自傷衝動
水無亘里
第1話
ぴちゃり。
そんな音が、トイレに谺していました。
私は肌を滑る柔らかい感触に、どうにもこそばゆく感じてしまい、歯を食いしばるようにして堪えていました。
そんな心情を理解しているかのように、彼女は舌を滑らせながら呟きます。
「いいの。恥ずかしがらないで……。もっと、あなたの、声を……、聴かせて……?」
つつー……っと、私の指の間を、柔らかいものが通過してゆきます。私は堪えきれなくなって、思わず声を出してしまいました。
「あっ、やっ……、ん…………」
必死に堪えていると、彼女は上目遣いに視線を上げてきます。
ああ、なんて綺麗な瞳なんでしょう。
よく、綺麗な瞳のことを、吸い込まれそうな瞳、などと表現することがありますが、そんな大げさな現象は実際そうそう起きはしないでしょう。
ですが、この、彼女の瞳であれば吸い込まれそうになるのも分かる気がします。
この瞳になら、私はいくらでも吸い込まれてみたいものです。
夜のように綺麗で、静かで、その深淵は一向に見えそうにありません。
その深みがそのまま、彼女の心の深さを表しているようで、その神妙な表情が、私の思考能力を奪います。
瞳だけではありません。
彼女の触れる指は冷たく、私の腕を掴んでいます。
見るからに細い腕です。全力で振りほどこうと思えば、いくらでも振りほどけるだろうと思うのですが、そんな気は微塵も起きません。
私の指を拭うその舌は、腕とは正反対に温かいです。
指の一本一本を執拗に舐められ、思わず身体が火照ってしまいそうなほどです。
ちゅぷ……っ。
水音が響きます。
その光景はどうしようもなく淫靡で、なのにちっとも不快ではないのです。
彼女の舌が指先をなぞるだけの、ゆったりした時間が流れていました。
もう、日は暮れ始めていました。
茜色に染まる女子トイレの個室に、私と彼女が収まっていました。
二人とも体格は小さめなせいか、それほど窮屈ではありませんでした。
とはいえ、もちろん充分な広さがあるとは言いがたいところです。
つまりは、狭いのです。
しかし、狭苦しい、というような苦痛を覚えるような心境ではありません。
それは何も私が閉所を好む習性だからだとか、そんなオチではありません。
それどころか、密着するように寄り添い合う二人は体温のせいか、少し熱気を帯びてすらいます。
ともすれば、汗ばんでしまうような、そんな環境に置かれながらも、私は一向に不快感を感じていないのです。
それは何故か。
答えは、何と言いますか。あまりに滑稽と言うべきか。荒唐無稽と言うべきか。はたまた奇妙奇天烈とでも言うのでしょうか。
とにかく、そこは、満たされていたのです。
彼女の匂いが。彼女の温もりが。
彼女の鼓動が。彼女の息遣いが。
まるで彼女そのものに包まれているかのような、彼女の濃密な気配。
そんなものが私の周囲を満たしていたのです。
言うなれば、私はそれで、満たされてしまっていたのです。
彼女で満たされた空間で、私の心は満たされていたのです。
右を見ても左を見ても、皮膚はその温もりを感じ取ってしまう。
鼻を塞いでも、視界には彼女が映る。
目を閉じても、息遣いは耳に残るし、僅かに身じろぎするだけで手足は彼女の身体に触れてしまう。
どう足掻こうと防ぐことの出来ない高揚。
逃げ場のない昂ぶり。
そんな中、彼女は、口を開く。
先程まで、私の傷跡を舐っていた舌を。その唾液に濡れた舌をチロリと揺らして微笑む。
「ねぇ、硫崎さん……。ずっと、私の傍にいてくれる……?」
そんな。
そんな甘い声で。甘い言葉を。甘い表情で言われては。
私には抗う術などありませんでした。
いえ、……私には、そんな気概は既にありませんでした。
彼女が望むのであれば、私はそれを望んで差し上げたい。
彼女が欲するのであれば、それを捧げることはなんだって苦にならない。
もらって欲しい。奪って欲しい。
受け取ってもらえるのなら、私は何だって明け渡したい。
私は、そんなふうに、考えていた。
何処か脳味噌が麻痺してしまったような、倒錯した感覚。
恋という名の魔法。……いや、違う。
まるで、それは……。
魔法という名の恋なのかも知れない。
……、なんて、馬鹿げたことを考えながら、私は特に悩むこともなく。
痺れたように火照る顔を、僅かに上下に動かすのだった。
自傷衝動 水無亘里 @aohi0mizna
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