たとえ百年経とうとも

るた

たとえ百年経とうとも

 私の目の前には愛する妻がいる。愛する妻の可愛らしい瞳から、ぽろぽろと雫が滴り落ちてゆく。その雫はこの世のどの宝石よりも美しく、またこの世のどの草花よりも儚く切ないものである。この雫は、最期まで人生を共にすることのできない大馬鹿者の私のためにあるのだ。優しい優しい我が妻は、私の我儘を受け入れてくれた。その雫を零しながら。


 私の背後には、これから私が乗り込む戦闘用航空機がある。この航空機は操作が少し不自由な部分があると説明を受けた。しかし、まっすぐ目的地へ向かうのには何ら問題は無いそうであった。私はこれから、お国のために、愛する妻に幸せな生活を送ってもらうために、この航空機に乗り込み、敵地へ向かうのである。


「待っていてくださいね。絶対に」


 妻が俯き、声を震わせながら私に嘆願する。これから敵地へ向かうというのに、どこで待てというのだ。私が声を出そうとすると、妻はまっすぐ私の方を向き、泣き腫らした目で私に訴えた。


「待っていてください。あなたが遠い地に向かうならば、私はあなたと出会ったこの地で死んでみせましょう。あなたが海に沈むなら、私もあなたと昔見た海に沈み、あなたに会いに行きましょう。あなたがこれから、空に向かわれるというならば、私はあなたが乗っているであろう雲を見つめながら死んでみせましょう。私はあなたを愛しています。…あなたが居られる場所に、私はついて行きます…」


 妻の言葉は、私のような大うつけには勿体ない言葉であった。私はこんなにも、妻に愛されていたのだ。それだけで嬉しくて、私の死んだ魚のような眼からたらたらと水が流れ行く。妻は言葉を続けた。


「昔、母からこんな言い伝えを教えられました。人間は、永い時の中で互いに最愛の相方を見つけるのだそうです。その相手とは、何年経っても、何十年経っても…100年経っても想い合い、結ばれるのだそうです。だから、もし、雲の上でまた出会えたら、その時は…」


 妻は何かを言いかけ、口を噤んだ。きっと妻は、自分の言っていることが我儘なことだとでも思っているのだろう。結婚したての時からずっとそうだ。妻はいつも、私のことだけを考えてくれる人であった。こんな良妻に、私は一体何をしてやれただろうか。


 せめて、最期に。私は妻をそっと抱き寄せ、私の想いを伝えた。


「…愛している。たとえ100年経とうとも…君を見つけてみせる。そしてその時は…君を必ず幸せにする。約束だ」


 私がそう言うと、妻はふふっと笑い、私の顔を見て、


「今この時も、幸せですよ。あなたと結ばれたことも、あなたの最期を見届けられることも。あなたを追いかけて行けることも」


と言った。私は本当に幸せ者である。神よ、私をこんな素晴らしい妻と出会わせてくれてありがとう。ただ、ひとつだけ我儘がある。どうか、大うつけの、馬鹿な私の願いを聞いてやってはくれまいか。


 100年経っても、また妻と出会わせてはくれないか。


 私の上司が、早く乗れと私を急かした。上司の顔は申し訳なさそうな顔であった。私は最期に妻の手を握り、最期の挨拶を交わした。


「それじゃあ、お先に。また百年後」


 妻は笑顔で、私を見送った。…妻の笑顔は、泣きじゃくったせいで上手いものではなかったが。


 それでも私には、十分すぎる幸せだった。これで、100年は乗り越えられる。


―――――


 時は流れ、戦争は終わった。戦犯とされた者たちが処刑され、間もなく恒久平和の時代がやってきた。それだけでなく、天皇さまの生前交代により、時代が一区切りを迎えた。戦争は既に100年前の「悲しい」過去と化し、私が行った戦果もまた、記録に残っている。


 戦闘機に乗り込み、敵陣にて散華したあの時から100年。私は新たな姿として生を受け、新しき日本を生きている。ヒト型の機械…ロボットというものや、黒電話はすまあとな形になり、黒電話もとい、固定電話とやらを家に置かぬ時代になった。私を含め、周りの人間のほとんどが「スマートフォン」なるものを持っている。100年後の日本はあの時とは違い、人間関係もやたら複雑で、前世の記憶を持っているらしい自分にとっては、いささか不便な御時世であった。それでも私が生きている理由はもちろん、愛しの妻に出会うためである。私は約束したのだ。もう一度、妻に出会うのだと。そして、幸せにすると。


「せんぱーい、また難しいこと考えてるんですか?」


「ああ、いや、まあそんなところだ」


 私が学校の教室で物思いに耽っていると、私の現代でできた後輩が横に並んで話しかけてきた。この後輩はつい数ヶ月前に私と同じ学校に入学し、私と出会ったその時から、やたらと話しかけてくるのだ。一体どういった了見なのだろうか。後輩はにやにやしながら私の顔を見つめる。


「先輩って、ずーっとそんな感じですよね。…結婚する前から」


「うるさい。そもそもお前が勝手に話しかけて…え?」


 結婚する、前から、?


「先輩先輩、もしかして、気づいちゃいました?」


 後輩が顔を覗き込んでくる。目を合わせると、後輩はふふっと笑い出した。その笑い方は、100年前に見たあの笑顔とそっくりであった。


「気づくの遅いですよ」


 後輩の姿が妻と重なる。私はただ最期の時に見た妻の姿ばかりを想っていたせいで、若りし時の妻の姿を忘れてしまっていた。それだけでなく、この後輩のことをうざったく感じていた。しかし、妻も最初は、こんな感じであった…。


「なるほど、私に構うのは前世譲りか」


 私が後輩に問いかけると、後輩は俯き、また私の目を見た。


「100年経っても、愛していますから」


 その言葉に、なんとなく「ずっと待っていました」という意味が込められているような気がした。私は妻がまた会いに来てくれていたことに気づかぬまま、ないがしろにしてしまっていた。私は本当に、大うつけの大馬鹿者である。


「…愛している」


 ここまで来て、この言葉しか発することのできない自分に腹が立った。しかし、そんな私の手を、後輩…いや、かつての妻は握ってくれた。そして、あの時と同じように、私に言ってくれたのだ。


「幸せにしていただけませんか?」


 彼女の瞳から、あの時と同じような、宝石のような雫が零れ落ちる。たとえ100年経とうとも、この美しさと儚さと、そして切なさは変わらないようである。


 そして、妻が私に向ける愛も、私が妻へ向ける愛も、たとえ100年経とうとも、変わらぬものであった。


 たとえ100年経とうとも、私は君を愛している。

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