誌。垂れコミだろう。しかも一誌はフォローにかかっているとかといって、大学当局がびびっているらしい。さらには大手ジャーナリズムが、処分前日に、どのような処分になるのかとプレッシャーをかけてきているというが、本当だろうか。

 縞河医学部長はすっかりビクって、厳しい処分をと、しきりにさわいでいたのだ。小鈴はこの件に何か惹かれるものがあって、白滝教授に頭を突っ込ませておいた。教育が必要、と白滝教授に言わしめたのだが、これが自分の首を絞めることになるとは思ってもいなかったろう。まじめで通る白滝教授は、すっかりその言葉が気に入って、教授会で発言したのだ。

「教育こそが、最高学府において行われるべき最上の処罰です」

 おかげで、調査委員会委員長の白滝教授が、高田亮介更正事業委員会教育係に任ぜられたのだ。

 小鈴としてみれば単なる野次馬根性だったというのに。白滝教授の得意技を忘れていた。

 丸投げ。

 こうして小鈴はこわっぱの教育係となったのだが、なにか腑に落ちないものを感じていた。基本的に、なんでまた、ネタとしてはこんなつまらないことが大騒ぎになってしまったのだろう。

 その日もとっぷりと日が暮れて、小鈴は、しょうがないからこわっぱを車に乗せて帰ろうと、駐車場への道を急いでいた。裏道は草がうっそうと生えていて、小鈴たちはうっかりすると足を取られそうになった。

 ふと見ると、その草の間から、見慣れぬ塊が見え隠れしていた。近づかなければよかったのだ。ついつい、再びの野次馬根性で寄っていったのが誤りだった。枯れ草の中に赤いものが見えていたのだ。

 もしかして、キノコ。どれどれ、毒キノコでも生えたかな。何かに使ってやろうかな、誰に喰わそっかな、そんなことを思わなかったわけでもなかった、本当のことを言えば。

 しかし、近づいて、よく見てみるとカイエンダケを思わせる毒々しく赤いものはキノコのように丸くはなく、細長かった。ネクタイ状の。いや、ネクタイ状なのではなく、まごうことなきネクタイだった。しかも趣味の悪い。そして、全貌は真っ赤なネクタイをしたシマ柄スーツだった。うつぶせになっているにもかかわらず、赤いネクタイが、存在感を主張するようにシマシマスーツの背中側までくるりと回って見えていたのだ。

「た、た、高田。なんだ、これは」と小鈴が声を殺して言った。

「し、知りませんよ」と、同じものを見ているはずの亮介はしらを切った。

「知らないって、見ればわかるだろう、見れば。よく見ろ。もしかして、これ、し、死体ではないか、死体では」

「知りませんてば」といいながら、亮介は横を向いて、その物体を見ようとしなかった。

「今後に及んで、知らないはなかろう、知らないは。目の前のものだぞ、目の前の。ちゃんと見ろ。しかも、もうすでにひんやりして硬そう。色も悪いし。さらに言えば、これは明らかにうちの縞河医学部長の死体だ」と、小鈴が死体を無遠慮にじろじろ見ながら言った。

「う、そ」と亮介はあくまでもしらを切ろうとした。防衛本能だろうか。

「ウソなものか、ウソの。この派手なシマ柄のスーツ、縞河医学部長以外の誰が着るというのだ、趣味の悪い。試しにちょっと転がして見てみろ、顔を」

「やですよ、縞河医学部長の顔。いい思い出ないんだから。それに、し、死体ですよ、死体」と言う亮介の声が裏返った。

「我慢しろ。それにおまえ、医者の卵だろう。死体の一つや二つに動じてどうする。今から見慣れておけ」

「今から見慣れてどうするんですか、死体を。それに、医者の卵っていうけど、先生こそ医者そのものじゃないですか。ナマ医者なんだから、慣れてるでしょう、死体には」

「ナマ医者?なんじゃそりゃ。それに慣れてるとはどういう意味だ、どういう。まるで人をヤブ医者みたいに。やな感じ。あたしは生き物係だぞ、死人に慣れているわけがなかろう。それにそういう問題ではない。ほ、ほ、ほうら。ちょっと足でと。罰が当たるかな。おっと、転がしすぎた。向こう向いちゃったじゃないか。もう、ちょっと硬くなっっちゃっているのかな。死体というのはすぐに色が変わるんだな。どーれ、おお、これはまごうことなき縞河医学部長。死んでもなお人相のよくないこと。ああ、くわばらくわばら。高田、電話しろ、電話」と両手を合わせながら小鈴が言った。

「電話って?どこに?」と亮介がびっくりまなこで言った。

「ばかもん。警察だ、警察。道に転がっている死体を見たら、どこに連絡すると言うのだ。警察だろうが。葬儀屋さん?まして墓石屋にでも先に電話するのか。手回しよすぎるわ、このアホが」

「アホはないでしょう、アホは。それにイヤですよ、警察なんて。先生してください」

「何だ、さっきから、いやいやばかりじゃないか。わがままだぞ。おまえの携帯で電話しろ」

「やですってば。警察とか、苦手ななんですよ、おれ」

「苦手は一緒だ、警察なんか」

「それに一学生ですよ」

「学生がどうした、学生が。私なんか、しがない医者だぞ」

「それに、謹慎中の身ですよ、謹慎」

「こっちの謹慎はほぼ終身刑なんだぞ、自慢じゃないが。教授に仕えるなど、謹慎どころか、禁固刑だ。終身禁固だ。情けない。それより、早く、早く、電話、おまえがしろ」

 観念した亮介は、携帯を出して、電話をした。騒ぎになるまで、時間はかからなかった。

 案の定、死亡時刻に小鈴達がどこにいたのか、しつっこく尋ねられた。第一発見者だから。しかも、小鈴達が車を取りに出かけた駐車場で殺されたのではなく、その数時間前にすでにどこかで落命し、運ばれたらしかった。だから数時間前、どこで何をしていたかということになる。

 直前、小鈴は亮介の人格教育の一環として英語の発音練習を行っていた。医局の隅、小鈴の部屋でひっそりとやっていたから、誰にも会っていない。第一発見者はまず疑われる。小鈴たちはお互いのアリバイしか証明できない。しかも、一人は謹慎中、小鈴は終身禁固刑、挙動怪しい二人だ。あー、不運。

 さらに、こわっぱが小鈴の部屋に来る前、つまり、肝心の死亡時間帯に何していたか小鈴は知らない。約束の時間に遅刻までしてきているのだ。まさか、縞河医学部長を殺していたとか?そんなぁ。

 帰りに車で送ってやるなどと言ったから、この、なにかと面倒に巻き込まれるこわっぱと一緒に死体発見者になってしまったのだ。

 いや、もし亮介を伴っていなかったら、このうす気味悪い縞河医学部長の死体を、気の弱い小鈴一人で見つける羽目に陥っていたはずだ。こんなこわっぱでも、わきにいてよかったかもしれない、と小鈴は思った。

 しかし、これからまた犯人捜しだ。


「だから、当日どこにいた。それさえ言ってしまえば、終わりだ。やっていないなら」と、小鈴は高田に言った。

 小鈴は高田と自宅の部屋にいた。好きこのんで呼んだわけではなかったが。小鈴は切羽詰まっていた。デスクの前の椅子に座り、亮介を脇に小さな丸椅子に座らせていた。

「やってるわけないでしょう」といいながら、高田も必死だった。

「しかし、おまえの糾弾に最も熱心だったのが、縞河医学部長だ。その縞河医学部長が殺されたのだから、今の状況では、おまえが疑われても、いたし方あるまい」

 そう小鈴が言うと、高田が言葉に窮した。

 確かに、思い出してみれば、亮介は縞河医学部長には呼び出され、しこたま絞られた。退学すら目の前にちらつかされたのだ。せっかくまぐれ同然で入った医学部。振り落とされてなるものか。そう、高田は思ったものの、殺したいとまで思ったことはなかったのだ。

 しばしの沈黙を破ったのは聞き覚えのあるえりちゃんの声だった。

「小鈴はチューターなんだよ、亮之介の。監督不行き届きでまた怒られるんだ。怒られ慣れているからいいか」

「な、な、なにい」

 小鈴は悪魔のように高田の後ろから突然姿を現したえりちゃんにドッキリした。

 確かに小鈴は高田のチューターだ。年季が明けるまで、このこわっぱの行動に責任があるといえばある。そんなときに人殺しでもされてみろ。数多くはないが、とにかく病院中をうろついている小鈴の敵どもが、小躍りして喜ぶだろう、小鈴の失態として。

 そ、そ、そんなあ。

「チューターって言ったって、名ばかり、っちゅうか、なんちゅうか、本当の責任者は、それ、うちの白滝教授だ」と、小鈴が言い逃れようとした。

「大体、偉い人は丸投げした上に、うまくいくと自分でやったことにして、まずいと、部下のせいにするんでしょ。世の習いってことで」

「うそお。まさか。このこわっぱのしでかした殺人の責任が、このわたしに?」と言う小鈴の顔が蒼ざめた。

「せ、せんせい、おれしでかしてませんて」

 高田が血相を変えて割って入った。声が裏返っている。本当なのかも知れない。

「じゃあ、アリバイを、現場不在証明を。早く口を割ってしまえ。その時間、殺人現場と別のところにいればいいだけだ。また女のところか。それともまさか、未成年のくせに飲み屋か。今後に及んで遊びに興じていたのではあるまいな。講義はなかったからな、代返していたわけではあるまいが。この、悪童めが、ひねり殺してくれる。おまえのしたことの責を問われて病院中から後ろ指差されるくらいなら、いっそ、この手でおまえの始末をつけ、おのれの所業でののしられたほうがどれほどましか」

「小鈴、大げさだよ。困るとすぐに芝居がかるんだから。やってないって言ってんだから」とえりちゃんが冷静に言った。

「だって、その時間にどこにいたのか言わなければ、やったことになるのだ。このまま、つかまるのだよ」と、今度は小鈴の声がひっくりかえった。

「言えません」と亮介がきっぱり言って立ち上がった。

「なんだとお。」

 小鈴は体の大きさの差も省みず、高田に飛び掛った。胸ぐらをつかんで叫んだ。

「何で、代返のときはやすやすと口を割っておきながら、今度は殺人事件だというのに自分のアリバイが口にできないんだ。おまえはバカか。警察の取調べがどんなもんか、わかってんのか、そりゃもう、しつっこいんだから」

 小鈴は初めて警察に呼ばれてカメさんと山形警部ホに責め立てられた時のことを思い出した。いくらキモの座ったラガー少年といえども、警察のしつこい呼び出しには耐えられないだろう。

 一体何を隠しているのだ。


 7 コモモの取材

 このあたり一体の、奇妙な殺人事件でさえ、今の小鈴には遠い出来事だった。小鈴の近所じゃあ、ホームレスが次々と殺されている。それについちゃあ、カメさんも本気で小鈴を狙っちゃいない。カメさんとは先の事件を解決した戦友のような気持ちさえわいていたし。

 一方、小鈴が働く医局では奇妙なことが起こりつつあった。縞河医学部長が殺された。

 そして、コモモが縞河医学部長殺人事件を予期するかのように小鈴の目の前に現れた。 

 コモモ何者?

「小鈴先生、事件が起きましたね。取材かけさせていただきます」

 そう言ってコモモは再び、当然のような顔をして小鈴の目の前に現れた。小鈴の部屋に入るのさえ、ノック一つせず、返事など待たずに入り込んでくる。入ったが最後、小鈴の机の前に陣取るのだ。

「第一発見者だったとか」と言いながら、だてめがねをずらして小鈴を上目遣いに眺めている。

「仕方ないじゃないか。駐車場だ。車に乗るには通らざるを得ないし」と、小鈴の声は小さくなった。

 一体なんだって、こう、いろいろ怪しい場面に遭遇しなければならないのだ。

 しかも、亮介には相変わらず、アリバイがない。あの日は小鈴のありがたい発音矯正講義があったが、縞河医学部長の冷え方から算定した死亡時刻は季節柄、それより若干前だったのだ。その時間、小鈴自身は別の学生講義をしていてアリバイはあったが、高田の存在証明をしてやれない。

 小鈴の部屋に来る前、高田は一体どこで何をしていたというのだ。

 コモモが全く関係なさそうなことを話し始めた。

「ところで、私、留年しているっていいましたよね。もちろん私の大学は進級判定の厳しいところでしたから。私が留年したのは卒業の年、ほぼ卒業も決まり、就職活動もし、内定も取れた。しかも、研修出社初日のことでした。採用通知と解雇通知がイッショクタンに来ました。卒前研修だったんで、驚くまもなくゼミの教授に相談して、留年させてもらったんです」

「なんでまた。採用と解雇がいっぺんに起こったんだ」

「本社がアメリカですからね。時差でしょう」

「いや、そうじゃなくって、なんでそんな成り行きに」

「アメリカに本社のあるシービービーって知ってますか」

「知ってるも何も、シービービーって言えば、アメリカ大統領も一目置くニュース専門局」

「そう、その日本支局ですよ」

「ってことは、コモモ、そんな純和風な名前と顔して、バイリンガル?」

「いいえ」

「じゃ、なんで、シービービーが採用を」

「トライリンガルだからです」

「と、と、トライリンガル?」

「そう」

「コモモ、おまえ何者」

「いいえ、たいしたものではありません。ただのトラリンです」

「なにがトラリンだ。帰国子女か。」

「ええ」

「アメリカ?」

「いえ、ウィーン。インターナショナルスクールに行っていたんで」

「なに?ウィーン?ただ者ではないな。コモモめ」

「いえ、たいしたものではありません。一介のジャーナリスト。先生のような変わった交友関係もありませんし」

「か、変わった交友関係って?」と繰り返しながら、小鈴の顔が若干青ざめた。

「いえ、たいした意味はありません」

(ちっ、何でこうも物知りなんだ、コモモめ)

「お父さんが国際スパイだったから」

「なにい、こ、こ、国際?スパイ?」

「いえ、冗談、冗談。もしそうだったら、こんなところでお気楽にしゃべれるわけないでしょう。まあ、電話は聞かれており、ハウッていましたね。傍受されると、傍受側に音が漏れて響き、ハウリングするんですよ」

(傍受か。どうもなんでも筒抜けだと思った。院内携帯、音が悪いんだ。電波が弱いのかと思っていたら、どこかで回線を開いて、聞いていたのか。だからハウルんだな。ハウリングね。しかし、それを盗聴と呼ぶんだよ、縞河医学部長!いや、出原学長さんかな。今度会ったら教えてやろう、こっそり傍受すると、音がハウリますよ、って)と小鈴は思った。

「まあ、気にしないでください、そんなことは。とにかく、私の就職話に戻しましょう。シービービーが急遽、合併吸収した会社にかかりっきりで、日本支局どころじゃなくなったんです。で」

「で、解雇?」

「そう、解雇です」

「そりゃまた、急なことだなあ」

 小鈴は大学卒業を目前に社会の荒波にざんぶりと洗われた若いコモモを思った。

 きっと、人間不信、社会不信に陥ったことだろう。何も信じられなくなっただろう。そして、自分の鋭さを隠す眼鏡をかけたのだ。

 そのコモモが眼鏡を小鈴の前ではずした理由はなんだろう。

 しかも、小鈴の話はどうも、漏れているようだし。院内携帯の傍受。だれが?


 8 教授会声明

 コモモはそれから頻々と小鈴の部屋を尋ねてきた。取材や情報収集と言いながら、なぜか、小鈴に情報をもたらしに来るのだ。

「編集部の知り合いにそれとなく学生さんの件が話題になっているか聞いてみましたが、 知らないようでしたよ。担当が違うだけかもしれませんが、各誌が後追いするようなニュースではないと思います。その日の他の夕刊紙は読んでないのですが、二紙が同時に掲載するほどのニュースでもないと思うんです」

「興味がないと」と小鈴は言ってから、首を傾げた。じゃあ、何だっていうんだ。

「そう、興味がない。となると、まずはタレこみですね。誰がタレ込んだんですかね。まあ、ネット検索すると見事にヒットするので、ネットで話題になったということ事態をニュースにした、しかもあんまりつまんないので、後追いする社もないことはないという程度ですが。まあ、ニュースがない日だと、本当にどうでもいいような事がニュースになってしまうので、何とも言えませんが…。今後の後追いは、まずはないとみましたね。まして複数誌が、同時に、しかもこんなつまんない話題、さらに後追いということは普通ありませんよ。二紙に載ったことすら不自然ですね。何はともあれ、こんな木っ端記事。五十人の代返をしたからと言って、なんだっていうんでしょうね。犯罪性がある事件ではないですし、どちらかというと、エリート学生のしくじりを、おもしろおかしく話題にしているだけだと思いますので、今後のことは、心配しなくても大丈夫だと思います。何より、縞河医学部長、あるいは出原学長が、学内の問題だとしらを切ればすむ話です。学校側がいちいち問題にして、対外的に言い訳をしなければならないような話題ではないですよ。未成年ですし、表向きはともかく、学校はかばうべきなのに。いったいどうなっているんでしょう、この大学は」

「そうなんだ。いったいどうなっているんだ、この大学は。それに、基本、学則には代返をしてはならないという規定はない」

「その通りです」とコモモが言った。

「白滝教授はとてもまじめな人で、教育にかけては情熱のある人なんだ。どんな学生でも見捨てたりはしないしね。だれかが攻撃すればするほど、かばうんだよね、意地になって。本当には一体どんな学生なのかわからなくてもね」

「高田は筋金入りの運動部なんでしょうね。乗せられればやってしまうというような。それにしてもなんと無防備なでしょうね。五十人分の代返を頼まれて、次々にうんと言ってしまうなんて。バカなんですかね」

「そう、バカなんですね」

「それにも増してもう少し、世の中は善意の人ばかりではないと知るべきだったですね」

「確かに。それにしても大バカだねえ」と言って、小鈴は簡単に切り捨てた。

「ですね。しかし、いくらマスコミが問題視したからと言って、学則以上の罰を加えるなんて大学の立場ではないですよ。何かの餌食になっているような気がする。考え過ぎかなあ。意味のない魔女狩りみたいな記事は、深追いすべき問題ではないと思う、ジャーナリズムの良心として。そんなことより、縞河医学部長の殺人事件のほうがよっぽど大切なのに」

「攪乱かな」と小鈴は言った。

「そうかも知れませんね。先生、勘がよくなってきたじゃあありませんか」

「え?そうかな」と小鈴は気をよくした。

「私も、法律には詳しいわけではないですが、調べたところでは、学則は学則。法的にそれ以上をどうこう言うことはできないのですよ。だから、いくらマスコミに騒がれても、詐欺とかのように前科がつくという性格のものではないはずですし。逆に頼んだ方も責められますからね。第一、代返頼んだ奴は欠席なんだし、そもそも、頼むなんて言うことのほうが悪質性が高い。本末転倒とも言えますよ。本人に対しては、本来は厳重注意くらいで、厳しくしたとしても一定期間の自宅謹慎が限界ですね。何はともあれ、更生のチャンスを与えないような処分は、逆に問題があると思いますよ。これだけ、タブロイドが嗅ぎつけたとしても、だれがたれ込んだか、しかも、大学が必要以上に厳しい処罰を行おうとしていることのほうが問題で、とてもきな臭いでしょう」

「確かに」と小鈴は深く納得して頷いた。

「二、三の代返など、半ば黙認してきたことについても、今後、同じく厳しく対処するのでしょうかね。そんなことしたら、一年生の多くが学校から消えますよ…代返、一発退学、なんてね。私学ではありませんし、世間の常識から外れた処分を下したら、逆に学校側の姿勢が問われると思います。退学処分なんかとなると、不適切な処罰として本人が学校側を訴えても不思議ではありません」

「そりゃそうだ」と小鈴も合いの手を入れてみた。

「代返の件も、後になってやってない、覚えていない、と言い張ることはできますし、認めたとしても代返を頼む学生はそのほかの講義でもたくさんいるはずですから、公平性という点からも、それこそ問題は複雑化します。」

 そこまで聞いて、小鈴は高田になぜやすやすと口を割ったかと言った自分が正当化されたような気がして、ちょっとほっとした。


 9 べーさんとコモモ

 大手新聞社本社所属の記者べーさんが珍しく小鈴の部屋を尋ねてきて開口一番、言った。

「小鈴先生、この大学の入試には妙なうわさがあるぞ」と、べーさんが言った。

 べーさんはこの大学で特ダネを狙う自分を大学側が好ましく思っていないのを知っていて、滅多に小鈴の部屋には来ない。好ましからざる人物というわけだ。それでも来ると言うからには、かなりな情報を持っているということだ。代返事件のことだろうか、と小鈴は思った。女性の臨床医としての小鈴を取材し、小さな記事にもしてくれたベーさんだ。

 大学に巣くう不正を許さない正義感の持ち主だ。大手新聞社が興味を持っているからと、大学当局がビビっているという話だった。大手新聞社とは、奇しくも、ベーさんの社ではないか。

 なんだ、大手に興味を持たれていると学長らがビビっていた相手はべーさん?

「そういえば、御社が学生の代返事件で取材をかけるといううわさがあったけど、本当?」

「学生?代返?取材?そりゃ一体なんですか」

「学生が代返して問題になったの」

「その件は知っていますが、うちが扱う予定はありませんよ、そんなネタ。代返っていえば、俺もよくしてもらったっけ」と言いながらベーさんが頭をかいた。

「いや、代返と言っても、ここらそこらの代返ではなくって、五十人分の代返して問題になった件。二つの夕刊紙に載ったんだけど、大手新聞が興味持ち始めたって、上層部がビクっているところ」

「そんなちっぽけな話か。タブロイドでしょ。そんなのうちの社が興味持つわけないじゃないですか。もったいなくも、いやしくも、うちは部数、我が邦一の大手新聞社ですよ。バカらしい。そんな話題、取材してませんよ。第一、取材の話なんか噂にもなっていないし。そんなことより、貴学の入試がらみのうわさ、先生、知りませんか」

「うわさ?」と小鈴が言った。

「そう、きな臭い不正入試のうわさ」と言って、べーさんはきょろっと辺りを見回した。

「まあ、ここはきな臭いし、腐れ臭いし、筒抜けっぽいし、不正の巣窟だ」と小鈴が言った。

「筒抜けか、まあ、しょうがないか。まず、その代返の高田ですが、留年しているし、入学時の成績もぎりぎりだったとか。それに、当時の、といっても昨年度だけど、特別な入試特典で入学した学生がいるらしいな、面接と作文だけしか評価せず、学力テストの点は加味しないというやつ。たぶん、運動もでき、一見好青年だし、あいつもそうなのか?」とべーさんが聞いた。

「好青年かどうかはわからないけど、確かに、特別入試では文武両道の学生を取るのだと、前理事長が自慢げに言っていたっけ」と小鈴が答えた。

「その入試に不明朗な点があったといううわさがあるんだよ」とべーさんが大きな地声をめいっぱい潜めていった。

「不明朗?まあ、この大学、言ってみれば全体的に不明朗。不明朗というよりは、視界が悪くて一寸先も見えやしない」と小鈴が顔を曇らせた。

「それはそうなんだけど、特にこの入試で入った数人の学力が入試で過大評価されてたと」と言って、べーさんが座っているソファから身を乗り出した。

「なるほど、プラス2か」と小鈴が言うと、べーさんが繰り返した。

「プラス2?」

「そう、事実上の情実入学なんだけど、前理事長、勝田の肝いりで作られた入試枠なんだ。その枠に入ると、高下駄を履かせてもらえるんで、プラス2って呼んでる。二段階アップするの。上、中、下の三段階に分けられて二段階アップということは、最下位でもトップとの学力テストの点差はほぼはくなって、結局誰でも入れるってわけ。でも、誰がその入試枠で入ったのかはわからないんだ。トップシークレットで」と小鈴が説明した。

「そんな入試があるのか。むちゃくちゃだなあ。文科省は何にも言わないのかね、そんないい加減なことに対して」とべーさんがいぶかしげに言って、首をかしげた。

「まあ、秘密でやっているからわからないんじゃないの?」と言って小鈴はため息をついた。

「へー、秘密でね。で、高田がその枠なのか?」とべーさんが聞いた。

「いや、どうだろう。上層部しか知らないことだしね」と小鈴が答えると、

「また上層部か。腐敗の温床だな」といって、べーさんもため息をついた。

「まあね。そんな枠を作ったこと自体が不正入試の温床になるんだよ。そんな簡単なこと、みんなわかっていたはずなのに」と、小鈴は肩を落としていった。

「不正があるのか?確かに」とべーさんは食い下がった。

 縞河医学部長殺人にすら関係あるのだろうか。

「いや、わからない」と小鈴が答えた。

「不正がないとしても、留年組六人に、特別入試枠の五人が全員入っているという話だよ。勝田前理事長の言うように成績優秀にしちゃあ、その実、お粗末じゃないか」とべーさんが続けると、

「特別入試の五人全員が留年?そりゃ、恐れ入りますね。どうなっているんだ」と小鈴が驚いて言った。

「だから、高田もその枠で入ったに違いないと、思われても仕方ないね。間もなく、その特別枠で入った学生はもう一度ふるいに掛けるってうわさだ。手遅れです、ってヤツだね、業界用語で」とべーさんが言った。

「んま、そうだね。しかし、人の人生をなんだと思っているんだろう。ふるいに掛けて、退学か。だったら、入れなければいいのにね。いまさら、どこの大学にうつるんだろう。この学部はつぶしがきかないからねえ。医者にならずに何になれるっていうんだ。実力もないのに入れるからそういうことになるんだ」と小鈴があきれて呟いた。

「本当だな」とべーさんが言った。

「そう。でもね、高田はその枠ではないと思うんだけど」と小鈴が言った。

「というと?」とべーさんが光明を見るように目を見開いて聞いた。

「その特別枠で入った学生らしき五人は、大体当たりが付けられるんだなあ、まじめそうで、面接受けがいい。高田は全くまじめに見えず、面接受けは最悪だからね、あのふてくされた態度、代返なんかしてさ、しかも五十人分。こわっぱめ、くそっ、手間の掛かるやつ」と、小鈴が高田亮介を思い出して毒づいた。

「はあ、そうか。なるほど。特別枠は五人で、留年が六人か。一人は単に留年しているってだけか。なるほど、なるほど」とべーさんは言って、考え込んだ。

「なるほど、っていうと?」と小鈴が尋ねた。

「特別枠の五人のうち、一人は議員の親戚筋、一人は医療機器メーカーの社長の息子。三人はこの大学のOBの子弟って話だぞ」とべ-さんが言うと、

「ほーーーっ」と小鈴はため息とともに声を出した。

 そのときだった。勢いよくコモモが部屋に駆け込んだ。コモモはべーさんの存在を気にせず大きな声で言った。

「アリバイ、成立です」

「アリバイって?」と小鈴が聞いた。

「高田のお父さんの」とコモモが言ったが、要領を得ない話に小鈴が戸惑った。

「高田のお父さんのアリバイが何で必要なの?」と小鈴が言うと、

「それがですねえ」と言ってから初めて、コモモは先客のべーさんをジロッと睨んだ。

 鋭い勘がべーさんの同業臭を検知してしまったのだろう。

 小鈴は愛想笑いしてごまかした。

「何で、何で?」と雰囲気を読まずにべーさんが割り込んだ。

 コモモはベーさんの顔を見て、大して怪しくはないと悟ってか、そのまま続けた。

「実は、高田の父親、縞河医学部長と面談しているんですよ。ちょうど、縞河が殺される、たぶん直前」とコモモが言うと、

「なんでまた高田の父親は縞河医学部長と面談なんか」と、小鈴とべーさんが声を合わせた。

「整理しましょう。まず、高田の父親、接触してきていたですよ、なんとうちの本社に、特別枠入学について。成績の悪い留年組をさらに、ふるいに掛けて、退学させるというのは本当かどうかっていうことを。うちのジチョー、バカジチョーって呼んでるんですけどね、私は、やつの二、四、六、八、ひと山ふた山、みたいな説明じゃちっともわからなかったけど、やっと納得できました。バカジチョーはこの大学の縞河医学部長と幼稚園の同級生。そのつてを探し当てて、高田の父親がジチョーに面談を求めた」

「ほうほう、面談をね」とべーさんがちょうど興味を持っていた話題に頭から突っ込んで来た。

「特別枠は推薦ですが、どうも、情実入学の温床なんですね。五人ですが、全員留年しちゃったんで、相当学力が低いのに入学させたことが、議会で問題になりそうなんですって。で、それを退学一掃処分するというのですが、留年生六人のうち、一人は特別枠ではないはずですよね。ところが、高田がその退学枠に入っているんですよ。すり替えですよ、すり替え」

「すり替えかあ」と小鈴が繰り返した。

「情実入学の上に、留年、五人のはずだだから、一人は留年オンリー。その一人を退学組に入れて、一人とすり替えをすると」

「そうそう、情実入学の一人が助かる」

「ずいぶんと悪質だなあ」とベーさんが眉毛を寄せて、怒りをあらわにした。

「で、情実入学など、身に覚えのない高田の父親が、ちょうど、その日、縞河医学部長と面談の約束を取り付けたらしいんです、医学部部長と幼稚園が一緒だったというバカジチョーが仲立ちして。息子が退学一掃処分のメンツに入っているといううわさが本当かどうか聞くために」

「ほーう、退学一層処分のメンツね」

「そう。それで、大学での面談終了のその直後、高田の父親は東京の本社まで来て、バカジチョーと面会をしていました。報告ですね。ですから、ここから東京までの時間を考えれば、アリバイ成立です」

「そうなんだ。で、なんで高田は自分のアリバイを言わなかったの?」と小鈴が聞いた。

「そうですね。たぶん、死亡推定時刻直前に父親が縞河医学部長と面談しいているのを知っていたのでしょう」とコモモが答えた。

「だからって、なんで。自分のアリバイぐらい言ったっていいでしょうに」と小鈴が言った。

「そうですね、ただ、それを言えば父親が不利になるでしょうからね。だから、亮介が自分のアリバイを主張しなかったんです。父親をかばおうとしたんでしょう」とコモモが言った。

「そうか、それで」と言いながら、小鈴が納得してうなずいた。

「そうです。しかしその直後には東京で本社のジチョーと会っていたんだね」とべーさんが口を挟むと、コモモが続けた。

「そう。私も情報を集めてみました。結果、わかったことは、確かに、五人の推薦枠のうち一人は出原学長の同級生の息子。今回成績不良で留年した特別枠五人のうち、一人のすり替えをしないと、出原学長の同級生の子どもが退学になるというわけです。その同級生は出原学長の親友。学生時代にノートを写させてもらったとか、まあ、代返してもらったとか、恩があるみたいですよ」

「な、な、なんと、代返。出原学長が?人のこと言えた義理かい」

「そうです。で、情実入学のプラス2である出原学長の同級生の息子の身代わりに高田を当てるということで手打ちがあったらしかったんです。その画策を父親が知り、抗議に行ったということになれば、父親が疑われるわけです。ただ、高田の父はその時間、東京にあるうちの本社のジチョーに面会していて、縞河医学部長を殺しに行ったりしていないことは確かです。しかも駅でジチョーの好物、シウマイを買っていた」

「シウマイ?」

「そう。ちゃんとウラもとりました。そのシウマイ屋が高田の父が特に上物の特製シウマイを買ったことを覚えていたんですよ。しかもレシートには時間が記されていたし」

「なあるほど。シウマイ屋のウラね。となると、縞河医学部長は高田の父親との面談で、出原学長が同級生の子どもを優先して入学させた上、さらに高田を身代わりにして、退学一掃処分からもかばおうとしていることに気づいたといいうことか」と小鈴もべーさんも納得した。 

 

 10 出原学長、おまえもか

 小鈴とコモモ、それにべーさんたち三人は出原学長室にいた。もちろん、普通、垣間見ることすら、許されない奥の間、奥の魔とも呼ばれていた。豪勢な赤い絨毯が敷き詰められている。足先をきっちり上げて歩かないと躓きそうな毛足の長さだ。

 大きな革張りの椅子は、大臣室の椅子と同じ会社に作らせていると評判だ。小鈴の部屋に置いてある、薄っぺらい事務椅子とは大違いだった。

「なんだ、君たちは、いきなり入り込んできて」と、出原学長がちょび髭をひねりながら言った。

「観念したらどうだ。もうバレバレだぞ」と、小鈴は根拠なく言った。

 時間を稼がないと。

 エンジェルを通してカメさんにはもう連絡したが、駆けつけるには時間が掛かる。ジチョーから、高田の父親のアリバイを取り、それから、辺り一帯に落ちていた出原学長のちょび髭を初めとする毛髪、げそコン(下足痕)、指紋、そんなものを出原学長のものと照合するのだろう。

 その日は雨上がりだったし、倒れていた縞河医学部長の周辺にはバカでかいげそコンがいくつも残っていた。幸い、出原学長の大足に合う靴は、履いている者が少ない。当初から出原学長は線上にあがってはいた、その足の大きさで。バカでかいげそコンを出原学長の靴に合わせれば、証拠は揃う。

 しかし、大学構内に出原学長の足跡があったからと言って、不思議がないといえばない。いくら、殺された縞河医学部長の死体のまわりににべたべた無数に残っていたとしても。

 それに動機にうすかった。

 殺害された縞河医学部長の鍵のかかった机の引き出しには分厚いノートが数冊収まっていた。自分が就任して以来の入試成績がそのノートにまとめてあり、特に、出原学長が前理事長と一緒に強引に推し進めていた特別枠入学に関しては、入学後の学生の成績が事細かに記録されていた。縞河医学部長、意外とまめなんだ。それだけ見れば、教育熱心な医学部長だ。

 しかしその実、縞河医学部長は特別枠入学という名の情実入学、通称プラス2の資料をかき集めて出原学長の失脚を狙っていたのだった。

 一方の出原学長の机の引き出しの裏には、縞河医学部長の仕掛けた盗聴器が仕込まれていた。縞河医学部長が調べを進めていく上で重宝していたのだろう。

 入試の最終責任者である出原学長と、実務担当者の会話が盗聴され、その傍受内容と長年溜めた学生の成績資料ノートとのセットをネタに、縞河医学部長は自分を次期総長に推薦するよう出原学長に迫ったのだ。

 色よい返事をしながら、ちっともいうことを聞かない出原学長とののらりくらりとしたやりとり。 

 電話回線はもちろん、縞河医学部長室に開いていた。縞河医学部長がこっそり聞いていたのだ。しかし、傍受して脅迫するつもりが、最後の通信は、皮肉なことに、出原学長の自分に対する殺害計画の証拠として残ったのだった。縞河医学部長を電話で駐車場脇の藪の中に呼び出す出原学長の声は、縞河医学部長の傍受記録にはっきりと残っていた。それは縞河医学部長の殺害犯が出原学長だと示唆する呼び出しの記録に他ならなかった。出原学長が指定した場所と時間は、まさに縞河医学部長が殺害された場所であり、時間そのものだったのだ。人目につかない裏庭。秘密の話をするによし、人を殺すによしだ。

 呼び出された縞河医学部長は、自分が殺されるとも知らずに、裏庭に出かけて行った。出原学長に頭を殴られたうえ、その日も着用していた愛用の赤いネクタイで首を絞めて殺害された。しかも、その死体は駐車場に運ばれて小鈴と亮介によって発見され、足で転がされる羽目に陥ったのだ。

 縞河医学部長は、ちょうどその直前には高田の父親と面談しており、死亡推定時刻の父親のアリバイはうすくなる。しかし、高田の父親が東京の出版社に行くには面談のあとすぐに大学をあとにしなければならなかった。お土産を期待して、手ぐすね引いて待っていたジチョーへの報告は速やかになされなければならない。しかも、ジチョーの好物、駅構内でしか売っていない、上物特製シウマイを買わなければならない。店や百貨店で売っているのではだめ。駅中の売店でなければ。大急ぎで上物シウマイを買って走る高田の父に、大学構内の藪の中で殺人をする暇はなかった。

「出原学長!ちょっと待て。今証拠を固めたカメさんがくるから」と言う小鈴の声をかき消すように、総長室にカメさん率いる警察官がどっとなだれ込んだのだった。

「間に合いましたか?今度は大丈夫ですか。腰はぬかさんかったとですか?」と、カメさんは心から小鈴のことを心配して大声で尋ねた。

 しかしそれでは、まるで以前カメさんの前で小鈴が腰を抜かしたようではないか。

(あれは、せっかく潜んでいたのに、間抜けな携帯電話をしてくるヤツがいたから。あやうく、犯人に殴り殺されるところだったのだ、金属バットで。ただ腰を抜かしたわけではない。大変だったのだ)と小鈴は思ったが、口には出さなかった。

 せっかくカメさんが自分のことを心配してくれているのだから。

 それに、今回は大丈夫。ちょび髭出原の変な顔を我慢すればそれで済むようだ。

 出原学長は大人しくお縄になった。


 11 アリバイはシウマイで

 教育期間も明けて、亮介の最後の家庭教師だった。授業も終わり、机の前に、えりちゃんと亮介が座っていた。

「縞河医学部長が殺された日、家庭教師に来なかったな、亮之介」とえりちゃんが言った。

「それが亮之介のアリバイだったんだな」

「そう、デートだ、デート。いいだろうー。美味しいお昼ご飯を彼女が作ってくれていたんだ」

「亮之介。小鈴は一生懸命、亮之介を助けようとしている。なのに、亮之介は彼女とお家でご飯だって?」

「だって、しょうがないじゃないか」

「そうだね、しょうがないね。小鈴はいつも一人でお茶漬け食べてたっけ。エリーが付き合った」

「そうか」

「小鈴が教えてやってるのに、ご飯に誘う彼女って、エリーはよくないと思うな」

「そうかな」

「そうだよ、亮之介。小鈴は真剣に亮之介を助けようとしたんだ。そうしたら、亮之介もこの期間は小鈴を最優先にしなきゃ。それが礼儀ってもんだよ」

「そうかな」

「そうだよ。何でそんなことがわからないんだ。やっぱりバカだったのか、お前。小鈴はエリーよりも亮之介を優先していたんだよ」

「さびしかったのか」

「ちょっとね。でも亮之介も大変だったんだよね。エリーが、禁制品のまつ毛ビューラーを持って行ったことで学校で怒られて、退学寸前だったとき、とっても心細かった。その時、小鈴はエリーを最優先にしてくれた。今度は亮之介の番ていうわけ。教授会声明を押さえ込むのって、大変だったんだよ。お茶漬け食べながら、ぼそぼそしゃべってたっけ。あんな疲れた小鈴の顔見るの初めてだった。小鈴はいつも人が優先。自分のことはそっちのけ。それなのに、亮之介は彼女とおウチご飯ですか」

「ごめん」

「しかも、亮之介がアリバイをいわない理由はそれですか。彼女とご飯」

「うん、確かに、ご飯食べてたこと、言いづらかったんだ、小鈴先生に。そんなこんなで、遅刻したし。それに」

「それに?」

「オヤジが会っていたんだ、縞河医学部長に」

「その時間に?」

「そう。だから、俺のアリバイより、オヤジのことが気になって」

「捜査を攪乱すると、あとがまずいよ。つじつまが合わなくなるんだ。なんでそんなことを?」

「この一件でオヤジには迷惑掛けたし、縞河医学部長と面談したのも、俺のことだろうし」

「だからといって、亮之介がアリバイ証明しなくても、いずれわかっちゃうよ。警察は怖いよ。それより、お父さんは縞河医学部長とどんな話をしたの?揉めるようなこと?」

「そりゃまあ、俺の今後のことだろうし」

「だって、それは小鈴のところの教授がこれ以上の罰はなしと」

「そうなんだけどね」

「なに?」

「オヤジは大学の入試不正に気づいたんだよ」

「不正?」

「そう。出原学長の同級生の息子が特別枠で入っているんだ。みんな知らないけどね。それを俺とすり替えるような」

「すり替え?」

「そうなんだ」

「ひどいね、そりゃ」

「うん」

「で、お父さんはその不正を暴きに?」

「そうだね。でも、きっと、俺の進級とか、今回の件を抱き合わせにして俺を守ろうとしたんだと思う」

「で、決裂?」

「かも」

「かも?」

「うん、でも、その直後に、紹介してもらった出版社に行ってるんだ」

「そうなんだ。でも、それでアリバイが成立したんだね」

「そう」

「小鈴先生の友達のコモモ記者が、駅でシウマイを買う父のアリバイの裏を取ってくれたんだ」

「シウマイのアリバイ」

「そう、シウマイ」


 12 幼なじみのエンジェル

 これで三度目の訪室だ。自分が極めてうさんくさいことを知っていて、滅多に部屋には来ないエンジェルだ。おりいった話だった。

 エンジェルはアメリカに行く。高校は卒業しているのだから、アメリカで大学を出れば、新しい世界が開けるだろう。エンジェルにとって、それはリセットなのだ。あるところで逸れてしまった彼の人生を、修正するただ一度のチャンスだろう。ここを逃せば、もう年取っていくだけだ。小鈴にはわかる、同じ年なのだから。

「アメリカに行こうと思うんだ」

「アメリカへ行くの」

 小鈴はエンジェルの口から唐突に出るその言葉に、魂を抜かれたように繰り返した。オウム返しというやつだ。

「ああ、金も溜まったし」

「高飛び?」

「まさか、人聞きの悪い。穏便に出国しますよ。穏便にね。幸いつかまったこともたった一度だけ。身元の堅い小鈴ちゃんに助けてもらったから、記録には残っていないし」

「で、アメリカでなにするの」

「勉強しなおすよ」

「そう」

 エンジェルはそもそも、詐欺師になんかなる予定ではなかったのだ。小鈴と学級委員をよくやっていた優等生だった。高校時代に父親が失職し、何とか卒業まではしたが、それから小鈴とは違う世界に住むようになったのだ。

「エンジェル、家族は?」

「父親は知ってるだろう。自殺したじゃないか」

「自殺?」

「そう、知らなかった?会社乗っ取られて、自殺だよ」

「知らなかった。病気で亡くなって、会社がうまくなくなったのかって思ってた」

「いや、逆、逆。だまされたんだ」

「お父さんはだまされて、エンジェルはだますと」

「やだなあ、人聞きの悪い。小鈴ちゃんは冗談きついよね」

「ごめん。いただけない冗談だったね」

 小鈴達はふと、学校時代に戻った会話をしていた。小鈴はエンジェルに何でも言っていた。何を言ってもエンジェルは笑って返してくれた。中学でも高校でもエンジェルは成績もよかったし、スポーツも万能だったから、女の子たちにはもてもてだったっけ。小鈴は幼稚園時代からエンジェルを知っていたから親しげに話をできて、みんなにはうらやましがられていたけれど、ボーイフレンドとは思っていなかった。というより、小鈴にはなりたいものがあって、それに気をとられていたのだ。

「小鈴ちゃんは勉強熱心だったよね」

「そうね、医者になりたかったからね。エンジェルは文科系人間だったしね」

「うん」

「お母さんは?」

「母はおれを卒業させるのが精一杯だったよ。おれは卒業と同時に独立した。母は若かったからね、再婚した。でも、そうなると、おれはもう顔出さないほうがいいだろ」

「そうか」

 エンジェルはさびしくないのだろうか。

「小鈴ちゃん見てると、生き生きしていてさ。おれもやりたいことやりたくなるよ。何とかやってみる」

「お金は?」

「だいぶ、貯めさせていただきましたよ。ここ使ってね」

 エンジェルが自分の頭を指差して言った。

「アメリカに入国できるの?あんたの商売じゃあ、危なくない?」

「大丈夫。稼いだ金は表ざたにできない金ばかり。誰も表立って文句は言えないのさ」

「どのくらい行くの?」

「そうね、金使い果たすまで。そこで何とかならなかったら、おれ、もう帰らないよ」

「帰らないって?」

「向こうで働く。小鈴ちゃんの顔見られないよ。そんなじゃ」

「なにいってるのよ」

 小鈴がエンジェルを助けたのには理由があるのだ。詐欺容疑でぶち込まれたとき、小鈴が身元を引き受けた。なぜかと言えば、誰にも言わないが、小鈴はエンジェルに借りがあった。

 中学時代、小鈴は勉強さえしていれば前に進めると思っていた。何も怖いものはなかった。街を歩いていてさえ、絡まれた不良に、頭を下げることができなかった。数人の不良だった。小鈴がいくら睨んだところで、効果はなかった。そのとき、一歩も引く気のない小鈴と、それにいちゃもんを付ける不良の間に割り込んだのが、エンジェルだったのだ。

 小鈴の代わりに謝り、小鈴の代わりに殴られた。

「ごめん」

 鼻血と割れた口角から流れる血で顔を染めながら、したたか殴られた足腰をさすって立ち上がるエンジェルはそれでも笑おうとしていた。小鈴はカバンから出したハンカチでその血をぬぐって謝ったのだ。

「いいんだよ。小鈴はあいつらに謝れないし、謝っちゃいけない。オレの小鈴らしくない」

「痛かったでしょう?」

「大丈夫だって」

 そう言って立ち上がったエンジェルはその日以来、小鈴を見守っていた。不良たちは小鈴に目を付けていたのだと、あとからエンジェルに聞いた。エンジェルは中学を卒業するまで、小鈴と一緒に下校した。だから、エンジェルが小鈴のボーイフレンドだと学校中の評判になったが、小鈴たちは違っていた。単なる友達、幼なじみだった。

 そして今度も、エンジェルを黙って送り出すのが小鈴の使命だったのだ。

「でも必ず、帰ってくるよ。小鈴ちゃんの顔をしっかり見られるようになってさ」

「そうか、楽しみにしているよ。どのくらいかな、でも」

「うーん、おれもはっきりいって、予想つかないけど、できるだけのことはするよ。それに、今までのこと考えれば、なんでも耐えられるさ」

 そう言ってエンジェルは黙って笑った。


 13 ラストチャンス

「小鈴先生。人って言わないとわからないんですよ。口にしなくてもわかることもあるけど、でも、言ってほしいこともある。言ってほしいときも」と亮介が小鈴に言った。

 医局の小鈴の部屋は相変わらず、日当たりがよかった。事務机を挟んで座っている亮介に日が当たっていた。小鈴はブラインドを閉めてから言った。

「そう?」

「先生は強がりばかりだ。だれにも弱みを見せない。本当にいいんですか。エンジェルはアメリカに行くって。それでいいんですか。とめないの?」

「とめる?」

「そう、行ってほしくなければ、とめないと。先生は強がりと、それに人のことばかり。えりちゃんとか、ぼくとか。そして今度はエンジェルのためですか。やせ我慢もいい加減にしたらどうですか。先生はそんなに強いんですか。涙はないんですか」

「亮介。行ってほしくないような、あるような。ねえ、人の気持ちって、百パーセントってことあるのかな」と小鈴が言った。

「え?」

「そんなにすっぱり割り切れやしない、もちろん。でも、エンジェルはアメリカに行きたいんだ。それがあいつの夢だから。あいつ、幼馴染みなんだ。ただの詐欺師だけどね」

「本当にいいの?」

「いいよ。亮介。人ってさ、やらなきゃならないときがあるんだ。わかるよね。あたしには邪魔できない」

「どうしてそうやって、先生は自分を隠すんだよ。本当は行ってほしくないはずなのに。いつも人を優先してさ。先生の気持ちはどこに行っちゃうんだよ」

「亮介、エンジェルは今やらなければ、もうできないんだよ。亮介はここで踏ん張ったから、約束された人生にまた戻れた。でもエンジェルが戻るのはもうちょっとやそっとのことじゃあ、無理なんだ。あまりにも時間がたちすぎていて。莫大なエネルギーがいる、あいつの人生リセットするには。でも、もしできたら、あいつ、本当に素敵な人生を送ることができるんだ。人生まだ、半分も来ていない。今なら、まだ間に合う。でも、これが最後のチャンスだ、あいつにとって。あたしはそれを邪魔できない」

「本当にそれでいいんですね」

「そう、いいんだ。あいつが幸せになるんだから、あたしがちょっとさびしくったって、引き換えにはできないよ」

「アメリカ行って、成功したとしても、なくしちゃうかもしれないんですよ。遠くへ行ってしまって。金髪の奥さん連れて帰ったりして」

「ははは、パツキンの奥さん?やるじゃん、エンジェル。そうね。そしたら、それで、いいじゃない。あいつが幸せになれば、あたしも嬉しい。亮介もそうだよ。亮介が幸せになってくれれば、それで嬉しいよ。だからこれで、チューターもおしまい。無罪放免だ」

「え、二年間じゃあないんですか。」

「冗談じゃない。二年間もおまえにたたられてたまるか。もう卒業だ」

「本当に?」

「本当に。おまえも育ったな。私に説教するようになったか。じゃあ、元気で」

 こうして、予想どおり、亮介の教育は三週間で終了した、

 長いようで短く、短いようで長かった教育刑。


 14 エピローグ2

 小鈴たちはまた、アカネちゃんのオカマバーでちびちびやっていた。照明を落とした薄暗い中で、小鈴はウーロン茶の水割り。百ベエは少し薄めのウーロン杯。

「今日はまねこちゃんの日じゃないの?」

「あ、今日はお休み」

「そうなの。しかし、あの子の歌はうまいよね。でもまた何で、まねでしかないんだろうね、あれだけの声してて」

 小鈴は疑問に思ったことを口にした。

「そうねえ。おんなじ年で、おんなじ顔で、おんなじ声」とモモカちゃんが低い声で言った。

「ほんとね。他人とは思えない。」

「他人のわけがなかろう」とぼそっと言う百ベエの声を小鈴の耳が確かにとらえた。

「どういうこと?」と小鈴が畳み掛けると、アカネちゃんがため息をついた。

「それがね、百ベエさんの秘密なの。だから、言えない」

「そうなの」

 このあたりの人間は秘密を持ちながら、それを決して探ることも探られることもせず暮らしている。だから安心して、水割りのウーロン茶をちびちびできるのだ。

 ものまねまねこちゃんが真田真知子とあまりにそっくりなのだが、他人でないとすれば、そう、真田真知子と、ものまねまねこちゃん、その二人が何で全く違う人生を歩んでしまったか。それは百ベエだけが知っているのだ。

 百ベエが自分のアリバイを賭けて、居所を明かせなかったそのことに関係があるのかも知れない。あの日、百ベエは介護施設に行っていたとエンジェルが言っていた。まねこちゃんが介護施設に関係あるはずもないのだが。

 まあそっとしておこう。

 それにしても、ホームレス殺人は、ちっとも解決しない。

 縞河医学部長殺人では出原学長が捕まったのに。

 しかし、隣の奥さん殺人で捕まった旦那は、ソーチョーがどうしたとか、こうしたとか、叫んでいたっけ。

 あれはいったい何だったんだ、と小鈴は思った。

(総長狙いの出原学長もつかまっちゃったしね。違う総長なのかな、でも、確かに、ソーチョーとか、メーヨーとか言ってたけど、何だったんだろう。メーヨーのソーチョー?アメリカの有名なメーヨークリニックとか?まさか)



Ⅲ 紳士淑女の殺人事件

 1 重い気持ち

 小鈴には気になることがあった。

 仕事は家に持ち帰らない。小鈴はそう決めていた。しかし、かばんに突っ込まなくとも、仕事の憂さは音も立てずに小鈴の懐に入り込んで、唐突に顔を出す。患者の容態は持ち直していた。貧血も回復の兆しを見せ、峠は越したというところだ。心悩ますことなどないはずだ。しかし、何かが小鈴の胸にずんと重くのしかかっていた。こればかりは盛り上げ上手のアカネちゃんでも引き上げることは出来ない。

 このあたり一体の、奇妙な殺人事件でさえ、今の小鈴には単なる出来ごととしてしか映らないほど、小鈴の心は重くなっていた。

 信楽大医学部講師のミイちゃん殺し。

 今度はカメさんも小鈴を狙っちゃいない。カメさんとは先の事件を解決した戦友のような気持ちさえわいていたし。

 一方、小鈴が働く医局では奇妙なことが起こりつつあったのだ。


 2 カメさん、異動

 カメさんに呼び出されて、小鈴は病院裏の小さな喫茶店にいた。所轄を避けて、わざわざ小鈴の大学病院までカメさんが来たのだ。丸いテーブルが4つしかない、見通しのきく店だ、隅の一つのテーブルを除いて。カメさんが選びそうなところだ、と小鈴は思った。

 思えば、隣の奥さんが殺された事件では、カメさんに責め立てられたものだった。自分の何がアヤシイと思われたのか、小鈴にはちっともわからなかった。しかし、やっとの思いで真犯人にたどり着いて以来、カメさんに見守られていたように小鈴には思えた。カメさんの金歯も見慣れた。日に焼けた顔に刻まれた皺も、地道に証拠集めをする刑事の勲章に見えてきた。ワイシャツは奥さんがアイロンを掛けているらしく、所々に皺のスジが付いていた。

「先生。気をつけてください。どうも何か変だ」

「何かって、何?」と小鈴が言った。

「わかりません。先生、敵はいますか」と湯気を立てるコーヒーカップを前にして、カメさんが言った。

「いや、そりゃもう、いっぱい」と小鈴は嬉しそうに答えた。

「冗談抜きで」と、カメさんはまじめな顔で言った。冗談と思ったようだ。

「冗談抜きで、いっぱい」と言いながら、小さな山を両手で作って、小鈴は満足げに何回も頷いた。

 カメさんはあきれた顔をして、コーヒーを口に含んだが、小鈴の顔を見上げてから、納得した。

「そりゃまあ、いっぱいおるとでしょうね。その性格ではね」

「ええ、そりゃあもう」と、小鈴はまだ嬉しそうにしている。

「自慢にはならんとですよ。敵の数など」とカメさんがまじめそうに言った。

「でもその三倍は味方がいるから」と小鈴は目を細めていった。

「ほう、それは心強い。で、たとえば」とカメさんが警察官らしく具体性を求めた。

 改めてカメさんに言われて、小鈴は心強い味方を思い浮かべようとした。

 おや、おかしい、ちっとも浮かばない。全然浮かばない。踏ん張っても、出てこない。

 しかも、おっと、妙な顔が目の前を行き来するではないか。頭の毛の薄いヤクザとか、気の弱いノゾキ屋とか、ムダにイケメンの詐欺師とか。そのうえ、おっさんみたいなアカネちゃんだ。

 あー、情けないと思う気持ちが小鈴の顔に出た。

「まあ、誰が味方でもよかとです。ただ、気をつけんといけません」と言って、カメさんはあらたまったようにコーヒーカップをテーブルに置いた。

「で、何にどう気をつけたらいいんです。というよりまず、何がどう変なのか教えてくださいよ」と言って、小鈴もカップをテーブルに置いた。

 木製のテーブルにはムシが食ったような穴が空いていた。

「まず、先生のところの隣の奥さんがやられた、あの初っぱなの事件。確かだんなが先生の名前を出してタレこんだんだが」と、そこでカメさんが言葉を溜めた。

「だが、なんなんです」と小鈴が瞬きをしながら聞いた。

「どうも、誰かに言われたらしい」と低い声できっぱりとカメさんが言った。

「なんでわかるの?」

「先生がシロとなったときの慌てぶりだ」

「慌てぶり?」

「そう、何が何でも、先生を犯人に仕立て上げなきゃならんという、必死の様相だった」

「ふうん、それは自分が犯人だとわかってしまうからじゃないの?」

「いや、まるで誰かに命令されたかのような慌てくさりぶりだった。先生が犯人でなければ、何としてもいかん、というような。誰かに厳命されたような」と言ってカメさんが考え込むように首をかしげた。

「誰かって、誰」と小鈴は思い当たる節もなさそうに、目をぱちくりとした。

「それがわからんのんですよ。どう調べても、その誰かがわからん。調べも思いのほか上層部にいってしまい、もう我々の手には届かない。しかも次の事件でも先生の名前が挙がった、ホームレスの殺人だ。近所だというだけで。街ではそんじょそこらにあるような事件だった」

「ホームレス殺人のときは誰が私の名を」と言って、小鈴は気を取り直して白いコーヒーカップを手に取った。

「それもわかりません。担当の警部ホは着任早々でしたし。しかし、彼の口から先生の名前が出ました。どこからかのタレコミがあったと言っていましたが」と言って、カメさんはコーヒーから立つ湯気の向こうに見える目でじっと小鈴を見た。

「何でまた。私はそんなに有名人?」とコーヒーを一口飲んで小鈴が言った。

「さて、一体なんでなのでしょうかねえ、まったく、先生というお方は。どこにどんな敵がおるのでしょう。一つ目と二つ目の事件の関係もわかりません。先生のうちの近所というだけです。ただ一つ」と言って、カメさんがじっと小鈴の目を見た。

「ただ一つ、何なんです」と、カップを手にしたまま、小鈴が言った。

「そう、たぶん偶然なのでしょうが、奥さんを殺した隣のだんな、ソフトウェア開発会社の社長ですが、医療関係のソフトも扱っていたらしい。それが先生の業界との唯一のつながりといえます」といって、カメさんがカップを取り上げて、コーヒーを一口飲んだ。

「ふうん。医療関係ねえ。でも、あんなあやしいところのソフト、だれも使っていませんよ。信頼性の点から見て、論文作成には使えない。データ突っ込んだら何が出てくるかわからないし。ブラックボックスみたいなものだ」と小鈴がいぶかしげに言った。

「そう、そうですね、先生の判断は正しい。今度の事件では、どうです」と言ってカメさんが小鈴から視線を外した。

「こ、こ、今度の事件て、何なんです」と小鈴が目をむいて言った。

「信楽大學医学部講師殺しですよ」

「ああ、ミイちゃん殺し」と小鈴が言った。

「ミイちゃん?」と言って、カメさんが太いゲジゲジ眉毛を上げた。

「そう、ミイちゃんです。ウラジュクじゃあ、鳴らしたらしいですよ。ミイちゃん」といって、小鈴はカメさんのまねをして眉毛を上げた。

「ほう、そうですか。こりゃ、アカネちゃんもびっくりでしょうなあ」と言って、かなりびっくりしたカメさんが、目を向いたままコーヒーを飲んだ。

「ええ、もうびっくりして、ぎっくりして、大変」と、小鈴は身振り手振りをつけて説明した。

「そりゃそうでしょう。ごっつい男ですからなぁ、ミイちゃん」とカメさんが納得した。

「で、ミイちゃんと隣のだんなに関係があるとでも」と小鈴が言った。

「ミイちゃんのライバルと言われていた吉田准教授の親分すじ、つまり、洋光医科大學の名誉総長、確か、高司と言ったかな、それが、だんなの会社のソフトを買っていました」

「ふうん、そうなんですか。えっ、名誉総長?どこかで聞いたような。メイヨーソーチョー、メイヨソーチョー、メイヨソウチョウね。しかし、それにしても、なんか、遠い親戚が嫁に行った先の隣のうちに住んでいる有名人って感じですね。藤井ミイちゃんは信楽大だし、関係あるのかな」

「わかりません。しかし、今度も先生の名前が挙がりました」

「えっ、今度も?」

「そう。しかし、今度ばかりは近所じゃないのでしょっぴかれなかったというわけですが、アリバイだけはしっかりしておいてください」

「アリバイ、ですか」

「そう。いいですか?少しずつですが、近づいているんですよ」

「近づいている?」

「そう」

「何に?

「真相に、とでもいいますかな。同時に先生の近くにもです」

 カメさんは小鈴の目を見ずにコーヒーを飲み続けた。

 カメさんは何を思っているのだろう。

 何でこんなことを自分に言うのだろうと小鈴は思った。

 カメさんが口ごもった。

「あの件は、迷宮入りです」

 そう言ってから、カメさんがコーヒーを一口ごっくり飲み込んだ。

「あの件?迷宮?」と小鈴はきっとカメさんにとっては聞きたくないであろうその言葉を繰り返した。

「はい」と、コーヒーカップをテーブルに置きながら、カメさんが言った。

「なんで捕まらないんです。ホームレスの殺人事件ですよ。街の悪ガキか、チンピラの憂さバラしか、いずれにしても、カメさんがちょっと聞き込みすりゃあ、すぐ足のつきそうな話じゃありませんか」

「いや、まあ、そりゃ」とカメさんがまた口ごもった。

「一体どうしたって言うんです。ホームレスどころか、私達だって、あんな事件が多発する地域で安眠できないじゃないですか」と、小鈴はすっかり善良な一市民となって言った。

「はい。それが、あれは単なる傷害致死事件ではないのですよ」

「しかも単なる傷害事件じゃない?それで迷宮入りですか」と小鈴があきれたように目を見張って言った。

 それでもカメさんはきっぱりと言った。

「そうです」

 そんじょそこらにあるような事件のはずだった。なのに迷宮入りとは。しかも足で稼ぐベテランのカメさんの所轄で。

 唯一、あれから被害者が増えていないことが救いだった。

 一息置いて、カメさんが口を開いた。

「この次の異動で、私は所轄を変わります」

 しばしの沈黙が続いた。小鈴にとっては思ってもみないことだったのだ。

「かわっちゃうの。寂しいな。そうか。でも、栄転なら仕方ない」と心からがっかりして小鈴が言った。

「いや、栄転などではないですが、ここも長くなりましたからな。しがらみが出来るといけません」と言いながら、カメさんが初めて小鈴に柔和な眼差しを見せた。

「しがらみかあ」と言って小鈴は冷めたコーヒーを口に含んだ。

 小鈴もカメさんを縛るしがらみなのだろう。素性怪しい自分のために左遷でもされるのだろうかと小鈴は案じた。

「今度は山の手町というところで、いいところだそうです」

 小鈴の危惧を察してカメさんが穏やかに笑った。

「そう、高級住宅街ですね。カメさんには退屈かも」

「いや、もう年ですからな。何事もなく勤め上げろという、思いやりです」

「そうですか。でその異動っていつ?」と小鈴が聞いた。

「明日です」とカメさんが小鈴を見ながら言った。

「明日とはまた急な」と言いながら、小鈴が体全体を引いた。

「異動など、そんなものです」といってカメさんが遠くを見た。

 上品な高級住宅街でのおつとめは余生のようなもの。そんな余生を送りたかったら、この件からは手を引けという上層部の意向なのだろうか。そうなると、結構なプレッシャーなのかもしれない。

 小鈴に関わってしまったカメさんは、名残惜しそうに小鈴を見ている。こんな面倒に引き込んでしまったというのに。

 小鈴はカメさんの言葉をかみ締めた。

 敵はいないか?

 いっぱいいる。冗談抜きで。病院でも煙たがられている。しかも、自分でさえ思い出したくないことも一つや二つじゃない。もうどの恨みだかもわからない。小鈴を悩ませているのは。

 しかし、真相に近づいているとは、どういうことだろう。カメさんに注意されたにもかかわらず、小鈴はずぶずぶとその真相の周りにある泥沼に引き込まれていった。その奥底に真相があるはずだ。たどり着くまで、小鈴はあきらめるつもりはかけらもなかった。


 3 ホームレス連続殺人

 確か、三ヶ月ほど前だったろうか。そのホームレス殺人事件があったのは。

「小鈴、殺人事件だ。もう三件目」と塾から帰ったえりちゃんが息を切らせていった。

「そうねえ。このあたりも物騒ねえ。えりちゃん、学校の行き帰り、気をつけるのよ」と先に帰っていた小鈴が言った。

 この頃はえりちゃんの帰りも遅い。シブシブ塾通いだ。

「大丈夫だ。それにしても、一体なんだって言うんだろう」とえりちゃんがカバンを小鈴が座っているソファの上に放り投げていった。

「何が?」と、えりちゃんが投げた重いカバンの振動で上下しながら小鈴が言った。

「だって、やられたのはみんなホームレスなんだよ。前にも言ったよね。一人目は坂下公園で。二人目は川沿いの空き地。三人目は最近ガード下に住み着いたおっさん。友達のホームレス」と手を洗って居間に戻ったえりちゃんが言った。

「ちょっと、何でそんなに詳しいの。それにホームレスの友達って、どういうこと?」

「まあ、いいじゃあないか。単なる友達だよ。で、最初にね、聞いたんだよ、なにしてんのって。だって学校帰り、いつもガード下にいて、怪しいじゃないか。一応身元調査したんだ。そのおっさんは秋田から来て、怪我してから、仕事なくなったんだって。かわいそうじゃないか」とえりちゃんがソファに腰掛けてから言った。

「かわいそうと言ったって、怪しい人と口利いちゃいけないっていったでしょ」と、小鈴が隣に座ったえりちゃんの方に身体をむき直して言った。

「だって、怪しいかどうか、まず聞かないとわかんないだろう」とえりちゃんがカバンから昼の残りの菓子パンを出して、かじりながら言った。

「見てわからないの?食う、寝るところに住むところのない人が、今日び、怪しくない訳ないでしょう」と小鈴が強い語調で言った。

「人は見かけで判断しちゃだめでしょ。第一、小鈴が怪しいなんて、見かけじゃ誰もわからないけど、このあたり一帯の住宅じゃあ、一番怪しいよね。その交友関係とか」とえりちゃんは言ってパンをかじり続けた。

「うるさいねえ」

 小鈴はえりちゃんをにらみながら、頭の中で、自分の交友関係を一人ひとり洗ったが、百ベエもエンジェルも確かに怪しい奴らだ。おや、アカネちゃんの姿まで浮かんできた。そこらで転がっているホームレスに負けず劣らず、いや、確実にずっと怪しい。あれ?

 小鈴はあらためて自分の交友関係を思ってたじろいだ。

 察したえりちゃんが、ふふふ、と笑った。

 カメさんが小鈴にそっと教えた怪しい動きは、その事件に関係があるのだろうか。しかし、隣のだんなが売ったソフトを、洋光医科大學の名誉総長が買っていたからって、なんだというのだ。よくあることだ。そして、信楽大医学部の藤井講師、通称ミイちゃんというおっさんが殺されたとしても、小鈴が疑われるなど、ありえないはずだ。

 なのに、小鈴の名が取りざたされていると。


 4 ミイちゃんこと、藤井信楽大医学部講師

 だいたいごっついおやじがど派手な携帯を持ってることがへんだったんだ。それを指摘したからって、悪気があったわけじゃない。それよりあのとき洋光医科大學の吉田准教授が、あんなにずけずけ言うから。そうでなければ信楽大医学部の藤井講師が、いかついオヤジには似合わせないような、かわいらしいピンクの携帯を持っていたからといって、それほどの違和感は持たなかったんだ。

 洋光医科大學と信楽大學は、県内の二つの医科大学だった。県内私学医大の両雄と呼ばれていたが、元来、二つしかないのだ、県内には。

 それより確かに、今になって思えばあのときのやり取りで解せないのは洋光医科大學の吉田准教授の態度だった。これのだ、なんて言って、小指を立てて、あたかも藤井講師に愛人がいるかのように。

 しかも、本当のことではなかったのだ。

 そもそも、つい、目に見たことを口にしてしまうのが小鈴の悪いくせだ。余計なこというから、ややこしいことになったんだ。事の発端はあの准教授の吉田。洋光医科大學内科次期教授と目されてはいるものの、こないだの教授選でもそういわれていたっけか。万年次期教授候補、吉田准教授。

 そうは言っても、こんなえらい他大学の先生方と小鈴は基本的に出会うはずではなかった。気の弱い白滝教授は、小さな研究会に行くにもかばん持ちを必要とする。その日も、小鈴は一切合財が入っている白滝教授の重いかばんを持って、研究会が開かれるホテルにお供した。おかげで、高級ホテル特製、豪華三段重弁当をご相伴できたことも確かだ。小さな会議室で、小鈴は三段重弁当の高級黒ゴマ塩が振ってあるコシヒカリをほおばりながら、藤井講師がポケットから取り出した携帯を見てつい口走ってしまったのだ。

「あ、それ、女持ち、かわいい」

「なにかいけませんか、小鈴先生。ねえ、藤井先生。これのでしょ」

 そういって、小指を立てた吉田洋光医科大學准教授が隣に座っている信楽大學藤井講師のほうを意味ありげに見た。

 ふうん。そうなんだ。これのか。小鈴は自分の小指をみた。

 それにしてもそんなことをここで言ってしまっていいのだろうか。派手な世界だなあ。「これ」がいて、おそろいの携帯持って、しかも親友とはいえ一年しか違わない他大学の准教授吉田にそれを言われてしまう藤井講師。しかも小鈴のような小物に暴露。

 そう、これは暴露だ。いいのかなあ。週刊誌記者とか周りにいないのだろうか。小鈴は会議室の中を見回した。怪しそうな影はなかった。

 一方、そんな下世話な会話は白滝教授の耳には一切入らないようだった。研究会の段取り表に目を通すのに忙しいらしい。豪華三段弁当には見向きもせず、式次第にメモを細かく書き入れている。滞りなく司会をしなければならないのだから。


 殺されたごっついおやじさん、藤井講師は洋行医科大學万年次期教授候補である吉田准教授の親友であり、ライバルであったらしい。県内の山間寄りにある私学、信楽大學医学部講師だ。

(吉田万年次期教授候補ったら、親友が死んでさぞや気落ちしていることだろうと思ったが、お通夜じゃあ、なあんか、気もそぞろ、心ここにあらずって感じで、目なんか宙を浮いたり沈んだり。ライバルの死、か。しかし、一体なんだって言うんだ、あの態度は)

 小鈴でさえ、がっしりしたおやじ体型の藤井信楽大講師の死には少なからず驚いたし、しかもその急死には驚くだけではなく、何かしら、命のはかなさを感じたりもしたのだった。

(あんな元気なおやじさんも死んだりするんだ)


 久しぶりに訪ねたオカマバーで、アカネちゃんが小鈴に言った。

「ねえ、センセイ、知ってたあ?殺された信楽大學のお医者さん、あたしたちの仲間だったって」

 今日のピンクのワンピース、派手だけど、アカネちゃんに似合っていると小鈴は思った。とても似合っている。

 しかし、今、あたしたちって言った?仲間?仲間、って一体、なに?

「あたしたちってどういうことよ」

 小鈴はアカネちゃんの言っていることの意味が分からず、その小さな目を見つめた。アカネちゃんはさもありなんといった風に何度もうなずきながら上目遣いに小鈴見上げている。言葉にしないアカネちゃんの声が聞こえる。

 お・か・ま。

「えーっ、そ、そ、そんなばかな」

 小鈴は少々のことでは驚かない。ここのところいろいろなことがあったし、仕事柄も、修羅場には慣れている。

 はずだ…。

 藤井講師、急に死んじゃったばかりか、こともあろうにアカネちゃんのお仲間。

 そんなあ。

 腰をぬかさんばかりの小鈴を見て、アカネちゃんはうつむいた顔で、小鈴を上目遣いに見上げている。訂正はないようだ。

「だあって、だってだって、藤井講師には愛人がいたんだよ。若い子でさあ、携帯だっておソロだったし、女もんの白地にピンクの線がはいったやつで…」

「そう、白地にピンクね。かっわいい。私もピンク大好き」

 アカネちゃんがうつろな目のまま、小鈴を穴があくほど見つめて言った。

 その時小鈴は納得した。おソロでもなんでもない。あのごっつい藤井講師にはちっとも似合わない女物の携帯、いくら若い彼女とおそろでも、たとえきれいな愛人に甘い声で、持ってえ~、なんて言われても、持つはずがない。

 ありゃ、おそろじゃない。愛人の趣味でもなんでもなく、藤井講師本人のお好みだったんだ。 

 わあ。いろいろな人がいる。いろいろな男がいて、いろいろな女がいる。そしておかまだっていろいろだ。

 しかし、藤井講師のおかまだけは頂けない。あってはならないことだ。

「うっそおー」と、なおも小鈴はつぶやいた。

「そうよね。ちょっと、ごっついものね。あたしも、初めて聞いたときには驚いたわよぉ。でも、夜のウラジュクじゃあ、ちょっと知られていたみたいよ。世話になったねえさんが教えてくれたんだから確かよ」とアカネちゃんは水割りを作る手を休めずに言った。

「ねえさんって?ウラジュクって?」

「その筋のねえさん。ウラジュクっていうのはね、まず、そもそも、ジュクはジュクでも進学塾じゃないのよ。わあ、面白い、あたしったら。は、は、は、は。原宿でもないんだから、あれはいくら裏でも、うらはらっていうのよ、別に危なくないのね、危なくは。こっちのジュクは新宿よ。しかも夜の新宿二丁目の裏よお。ウラジュク。しかも夜のウラジュク。ウラジュクよ、ウラジュク。あやしいったらありゃしない。あはははは。でもね、本場じゃあ、あのぐらいえぐいのが受けるのよ。あやしいったらありゃしない」とアカネちゃんはさもいやそうに眉をひそめたが、なんだかうれしそうでもある。

 少々あやしくて少々えぐいアカネちゃんに、あやしいだのえぐいだのと言われる藤井講師はよっぽどあやしくてえぐいのだろう。

 覗き込んでいた暗い穴に引き込まれるような思いがして、背筋がぞっとした。

「じゃあ、そのスジかしらね、殺したのは」

「どうでしょうねえ」

「でもねえ、知ってる?ミイちゃん、て、藤井先生のことなんだけど」とシズカちゃんが自分の水割りを手にアカネちゃんの隣に座り、張り出した顎をさらに突き出していった。

 ショッキングピンクのドレスが顎に似合っている。何で太い眉毛を剃らないんだろう、と小鈴は常々思ってはいたが、その方が、顎が目立たないかも知れない。

 それにしても藤井講師が通称ミイちゃん。奴のどこをどう押したらミイちゃんがでてくるのだろう。

「み、み、ミイちゃんですか」と言って小鈴はしょっぱい顔になった。

「そうなのよ、名前の割にごっついわよね、顔が。あ、は、は、は、は」と、シズカちゃんと一緒にソファに陣取ったモモカちゃんがのけぞって大笑いした。シズカちゃんのショッキングピンクはきれいな色だ。モモカちゃんは胸元の開いた真っ赤なドレス。

 なかなかおしゃれだと感じた小鈴は、我ながらはっとした。

 まずい。基準がずれ始めている、しかも、だいぶ。

「そう、ごっついわりに名前がねえ、ミイちゃんですか」

 小鈴はすっかり着替えて夜の顔になった藤井講師が、はーい、ミイちゃんでーす、なんていいながら夜のウラジュクを闊歩する姿を思い浮かべた。わあ、チョーえぐいかも。小鈴は口直しにアカネちゃんの作った水割りを飲み干した。

「まあ、センセー、いい飲みっぷり」

 周りにいたおねーさんたちが手を叩いて喜んだ。何のことはない、アカネちゃんは小鈴が下戸であることを知っていて、ウーロン茶の水割りを作ってくれているのだ。またトイレが近くなる。

「それでね、センセイ、ミイちゃんをやっちまったのは、女で、女にはこれがいたって」そういってシズカちゃんが節の目立つ小指をたてた。

「ふうん。で、そいつぁあ、どっちなんだい」と店の端に座っていた百ベエが濃い色の水割りをすすりながら、口を出した。

「男だって噂よ。正真正銘の」

「ふうん、正真正銘の男ね」と小鈴は繰り返して、アカネちゃんの作った二杯目を百ベエのようにすすった。

 正真正銘っていうと、偽物の男ってのもいるのか。

「でね、その男と、ミイちゃんが次の教授選を狙ってライバルだったんですって」

「へえ、ライバルね。ラ、ラ、ライバル?ていうと、吉田准教授?しかも、ミイちゃんをやっちまった女って、うちの新入医局員かなあ。洋光医科大から移ってきたばっかりの女医。あ~、もう、何が何だかね」と言って、小鈴が短い髪をばさばさと掻きむしった。

「うわさよ、うわさ、あくまでも。ウラジュクのね」と、シズカちゃんがことを収めようとして言った。

 薄茶の水割り色のウーロン茶をすすりながら小鈴は考えた。確かに同じ県内にある大学病院として、次の教授選には少々興味があるが、所詮、私学だから、いろんな都合で決まっていくのだろう。大御所も控えていて、ああでもない、こうでもないとご助言あそばすのだろうし。

 しかし、アカネちゃんの「ウラジュクのうわさ」には妙な信憑性があるような気がした。いや、ウラ筋は少々怪しいが、実は最も確かなのかもしれない。

 女が藤井講師をやった。藤井講師は教授選を巡って殺されたとすれば、ライバルの吉田准教授は怪しい。となると、吉田の「コレ」が藤井講師を殺した。吉田の「コレ」は、そりゃ、吉田の紹介で小鈴の医局にねじ込まれるように入ってきた紅子か?


 5 白滝教授、受難

 殺人事件も、近所から、近隣の医科大學へと遠ざかりつつあって、警察からお呼びがかかることもなく、小鈴の職場では日常が再びすべて平凡に回り始めていた。

 そんなときだった。白滝教授がせっかく任命してもらった学生教育係長を初めとした学内の役職を一気に全部解くという命令を、本俵理事長から受けたのだった。これは大事件だった。

 先々代の理事長の暴挙から憂き目に遭っていた小鈴を救った先代の三上理事長が短期間で大学の中の諍いを仲裁し、小鈴の立場を復権する手伝いをして勇退した。

 しかし再び、素性アヤシイ理事長本俵が、大学を取り仕切ろうとしていたのだ。学長が医学部長を殺害するという前代未聞の事件を起こしたので、学事を仕切る学長の力は弱まり、経営を生業とするだけのはずの理事長は様々な権力を手にすべく、まずは見せしめに、白滝教授の役職解任を宣言してみたのだった。医学部教授連にとっては、先々代理事長時代を目指して逆行していこうとする、再びの暗黒時代だった。

 その暗黒の総元締め本俵が曰く、白滝が出席した、とある食事会が反理事長派の集会だったというのだ。その頭目が白滝教授だと。

 まさか。あの気の小さい白滝教授にそんなだいそれたことができるわけがないじゃないか。わからんのんか、そんな簡単なことも、理事長の本俵。

 滝教授は超温厚、別のいい方をすると単なる臆病者なだけなのだが、と小鈴は思った。

 確かに小鈴も白滝も、本俵がいなくなってしまえばいいのにと思ったことは一度や二度ではなかったが、転覆を謀るほどの気力はなかった。まして、温厚な白滝が、食事会を催して反本俵の策謀を巡らすなんて、あるはずもなかった。そりゃちょっと、白滝教授室で本俵の悪口を言ったりしたこともあったが、何でそれが漏れるのか、こともあろうに本俵に耳に入るのか、小鈴には納得できなかった。たぶん、白滝の部屋が本俵によって盗聴されているのだろう。もう白滝教授室ではめったなことは口にできない。

 白滝教授は本俵理事長に呼び出されて、数時間もの間、陰気くさい理事長室に引きずり込まれ、ただただ難癖をつけられるという災難にあったらしい。一人前に警察の真似なんかして、事情聴取という名前だそうだ。本物の事情聴取っていうものがどんなか、知っててそんなことを言ってんだろうかと、小鈴は腹を立てた。

 こうなったら、その事情聴取とやらを白滝に再現させて、一体本当にはどんなものだったのか、奴らが何を狙い、何を恐れているのか、探るしかない、と小鈴は思った。

 老年期疾患専門内科教授の白滝は医局の奥の小部屋に放り込んだあったスプリングの悪い粗末なソファに座り込み、小鈴の前で白髪の頭を抱えていた。今度は小鈴が白滝教授を医局の先にある奥まった小部屋に閉じ込め、締め上げていたのだ。部屋とは名ばかり、使わなくなった機材や椅子、おんぼろソファを仕舞い込む物置だった。白滝教授は本俵からの糾弾を逃れ、ほっとしたのもつかの間、熱いフライパンからはじけ落ちた豆のように、さらに勢いのいい炎の中にポロッと落ちたことを知るのだった。目の前には小鈴が陣取っているではないか。本俵が小鈴に入れ替わっただけだ。こうなったらどっちがましなのかすら、白滝にはわからなかった。

 小鈴は鋭い眼光をさらに鋭くして白滝を睨みつけているではないか。小鈴は件の食事会についてしつっこく難癖をつける本俵理事長の事情聴取を細大漏らさず再現させ、何が本当の問題なのか見極めようとしていた。

 先代黒石教授に寒い地方から引っ張られて着任した白滝教授だったが、悪辣な本俵理事長に絞られた挙げ句に、今度は医局員の小鈴に締め上げられ、これなら、いっそ、以前いた寒いところの教授のままの方がよかったかも知れない、と本気で思った。ここは少々平均気温が高いだけだ。雪が滅多に降らず、氷に閉ざされることもないが、本俵のように難癖をつける理事長がいるなんて、聞いていなかった。

「うーん、うーん」

 白滝教授が綿帽子を被ったように白くなった頭を抱えて唸っていた。

 寒いところにいたときには髪は黒かったのだ。今や白髪で真っ白だ。雪も降らないこの地で、頭に雪が積もったように見える。教授連中の間では綿雪帽子と言われているらしい。

「うーん、じゃなくて、早く思い出してくださいよ。本俵理事長が白滝教授を追い込む理由がわかるかも知れないんですから」

 小鈴は手綱を緩めたりしなかった。

 つい一週間前だ。いくら方針が合わないからといって、教授の学内での役職を全部そろって解く、つまり、学内中で最も身分の低い、ヒラの教授にするというような前代未聞の処分が下った。そんな処遇はいまだかつて誰も聞いたことがなかった。どの教授も何かしらの役目を大学内で負っている。最低でも郵便係とか。検食係は毎日色々な病院食を食べられるのでかなり位が上だった。

 そのうえ、処分、処分と言いながら、お粗末な通告書がいきなり教授会で発表されるばかりで、一体それが何に対する処分なのか、白滝教授どころか、全教授とも、ちっともわからないのだ。

 それでも本俵理事長の仰せとあらば、とばかりに、一人として反駁する教授はいなかったのだ。

 教授達は再び自分で考えることをやめてしまっていた。白滝教授の介助のために教授会に参加していた小鈴は思わず立ち上がって言った。

「教授方、これでいいのですか?説明も何もなく、証拠すらない状態で、処分とは。しかも、何に対する処分なのか、ひとかけらの説明もない。何にもわからないではないですか。一体全体、みなさん、本当にこれでいいんですか?こんなことを許すんですか?いくら理事長の命令だからと言って、こんな暴挙を許すなんて、恥ずかしくないんですか」

 教授会のあと、何も言わずにロボットのように教授会室から去って行く教授連の背中を見ながら小鈴は思った。何を言っても空虚に響く。彼らは魂を失ったのだ。

 しかし、解任の根拠は何なのだろう。ほかの教授に聞いてもちっともわからないだろう。

 まさか一年以上も前に、白滝教授が大学当局の意向に逆らって学生の亮介を助けたこと?そんなことを根に持って今更。

 どっちにしろ、もう、教授会などあてにならない。窮地に陥った仲間を助ける気力も失っている。

 自分がやるしかないのだ、と小鈴は思った。

 白滝教授は頭を抱えてうなっていた。

「はい、はい、うーん、うーん」

「はい、はい、って、返事はいいんだから。うーんじゃなくて。トイレじゃないんですよ。ここでうーん、うーんと踏ん張られても」

 こことは、だ医局奥の物置部屋。細長くて狭苦しい。小さなおんぼろソファが置いてあるが、クッションは不良だ。白滝教授室は本俵理事長によって盗聴されているし。

「わかってますよ、わかって。でも、いやなんですよ」

「なにが」

「いやなことを思い出すのが」

「いやなこと?」

「そうですよ。小鈴先生だって、楽しいことは何度も思い出すでしょうが、いやなことは忘れたいでしょう。失恋とか。」

「失恋なんて、私はしたことありませんよ」

「そうですか。失恋もないというと、嫌なことはないんですね、人生かけらも。あってもぜーんぶ忘れちゃうんでしょうね、きっと。ぜーんぶ、なかったことに。いいですね、小鈴先生は。のー天気で」

「のー天気はないでしょう、のー天気は。そりゃありますよ、いやなことぐらい。たとえば、こんなこと」といって、小鈴は狭い小部屋に白滝教授と二人、缶詰め状態になっていることを、両手を広げて示した。

「そうでしょう?だからわたしもイヤなんですっ」と言って、白滝教授は口をとがらせてぷいと横を向いた。

「そんなこと言ってないで。はやく。先生はおつむがいいんでしょう?なんと言っても、あの我が邦随一の帝国大学をお出になっているんですから」と、小鈴が今度は褒め殺し作戦に打って出た。

「そんなこと言ったって、帝国大学卒にも、ピンからキリまでいるんですよーだ」と言いながら白滝教授が鼻根に皺を寄せた。

「いや、同級生の中でも、先生は、忘れられない人だったとか。とくにくだらないこととか、いやなことに限って、仔細に覚えていると。まるで写真機とレコーダーのように。講義に出なかった人たちはたいそう便利をしたそうじゃあありませんか」と小鈴が言うと、

「人を盗聴器のように言わないでくださいよ。それに写真機とはなんですか、写真機とは、カメラと言ったらどうですか。古臭いですね」と言って、白滝教授が鼻を上に向けた。

「余計なお世話です」と言って、今度は小鈴が顔を横に向けた。

「あ、そうだ、画像と音声と言えば、ビデオと言ったらどうですか、今日び、ビデオと」と白滝教授がたたみかけた。

「じゃあ、ビデオ。そう、だから、先生を重要な会議に出すのは、帝国大学時代、みんながいやがったそうじゃないですか。あのとき、あそこで、そのタイミングであの人が、こう言ったと、しかも廊下でぶつぶつ再生して歩くと有名だったとか」と小鈴が昔話を始めた。

「いや、まあ。廊下を歩く時、なんか、退屈で」と、白滝が昔を思い出すように床を眺めながら言った。

「しかも、声色つきで。まるで人を喰ったように再現するから、みんなに嫌われたんです。で、帝国大学の医局から放逐されるように、医局からは北端に当たる寒い医学部に追いやられた。教授就任と言っても、それは、栄転というよりは、左遷、ところ払いの島流し。そう言った方が適切な人事だった、と当時の医局長であった三沢先生がおっしゃってました。黒石教授の引きがあってやっとこの暖かい地にある本学にいらしたんです」と小鈴が結んだ。

「ふんだ。ほっといてください。三沢め、左遷に、ところ払いの島流しだって?試験前には欠席した講義を再生して世話をしてやったというのに。こんなことなら、温かいだけのこの大学より、前の方がずうっとよかった」と言いながら、白滝教授がふてくされて横を向いた。

「大昔の講義のことなんかいいから、はやく、はやく。本俵理事長に呼び出されて、一体どんなことを聞かれたのです。再生してくだされば、私が打ち込みます。まったく、歩くボイスレコーダーなんでしょ、先生は。例の食事会のことを聞かれたんですか。私もいましたが、大した食事会じゃなかったじゃないですか。いったい、本俵理事長はなんといって教授を責め立てたんです。早く思い出してください」

「はい、はい」


 こうして明らかになったことは、本当に大したことない食事会が最後には「本俵理事長を失脚させる会で、企てを白滝教授が首謀している」に仕立て上げられているというものだった。

 そうだったのだろう、きっとそうだった、いやそうだったに違いない、と本俵理事長が六時間にわたって繰り返し、繰り返し畳み掛けるのだ。それを、白滝教授がいや違います、いや違いますと、ただ否定するばかりだった。しかも食事会を再現始めた白滝教授は、本俵理事長にも食事会で出たメニューについてまで事細かに再現して、しかもその味についての解説を加えるので、メニュー解説だけでも合計で三時間はかかってしまった。実は本俵自身、辟易していたかもしれないと、小鈴は思った。

 一方白滝教授は小鈴を相手に、聞きしに勝るレコーダー機能をもって、本俵理事長の理不尽な質問攻めを再現したのだった。

 本俵理事長はただの食事会を、理事長失脚を謀る重要な会議とでっち上げ、あるいは本当に勘違いして、白滝教授に学内の役職退任を迫ったのだ。


 6 本俵、裏庭で死す

 小鈴の職場では日常が再びすべて平凡に回り始めていた。

 はずだった。少なくとも、身の回りで起こる殺人事件とはしばらく縁がなかったのに。

「なんてこった。また殺人だ」

 小鈴は短い前髪を振り払うようにかき上げた。自分の部屋のデスクの前でぼんやりと窓の外を眺める小鈴の脳裏には、裏庭で倒れている本俵の姿が浮かび上がり、その姿は振り払おうとすればするほど、徐々に鮮明になっていった。殺人現場に居合わせたのは初めてのことではなかったが、慣れるとまではいかなかった。となりの奥さんが殺されたときも、小鈴は病院で仕事をしていた。ホームレスが三人も立て続けに殺されたときも、小鈴は仕事をしていたのだし。

 縞河医学部長が殺されたときには、死体の第一発見者になったっけ。

 今度も確かに、病院で仕事をしていたのだが、そのついでに見つけてしまったのが、本俵理事長の死体だった。

 裏庭を通りかかった際に見つけた小鈴を恨むように目を向く本俵理事長の他殺体。よりによって、目が小鈴の方を向いていたのだ。いわゆる苦悶様顔貌だ。苦悶様というよりは苦悶そのものだった。口に何かくわえていた。なんだったんだろう。

 いろいろなものが近づいてきている。小鈴はカメさんの言葉を思い出した。

 また小鈴はしょっ引かれるのか。

 小鈴はオブザーバーとは名ばかり、白滝の介護、いや、介助、いやいや、介添え役として出席していた教授会で、白滝を解任する案件について、激しく本俵を追求、糾弾したのだ。教授の誰もが知っている。挙げ句に大学の裏庭で殺された本俵だ。真っ先に小鈴が疑われるだろう。白滝の役職総解任の決定はしたものの、手続きをする前に、本俵は裏庭で死んでしまった。その案件を引き継ぐ者はいなくなり、白滝教授が役職を解任されることもなくなった。

 小鈴は自宅二階にある自室のソファに体を投げ出すように座った。広く開いた窓からは、ライトアップされたマリンタワーがおもちゃのように赤く光っている。港の明かりもまだにぎわしい。疲れた目に夜景が滲んだ。視力が落ちたのだろうか。小鈴はしみる目を閉じた。

 グレーのスーツは椅子に掛けたまま。しまう気もしない。わきあがるなぞに、小鈴の眉間にはしわがよっていた。

 エンジェルはどうしているだろう。小鈴がこんな顔をするたびに、指で眉間を伸ばすのがエンジェルの仕事だった。

 亮介の言ったとおり、アメリカ行きなんか止めるべきだったのだろうか。

 しかし、まさか、またこんな事件が起こるとは思ってもみなかったのだ。

 この気分を払しょくすることができないなら、いっそ少しずつでも解きほぐそうとした。

 本俵の死の直前、医局はどうであったか。確かに決して、平穏ではなかった。

 小鈴は順を追って思い出そうとした。

 今年に入って起きたこと。

 三月、医局は白滝教授に役職総解任という本俵理事長からの暴挙、その少し前には洋光医科大學准教授対信楽大學医学部講師の教授選の前哨戦的勢力争いの図式のもと、信楽大學医学部講師のミイちゃんの方が自分の講師室で死んだ。たぶん殺されたのだろうと誰もが思っていた。犯人捕まらず。

 そう、四月には吉田洋光医科大学准教授からの紹介で信楽医科大から迫田紅子が途中入局したっけ。しかもアカネちゃん情報ではもし藤井ミイちゃん講師殺しが痴情のもつれなら、吉田准教授と妙に仲のいい紅子は、藤井ミイちゃん殺しの犯人かも知れないのだ。

 おまけにこの迫田紅子、実は虚言癖で盗癖もある。医局秘書が言うには、紅子の通ったあとには医局の糊、はさみのたぐいで共用のものはすべてなくなるのだそうだ。ぺんぺん草も生えないと秘書は言っていた。

 おかげで医局は更に混沌。

 五月、紅子の治療のおかげで患者の増井さんに起こった薬の副作用。それを放置、危篤に至らしめたのも紅子。出身大学の洋光医科大吉田講師の薦める治療法に則ったそうだった。

 ちょうど催された合同研究会で小鈴達はそれをプレゼンした。吉田主席講師の所属する洋光医科大學と小鈴達の大学病院との中間地点の駅近くの会議室で毎年行われるカンファランス。

 吉田講師が主催すると、どこから金がわくのか不明だが、駅近くのホテルの一室を借り切り、しかも懇親会はちょっとしたパーティーなみだった。一年おきに白滝が主催すると、症例カンファランスは会場費の安い地味な会議室で行われ、五百円のお弁当が自費となる。その質素なのり弁当を食べながら、小鈴は吉田講師が薦める免疫抑制療レシピを使用して副作用の貧血を起こしている増井さんの症例を提示した。

 その症例に対する吉田自身の説明を求めたのだった。

「吉田先生、迫田先生をご紹介頂き、ありがたいことです。医師不足の今日この頃です」とまずは、司会の白滝がありがたがって言った。

 本当にありがたいんだか何だか。歩いたあとにぺんぺん草も残さない、嘘つきで泥棒の紅子を紹介されて、喜ぶのは人のいい白滝ぐらいだ。

 吉田洋光医科大學准教授の紹介で白滝老年期専門内科に途中入局した迫田紅子の治療方針は独特で、学会の治療ガイドラインには載っていない、聞いたこともないような薬を使って治療するというのだ。

「いいかげん、その効くんだか効かないんだかわからない薬をやめたらどうなんです」

 しびれを切らした小鈴がそのカンファランスで言ったのは、免疫異常が原因である疾患に、一応は免疫抑制効果があると言われるササ・エー、さらにはササ・ビーを使い続ける迫田紅子の方針にストップをかけたかったからだった。ササ・エーは古臭い薬だ。あんまり効かないということで、見捨てられていた。ササ・ビーは、国内では名前を聞いたこともない新薬だ。

「副作用も出ていませんし、私の母校ではササ・エーを使うのが常套手段でした。効かない場合は速やかにササ・ビーに切り替えます。ねえ、吉田准教授」と、迫田紅子が円卓を囲んで正面に座っている吉田准教授に言った。

「いや、そうではなく、一般的な治療法にしたらどうなんだということです。ガイドラインにもあるとおり」と相田医局長も口を挟んだ。

「主治医は私ですから」と言って、迫田紅子がぷいと横を向いた。

 迫田紅子は院内の症例検討会で指摘されたにもかかわらず、母校である洋光医科大學では標準治療だと言い張って、ササ・エーからササ・ビーに切り替えるという治療レシピーを継続したのだった。

 挙げ句が患者の貧血の進行だった。

「免疫抑制剤にはよくある副作用です。主作用とも言えます。免疫細胞を抑制するのですから、白血球とともに赤血球も減るのです」と言い切る迫田紅子に、さすがの白滝教授も言葉をなくした。

 迫田紅子の勢いを止めるには吉田准教授を呼ぶしかないと相田医局長が考え、奇しくも直近に予定されていた大学病院合同のカンファランスを利用したのだった。恩ある吉田准教授が言えば、迫田紅子もさすがに考えを変えるだろう。

 吉田准教授が答えた。

「そうですね、データから見ますと、またずいぶんと貧血も進みましたね。このあたりでササ・ビーも撤収しないとなりませんね。なぜ貧血が強い患者と、それほどでもなく、免疫を調整できる患者がいるのか、それは我が洋光医科大學老年期専門内科のメインテーマでもあります。先代の高司教授、高司名誉総長のライフワークとも言えます」と吉田准教授が説明すると、ぎりぎりまで貧血をあおっておきながら放置した迫田紅子はさておき、会場からは「ほー」と言う声が聞こえた。

「いずれにしても、中止して経過を見ると言うことですね」と相田医局長がまとめた。

 薬を中止したおかげで危篤だった患者の増井さんはひどい貧血を脱して、救命された。

 一方の紅子は、恥ずかしげもなく前言を翻して吉田准教授に言った。

「先生がおっしゃるなら、その通りですわ。ほんと、貧血が強い患者とそうでない患者との違いについて、私も考察させていただきたいと思っていたところなんですよ。この症例のデータからそれを考察させていただきたいと思います。また、いい論文が書けますわ」と言って紅子が高笑いをした。

 相田医局長が驚いて言った。

「論文とはなんだ、論文とは、こんな時に。それに、症例ではなく、患者さんだぞ」


 小鈴はそんなやり取りを漠然と思い出して独り言を言った。

「ひどい治療だったな。しかし助かってよかった」

 なぜそんなことを思い出すのかわからなかった。本俵と紅子に特段の接点があるわけではなかった。

 いくら殺したいくらい悪いやつでも、殺したりはしない。

 なのに、本俵は病院の裏庭で死んでいた。

 自殺という結論はいささか、いただけなかったが、いつも犯人としてしょっ引かれる小鈴が今回は容疑者でないという事実はありがたかった。それにしても、自殺だからではなく、死んだ時間帯が小鈴の外来時間であったというアリバイが、しょっ引かれない理由だった。見つけたのは小鈴だったが、それは単に、裏庭は医局から外来まで行く道筋の、近道に過ぎない。


 7 六月、吉田が死んだ

 なぜ。しかもあんなところで。小鈴達の大学病院、今度は中庭だ。

 洋光医科大学の准教授がよりによって、なんで小鈴のいる病院中庭で絶命するのだ。そりゃあ、知り合いの紅子に呼び出されたからではないか。こんな簡単なこと、なんで警察は思いつかないのだろう。

 実験室にあった薬物を吉田が飲んだというのだが、小鈴は半信半疑で、警察に、実験室にある残りと、吉田の体内から検出される薬物とを照らし合わせないと、と申し出てみたところ、そんなことはもうやっているとのことだった。鼻をうごめかしながら、担当の山田刑事が言った。

 で、一致したのかというと、なんと、しなかったのだ。

 なのにまた小鈴は警察に呼ばれた。小鈴としてはすっかり馴染んだ小部屋だった。広い部屋ではまた会議でも催されているのだろう。こんな小さな警察署、広かろうが狭かろうが、延べ床面積に大した違いはないのかもしれないし。

 しかし、もうそこにカメさんはいなかった。

 山田刑事が小鈴に言った。

「吉田医師の体内から出た薬はお宅の実験室にはないものでした」

「な、な、なんですとぉー?」と小鈴はびっくりして叫んだ。

「いや、ほんと。しかも、毒物と言っても、滅多に見かけないもので」と山田が人ごとのように言った。

「で、なんで自殺なんです?」

「しょうがないから、自殺の線は引っ込めました。他殺の線、浮上です。ところで先生は何をしていましたっけか、その時間」と、山田刑事が舐めるような視線でじろじろと小鈴を見た。

「だから、外来だって。何度も言ったでしょう」

「そうですか。まあ、薬を仕込んでおくこともできますからね、時間差付けて。先生ならそのくらいのことできるでしょう、怪しいカプセルに仕込むとか」

「なにいってんの?私がそんなことするわけないでしょう」

「だって、仲悪かったんでしょう?」

「仲悪いやつ殺してたら、死体だらけだよ、この辺り一帯」

「そうでしょうな、なんと言っても、闘犬だそうですからな、前署長の申し送りによりますと」

「変な申し送りしないで欲しいな、もう。しかし、なんでこう、いつもいつも、私が犯人扱いされるんです?」

「それはですね、そういう匿名のたれ込みがいつも、いつもあるからですよ。先生のそのむこうっ気の強さが幸い、じゃなかった、災いしているんじゃあないでしょうかね」

「たれ込み?一体誰から」

「さあ、それはわかりません。匿名のたれ込みですから」

「まあ、そりゃそうだ。しかし、そっちの方がよっぽど怪しいじゃあありませんか、匿名だなんて。自分の名前を名乗れないようなやつはろくなもんじゃありませんよ。それにですよ、実験室にない薬なんだから、私が仕込んだりできませんよ、ふつーに考えて」

「だから、どこから手に入れたんです?」

「何言ってんの?その言いかたじゃあ、私が犯人であるという前提じゃあありませんか」

「まあ、怪しいなと」と言いながら、山田刑事が小さな目をぱちくりとした。

「失礼な。しかし、一体、何の薬なんです」

「それは捜査上の秘密です」と、刑事の山田が言った。

「ばかばかしい。ほか当たりなさいよ」といいながら、小鈴は上着のついてもいないほこりを払って、馴染みの小部屋、取調室から出たのだった。

 迫田紅子が洋光医科大の吉田准教授とできていた。本当に?しかも、吉田が次期洋光医科大學教授職を狙っていたため、ライバルの藤井が殺された?巷の噂じゃあ、そうなっている。通称ミイちゃん、つまり藤井講師を殺したのは実は迫田紅子だったというのだ。

 吉田講師、まさに自殺のように見える死に方だったようだ。しかし他殺。

 よりにもよって、小鈴のいる大学の中庭で不審の死。迫田紅子が?

 しかし、こんなうまい話があるのだろうか。迫田紅子は吉田の紹介で我が大学病院の白滝内科に来たのだ。実際、仲良しとまでは行かないまでも、確かに、悪くない関係があったはずだ。

 でも、巷で吉田が洋光医科大學の教授選に出るなんて話、実際にはなかったし。

 それに迫田が洋光医科大の吉田准教授とできていたなんて話も、実は聞いたことがなかった。ただの先輩後輩、紹介したり、されたりして利害を共有する。それに紅子は吉田のためにミイちゃんを殺したりするようなしおらしい女でもない。何しろ、紅子が歩いた後はぺんぺん草も生えないのだから。今や小鈴の医局はイナゴの大群に襲われた畑ともいえる。

 何もかもが納得できない展開だった。

 あ~、もやもやする。何にもはっきり見えない、と小鈴は思って、駅までの道々、短い髪の毛をばさばさと手で掻いた。


 それは本当にしばらくぶりの再会だった。大手製薬会社本社の内勤だった池谷が時間を作って、大学病院本院にいる小鈴を訪ねてきたのだった。

「小鈴せんせー、会いたかったあー。何年ぶりだろうー」

「こないだ会ったばかりじゃないか。事件というと来るんだから」

「こないだ会ったって、そうでしたっけ。それにしてもまた事件ですか?」

「うん」

「何かお手伝いすることはありませんか?」と池谷が言った。

 次々に起こる殺人事件に、誰がどこでどのように死んだのかさえ、間違えそうなこのごろだった。

「うん、特には。でも、池谷さん、こんなところでこんなことしてていいの?」と小鈴が気もそぞろに答えた。

「いいんですよ、こんなところでこんなこと。小鈴先生のためなら。ところで、死因は何なんです、みなさん」

「みなさん、ね。確かに次から次へと、よく死ぬわ。心不全とか、そんな原因。外傷もなく。ただ、薬物って感じじゃないんだよね」

「薬じゃないとすると?」

「外傷なし、薬じゃないとなると、何だろう」

「薬じゃなければ、毒でしょう」と池谷が言った。

「あ、毒ね。そりゃそうだ、そっか、だったら摩耶子伯母様にき訊いてみよう」と小鈴が呟いた。

「なに、だれ?」と、池谷が聞いたが、小鈴はごまかした。

「いや、なんでも」

「そうなの?でも、今、摩耶子とか伯母様とか」

「ええ、まあ、そんなところ。鎌倉の奥地に住んでいる伯母のこと」

「へー、鎌倉の奥地、行ってみたいな」と池谷が言うと、小鈴の顔から血の気が引いた。

「むり、むり、むり」

「なんで」

「そりゃもう、そんな危険な目にあなたを合わせられないわ。池谷さん、せっかく本社でエリートコース驀進中なのに」

「いや、それほどでも。でも、それなら、ましてやそんな危険なところ、小鈴先生一人で行かせるわけにはいかないなあ」と池谷が言った。

「いや、一人の方がよっぽど安全。身の処し方をわかっているからね」と慌てて小鈴が言った。

「身の処し方?伯母さんのうちって、そんなのが必要なの?」と言う池谷の声が裏返った。

「そう、慣れていないとすごいことになるのよ」と小鈴は声に力を込めていった。

「すごいって?」と池谷がこわごわ聞いた。

「すごい、下痢」と小鈴がきっぱり言うと、

「げ、下痢?」と繰り返して、池谷が目をむいた。

「そ、そう、すごい下痢」と池谷に負けないくらいに目をむいて小鈴が答えた。

「やー、それじゃあ、やめておこう。おなか弱いし」と言って、池谷が眼差しを落とした。

 本社に転勤する前、鎌倉は池谷の守備範囲だったし、小鈴の伯母も医者だろうから、きっといい顧客かもしれない。しかし、そこまで言われたら、池谷もあきらめるしかなかった。

「そうね、それがいい」と、一方の小鈴は安堵していった。

 おなかが弱いなんぞと摩耶子伯母に言おうものなら、向こう三年は便秘するような煎じ薬を飲まされることだろうよ。

「で、なんで、その鎌倉の奥地に行くんです?」

「あの死に方がなんかね、確かに、何か盛られたような感じで」

「盛られたって言うと、やっぱり薬殺じゃないの?毒ったって、そう簡単に毒は手に入らないんじゃなかな、一般人には」

「どうかな」

「薬?副作用狙い?」

「いや、西洋薬ではないような」

「っていうと、漢方?漢方専門の社の営業、呼びましょうか?」

「いや、漢方でも」

「薬殺でしょう?他に何?」

「毒草とか」

「毒草かあ。ずいぶん古典的ですね。でなんで伯母さんのところへ?」

「その辺に少々、詳しいのよ、うちの伯母」

「そうなの」と池谷がいぶかしげに言ったが、それ以上は詮索しなかった。


 8 摩耶子伯母さんの毒草園

 小鈴自身、しばらく尋ねていない摩耶子伯母の家に行くのは若干気が進まなかった。喜んではくれるだろう。しかし、伯母の喜び方は一通り二通りではないのだ。

 山盛りのごちそうをしてくれるだろう。珍しいもの、高価なもの、なかなか手に入らないもの。手に入らないどころか、口にも入らないようなもの。そう、気をつけないと。庭で収穫された得体の知れない草をぐつぐつ煮たり茹でたりして、あく抜きして食卓に並べるのだ。素材は十二分なあく抜きが必要な収穫物だし。昔は少々の慣れも生じて、何とかなったが、ここしばらくは行っていない。免疫も消えてしまったんじゃあないだろうか。

 摩耶子伯母は小鈴の父の姉で、曾祖父の代から鎌倉の奥地に住んでいる。敷地が広大で、境界線が山の中に入ってしまうので結局、端がどこまでだかよくわからないうっそうとした庭が続いている。

 よく言えば広い庭園付きの、お城のような家に住んでいた。石造りだし。

 摩耶子伯母は結婚していたが、子どもはいなかった。

 摩耶子伯母の夫は医者で研究者だった。なんか、解剖学とかお堅いことをしている人で、まじめな上に大人しかった。でも、胃腸は頑丈なのだろう。長年、摩耶子伯母の作ったものを食べているのだから。痩せてもおらず、かといって太ってもおらず、至極健康体に見えた。

 ただ、なんで、いつも黒い長マントを肩に掛けているのか不明だった。

 小鈴の父も兄も、自分たちのことをへりくだったように「一介の臨床医」と呼ぶ意味が、伯母達を見ているとよくわかった。医学者というのはこんな風でなければならないのだ。まじめで、物静かで、丈夫で忍耐強く、黒い長マントを羽織っている。

 伯母は暗い色のワンピースをいつも着ていた。本人は赤いドレスと言っているが、小鈴には赤くは見えなかった。まあ、確かに他の何色と表現するのも気が引けるのだが。強いて言えば、カーテンについて久しく、すっかりひからびた血のような色だ。

「あら、あなたが黒いドレスじゃあ、お葬式みたいだって言うから替えたのよ。ワインレッドに」

「ワ、ワイン、レッド、ですか、それが」

「そうよ、ボルドーのいいあんばいに古くなったワインよ。あなたなんかどうせ、うすら赤いボジョレーかなんかをヌーボー、ヌーボーって言ってありがたがって飲んでいるんでしょうけど」と言って摩耶子伯母が鼻を上に向けた。

「ええ、まあ、ボジョレーと言えばヌーボー、解禁が待ち遠しい」

「ボルドー地方の方が濃くて深いのよ、香りも味も」と、声を潜めるように摩耶子伯母が言った。

 特段の秘密でもないのに。

「そうですか」といいつつ、小鈴は思った。

(どーせ、ヘンな実とか朽ちた花とか入れるなら、ボルドーどころか、薄いジュースみたいなボジョレーですらもったいない。どっかの濃縮還元ワインで十分だ)

 そう、摩耶子伯母さんの家で飲み食いするものには必ず、出所不明のしぼんだ実や枯れた花が入っている。口にすると大抵はひどい下痢になる。なるべく、なにも飲み食いせずに自宅に帰るのが安全だ。それでも、危機を脱し得なかったときは致し方ない、下痢を覚悟で少量を口にすることだ。しかも重要なのはその順番。しびれそうなもの、痒くなりそうなものは先に食べて、締めにはおなかにきつそうなもの。下痢して出してしまえば毒も効かず、少々の腹痛を我慢すれば、腹痛と下痢が治まった頃、晴れて無事に帰路につける。

 小鈴が口にするものに警戒心を覚えたのは摩耶子伯母の家に預けられて以来だった。四歳ほどだっただろう。

 父の姉にあたる摩耶子伯母さんは、独特の雰囲気を持っていた。いつも長い自称ワインレッドのワンピースを着ていた。なにより、その大きなくぼんだ目と高い鼻、面長な顔立ち。色白だったからきれいには見えたが、薄暗い応接間にふと振り返ると立っている摩耶子伯母は、小鈴が童話絵本で見る魔法使いそのものだった。それに、摩耶子伯母が料理中に柄の長いおたまで鍋の中をかき混ぜている姿は、まるで効果の怪しいスープを仕込んでいる魔女だった。その上、時折、湯気にむせてゲホゲホと咳をしている。そんなに揮発性の高い、刺激の強い、一体何を煮込んでいるのだろう。幼な心に小鈴は思ったものだった。

 両親は小鈴のおなかが丈夫なことを確かめてから伯母の家に出入りをさせるようにした気がする。あるいは、小鈴の身体を鍛えるために伯母に預けたのかも知れなかった。

 小鈴自身は摩耶子伯母さんの家に預けられるのがいやではなかった。なぜか母がお茶もそこそこ、早々に引き上げていくのが気にはなったが。それに小鈴の兄が摩耶子伯母の家に預けられることは決してなかったが、それも何故だかわからなかった。

 変な料理を作ったりしているが、温厚な人だったから、小鈴は摩耶子伯母さんの大きな声を聞いたことはほとんどなかった。一度きりだったかもしれない。小鈴が五歳の頃だ。

「あーっ、それ食べちゃダメ、触っちゃダメ、見ちゃダメ」 

 庭で小さな赤い実を手にしていた小鈴は摩耶子伯母さんの剣幕に驚いて、その実をぽろっと指から落とした。

「見てもいけないの?」と呟いて、小鈴は地面に落ちた小さな赤い実を見ないようにした。

「それはね、ドクウツギと言ってね、猛毒なのよ。一番罪なのは、その実が赤くてかわいい上に柔らかくて美味そうなこと、しかも、甘い味がするのよ」

「甘いの?」

「そう、だから見ちゃダメなの。見ているとつい食べたくなっちゃうからね」

「そっか、だからね」

「そう」

「そんなに毒なの?」

「そりゃあもう。我が国ではドクゼリ、トリカブトと並んで、三大毒草なのよ」

「へー、そりゃすごいね」と言いながら、小鈴は地面に落ちてころんと転がるドクウツギの赤いかわいらしい実を見つめた。

 そんなに毒が強いようにはとても見えなかった。つい、指を伸ばしてもう一度拾いたくなるような誘惑に駆られた。

「だめー、小鈴。だから見ちゃいけないと言ったでしょ」

「そっか」と小鈴は納得した。

 それにしても口に入れなくてよかった。

 摩耶子伯母は大学で薬学を学んでから医学部に入って医者になったが、結局臨床へは進まず、学者の道を選んだ。確かにそうでもしなければ、この広い毒草園、いや、薬草園の面倒を見ることができなかったろう。

 愛読書はその名も「毒草」。分厚い革の装丁本で、その周囲には「世界の毒草」とか「毒草のいろいろ」とか、何を目的に集めたか、怪しいタイトルの本が並んでいた。小鈴の伯母は学者だったから、それを使ってどうこうしようというのではなかったし、決して怪しい人でもなかった。怪しいどころか、警察の人が親しげに出入りしていて、なにか毒草系の中毒事件があると、伯母のところに相談に来ているくらいなのだ。でも、その警察の人も、決して伯母の入れるハーブティーを飲もうとはしない。

 伯母が薦めても、

「いや、公務中ですので」と言い張って飲もうとしないのだ。

 若い警察官など、息すら詰めているように見えた。この妖しい空気を吸うと、食あたりでもすると思っているのだろうか。いや、その判断は正しかったかもしれない。さすがは警察だ。

 伯母の家に預けられた初めの頃、小鈴の体調が思わしくなかったことも確かなのだ。痒くなったり、ぽつぽつが出たり、熱が出たり、下痢に見舞われたり。思えばいろいろなことがあったが、徐々に小鈴の身体の方が慣れてきたようだった。月に一度は伯母の家でハーブティーを飲まないと気が済まなくなった。やっぱり、怪しいかと、小鈴は思った。

 摩耶子伯母の自慢は、曾祖父から受け継いだ庭園だった。どこまで続くかわからないうっそうとした庭だ。きっと、受け継いだころからそんなだったのだろう。踏み込めば踏み込むほど奥深く続く道、草は灌木となり、そのうち雑木林となるのだ。小さな小鈴は迷い込んで帰れなくなった時から、どこであれ、踏み込むときは退路を確保しておかなければならないという、人生訓にも通ずる鉄則を学んだのだった。でなければ、伯母の家からは生還できない。

 肝心の「毒草」についても、小鈴は摩耶子伯母からしっかりその知識を伝授されていた。

 実践「毒草学」だった。

 レッスンワンは少々の刺激でも体調を崩さないようにすること、レッスンツーは決して口にしてはいけないものを見分けること、レッスンスリーは少々は食べてもいい毒草の味を知ること。

「今日はギョウジャニンニクのおひたしよ。美味しいから食べてみなさい」と言う伯母の目がぎらりと光っていたら、そして、ギョウジャニンニクが美味しいことを知っていたら、さらに、種々の毒草がその姿に似ていることに気づけば、口にしないで済むだろう。

「ニュースでもやっていたっけ。間違って水仙の葉っぱとかをニラと思って食べたり、イヌサフランをギョウジャニンニクと間違えたりするんですってね。ニラ臭くないスイセンを何で、ニラと思うのかしらね。伯母様、これはイヌサフランですよ。匂いがしないじゃないですか、ニンニクの」

「そうね、合格。味は?」

「味なんか食べた人じゃなきゃわかりませんよ。死んじゃうといやだから、味見しないけど、苦そうですね」

「そうね、苦いらしいわ」

「さすがの伯母様も食べたことはないんだ」

「当たり前でしょ。食べなきゃわからないわけでもないからね」


 9 摩耶子伯母さんの毒草学各論

 小鈴がしばらくぶりで伯母の薬草園を訪ねたその日も、摩耶子伯母は腕によりを掛けてシチューを作って饗した。

「ドクゼリ、ドクダミ、ドクうつぎ、ドクニンジンにドクきのこ。ドクと付くものはすべて取りそろえるのが先祖の教え。さあ、食べましょう。その前にお祈りを」と言って、摩耶子伯母が両手をテーブルの上に組んで目を閉じた。

「医の神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイア、その他全ての神々に誓う」と始めるのだが、小鈴はいつも思った。

(その他の神々って、ひと山みたいにいって、その他の神様に失礼じゃないのかな)と。

 小鈴の悩みなどにかまうことなく食前のお祈りと称するヒポクラテスの誓いを伯母は続ける。

「師を自らの親と敬い、助ける。師の子孫は兄弟と親しみ、得た術を授ける。医術の知識を師と自らの子、弟子に与え、それ以外には教えない」と、摩耶子伯母は必ずここで区切って、ふふふ、と笑う。摩耶子伯母が呟くと、お祈りも呪文ようだ。怪しい。

 だから池谷を連れてきたりしなかったのだ。弟子と言えば池谷も大学で薬学を学んでいる。余計危ない。弟子として教えを授けられたりしたらえらいこっちゃ。なにより、こんな妙ちくりんな伯母がいること自体、製薬会社のエリート社員、池谷に知られたくはなかった。

 摩耶子伯母が続けた。

「患者によいことを行い、決して害さない。殺さない、堕ろさない、漏らさない」

 殺さないはともかくとして、堕ろさないは、伯母が小鈴の手前小さな声で言うので、よくわからなかったし、漏らさないに至っては、何を漏らすのか、小さな小鈴は悩んだのだが、きっと、この立派なお屋敷でオシッコをお漏らししてはいけないと言う教えなのだと長く自分を納得させていた。この家では深く考えると悩みのほうが深くなるばかりだ。あんばいのいいところで納得しておかないと。そもそも、かわいい姪を何であんな危険な庭で遊ばせるのか、ちっともわからなかった。わかるのに時間が掛かったし、いまだにわからないこともあるのだ。

 ここしばらく伯母の家を訪ねていない小鈴は、毒草に対する知識はともかくとして、免疫や耐性が衰えていないことを祈った。

 シチューをすすりながら小鈴が切り出した。

「伯母様、相変わらず美味しいですわ、スパイシーで」

「そう、そうかしらね」と言いながら、摩耶子伯母が嬉しそうに笑った。なにより、自分の作ったものを美味しいと言われるのが嬉しいようだった。摩耶子伯母の夫はたぶん、何も言わないのだろう。でも、マズイとも言わない気がする。

「実は、大学で死んだ人がいるんですが」

「まあまあ、それはご愁傷様。お気の毒に」と言いながら、摩耶子伯母はシチュー皿の隣に置いてあるパンを引きちぎった。

 ちぎったパンをせっせと口に運ぶ摩耶子伯母にはちっとも気の毒そうな様子はなかった。

「ええ、まあ。でも、やなヤツでしたから」

「あら、そうなの、じゃ、よかったわね」と言って、にっこり笑ってから、引きちぎった大きめのパンを口に放り込んだ。

「いや、よかったというわけにも」

「そうね、疑われてもね」と、固いパンを噛みしめながら言った。

「ええ、まあ、いや、そうではなく」

「まさか、小鈴ちゃんがやったんじゃないでしょうね」

「まさかのまさか。いつもお祈りしてるじゃないですか、殺さずって」

「そうよね、そうそう、ヒポクラテス、ヒポクラテス。でないと、弟子として教えられないしね」

「そうですとも。お漏らしもしないし」

「なんですって?」

「いや、漏らさずってね。でね、どうも、殺された人たちが」

「人たちっていうと、たくさん殺されたっていうわけ?」

「そうですね、結構たくさん」

「ほう。大量殺人?」と言いながら摩耶子伯母はパンを引きちぎる手を止めた。

「いや、それほどでも」

「殺りくってヤツかしら?」と摩耶子伯母がちぎったパンをくるくると回しながら言った。

「いや、だからそれほどでも」

「何百人ぐらい」と、今度はパンを皿の脇のテーブルクロスの上に置いて言った。

「伯母様、何百人も我が校で死んだりしたら、それこそ、週刊誌沙汰、いや、新聞沙汰どころか、世界中を騒がすことでしょうよ。全く、頭はいいのに常識がないんだから」

「そうかしらね、ところで何人?」

「そうですね、まず、信楽大のミイちゃんこと藤井講師、次が白滝教授をいじめた本俵理事長、洋光医科大學の万年次期教授候補吉田准教授。いずれもが、たぶん、何等かの薬物か、毒物で。とにかく、外傷のない突然死なんです。本学の裏庭や中庭という、妙な場所で死んでいるんです。しかも」

「しかも?」

「死因が不明」

「そうなの。場所が裏庭や中庭?確かにヘンなところで死んでるわね」

「本俵は裏庭」

「裏庭?湿っぽいわね、よりによって」

「そうです。凶器もなく、もちろん傷も打撲を含めてなし。毒殺にありがちな薬物は周囲にも体内にもなし、ただし、裏庭にキノコが生えていたのは確かです」

「死因は?」

「心不全」

「平凡な診断ね」

「そうです。みんな死ぬときは心不全ですからね。死因不明というのと同じです。一体何なんでしょう」

「心不全にしても、他の人はどこで、どういう状況だったの?」

「それぞれですが、まず、藤井は自分の講師室、本俵は先ほども言いましたように、湿っぽい裏庭、吉田は本学の中庭、花壇のそば」

「どんな死に方?」

「解剖ではカプセルなどの薬物の痕跡はなく、裏庭の本俵は少々苦しんだ形跡がありましたが、ほかはとにかく、みんな心臓が止まったり、単に息をしなくなったり」

「そうなの、息をね、しない」と摩耶子伯母が何か思い当たることがあるかのように繰り返して、まなざしを床に落とした。

「そうなんです。毒キノコとかですかね、本俵が死んだのは日当たりの悪い裏庭だし」

「そうね、キノコ類は毒キノコも多いからね。裏庭なんかに生えたのを食べたりしちゃいけないことは小鈴ちゃんならわかっているわよね」

「もちろん、裏庭どころか、表の庭に生えたキノコですら、伯母様のところのものはうっかり口にできません」

「そうね、賢くなったわ、小鈴ちゃん。それでこそ、この薬草園の後継者と言えるわ」

「こ、こ、この、薬草園の、こ、後継者ですって?誰が、です。冗談じゃない。私は一介の臨床医です」と、小鈴が色を失って言い張った。

 いまさらのように、父や兄の気持ちが分かった。冗談じゃあない、ただの、一介の、しがない、臨床医なのだ。

 一方の摩耶子伯母は何も言わず、ふふふ、と笑った。

 何か内々に決めごとでもあるのだろうか、摩耶子伯母と小鈴の両親。

「全くもう、何を言われるか、わかったもんじゃありません。冗談じゃありませんよ、この毒草園の後継者ですって。やだやだ」

 小鈴が言いは張れば言い張るほど、摩耶子伯母の顔は緩み、そして、またふふふ、と笑うのだった。その「ふふふ」にどんな意味があるのか、小鈴にはちっともわからなかった。わかろうとしなかった。わかりたくなかったのだ。

 一体全体何だって言うんだ、と小鈴は思った。どう抗おうが、そうなるよ、とでもいうのだろうか、あの「ふふふ」。小鈴はいやーな気分になった。何が悲しくて、こんな薄っ暗い毒草園の跡継ぎになんかなるというんだ。

 しかし、確かに、伯母には子どもがいなかった。小鈴の父や兄が今さらこの庭園を継ぐとは思えない。思えば、小鈴は小さいうちからよくこの摩耶子伯母のところに連れてこられていた。小鈴の母は、何を考えていたというのだろう。

 小さな自分の娘をこんな危ないところに預けるなんて。尋常の沙汰ではない。小鈴は命がけだったともいえる。

 なぜ。

 やはり、自分なのだろうか、この毒草園を引き継ぐのは、と思うとさらに真っ暗な気分になった。確かに、どう考えても小鈴以外、毒草園などの跡継ぎに思い当たる親類縁者はいないのだ。

 じゃあ、小鈴の次は誰だというのだ。

 えりちゃん?

 そう思いついたとたん、小鈴はなぜか急に愉快な気分になった。あのえりちゃんの手に負えるだろうか、この毒草園。今度は小鈴がふふふ、と笑った。

「まあ、跡継ぎ問題はあとにして、人を殺すのに、キノコは向いていないわ」と、小鈴の思惑とは別に摩耶子伯母が言った。

「なぜです?」と小鈴が尋ねた。

「歴史をひもといてみなさい。どんな有名人が毒キノコで殺された?」と、摩耶子伯母が小鈴を見て言った。

「そうですね、あまり聞きませんね。キノコ食べて殺された有名人。キノコはたまたま食べて毒に当たってしまうと言う感じですね」

「そう、多くがムスカリン作用を持つからね」

「ムスカリン?」

「そう。ムスカリン中毒。キノコ摂取後、十五分から三十分で、涙や唾液分泌が増加し、発汗するのが特徴。大量に服用した場合は、腹痛、嘔吐、下痢に見舞われる」

「症状が派手なのですね」

「そう、ハラ痛いわ、ムネ苦しいわで、病院に行くでしょうし、そのぐらいの時間的余裕はある。瞳孔縮小があって、キノコ摂取歴が聴取されれば、キノコ中毒だとわかるからね。ひどいと呼吸困難になるけれど、死ぬ前に診断されて、助かることが多いわよ」

「そうなんですか。でも、本俵理事長は助からなかった。それどころか、わざわざキノコの生えている裏庭に行って、一説ではキノコをくわえて死んでいたとか」

「キノコをくわえて?」

「そうです」

「一体どんな死に方なのかしらね、キノコをくわえて死ぬなんて?食べてたの?」

「いえ、まあ、少量、胃の中にあったようですが、それほどの量ではなかったようです」

「そうなの。しかし、キノコをくわえて死ぬとはね。何でしょうね」

「でも、なんか、慌てて食べたようなふしが」

「ふうん、慌てて食べたね。毒消しじゃああるまいし」

「毒消し?」

「そうね、苦しいときにそんなものをくわえると言うことは、少しでもよくなりたいからでしょ」

「そうか、なるほどね」

「で、どんなキノコだったの?」

「なんか、裏庭に自然に生えたものですからね、アヤシイキノコですよ」

「色柄は?」

「赤くて、笠の上にポチポチと何か怪しいものがくっついていて、とてもそれを口に入れるなんて、正気の沙汰じゃあありません」

「赤くて、ぽちぽちね。テングタケ科テングタケ属のベニテングタケがそんな風ね。笠が赤色で、表面にいぼみたいのがポチポチ付いてるわ。ムスカリン系だから下痢、嘔吐、腹痛、それとめまい感や幻覚、興奮なんかがあって、でも死ぬことは稀と言われてはいるわ。昔、同級生で、ベニテングっていわれていた子がいて、この薬草園を引き継ごうとお祖父さまに取り入ったのだけれど、お祖父さまはいくらベニテングが毒草の知識を持っていても、譲ろうとはしなかったの」

「そうなんですか。何でベニテングなんです?」

「その子がね、同級生にベニテングタケを食べさせたのよ」

「ベニテングタケを?なんでまた」

「そうなの。バーベキューで、同級生が採ってきたベニテングタケを、知っていながら焼いて食べさせたから、みんな中毒になってね。それ以来、ベニテングっていわれて。毒キノコにはやたら詳しかったわね」

「お祖父さまは何で受け継がせなかったんでしょう」

「危ないからよ。この薬草園にはいろいろな毒草も生えているからね。悪用されると大変なことになるのよ。だから、お金に困っても、決して売らなかったの」

「そうなんですか。ベニテングを同級生に食べさせるような人には継がせないっていうことですね」

「そうね。危険人物ですもの。ベニテングには確か娘さんがいたような噂を聞いたけど」

「ベニテングの娘?」

「そう」

「ベニテング?娘?迫田紅子か」

「あらそうかも知れないわね。ベニテング、結婚して迫田になったんだ」

「そうか、だから、紅子はやたら詳しいんだ、毒草に」

「そうね」

「でも、死んだりすることは希なんでしょう?」

「そうね、まずは救急車でも呼ぶでしょうからね」

「ええ、そうですね。でも、やたら毒キノコに詳しい紅子だったら、本俵理事長も、言うことを聞いて、毒消しキノコを食べに走ったかも」

「ほかに症状はないの?」

「そうですね、若干の溶血があったそうです」

「溶血ね。それは珍しいわ。クサウラベニタケには溶血たんぱくが含まれている」

「クサウラベニタケ?」

「ええ。イッポンシメジ科イッポンシメジ属クサウラベニタケ。臭さはあるけれど、 苦みはないそうよ。何かに混ぜるにはもってこいね。嘔吐,下痢,腹痛などの胃腸などの消化器系中毒を起こすし、発汗などムスカリン中毒の症状も現れるから、結構苦しいんじゃないかしら。溶血性たんぱくを含んでいるのが特徴ともいえるわね」

「なるほど。まずはクサウラベニタケを何等かの形で盛っておき、毒消しに裏庭に走らせて、ベニテングタケをくわえさせるというわけか。どちらもムスカリン系の毒キノコだから、自分で食べたことになる」

「そうね。そうこうしているうちに時間切れ」

「クサウラベニタケってどんなキノコ?」

「そうね、シメジみたいな」

「シメジ?」

「そう」

「危ないですね。シメジと思って食べちゃうかも」

「そうなの」

「他のキノコは?」

「そうね、エギタケ科シビレタケ属のヒカゲシビレタケはおもしろいかも。催幻覚成分が含まれていてめまい、しびれ、幻覚が数時間持続するんだけど、麻薬および向精神薬取締法で使用も所持も規制されているから、うちの庭にもないわ」

「伯母様の毒草園になければ、辺り一帯にはないということね」

「ええ、そうね。あ、ちょっと、小鈴ちゃん、さっきから、毒草園、毒草園ってね、ここは毒草園ではなく、薬草園よ、素敵な庭園と呼べとは言わないけれど、せめて、いろいろな草が生えている植物園とか、といってね」

「なるほど、薬草園ね。いろいろな草が生えている植物園。大きな間違いはないけれど」

「もし、ベニテングの娘が使うなら、あとは毒草ね」

「毒草?摩耶子伯母様のお得意ですね」

「まあ、それほどでも。ただ、毒草というのは古来から使われているものの効果が確実よ」

「よく使われているというと?」

「そうね、やはりトリカブト。これは古来日本でもいろいろに使われたわ。キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属なの。木陰や草原なんかに集まって生えているわ。全草にアコニチン系アルカロイドを含んでいるから、口唇や舌のしびれに始まって、次第に手足がしびれ、嘔吐、腹痛、下、不整脈、血圧低下などをおこして呼吸不全で死ぬの。特に呼吸は中枢麻痺を起こすのね。ニリンソウなんかと間違って誤食されるのよ。矢毒としても使われるくらい猛毒なのよ」

「ふうん、矢毒ですか、そりゃ強力そうですね。しかし、さすがに矢で射ったふうはないからな、やっぱり食べさせたのかな。野原か。病院の中庭にあるかな」

「そうね、ちょっとうっそうとしたところを探してみるといいわよ。ただ、結構すぐに効果が出るから、人気のないところでどうやって食べさせるかは問題ね」

「なるほど。他には?」

「そうね、息をしなくなるのが、カロライナジャスミン」

「息をしなくなるの?」

「そう。呼吸中枢に対する直接作用があるのよ。リンドウ目マチン科ゲルセミウム属の植物で、お茶にするあのジャスミンとは全く違うものよ。でも、黄色い花を咲かせて、いいにおいがするけどね。自律神経にも、循環器系にも末梢血管にも影響を与えることはないのよ」

「え、じゃあ、ただ息が止まるの?」

「そう。息がね、止まるの」と言って摩耶子伯母が大きな目を見開くと、その周囲には殺気がみなぎった。

「そ、そう、息が、止まる、んですか。なんでまた口にするかなあ、そんなもの」と小鈴が言った。

「ジャスミンティーと間違って飲んだりすると起こるのよ。結構あるのよ、そういう事故が。それほど、いい香りなのね、カロライナジャスミン」

「そうなんですか。ジャスミンティーをごちそうしたのかしら、吉田准教授に」

「そうかも知れないわね」

「黄色い、いいにおいのする花?」

「そうよ。匂いがとてもいいし、大きく育つから生け垣に育てる人もいるのよ」

「そうなの?そんな息の止まるような植物を生け垣に?」

「ええ、飲まなきゃいいんだから」

「そっか。そういえば、吉田准教授が死んでいた中庭、背後が柵になっていて、そこに丈の高い黄色い花を咲かせている植物が生えていたっけ」

「ふうん、カロライナジャスミンじゃないの?」

「そうかも」

「あなたの大学病院も毒キノコは生やすわ、毒草を生け垣にするわ、この庭園に負けず劣らずの毒気の強さね」

「え、まあ、そうですね、確かに。あとはどうでしょうか、毒物の候補は?」

「そうね、ジギタリスも結構な毒性があるわよ。ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科ジギタリス属。日本には江戸時代に渡来したのよ。観賞用にね。花がとてもきれいなの。あなたも知っているとおり、強心配糖体のジギトキシンを含んでいるの。心筋収縮力の増強、迷走神経刺激による心拍数の減少、房室結節の伝導抑制と不応期の延長。つまり、心筋の収縮力は強くなるけれど脈が少なくなるというわけ。重症になると心臓が止まるわ。ジギトキシンは効果発現まで3時間から6時間かかるけれど、半減期は長くて、100時間以上と言われているのよ。一週間近くも掛かるの、いったん摂取してから身体の中で半分になるまで。調節しづらいのよ、効果発現までに時間が掛かる上に半減期が長くって、身体に残るから。つまり、一旦、ジギタリスを摂取してしまうと、効果が出てくるまでに時間がかかる上、長く効いてしまう。これが医療用に使われなくなった理由。一方、即効性があるジゴキシンのほうは半減期も短いから薬剤としてはコントロールし易いってわけ。だから今は医療には、もっぱらジゴキシンを使うでしょ」

「なるほど、効いてくるまでに時間差があるのか」

「問題はどうやって食べさせるかだけれどね」


 10 池谷情報

 小鈴は「時間差」という言葉を繰り返し呟いた。

 薬物の効果発現までに時間が掛かれば、その間にアリバイを作れる。しかも半減期が長いと言うことは、ジギタリスが胃腸から出てしまっても血中に存在し、その効果は長く残ると言うことだ。

 藤井は登院した信楽医科大の自室で落命している。小鈴達の病院の医局で迫田紅子と会っていたという話はあるが、それは藤井が落命する前日だ。だから死亡時刻に迫田紅子にはアリバイがあった。

「小鈴先生、情報、あり」と、電話の向こうで池谷が言った。

「何?今どこにいるの?まさか、またこのあたりじゃあ。いい加減、本社をあけてばかりいるとクビになるよ」

「いや、いや、大切なことですから、僕のクビなんかより」

 その電話もそこそこに、本社からすっ飛んできた池谷が息を切らせて医局に走り込んできた。

 昼下がりの医局には小鈴しかいなかった。

「確か、小鈴先生の伯母様のところでの講義によれば、植物のジギタリスが含んでいるジギトキシンは作用発現までに時間が掛かるんでしたよね」

「そう。だから、アリバイ作りにはもってこい。しかも半減期が長い。ただし、摂取してから落命するかどうか、それは不確定要因と言えるわね。体調不良程度で済むかも。徐々に代謝してしまうから、体調もよくなってしまい、確実な線を狙う場合には使わないでしょうね」

「そうですね。しかし、我が社の信楽大担当営業マンによると、藤井講師、心臓を患っていて、ジゴキシンを服用していたんですよ」

「えーっ、ジゴキシンを?」

「そうです。朝、自室でジゴキシン服用後、間もなく落命しているらしいです」

「なるほど、なるほど。どうにかしてジギタリスを盛っておけば、含まれるジギトキシンの作用発現時間まで時間が稼げる上に、毎朝服用しているジゴキシンが重なれば、それを飲んで間もなく、強心作用はともかく、徐脈になってとうとう、止まっても不思議はないわけね、心臓」

「そうです。迫田紅子と会った翌日でしたよね、藤井が死んだの。朝、自分の部屋に着いてから薬を服用するのが習慣だそうです」

「だから、翌朝、自室で落命したのか。でも、どうやってまずはジギタリスを盛ったんだろう」

「たぶん、葉を砕いて、はやりのスムージーかなんかにしたんじゃないでしょうかね。ジギタリスの葉っぱって、ちょっと肉厚で、柔らかそうで、クコの葉に似ているんですよ。クコの葉はてんぷらにして食べたりした時代もあるくらいだし」

「そうか、クコの葉と偽ってミキサーにかけて飲ませるのか」

「そうですよ。効果が現れる頃には葉っぱはトイレに排泄されていて、しかもジギトキシンの効果半減期は一週間近くです」

「そこにいつも服用しているジゴキシンが追い打ちを掛けて、とどめを刺したというわけか」

「その通りです。ジギトキシンとジゴキシンの挟み撃ちです」

「うまい話だけど、どうやって証明したらいいのかしら」

「紅子が使っていた食器やジューサーに植物由来の毒物が残っていないか調べてもらうことですよ」

「なるほど。じゃあ、それは警察にお願いするとして、私たちはこのあたりで、まずは同じ草を探すとするか」

 毒草、毒キノコを探して小鈴は池谷と学内の敷地を隈無く歩いた。

 洋光医科大學吉田准教授が、目をむいて、あたかも小鈴に恨みがあるかのような顔をして急死していた中庭。死因は急性心不全。

 中程にはさんさんと太陽を浴びてさわやかなテーブルとベンチがある。お茶をするにはもってこいだった。

 病院の中庭の生け垣は、摩耶子伯母がにらんだ通り、ジャスミンと誤飲されるカロライナジャスミンだった。まさに、花盛り。小さな黄色い花が甘い香りを放っている。紅子ならずとも、ちょっと、お茶に入れたくなるような、可憐な花だ。まさか、これが毒草とは。

「これだよ、池谷さん。吉田が死んだ原因。中庭のテーブルで紅子がご馳走したんだろう。カロライナジャスミンティー。罪な花だね、いい匂いだ」

 小鈴は吉田を発見した中庭の生け垣が、カロライナジャスミンであることを確認した。

 さらに池谷と一緒に、小鈴は中庭で密かに生えているトリカブト、花壇の奥にはジギタリス。裏庭の日陰にはクサウラベニタケが生えているのをみつけたのだった。ジギタリスは観葉植物だが、花はなかった。クコの葉と言われれば、それまでのケバケバした肉厚の葉た。てんぷらにしたら衣になじむいい素材だし、水分も蓄えていそうで、スムージーにするもよし。

 植物観察を終えた小鈴と池谷は小鈴の部屋に戻った。

 小鈴はポットで湯を沸かし紅茶を入れた。おりしも、残っていたティーバッグはジャスミンティーだった。

「先生、これって、本物のジャスミンティー?」

「当たり前でしょ、紅子じゃないんだから。それにあなたに毒を盛ってどうするのよ」

「そうですよね。そうそう、小鈴先生。実はもっとすごい事実があるんですよ」と池谷が嬉しそうに言った。

「事実?」

「たまたま、英会話学校の仲間に、製薬会社の営業がいましてね」

「池谷さん、英会話なんか習っているの」

「ええ、まあ、そのうち、海外支社に行けるかな、なんてね。小鈴先生の留学に合わせて」

「えっ?何と合わせてって?」と池谷の話の流れを遮って、小鈴が聞き返した。

「いやいや、まあ、それはいいとして、その営業マンが、洋光医科大の専売特許、ササ・エーを開発した会社のライバル社だったんです。ライバルに聞けっていうじゃないですか。いやほんと、よく知っていましたよ。開発の経緯だけじゃなくて、アメリカで研究開発されたササ・ビーという治験薬のことまで」

「ええ?ササ・ビーのことまで?」

「ええ。彼ら営業も食い込もうと思って、いろいろ調べたみたいです。しかし、洋光医科大の守りが堅くて参入できなかったようですよ。でも、今じゃあ、関わらなくてよかったって言っていましたっけ。副作用が強い上に、開発や治験、特許の問題で面倒が多すぎて。特に洋光医科大の高司名誉総長がカネにうるさくて、法外なカネを吹っ掛けられたので、本社の指令でやめたそうです」

「そうなんだ。法外なカネか。それに、メイヨソーチョー?」

「そう、名誉総長」

 洋光医科大學の迫田の研究テーマは免疫抑制剤、十年も前に開発されたササ・エーだ。しかも吉田が洋光医科大學でよく使っていたのがササ・エーだ。

 その進化形がササ・ビーだった。構造の良く似た薬剤だ。たしか、免疫抑制剤合成研究で有名な米国シルバースミス研究所が開発したものだ。

 もともと日本で開発されたササ・エーは、主に日本でしか使われなかったため、迫田紅子は開発に携わったように言ってシルバースミスに売り込み、留学したのだろう。洋光医科大學から。

 そう、洋光医科大學だ。

 迫田紅子は開発治験の一端を担った洋光医科大學の高司名誉総長のグループだったが、ササ・エーについて特に知識があるわけではなかった。留学したものの、実験という実験はうまくいかず、シルバースミスが合成した免疫抑制剤ササ・ビーがよく効くマウスを見分ける遺伝子マーカーを見つけ、それを普通のマウスに植え付けて、ササ・ビーの副作用が出づらいマウスを作ったという虚偽の論文を学会誌に発表したのだ。他施設からの追試はことごとくうまくいかず、再現性がないとして、論文は差し戻しになった。

 それに薬として使うには、人間に使えるかどうか証明する必要があった。しかし、実際のところ、免疫抑制剤ササ・ビーは、そのままでは強い骨髄抑制作用を持ち、使って間もなく白血球減少、貧血を起こし、とても人間に使える代物ではなかったという。

「そうか、メーヨークリニックの総長ではなく、名誉総長か、あいつが言っていたのは。高司名誉総長」


 11 大御所登場、高司名誉総長

「何で、迫田嬢まで殺したんです」

 間もなく、迫田紅子も死んだ。今度は紅子の母校洋光医科大学の廊下だった。

「紅子か。私を恐喝したからだ」

「恐喝?」

「そうだ、小娘の分際で、この私を脅すとはな。いい、根性だ。ものを知らんとはこのことだ。しかし私はそう思い通りにはいかんのだよ。ここまで来るのに、一体どんな道のりだったと思うね、君」

 大御所、高司名誉総長は小鈴を見据えていった。

 いち講座教授から名誉総長に上り詰めた高司は、何でも自分の意のままになると思っているようだった。

 名誉総長の椅子は重厚な革張りで、紫檀の大きなデスクに見劣りしない。その大きな椅子に沈み込まんばかりに白髪の高司名誉総長は座っていた。

 名誉総長室は洋光医科大學病院の最上階にあった。遠くに東京タワーがおもちゃのように小さく光って見える。距離はあるはずだが、見晴らしがよい。周辺にそれより高いビルなぞないのだ。毛足の長い赤い絨毯は、高司名誉総長のくぐもった声を吸い取るように敷き詰められている。ごろっと横になったら、眠ってしまえるほどふかふかだ。

 小鈴は高司名誉総長に面会を求めた。小鈴などが出入りできるような部屋ではなかったが、「ササ・ビーの件で」というと、あまりにもあっさりと面会ができた。

 本当は暇なのだろうか、高司名誉総長。

 小鈴は受付を通り、受付嬢に丁寧に説明されたとおりの最上階、最も奥の名誉総長室に入ったのだ。廊下の突き当たりにある高司名誉総長の部屋は、ほかの部屋と違って、ぐるぐるした唐草模様の彫刻が施された茶色の重いドアが、独特の雰囲気を醸し出していた。

「君もだよ、鈴田君。私を追いつめたような気でいるようだが、そうはいかないよ。君っとこの白滝教授は何だね、君みたいな青二才を主席講師にして。バカじゃないのかね」

「そんなこと関係ないでしょう。なんで藤井講師や吉田准教授、果ては迫田嬢まで殺したんです」

「きみい、殺した、殺したって人聞きの悪いことを言うんじゃないよ」

「だってじゃあ、どう言ったらいいんです」

「どう言うかじゃなく、どうなのかだよ、事実として。彼らは必然的に生命を終えたんだよ。必然。いわば、プログラムされた死だ、予定通りの」

「ばかな。死ぬ予定なんてあるわけないでしょ」

「確かに迫田には藤井、それに吉田もついでに殺させた。そうそう、おまえっとこのヘボ理事長もだ。忘れちゃあいけない。治験に渡した金が少ないと文句を言った上に、おまえっとこのヘッポコ教授の白滝が、私の薬の効果にケチをつけたのに、それを封じ込めることもできなかった」

「なんですって、あのヘボ本俵理事長が白滝ヘッポコ教授を解任したのは、患者のためによい治療方針に修正したからだって言うのか。しかもそのヘボ本俵理事長も殺したと」

「私が殺したわけじゃあない。今度こそは私の子飼いを教授にするために、藤井講師、そしておまえっとこのヘボヘボ大学にかかわってぐずぐずしているくせに、我が洋光医科大學の教授職を狙う吉田、二人とも邪魔だったからだ。そして、私が開発したよく効くクスリ、ササ・エー、そしてシルバースミスがそのまねっこをしたササ・ビーの治験の秘密を知ったしな。知りすぎたやつらだ」

「なるほど、その治験データをもとに迫田嬢が高司名誉総長をゆすった。そうでしょう?」

「バカな。おまえの考えること、バカ丸出し」

 ケッ、と言って高司名誉総長は机の下のボタンを押した。

 小鈴の背後のドアがカチッと音を立てた。ロックしたのだ。

 うわあ、よくできている。

 あの机の下のボタンを解除しない限り、この部屋からは出られない仕組みだ。しかも、うわさではもう一つのボタン一つで何人もの手下が出てくるらしい。

 しかも、いくら頑張って飛びかかっても高司名誉総長にはとどかないように、立派なデスクの前方には床が抜け落ちる、落とし穴があるという噂だ。はまってなるものか、と小鈴は思った。無謀な前進はやめておこう。

「じゃ、何でこんなことに」

「バカ丸出しのおまえに教えてやろう」

「うるさいねえ、バカバカって、何回も言うな。つまらない欲得で人を殺す方が、よっぽどバカだ。バカ、バカ、バーカ。」

 小鈴は、高司名誉総長が未だかつて言われたこともないような言葉を連発した。

「だまれ」

「じゃあ、聞きますけどもね、この部屋ロックしたって、あんたみたいなジジイじゃ、あたしを始末できませんよ。あたしだっていくら何でも抵抗するし。奴らの死んだわけを聞かせてもらわないじゃあ、成仏できませんからね。もし万一、あんたが死んじゃっても正当防衛だ」

「何が正当防衛だ。もしここで私に抵抗して、私が落命どころか、ちびっとしたひっかき傷をつくったって、ここに乗り込んできた君が私に暴力を振るったといえば、みんなどちらを信じるかね。社会的信用ってものの厚みがちがう」

「そのぶ厚い社会的信用を突き通すような秘密があるんでしょうが、どうせ」

「イヌと呼ばれているそうじゃないか」

「イヌじゃないっ、聞こえの悪い。闘犬だ、闘犬」

「どっちだって、おんなじだ。じゃあ、闘犬と呼んでやろうじゃないか。アホ闘犬、冥土の土産に聞かせてやろう」と高司名誉総長が安っぽい時代劇のようなせりふを言った。

「メードが土産をくれるんかい?」

「本当のバカか、おまえ。おまえのようなバカに私がどんなに周到にこの計画を練ったかなどわからんだろう。おまえの所業で、私達が長年温めてきた、臨床遺伝子解析部門のオープンが伸びてしまうかもしれんのだ」

「そんなことのために?」

「そんなこととはなんだ、そんなこととは。じゃあ、おまえにあんな大っきな遺伝子解析システムが構築できるというのか。全日本の遺伝子を集積して、ササ・エーやササ・ビーのよく効く患者と効かない患者、さらには骨髄抑制という恐ろしい副作用を出す患者、出さない患者、それを手っとり早く見分けるために、遺伝子解析するんだ。そして、そのついでに原因遺伝子を特定できない疾患をさらに解析して、新しい原因遺伝子を見つけるのだ。見つかったら大きな論文にして、いい雑誌に載せる。なんといっても、ノーベル賞級の発見だからな。もらえるかも、いや、きっともらえる、ノーベル医学賞」

「なんですって?ササ・エーといえば確かに洋光医科大學のあなたが開発に携わったクスリです。でも、大して効かず、今や陳腐な薬の部類に入っているはずです。それがなんの関係を」

「陳腐とは失礼な、陳腐とは。シルバースミスの開発したというササ・ビーはもともと、私が開発したササ・エーの構造をちょっぴり変えただけのものだ。免疫抑制効果が格段に強くなったが、まるで自分たちだけで開発したかのように、論文に私の名前も載せない。それどころか、引用文献にさえ私の論文を引かない。だから、迫田紅子をシルバースミス研究所に留学と称して送ったのだ。迫田はよくやったよ。シルバースミスを脅して、今後は一切私の名前を無視するようなことはしないと確約を取った」

「名前をね。で?」

「その引き替えに、ササ・ビーを使ったデータを渡すと言うことになったのだ。そして、治験だ。データ解析はある会社を通して」

「ある会社?」

「そう。医療データ統計専門の会社だ。おまえっとこの隣の家に住んでいたヤツの会社だ。バカなヤツだ、自分の妻を殺したりして。しかもおまえっとこのぼろ屋の隣に住むなんてケチ臭い」

「あー、やっとわかった。だからか」

 小鈴にはその瞬間、すべてが見通せた。

 小鈴の目の前にあった大きな山が一気に崩れて、その向こうにあったものがすべてまとまって視界に入ってきたような気分だった。

 医療データ統計専門の会社とは、隣の奥さんを殺した旦那の会社だ。データ解析やITなんて体裁のいいこと言っていたけれど、羽振りがよかったのはこの高司の召し使いだったからなのだ。データをいいように改竄して都合のいい結果を出すシステムを作ったからだ。そんなこと、まともな会社ならやるはずない。

「まさか」

 小鈴はあることを思い出して、身の毛がよだつ思いに襲われた。

 死んだホームレス、小鈴の近所の公園をねぐらにしているおっさん達だ。

 死因は不明。いなくなってしばらくしてから、元の場所で死体が発見されるのだ。放り出されるように。

「まさか、人体実験を?」

「何が人体実験だ。薬剤の治験だ、治験」

「何が治験だ。治験をするなら、プロトコルをしっかり作って、ゴールを決めて、有害事象が出て危なければ途中で中止にするという計画が大切なんだ。倫理委員会にだって通さなきゃいけないし。人間は実験動物じゃないんだから。まさか、家族のいない患者を使ってササ・ビーの効果を試したんじゃないだろうな」

「治験だと言っているだろう。何が倫理委員会だ。家も家族もない連中は、謝礼をやると言ったら、大喜びで参加したぞ」

「まさか、そんな。悪魔の人体実験じゃないか」

「この私のありがたい治験に参加できるんだ。こんなすばらしいチャンスは奴らの人生に二度とない。その論文には自分のデータが載るんだぞ、データが」

「何言ってるの?治験なんて呼ぶな!あんたの人体実験の餌食にされて、よろこぶヤツがいるわけないだろう」

「仕方なかろう。体質に合わない者もいる。データを取ったし、なぜ合わないのか血液もとって、遺伝子解析も徐々に進んでいる。致命的な副作用はたった三名だ」

「たった、三名?」

「そうだ、十名に実験した。うち一名は貴学で行われているぞ。ばかめ、おまえも協力者だ」

「なんですって、まさか増井さん。しかもうちの近所で不審死した三人のホームレス」

「ほーお。不審死か。不審なもんか。バカじゃないの。原因はササ・ビーの副作用だ。強すぎた骨髄抑制のせいだ。ごく少量、中等量、大量で治験を行なったら、大量の三名がすべて死亡した。死体はもとのガード下に置いてやった」

「ゲドウめ。悪魔の実験じゃないか」と言う小鈴の背中の毛が、そろってゾワッと毛羽立った。風もないのにその毛が一斉になびくように感じられた。

「おかげで大量はいかんと言うことがよくわかった。少量では効かない。中等量では効果半分、副作用半分。おまえっとこの入院患者、副作用は出たはずだが、回復したろう。すばらしいデータだ。しかも、このすばらしいデータをもって、迫田紅子は揺すってきたのだよ。心得違いも甚だしい」

「甚だしいのはおまえだ」と、小鈴は枯れる寸前の声を振り絞った。

「この実験結果があれば、ササ・ビーの、我が邦どころか全世界における実用化が始まる。その基を築いたのが私のササ・エーであることも歴史に刻まれる」

「何が歴史に刻まれるだ。協力者の藤井講師まで殺すなんて」

「おお、藤井か。忘れていたが」

「忘れるな」

「邪魔だったからな。ササ・ビーへの理解が深すぎるし」

「知りすぎたってわけか。データもねつ造したんだろう、どうせ」

「まあ、少々な。それも知ってしまったんだ、藤井は」

「知ったからといって殺すことはないでしょう」

「十人のデータだ、一人分が大きく物を言う。貧血がかなり強く出るから、ちょっと、変えただけだがな。おまえっとこの隣のオヤジが、いいデータが出るような統計システムを開発してくれたから、それを使った。それにどの殺人もおまえがやったことを示唆するお手紙を警察に出しておいたし。私はね、お金があるから、警察の偉い人にも知り合いがいてな。それに信用もある。おまえなんかよりずっとな。そうそう、ついでに教えてやろう、おまえっとこの本俵理事長ともタグを組んで、治験一例に百万円を渡しておいたんだぞ。まあ、その金も薬屋からくすねた金だがな。しかし、被験者の患者の容体に妙な疑義を挟んだそうじゃないか、ヘッポコ教授の白滝とおまえ達、貧血がどうのこうのと。この薬、貧血は出るものなんだ。必然だ。なのに、このすばらしい薬にケチ付けて、けしからん。だから、おまえっとこのヘボヘボ本俵理事長に言って、おまえっとこのヘッポコ教授、白滝の役職を全部外させたんだ。うひひひひ、いい気味だ。それに本俵、途中で怖じけ着いたりして。情けない。迫田にやらせた。毒キノコを喰わせておいて、裏庭には毒消しキノコが生えていると嘘を教えたら、本俵、大慌てで裏庭にすっ飛んでいったそうだ。迫田が大笑いしておったわい。その迫田もな、知りすぎた。私の弱みを握ったと思ったのか、本学の教授にしろと。バカ言うんじゃないよ。三人も殺した人殺しだぞ、あいつは」

「なんだとぉ~、何を言うか、自分が殺させたくせに。このくそジジイ」

 小鈴の頭はクラクラとした。その頭の中で、隣のおっさんが統計データを扱う会社を経営していたこと、奥さんを殺しておいて、小鈴に罪を着せようとしたこと、さらに、なぜか、捜査にはいつも小鈴を犯人とするバイアスがかかっていたこと、ホームレスの死、入院患者増井さんの病状悪化、そして、邪魔になった藤井ミイちゃんの死、吉田の死、吉田を殺した迫田紅子の死、ついでにキノコをくわえて死んだ本俵。全部が混然一体となって、一つにつながり、小鈴の周りをグルグルと回った。

 一番外側では白滝教授が振り回されていた。本俵理事長はたった百万円で人の命を左右する計画に加担したのか。なんということなんだ。何が大学経営、教育改革だ。

 欲得づくの連中がグルグル回って見える。あー、目が回る。

 そしてササ・ビーを手にしてほくそ笑む高司名誉総長がその中心にいた。

 こいつは生かしておいてはならない。飛びかかって息の根を止めてやろう。

 小鈴がそう思った瞬間だった。何かが小鈴の後頭部を襲った。バットで殴られるというのはこういうことを言うのだろう。

 その瞬間から小鈴の周囲で世界が暗くなった。


 気づいたのはずいぶんたってからだ。

「小鈴、小鈴、死んじゃいやだ。小鈴、目を開けて。亮之介、医者の卵だろう、助けろ。早く心臓マッサージしろ。人工呼吸しろ。や、や、やぶ医者、早くしないと死んじゃうじゃないか。いや、マウストゥマウスはエリーがやる。亮之介は触るな」

「えりちゃん。えりちゃんたら」と言う声は、亮介か。

 また、えりちゃんと亮之介が揉めている。

 確か、家庭教師はもう免除したはずだったが。まだやっていたっけかなと、おぼろげながらに周りを知覚した小鈴は思った。

 しかも、えりちゃんと亮之介がいるということは、ここはどこ?私は…誰?

「うるさい、亮之介、役立たず。小鈴、エリーをまた置いていかないで。一人はもういやだよ。小鈴、いっちゃわないでよ。一人はさびしいよ。小鈴、小鈴。亮之介、おまえのせいだ。おまえなんかの面倒を見たから、小鈴がこんな目に」

(わ、私はどこかにいっちゃうんだろうか、いくって、逝くってこと?え、私、死んじゃうの?)とかすかに戻った意識の中で、小鈴は思った。今度は亮介の声が聞こえる。

「えりちゃん、えりちゃん、てば。人工呼吸必要ないよ。小鈴先生、自分で息してるし。だいたい、小鈴先生、口を押さえたって,息なんか止めないよ」

(おっ、亮介が勝手に私のことを言っている。息の根を止めるのは難しいと。おのれ、亮之介、私の息の根を止めようとでも?恩も忘れて、こしゃくな奴。それより、頭が痛い、がんがんと)

「うーん。痛い、頭が、割れそうだ。誰だ、殴ったの」と小鈴は声を殺して言った。大きな声を出せば頭に響くだろう。

「小鈴、小鈴。生きてたのか。それとも生き返ったのか」とえりちゃんが血相を変えたまま言った。

「なんだ、えりちゃん。生きてたってどういうこと」と小鈴は頭を抱えながら起き上がった。

「小鈴先生、大丈夫ですか?」と亮介が心配そうに小鈴の顔をのぞき込んでいる。

 小鈴にとって亮介の顔がこんなにありがたかったのは初めてだった。

「亮介、なんで、ここに?」

「池谷さんからメールが。向こう見ずな小鈴先生、きっと一人で高司名誉総長の部屋に乗り込むから、助けに行ってくれって。とても一人でかなう相手じゃないからって」

「そうだよ、小鈴。落とし穴がある上に、手下もいたんだよ。カメさんに加勢を頼まなきゃ、今頃…」と言ったまま、えりちゃんが涙ぐんだ。

「そうなの。ありがとう」

 カメさんもすぐに危険を察知して、管轄の警察に連絡してくれたのだ。こわっぱの亮介と子どものえりちゃんが言うことでは、警察といえども、大御所高司名誉総長の部屋に乗り込むことなど、できなかったろう。

 棒で殴られた上に落とし穴にはまった小鈴を引っ張り上げてくれたのは警察の方々だったらしい。小鈴もやっと警察に助けてもらえるようになったわけだ。


 12 エピローグ3

 百ベエは相変わらず、心ならずもアカネちゃんに薄められたウーロン杯をちびちびすすっていた。

 今日こそはまねこちゃんのショーの日だ。

「まねこちゃんは?」と小鈴は薄められたウーロン茶をすすりながら言った。

「もうこねえよ」と、百ベエが横を向いたままぶっきらぼうに答えた。

「そうなの」

 アカネちゃんが太い人差し指を唇に当てた。何も聞くなと言うことだろう。ものまねまねこちゃんを長いこと、変わらずに支援してきたアカネちゃんだ。しかも、怖い人が来るとそっと裏口から逃がしたりもしていたらしい。そうモモカちゃんが言ってたっけ。

 ものまねまねこちゃんには何か事情があるのだろう。小鈴はうすうす勘づいていた。

 百ベエがあまりに寂しそうだったので、何にも言わないでおいたのだ。

 運命を異にしながらも、姿かたち、声がそっくりな、真田真知子の大成功を知りながら、この横浜場末のオカマバーで歌い抜いてきたものまねまねこちゃん。そっと離れた事情は探らない方がいいと、小鈴も思った。

 百ベエが殺人の容疑をかけられた時さえ、口を割らず、守ってきたのは、このことらしい。

 一息おいて、百ベエがすうっと消えた。まだ飲み足りなそうだったのに。なんといっても、水割り、薄いから。

 百ベエの背中が丸かった。

 そっとしておこう。

「まねこちゃん、本当にもう来ないの?」と小鈴がアカネちゃんに聞いた。

 あの子が歌うと、アカネちゃんの店がぱっと明るくなるのだ。明るい声だ。

「このところ、介護をしているようで」とアカネちゃんが言った。

「そうなの。おかあさん?」と小鈴が聞くと、アカネちゃんが口ごもった。

 聞いてはいけないことだったのだろうか。

「おかあさんらしいわよ。でも、かなり悪くて、車いすに乗るのが精一杯だって」

「そうなの。脳卒中にしちゃあ、若すぎるね」と小鈴が言うと、アカネちゃんが声を潜めていった。

「うん、ヒミツよ。百ベエさんには」

「うん、わかった」

「といってもね、私もよくは知らないんだけど。百ベエさんが、言わないもんだからね。まねこちゃんの言うことをつなげると、おかあさんを雪の中から救って、子どもを引き受けてくれたんですって。それがまねこちゃん」と、アカネちゃんは小鈴の隣でソファに座った膝を両手で抱えて引き寄せながら言った。

「そうなの。ずいぶん寒そうな話ね」

「そうなのよ。北の方の人でね。なんか、やっぱりアヤシイ人に見初められた薄幸な美人だったらしいわよ。秋田美人ていうの?百ベエさん、惚れていたみたい。横浜のその手の人から、秋田の実家に逃げたんだけど、逃げ切れなくて雪の中、死にかけていたところを、百ベエさんが助けたの」

「そうなの。幸せ薄い女性ね」

「そうなのよぉ、あたしみたい」と、途中から話題に参加していた静香ちゃんが言った。

「え?」と言って、小鈴が静香ちゃんを横目で見た。

 静香ちゃんの眉毛と顎がくっきりと見えた。小鈴の視線を感じた静香ちゃんが、にっ、と笑った。アカネちゃんが気にせず続けた。

「で、命は助かったけど、脳の方はダメだったみたいよ。それでも、車いすに座れればね」

「で、ものまねまねこちゃんは?」

「子供は大丈夫だったのよ。おかあさんが懐で温めていたらしいから。で、百ベエさんが施設に預けて、面会にちょくちょく行ってたみたい。おかあさんの方にも」

「そうなの。でも、何でヒミツにするの?」

「そこがわからないのよね。あの、ものまねまねこちゃんの才能があれば、百ベエさん、左うちわなのにね」

「そうね、なんで、売り出さないの」

「売り出すどころか、うちみたいな場末のさぁ、オカマバーで歌わせて。その分、うちからはきちんとお金払っているけどね。でも、あの子の声だから、売り込めばなんとかなると思うの。ものまねじゃなくて、あの子のオリジナルで」。

「ふうん。でも、なまじ似ているから、二番煎じみたいに見られるのかな」

「そうね。それに、ものまね番組からも声がかかったことがあるんだけど、絶対に出なかったのも不思議」とさらに参加者が増えた会話の輪のなかで、モモカちゃんが言った。

「そうなの」と小鈴は言って、アカネちゃんの顔を見た。

 アカネちゃんはうつむいたまま、濃いお酒に炭酸を入れたハイボールをマドラーでかき混ぜている。あんまり混ぜると炭酸が抜けるというのに、ずっと赤いマドラーをくるくると回している。

 決して表に出ようとしないまねこちゃんの顔を思い出した。まねする相手はスポットライトをたくさん浴び、日の当たる道を歩いている。

 ものまねまねこちゃんの顔に一条の光が差した。幸せ薄い母親の顔に射したのと同じ色の光だ。百ベエが一生懸命照らしている。

 小鈴は日陰の道を選んだまねこちゃんの明るく清んだ歌声を思い返した。


                完

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となり近所の殺人事件 @suzukiyume

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