変わった人

櫻井紀

 深夜、暗闇の中カンテラの灯りがぽつぽつと見える滑走路に、櫻井の零戦が帰ってきた。



「流石、小園司令が目をつけていただけあるなぁ」

 櫻井の訓練に同行していた第二飛行隊零夜戦分隊分隊長である荒木俊士大尉が言った。


 零夜戦隊とは、夜間戦闘もできる零戦戦闘機隊のこと。

 三〇二空には、第一飛行隊、第二飛行隊と大きな編成があるのだが、零夜戦隊は第二飛行隊所属である。



 第十三期予備学生として去年、慶應大学を繰り上げ卒業をして海軍に入隊した櫻井は、飛行学生時代から異質な存在だった。

 飛行訓練では、一番最初に宙返りを覚え、無茶な急降下をして海面すれすれで飛んでみたり、追躡訓練では涼しい顔をして教官の後ろを取る一方、櫻井は絶対に後ろを取らせなかった。

 また、曳航機から縄でぶら下げた吹流しに弾を当てる射撃訓練の際には、「あの縄に当てて撃ち落としてやる」と言って本当に撃ち落としてしまい、「The blast of 櫻井」なんていう称号(あだ名)までつけられていた。


 破天荒な人間が大好きな三〇二空の小園司令は、そんな櫻井の噂をききつけると「絶対に欲しい!」と鼻息を荒くしていた。

 とはいえ、性格自体は穏やかで血の気が多いと言うよりも冷静、何を考えているか汲み取らせない立ち居振る舞いの櫻井を、小園司令は異質な奴だと言い、更に気に入った様子だった。


 操縦席から降りた櫻井の顔は涼しげだった。

「だいぶコツが掴めました」

 櫻井は、飛行学生を三週間前に卒業してここに着任したばかりの新人。夜間訓練は未経験なはずなのに、夜間単機での慣熟飛行、編隊飛行、編隊特殊飛行、追躡・接敵・攻撃訓練をたった三週間で会得してしまった。

 これらを不安なくこなせるのは、南方帰りの戦地経験者だけで、本来ならば荷が重過ぎるもの。

 現に、櫻井と同じ同期の新人は夜間の計器飛行をするのが精一杯だ。


 この時代、アナログ計器と計算と、自分の勘だけが頼りなのである。

「本当に大したもんだよ」

 荒木は素直に褒めたつもりだった。


「会得できたのは、ラバウル帰りの磐城上飛曹のおかげですよ。彼がいなかったら、こんなに早く会得できませんでした」


 謙虚すぎる奴だ、と荒木は思った。軍というものは、階級が全てのようなもので、下士官を立てる奴がいる世界ではない。娑婆野郎だ、と気に障るところだが、どちらにせよ会得できたのは櫻井に実力があったからだというのは火を見るよりも明らかだったので何も言わなかった。


 慶應大学法学部なんていう文系出身のくせ、皮肉なことに体育会系且つ理数系の軍隊の中で腕や才能を他の誰よりも発揮している。

 荒木にはそれが奇妙でたまらなかった――いや、荒木だけじゃない。他の人間も同じ事を思っている。


「本当に変わった奴だなぁ」

 荒木はそれだけ言った。このなんとも言えない気持ちを表現するにはこの言葉しかなかった。

 小園司令が異質な奴だと言って一目置いているのも今なら頷ける。


「よく言われます」

 変わった奴、という言葉の意味をわかってか知らずか、困ったようにそう言う櫻井を本当に罪作りな男だと思った。


「慶應に行くくらいなら兵学校の方がお前には合っていたと思うんだがな」

 海軍兵学校卒業である荒木にはわからなかった。何故櫻井が軍ではなくわざわざ大学を選んだのか。


「長男である私の進学は家庭の意向でしたので」

「とはいえ、亡くなったお前の親父さんは陸軍大佐だったそうじゃないか」

 櫻井の眉がほんの一瞬、普通ならば見逃してしまうほど一瞬顰められたのを、荒木は見逃さなかった。

「何も知りません、父の事は」

 そう言って目を背ける櫻井に、これ以上言葉をかけるのはやめた。

「……そうか」


「早く寝ろよ」

 荒木はそう言って、櫻井に背を向け士官宿舎へと歩き出した。その背中を、櫻井はじっと見つめたまま立っていた。



***



 櫻井の天才的な才能は三〇二空内では既に有名になっていたのだが、整備のみつきの耳に入ってきたのは極最近の事。

 地上整備員として地上で整備をするようになってから、訓練に出かける櫻井の背中を遠目で見るたびに噂の端々を思い出して、櫻井紀という人物に興味を湧かせた。


 凄いと言われるような人間というのは、どこか近付き難かったり、または上流と呼ばれるような立ち位置の人間と交流を好むものだが、櫻井はどこか違っている。

 今も、みつきが立ち寄った戦闘指揮所の窓から、向こうで下士官兵と笑顔で話している櫻井が見えていた。


「櫻井は変わったヤツだよ」

 当麻もそう言う一人だった。当麻も同じ戦闘指揮所内で窓の外を見ている。


「櫻井はあまり自分自身に興味がないんだ。腕が良くて成績優秀でも、本人は然程気にしちゃいない。だからそれを快く思わない連中からは顰蹙を買って敵を多く作ったし、その代わり人の長所を引き出したりするのが上手いから慕うヤツも多かった。学生時代からずっとそう――それだけは変わらないよ」


「何、俺の話?」

 いつの間にか櫻井が指揮所に入ってきて不満気にこちらを見ている。

「ああ、櫻井は自分に興味ないんだなって話」

 当麻の言葉に不満気な様子を顔に出したまま

「そうかもなぁ」

と、櫻井は椅子に腰掛けた。


「今日は非番?」

 櫻井は「ああ」と頷いた。外に掲げられた黒板の搭乗割には櫻井の苗字はなく、今日は非番だ。

 地上は蒸し暑く、長袖の飛行服と中に着込んだ軍服はサウナスーツと化している。

 櫻井は飛行服の白のマフラーを外し、胸元のボタンを下まで開け、暑そうに深呼吸した。

 当麻はくせ毛で乱雑に跳ねた前髪を邪魔そうに掻き分けながら汗を拭い、軍帽を団扇代わりにして仰いでいる。まるで風呂にでも入ったかのように、二人とも髪が濡れていた。

 櫻井は、机の上にあった米国爆撃機のB-29の模型と零戦の模型を手に取り、宙でそれらを動かしながら、

「こんだけ暑いと、アメ公も来ないだろうな」

 と苦笑いした。

「え? どうしてですか?」

 みつきが言った。

「暑いと空気密度が減って、エンジン出力が弱まるだろ? 自然と故障も増えるし上昇高度も速度も最大限発揮できない。とすると、無駄な手間賃がかかるだけだから、しばらくは来ないということ」


 みつきは、単に暑いから――と少しでも思った自分を恥ずかしく思った。整備士であるのに、そういった理由を分析できなかったのは、多分戦争への意欲――というより、今戦争をしているという危機感が足りないからだ。


「俺たちみたいな新米にはこういう暇な時に腕を上げておかないといけないわけだよ」

 当麻がそう言いながら櫻井の横に座って、櫻井の動かす模型を眺めた。みつきもそれに自然と目をやると、面白い物に気がついた。


「へえ、零戦の後方に斜銃ついてるんですね」

「ああ、斜銃がついているのが夜戦型と呼ばれるやつで、ついてないのが普通の零戦だ」

 当麻が零夜戦の後方にある斜銃を指差した。零夜戦には、垂直尾翼の付近に斜め前方へ突き出た斜銃がある。

「彗星にもついてるの知ってるよね? だからあれは彗星夜戦。 見て、これをこうして敵機の下に回り込み、腹を狙って撃つんだ」

 櫻井の持つ手を、当麻が動かす。偵察員である当麻は、航法だけでなく爆撃、銃撃の専門で、弾の入射角を瞬時に把握し的確に当てる能力に長けている。

「訓練では、かなり上手く曳航機の的に当てるよな、要人ペアは」

「水杜の操縦あってこそだよ」

 当麻ははにかんだ笑顔をした。彼もまた、下士官兵であるペアの水杜を尊敬していた。



「よぉー櫻井! 俺は暇だ!」

 突然飛行服姿の男が大きな声でずかずかと指揮所に入ってきた。

「よぉ! 当麻」

 当麻に気付いて当麻にも声をかけるその男は、櫻井よりも少し大柄な体格で、太い眉毛と焼けた肌が印象的だった。入ってみつきを見るなり、馴れ馴れしく握手をしてきた。

「君が噂のみつきちゃん? 俺は水地透少尉、よろしく」

 水地は櫻井と同じ、零夜戦分隊所属である。

「あ、よ……よろしくお願いします」

 思わずたじろいでいると櫻井が水地を見るなり溜め息をついた。

「おいおい。困ってるだろ、少しは慎め。嫁さん貰えなくなるぞ」

「へーへーわかりましたよ」

 水地は不貞腐れたように言って、みつきの手を放した。水地は女好きで有名だ。

「そういえば水地、聞きたいことがある。ベッドの脇に置いてある一升瓶。あれはなんだ?」

 櫻井、水地、当麻の三人は、士官宿舎で同室だそうで、最近ベッドの脇に酒を置いているのを二人に目撃されている。

「いつでも飲めるように、だよ」

「ほーお、流石大酒豪だなァ」

 櫻井はわざとらしく驚いて見せた。

「櫻井、俺はなぁ。いつかリベンジしてやるんだ」

 水地は恨めしそうに言った。


 水地と櫻井と他同期で酒を飲みに行った時のこと。

 櫻井は「あまり飲めない」と言っておきながら、顔色ひとつ変えずに次々と酒を飲み、全員潰した後一人でさっさと帰ってしまったのである。

「あの夜の事は忘れたとは言わせねえ! 大酒豪は貴様だろうが!」

「そうだったか?」

「とぼけるな櫻井! いつか貴様を潰してやるからな!」

 櫻井は意地悪に口角を上げて、ただにやにやしている。


「櫻井は大ザルで有名なんだ」

 当麻がみつきにそっと耳打ちをした。櫻井と酒を飲みに行った者は、二度と御免だと口を揃えて言っている。そのせいで、櫻井と酒を飲みに誰も行きたがらないのだ。

「俺も一緒に飲みたくはない」

 親友の当麻ですらこれである。

「櫻井は本当に変わった奴だよ」

 さすがにこれにはみつきも同意せざるを得なかった。

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皇國の英雄 ―それは、私が見た零戦パイロットの記憶― ケイ @kei_onigiri

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