空席
しましま
その席は空いている
キンコンと鳴るチャイムで、また一日の始まりを感じた。この生活ももう三年目。流れ作業のように過ごす授業にも慣れたものだ。
教室の一番左後ろの席で、僕はいつも通りゆっくりと動く時計を眺めていた。秒針が揺れるたびに、聞こえるはずもないチクタク音が耳元を駆け抜けていった。
チャイムはもうとっくに鳴ったのに、先生はまだ来ていなかった。その所為と言うべきかそのお陰と言うべきか、授業前にも関わらず教室は賑わっている。
ゲームがどうとか、タピオカとか彼氏彼女とか、僕には無縁の世界が広がっていた。どうしてそんな事で盛り上がれるのか、まったく理解出来なかった。
そして、教室に入れば一番最初に目につく違和感に誰一人として気づかない事に、なんとなく苛立ちを感じた。
ひとつため息を吐いて、僕はあの席に目をやった。僕の席から一番離れたところ。教室の一番右前の席。何度目を擦っても、やっぱりそこには誰も居ない。
席を眺めたまま時は刻々と流れ、相変わらず鳴り続けるチクタク音の中、僕の意識はだんだんと薄れていった。
『じゃあ、また明日ね』
この声を僕はしっかりと覚えている。優しくて、明るくて、暖かい声。
どうして君は居なくなったのか。
どうして僕だけだったのか。
頭を埋め尽くして出ていかない疑問たちは、どうしても自分自身で解決する事は出来ない。
僕が初めから違和感に気づいていたのなら、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれないとつい考えてしまう。
「ーーあ、ありがとう」
肘に当たって転げ落ちた消しゴムを彼女が拾ってくれた。これが僕たちの始まりだった。今思えば、その時に何も感じなかったこと自体おかしかったのだ。
僕は間違いなく、この時初めて彼女の存在を認知した。
ずっと隣の席に居たはずなのに、僕は彼女の事を何一つ知らなかったのだ。声も、顔も、隣の席だと言う事さえも。
だけどこの時の僕は、女の子が話しかけてくれた事がただ嬉しく、その悲しい事実には気づいていなかった。
それから毎日、僕の視界の隅には彼女の姿があった。
『趣味はパズルかな』
知的でクールな感じの彼女には似合う気がした。
『たまにお笑いなんかも見るんだよ』
僕のイメージの外側にいる彼女を知った。
『あ、君もそのキャラクター好きなんだ!』
たまたま同じキャラクターのキーホルダーを付けていて、たったそれだけの事なのに嬉しかった。
他にほとんど友達もいないし性格も暗い僕に、彼女はどこまでも優しくて、明るく接してくれた。
たくさん話をして、たくさんの表情を見た。隣の席でずっと真面目に授業を受けている姿が眩しかった。たまに忘れ物をした時は周りから視線を浴びながら、席を近づけたりなんかもした。一緒に帰る事だってあった。
いろんな彼女を見て、知って、いつのまにか彼女は僕の日常に住み込んでいたのだ。
そんな彼女との生活に違和感を感じたのは、消しゴムを落としたあの日から数えて丁度一ヶ月経ったある日だった。
「あ、母さん」
それは僕と彼女が一緒に下校している時のことだった。いつもの帰り道、僕たちは僕の母親と遭遇したのだ。女子と一緒に帰れる事だけでも奇跡みたいなものなのに、どうして母親とまで奇跡のエンカウントをしてしまったのかと、どうしようもない悲しさに心の中で泣いたのを覚えている。
気まずそうな顔をして黙り込んでしまった僕に、母さんは言った。
「あんた、友達ぐらい作りなさいよ」
正直、安心した。母さんも僕に気を遣って言っているのか、彼女に気を遣っているのか、彼女と二人で居た事には触れなかった。
そしてーー。
「それじゃ、風呂溜めて入っとくのよ?」
そう言って母さんは買い物へ行ってしまった。母さんは本当に、何一つとして、彼女の事に触れなかったのだ。
これが僕が初めて感じた違和感だった。
母さんが横を通り過ぎていった後、僕は呆気にとられて言葉を失っていた。決して安心した訳じゃない。むしろ背中に悪寒が走ったくらいだ。恋愛話とかが大好きな筈の母さんが、息子のこんな重大イベントに一言もなしなんて、やっぱり何かがおかしかった。
「ーーねえ。ねえってば! ぼーっとして、どうしたの?」
彼女に声をかけられるまで、僕はずっと考え込んでしまっていた。
この時彼女が明るく話をしてくれたものだから、そんな違和感はすぐに何処かへと飛んでいってしまったのだった。
しかし、その日を境に僕はあらゆる事でその違和感を感じることとなった。
「それじゃあペアを作って下さい」
ロングホームルームの時に先生が発した言葉。僕みたいな人間には迷惑極まりない言葉。だいたい、奇数人数のこのクラスで偶数分けをすること自体がおかしいのに、今日もそれは平然と行われた。
余り者同士で苦難を乗り切るのは、今日もまた同じだった。
欲を言えば彼女と一緒になりたかったが、流石にそれを実現する勇気はなかった。僕はわざと彼女から視線を離して、最後に余っていた人とペアを組んだ。
きっと彼女も友達とペアを組んでいる。当たり前のようにそう思っていたのに対して、僕が目にした現実はまったく違った。彼女は自分の席に座ったまま、一切動いていなかった。もちろんペアもいない。
あの明るく優しい彼女が余っている事だけでもかなり驚いたのに、次に先生が発した言葉に僕は更に驚いた。
「よし、全員ペアを作ったようだな。それじゃあーー」
心臓が一度だけ、重くゆっくりと強く鼓動した。激しい悪寒と怒りが同時にこみ上げた。
ただ一人座っている彼女はとても目立っていて、先生の位置から見えない筈はない。絶対に気づく筈なのだ。先生だけじゃない。誰かが必ず不思議に思う筈である。
しかし、僕の心を埋めていた不思議と怒りを置いてけぼりにしたままロングホームルームは進み、結局何もなく終わってしまった。
そして僕が最後に違和感を感じたのは、同日の放課後だった。
この前の母さんとの出来事に、さっきまでの奇怪な出来事。僕は自分の感じた違和感の正体を探るために、そしてさっきまでの出来事で落ち込んでいるだろう彼女を励まそうと、彼女に話しかけたのだ。
「えっと……なんのこと?」
「ーーーーえっ……?」
彼女が真面目な顔でそう言ったとき、ついに僕の中の歯車は動きを止めた。決して演技なんかじゃない表情を浮かべる彼女に、僕は言葉を失ったのだった。
それと同時に僕は思った。
今まで、僕が彼女と初めて話してから今までで、彼女が友達といた事があっただろうか。
僕以外の誰かと話している姿を見た事があっただろうか。
ただの一度でも、彼女の名を聞いた事があっただろうか……?
そうだ。そうなのだ。
僕は未だに彼女の名前を知らない。
名前なんて聞こうとも思わなかった。そして僕も名乗っていない。
どうして今まで何も……僕は…………。
そう思って初めて、今に辿り着いたのだ。そもそも僕は彼女の事を、その存在すら知らなかったのだと。
初めて話したあの時も……そして今も、僕は彼女の事を何も知らない。
しばらく固まったままだった僕は、無意識のまま、つい彼女に聞いてしまった。
「君は……誰?」
言ってからハッとした。聞いちゃいけない事を聞いたのではないかと少し後悔した自分がいた。でも、聞かなきゃいけない気もした。
多くの感情が渋滞していた僕の頭では、もはやそれが正しいのかどうなのか判断する事は出来なかった。
ただ、最後まで僕の中で変わらない気持ちがひとつだけあった。
ーー彼女は僕の友達だーー
消しゴムを落としたあの日から今日までで起こった事は、とても不思議で説明出来ない。彼女がいったい何者で、僕は今まで何を見てきたのか、どうしようもなく不思議だ。
でも、嘘じゃなかったと思う。
彼女と話した事も、一緒に帰った事も、それで僕が幸せだと感じていた事も。全てが本当だと僕は思う。
だから、僕はこれから先、なにを知ってもこの気持ちだけは絶対に変わらない。
そう決心して、僕は言葉を重ねた。
「僕は……君の事をもっと知りたい!」
二人だけの教室に声が響いた。珍しく大きな声を出した僕に、彼女はとても驚いた表情を見せた。そして荷物を持って立ち上がると、僕の目を真っ直ぐに見つめて、ニコッと微笑んで言った。
「じゃあ、また明日ね」
この言葉が最後だった。結局この日から彼女が学校に来る事はなく、またそれを誰かが気にすることもないまま変わらない日々は過ぎていった。
そんな日々の中、僕はたまに彼女の事を忘れそうになる。席替えをして席が遠くなって、彼女と僕の距離はどんどん遠くなっていった気がした。
ふと気がつくと、誰かに肩を揺すられている感覚があった。
「ーーなさい。起きなさい! 授業中に居眠りをするんじゃない」
目を開けると、いつの間に来たのだろうか、少し怒った表情の先生が立っていた。どうやら眠ってしまったようだ。周りを見まわすと、いろんな人がこっちを見て笑っていた。
説教をする先生から目を逸らした時、ある席が目に付いた。教室の一番右前の席だ。そこは空席だった。なんで空席があるのか、今まであそこに誰が座っていたのか、まったく思い出せない。ただ、寝起きの頭でも鮮明に思い出せたのは、このクラスの人数が四〇人だという事と、今日は誰も休んでいないという事だけだった。
空席 しましま @hawk_tana
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