夜になったら逢いましょう
朔
夜になったら逢いましょう
冬の凍てつく風の中、少年は小舟に乗って夜の海に繰り出していました。とても暗い、暗い場所です。昼の鮮やかな
しかし、そんな暗闇の中でも
さて、少年が陸からかなり離れたところまで進むと、地平線が何やら可笑しいことに気づきました。道標であった夜空の星々が、まるで川に浮かぶ花のように海に流れ込んでいるのです。そのことが当然であるかのように、ずっと昔からの決まりごとであるかのように、素知らぬ顔で流れてゆきます。あまりに自然に流れてゆくものですから、少年は、はて、星とは海でも生きてゆけるものであったか、と思ったのでした。しかしすぐに思い直し、そんな訳はない。これは何か可笑しいのだ、と小舟を進めて流れくる星々から離れようとしました。
必死に
少年は手を伸ばして近くにあった星を海の水ごと
「おい、お前。何をしている」
照明作りに夢中になっていた少年に遠くから声がかかりました。野太い、男の声です。驚いた少年は掬い上げた星を海に落としてしまいました。
声の方を向くと、照明が一つと少年よりも大きい影が二つ、近づいてくるのが見えました。恐らく、舟に乗った男たちです。少年は怒気の感じられる声に少々怯えていました。
小舟のすぐ
「お前、こんなところで何をしている。
彼らの乗っていた舟の先には
少年は腰が引けて、中々返事ができませんでした。見兼ねた男が少し穏やかに話します。
「此処は、神聖なる星の海だ。夜空に輝く星座たちが、月に一度だけこうして降りてくる。神話に出てくるような伝説たちが、だ。だから誰でも立ち入っていい場所ではない。どうやって辿り着いたかは知らんが、早く立ち去れ」
諭す男に、しかし少年は食いつきます。
「立ち入ってはいけないのなら、貴方方は何をしているのですか」
「私たちは死者を流しているのだよ」
奥に座っていた男が割って入りました。手前の男よりも上品そうな、軽やかな声です。おい、と手前の男は彼の発言を咎めます。
「良いではないか。
そして、笑みを浮かべる顔を少年に近づけて説明を始めました。
「君も、死んでしまった者が星になる、という話を一度は耳にしたことがあるだろう」
少年は頷きます。男もそれを確認して続けました。
「私たちは死者が星になれるように月に一度、こうして夜空が降り立つときに此処に来る。そして、彼らを流すのさ」
男は自身の乗っていた舟の後ろを指しました。布に包まれた、人の大きさくらいの何かを。中身を察した少年は顎を引きます。
「此処に流した死者は、伝説の星座たちと肩を並べて数刻後には夜空に帰る。そして、来月にはまた現れる。星空の一員となる訳だ。だから
手前の男をちらりと見ると、彼は不満そうな顔をしていました。それを無視してほら、と軽やかな声は続けます。
「下を見てみるといい。其処にある星は、先月私たちが流した此奴の友人だ。死者は姿を変えて生きているのだよ。君も、わかったら帰りなさい。彼らの静かな時間を奪ってはいけない」
海に立ち入ってはならない理由に納得した少年でしたが、彼は引き下がりませんでした。
「話は分かりました。それでも帰る訳にはいかないのです」
少年は二人の男を見上げます。そんな彼の表情に浮かぶ僅かな焦りに気づいたのは、奥の男が先でした。
「何かわけがあるようだね」
少年は頷きます。
「少女を探しているのです。僕と同じくらいの背丈の、黒髪の美しい少女です。これと同じ、藍の耳飾りを付けています」少年は自身の耳を指しました。「毎晩浜辺で逢う約束をしていたのに、先月から姿が見えないのです」
「それで海に居ると?」
「……馬鹿げているのはわかっています。けれど村中を捜しました。彼女は約束を破ったこともありません。もう、村の外に居るとしか思えないのです」
少年の切実な訴えに男たちは黙りました。彼の心情を察して同情こそしましたが、それでも決まりは決まりです。例外は認められません。
何と言葉をかけて
「しまった、鯨だ」
野太い声が溜め息を
「くじら?」
少年は顔を上げます。すると焦りを含んだ軽やかな声が説明をくれました。
「鯨といっても、君の想像するところのそれとは全く違うがね。ギリシャ神話に出てくる化け鯨さ。この季節になると南の空に現れる星座。まあそれも、こうして好き放題に泳ぎ回っている訳だけど」
「近づいてきた。舟にしっかり掴まったほうがいい。波に振り落とされるぞ」
野太い声が云いました。少年は云われた通りに小舟の
月光に浮かび上がる波紋が迫り、舟まで届くと激しい揺れが起こりました。真下を巨大な影が通ります。少年たちは各々必死に舟にしがみつき、海の中の星々も、鯨の動きに合わせて歪みます。
鯨が丁度舟の下に潜ったとき、それは大きく体を
落ちていく間、少年は鯨を見ました。男の言うようにそれは少年の知っている鯨とは似ても似つかない凶暴な見た目をしていました。見たこともない程の巨体にゴツゴツとした胴体は、元々星座だからでしょうか、光を纏っています。それに、身体に対して
男たちの叫ぶ声が聞こえ、少年は死を覚悟しました。そして水面に
猛烈な衝撃と共に、少年は星の海に沈みます。痛い程に冷たい水。薄れゆく意識の中、彼は自身の身体が幾つもの光に触れていくのを感じました。例の、流された死者でしょうか。少年は涙を流します。肌に触れる
少年の居なくなった海上には男たちが取り残されていました。鯨は海に潜り直し、そのときに起こった津波のような波にも耐えた男たちは呆然と少年の落ちた辺りを見つめていました。静けさが刺すような寒さを助長します。
「
野太い声が訊きました。
「いや、あれはもう無理だろう。星座になったところを弔おう」
軽やかな声が、声音を落として返しました。
二人は
「海に落とされなくて助かった」
野太い声が布に覆われた
「それにしてもやけに軽い。子供か?」
丁寧な手付きで顔の部分だけ布を剥がすと、男は身体を硬くしました。其処には、黒髪と藍の耳飾りが美しい、腐敗した少女の姿があったのです。
「半月程前、病で倒れたそうだ」
背後から、他の骸を海に流し終えた男が静かに云いました。
「――お前、知っていたのか」
「ああ」
「なら
「云って
「しかし……」
野太い声は言葉を詰まらせました。
「彼奴のことは残念だが、これで良かったように私は思う」
男たちは暫くの沈黙の
それから、南の地平線では星々が海から空へ流れてゆきました。海の水ごと吸い上げるように、仄かな光は夜空に昇ってゆきます。光の溜まり場となっていた海は元の闇に戻り、凪いだ水面には反射した三日月だけが残りました。星々の帰還です。
その内に二つ、寄り添い合う星が増えたことに気づいた人はきっと少ないでしょう。彼らは今まで通り、夜になったら出逢うのです。
夜になったら逢いましょう 朔 @Wasurenagusa_iro
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