本作に出てくる彼女のロジックは、常に自分自身の『生』に真向かっており、故に、隣り合わせの『死』に関する哲学も並行している。
自分自身の『生』を忌む彼女曰く、『死』とは『生』が在るという実感の最たるものであるらしい。故に『死』は選ばない。しかし、『生』でいたくはない。
彼女の意見は常に、どう生きる、どう死ぬ、そこに限定されていないのだ。偉大な死生観はたまに、常軌を逸した論法で人々を驚かすことがあるけれど、そういった迫力とはまた別のものをこの作品は内包している。『生』でなくなる方法をとれば、『死』という限りない『生』からの暴力が襲いかかる。ここに、『生』と『死』が実は対極のものとして書かれていないことを示す要素があると思う。
死とは、生の一機能であるとは誰の論理であっただろう。『死』に生の実感が伴う描写に、この論理の強調を感じた。人はやはり、生のうちに死ぬのだ。であれば、『生』に溢れた人の手の温もりに、気まぐれに身を委ねることは、『生』に対する否定でも肯定でもない。あとはロジックではなく、彼女の仕草や表情が物語っていたことだろう。
果てしない生に対する問いかけに対し、意外とも意外でないとも取れる抜け道を読者に示す秀作。深い迷宮に見えた場所も、引いて見ればただの簡単なひとつの道であるわけだ。