海は、きねんの空を映す青

王子

海は、きねんの空を映す青

 空というのは、こんなにも穏やかでのっぺりしたものだったのか。

 大の字で体を預けた海はとても静かで、生暖かくて湿気を帯びた風がときおり水面をざあっと走る。初夏の風が気だるく、ぼくの上を通り過ぎていく。

 ぼんやり眺めていた空は、乾きかけの筆で描いたみたいな雲が幾つかあるばかりだ。

 時間も、空も海も風も、ぼくも、人々の営みも、何もかもが止まってしまったようで、なんとなく心地が良かった。嵐よりもなぎがいい。争いよりも平和がいい。みんなそうに決まっている。

 さざ波に混じって、ぽちゃんと音が聞こえた。音の先を見れば、るぅちゃんが水面からふくれっ面を出したところだった。

「どこに行ったかと思えば、またこんなところでサボって」

 ぼくは、のったりとした空に視線を戻した。

「こうして空をじっと見ているとね、空が近づいてくるように思えるときがあるんだ。いや、空に落ちていく感覚の方が近いかもしれない。わかる?」

 ばしゃっと乱暴な音がしたかと思うと、それはぼくの顔に降りかかった。

「ちょっと。何するのさ」

「ふぅくんは、すぐに話をらそうとする」

 まじめに尋ねたつもりだったのに、答えの代わりに水しぶきで返されては困る。怒られるのはもっと困る。いつものことだけれど。

 この空は、ぼくにとっても、るぅちゃんにとっても、記念すべき空になるのだと思う。良い記念か悪い記念か、それはまだわからない。これから先、何度もこの空を思い出しては考えることになるだろう。だから今のうちに目に焼き付けておかなければいけない。

 カシャ。

 るぅちゃんが顔の前で構えた仕事道具。名前は知らない。ぼくも雇い主から渡されてはいたけれど、簡単に使い方の説明を受けただけだった。だから、ぼくとるぅちゃんの間では、雇い主が説明の途中で口にしたように「残す機械」と呼んでいる。残す機械は、小さな窓からのぞいた景色を、ボタンを押すだけで記録できる。記録できる回数には限りがあるから無駄に使わないようにと念を押されていた。なのに、るぅちゃんは今さっき、無駄に一回分を使ってしまった。

「サボっているところ、きちんと記録したからね。ほら、行くよ」

 残さなければいけない貴重なものはぼくの背中の下にたくさんあるのに、あの機械の中にまぬけな顔をしたぼくが記録されているのはなんだか申しわけない。るぅちゃんの後を追ってぼくももぐることにした。

 水の底は水面よりもずっと静かだった。水の中はいつだって静かだ。おまけに、透き通っていてきれいだ。優しい匂いに包まれていて、嵐でなければ水は温かい。

 海の外と海の中では全く違う世界だけれど、なにより違っているのは空だと思う。

 見上げれば、陽光を溶かしたネオンブルーが揺らめく天井。ぼくたちがいつも見ている空。さっき見た空も嫌いではないけれど、退屈ではある。海の中で見る空は変化し続ける。空だけじゃない。海の中は変化に満ちている。次から次へと新しい潮がやって来ては、ぼくたちに別の顔を見せるから、飽きる暇がない。海は広くて穏やかだけれど、それは停滞しているということではないのだ。

 ぼくとるぅちゃんが残す機械をたくされたのも、そういう流れの一つなのかもしれない。

 二人で歩く海の底は、どこまで進んでもひっそりしていた。

 できたばかりの海には、魚も海藻も、流れ着いてはいなかった。もちろん人間の姿もなかったけれど、想像していたよりも街の形は、はっきりと残っていた。

 移動手段となる乗り物が走る道路、その両脇に並んでいる街路樹、寸分の狂いもなく一直線に並んだ高い建物、人間の顔をモチーフにしたであろう石像、おとなしく座った犬の銅像。残っていないものもある。道路に乗り物は見当たらないし、建物自体は無事でも、中に入ってみると空っぽなんてこともあった。みんな流されてしまったようだ。

 残っているものも、何かがあったはずの空白も、残す機械は平等に記録していった。立ち止まってはボタンを押し、見上げてはボタンを押し、細い路地を覗いてはボタンを押し。この繰り返しに、どんな意味があるのだろうか。ぼくたちが棲む星には無い文化だから、この作業にどれほどの意義があるのか分からない。

 この星の人々は、ぼくたちと比べて、十分の一ほどしか生きられなかったのだという。「しか生きられない」という言い方は正しくないのかもしれない。どんな生き物だって精一杯生きていて、他の生き物と命の長さを比べてうらやんだりねたんだりはしないのだから。

 でも、命の長さが違えば文化も価値観も違ってくるわけで、その一つが、目に映るものを切り取って記録に残すことだ。他の動物とわざわざ比べてみるならば、海に生きるぼくたちは長い寿命を持っている。それに、海の世界はいつだって変化を求めてうねりながら進んでいく。その中のほんの一瞬を切り取ることは、ぼくたちにとって無意味だ。

 残す機械は、もともとぼくたちの星には無かったものだ。友好の証としてこの星から贈られ、今は優秀なエンジニアの手にわたっている。水に沈んでしまった星の調査と記録を任された、ぼくたちの雇い主に。偉い人からの依頼をかなえるため、残す機械は水の中でも壊れないように改良された。莫大ばくだいなお金が動いたらしい。

 るぅちゃんは雇い主に尋ねた。「そこまでして記録を残さなければいけないの」と。

 雇い主は困ったように笑って語り始めた。

「彼らは、景色を、自分や家族を、ときには何でもないような風景を、この機械に記録してきた。彼らにとって記録することは、よほど重要なことだったみたいだね。だから海の星にも贈られたんだろう」

 一呼吸を置いたかと思うと、真剣な眼差しをぼくたちに向けた。

「あの星の人々が、海の星に棲む我々にひどいことをしたのは確かだ。それでも、彼らに命があったことを忘れてはいけない。たとえ誰もが忘れてしまっても、この機械だけはおぼえている。私はこの仕事を、とむらいだと思っているんだ」

 弔い、か。

 残す機械の残り回数も少なくなってきたところで飽きてしまって、また水面で揺られながら休もうと地面を蹴った。すうっと体が浮く。両足をそろえて、水を切って進む。

 水面が近づいたとき、なにげなく振り返って下を見た。見えたのは、四角いマーク。大きな十字の交差点に、シンボルマークのように描かれていた。四方向に伸びる道路の付け根あたりを、しま模様のラインが横切っていた。交差点の真ん中を通り、斜めにもしま模様が走っていた。この巨大な記号も、彼らにとって重要なものだったのだろうか。もしかしたら、ここは聖域のような場所で、立入禁止を示していたのかもしれない。

 水面に出て空を見上げると、日はだいぶ傾いていた。べたりと青が塗られていた空に、徐々に赤がにじみ始めていた。

 ぼくは大の字になって深く息を吸った。

 彼らが棲んでいた星を水に沈めて。彼らの習慣をなぞって記録して。

 弔い。雇い主の言葉が、ぼくの頭から離れなかった。

 どんな人達だったのだろう、この星の人達は。ぼくはまだ会ったことがない。今後も会うことはないのだけれど。ただ、彼らの一部の人達が、何をしたのかは知っている。

 海の星に移住してきた彼らは、持ち前の器用さで、あっという間に一端を埋め立てて陸を作り上げてしまった。陸ができてしまうと、移り住む人の数はどんどん増え続けた。陸作りはさらに進んで、海の星の偉い人達は何度もやめるように言ったけれど、彼らは聞く耳を持たなかった。こちらの星の偉い人達が、こっそりと後押ししていたらしい。約三割が陸になってしまったところで、ついに海の星は動き出した。

 海の星とこの星はつながっている。星同士は離れているけれど、目に見えないパイプみたいなものがあって、空間を越えて星の間を行き来できるらしい。

 移住者たちが使ったのも、残す機械を贈るときに渡ったのも、海の星が水門を開いて、この星を沈めるために水を注ぎ込んだのも、そのパイプだった。

 寝そべったぼくの横を、ゆらゆらとただようものがあった。白くて平たい。つまみ上げてみて、海の星では当たり前に使われている耐水性の紙だと分かった。

 でも、白紙ではなかった。文字が書かれていた。これは、誰かにてた手紙だ。

 触れてはいけないものを拾ってしまったような罪悪感。この星の人を知る手がかりがまだ残っていたことへの好奇心。混乱した。ただ記録をしに来ただけなのに、こんなもの見付けてしまって。

「ふぅくん! またサボってる!」

 きっと、まぬけな顔をしていたと思う。るぅちゃんは「何それ」と、ぼくの手の中の紙を指差した。とっさに手紙を折りたたむ。

「手紙、だと思う」

「ふうん。なんて書いてあったの」

「拾ったばかりだから、まだ読んでない」

「じゃあ読んで」

 こともなげに言うけれど、手紙というのは、宛てる人を決めて書かれているわけで、別の誰かが間に入って読んでいいものではない。誰でも知っていることだ。

 ためらっていると、るぅちゃんが圧をかけてくる。

「ふぅくんだって読みたいんでしょ」

「気になるけど」

「じゃあ、わたしだけ読もうかな。それ、こっちに渡しなさい」

「分かったよ! 読めばいいんでしょ」

 観念かんねんして、手紙を開いた。黒いインク、弱々しく震えた筆跡でつづらられている。


 どうか、この手紙が、海の星の人に届きますように。

 私は海の星に、あこがれていました。

 この星も宇宙から見れば青い星ですが、海の星の輝きには、かないません。

 いつか行ってみたいと思っていました。でも、行けそうにありません。

 今、私を流し去ろうとしている水は、やわらかくて、とても透き通っています。

 この星の海水とは違って、日が当たった水面には、光の粒がひしめき合っています。

 きっと、海の星で見たら、もっと美しいのでしょう。

 海の星に棲む人達のことも知りたかった。海の星で、会って、手と手で触れる。

 ただそれだけで、手紙よりも電話よりも、はるかに伝わるものがあるはずです。

 今は冷え切ってしまったこの手でも、あなた達に触れたい。つながりたい。そして、


 朗読ろうどくを止めると、るうちゃんは「読めない字でもあった?」と、からかうように先をうながす。読む代わりに手紙を広げて見せた。

「ああ。おつかれさま」

 手紙は充分な余白を残しながら、そこで終わっていた。

 沖に流されずにこのあたりを漂っていた理由も、手紙の主がこの紙を持っていた理由も分からない。手紙の主がどんな人なのかを知ることも、これだけでは不十分だった。ただ分かるのは、この手紙が、宛てた人に届いたということだ。

「るぅちゃん」

「何?」

「この手紙、どうしたらいいだろう」

 弔いについて考えていた。ぼくだったら、どうやって弔ってほしいのだろうかと。

 ぼくに背中を向けて、るぅちゃんは考えているようだった。ぼくは黙っていた。

 やがて、るぅちゃんは、珍しく自信なさげに口を開いた。

「持って帰った方がいいんじゃないかな」

「よかった。ぼくもそう思ってたんだ」

「わたし達の仕事は、記録することだからね。手紙の保存も記録のうちでしょ」

 もし、ぼくが病気か事故か自然災害か原因はなんであれ死んでしまったとして、手紙にさいの望みをたくしたとして、それが叶わないのはどんなに不幸なことだろう。

 手紙の主は手を差し出している。その温かい手を握ることはできなかったけれど、祈るように宙をさまよう手をそのままにはしておけない。

 代わりに伝えてあげるのが、せめてもの弔いというものだろう。

 空はすっかり橙色に塗り替えられていた。海の中で見上げる夕空も、息を呑むほどの絶景なのだけれど、手紙の主はきっと知らない。

 ぼくは手紙を折りたたんで、ゆっくりと閉まりゆく、この星の空を眺めた。

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