第5話
俺は逃げるように家に帰ってきた。これはもう失望を通り越して、絶望だ。俺にはもう頼れる人なんていない。信頼できる存在なんて、もともと一握りだったんだ。それなのに・・・。
さっきからずっと同じことをぐるぐると考えては、頭の中でもみ消してを繰り返していた。激しい怒りに一度は身を任せたものの、じゃあ一体、俺はどんな言葉をかけてもらいたかったのか、それがどうしても浮かばなかった。結局俺はただ八つ当たりがしたかっただけじゃないのか。そうとさえ思った。
俺は部屋の扉を開けた。今朝より数倍ボロボロになって帰ってきた俺は、一息着いてからベットに腰掛けた。そうやって座ると目の前に本棚が見えた。壁一面を覆うほどの、立派な本棚だ。そういえば朝はは気が動転していて、全く本棚のことなど忘れていた。
本棚には俺が収集した本で敷き詰められている。そしてそのほとんどがライトノベルだ。少し前まではよく本屋に通って少しずつお気に入りのシリーズを集めていたっけ。今はもうその熱も少し冷めてしまったように感じるが。それでも内容は全部頭に入っている。異世界、ドラゴン、魔法・・・・・・そして超能力。
俺はハッとして立ち上がった。よく見てみれば、俺のコレクションの大半を占めているのが超能力ものだ。これもそうだ。ああ、これも・・・。
俺は本を掴んではバラバラと床にこぼした。そんなことに構ってはいられなかった。急に消えかかっていた火が再び燃え始めた。腹の底から怒りが湧いた。どうして忘れていたんだろう。何度も何度も読み返し、大切にしてきたはずの本が、今は憎くて仕方がなかった。俺は今冷静じゃない。普通じゃない。そうだ、俺は普通じゃないんじゃないか。ならもう、なんとでもなってしまえ。
俺は文庫本を無造作に掴み、思い切り床に投げつけた。次々に整頓された本を乱暴に床に散らばしていく。
どうしてどいつもこいつも俺の神経ばかり逆撫でするんだ。
やり場のない激情のままに、俺は本棚を荒らし続けた。胸がすくような思いがした。それは気のせいでも勘違いでもなかった。
本を投げ飛ばしていると、隣の部屋から妹の伊織が出てきた。
「ちょっと!さっきからうるさいんだけど。せめてドア閉めてよ。」
俺は手を止めた。伊織は俺の尋常ではない様子と散らかった部屋を見て顔色を変えた。
「え・・・?本当に何してんの?」
「・・・あっち行ってろよ。」
「だって、あんなに大事にしてたのに・・・。」
「あっち行ってろって!」
伊織は怯えたようにその場を去った。
俺は自分のしたことに嫌気がさした。もちろん自分自身にも吐き気がしそうだった。もう怒りはなかった。ただ、どうしようも無い虚無感と後悔が残るばかりだった。
俺はまた逃げるように部屋を後にして、表へと出て行った。
外はもう随分と暗かった。俺の家の周りには街灯もほとんどないから、余計にそう感じたのかもしれない。家の裏には雑草の生い茂る原っぱのような開けた場所があって、そこの獣道をひたすらまっすぐ進んでいくと沢に出る。水の澄んだ美しい沢だ。あまり有名ではないが、この辺りは蛍が出るのだ。地元の人が穴場として訪れ、初夏にはそれなりの賑わいを見せるこの場所は、幼い頃から俺の秘密基地だった。蛍を目当てにここを訪れる人が見た時には、俺だけの居場所が荒らされたような気がして、不機嫌になってよく泣いていた。その蛍も、今は時期が遅すぎてほとんど見られない。たまにチラチラと申し訳なさそうに草の陰から淡い光が見える程度だ。
蛍がいようといまいと、俺は悩んだり行き詰まったりすると、いつもここへ来た。暑い時も寒い時も、暗い水面を眺めているだけで、俺の心は安らいだ。この場所が最後の砦だった。だがそれも期待外れだったようだ。今回ばかりはこの場所でもどうしようも無いらしい。こんなにも寂しい気持ちになるのは生まれて初めてだった。
俺がこんなにこの力を恐れている理由が、ようやくわかった気がする。俺は俺が消えるのが怖いんだ。あの物理準備室でグラウンドを眺めていた時、俺はそのことに気がついた。喉に詰まったものがストンと腹の奥に落ちていくように、俺は納得した。恐怖への納得だ。
もし俺が今、この掌を触れ合わせて力を使ったなら、俺はたちまち別人格と入れ変わるだろう。そうなってしまえば、俺は俺でなくなる。「俺」という朝日圭人は消え去り、「俺」ではない朝日圭人として生まれ変わるだろう。別人格になるというのはつまりそういうことだ。もう「俺」としての朝日圭人が戻ってくる保証はどこにも無い。つまり「俺」は消える。死ぬんだ。
それでも誰も「俺」が死んだことに気がつかない。なぜなら、「俺」ではない朝日圭人は生き続けるからだ。みんな、初めこそ戸惑うかもしれない。でも、それもそのうち、「俺」ではない俺で、朝日圭人は塗り替えられていくだろう。人々の記憶に「俺」としての朝日圭人はどこにも残らないのだ。
もしかしたら、別の俺自身が「俺」の存在を忘れてしまうかもしれない。あるいは、「俺」の存在を否定するかもしれない。そうなれば、いよいよ「俺」が生きた証はどこにも無くなってしまう。「俺」は初めからいなかったことになる。これは死ぬよりも辛い。この世界の誰にも悟られず、誰にも知られず、ただ一人ひっそりと消える。こんなに寂しいことなんて他にあるだろうか?どうせ消えるのだったら、俺はなぜ生まれて来たんだ?俺は何のために生まれて来たんだろう。俺はたまらなく怖い。消えることも、死ぬことも、こんなにも寂しく、恐ろしく感じている。本当は今すぐ叫び出したい。逃げ出してしまいたい。誰かにこの居ても立っても居られないような孤独をわかってほしかった。だが、そんな人はどこにもいない。本当は全部わかっていたんだ。俺を完全に理解できる人など存在しないということを。
俺はもう誰も信じられない。「俺」自身でさえも。そのことだけでさえ、身を切られるように切ない。
俺の頰を涙が伝った。
その時、後ろの草むらからガサガサという音がした。
俺はとっさに涙を拭って振り向いた。現れたのは小さい子供と老人だった。暗いので分かりづらいが、孫とおじいちゃんといったところだろう。老人が俺にペコリと頭を下げたので、俺も会釈し返した。
沢は静かだった。俺は深呼吸した。少しは落ち着くことができたと思う。
あの二人の言う通りだ、と俺は思った。もうどうすることもできないのだから、いつまでも怖気付いていてはいけないのだ。これから先も「俺」として生きていく限り。
ふと横を見ると、さっきの子供が草に止まった蛍を虫かごの中に入れようとしていた。老人もすぐそばで見守っている。
一声かけようか迷ったが、面倒なのでやめておいた。
また視線を前に戻したその時、
「ああっ。」
子供の声が聞こえた。蛍が飛び上がったようだった。その蛍は俺の目の前を飛び去って行こうとした。
俺は子供の声に驚いたのと同時に、とっさに手が出た。
自分でもどうしたかったのだろう。よくわからなかった。
一瞬の出来事だった。
俺の手が蛍を挟み込むように覆いかぶさった時、
「あ。」
俺は小さな叫び声をあげた。
身体中を冷たい何かが走った。
俺が勢いで蛍を叩き潰したのと同時に、「俺」の意識は途絶えた。
「おや、お早いですね。1日ぶりですか。」
「1日ぶりも何も俺はあんたに会ったことはない。」
「ああ、すみません。また間違えてしまいました。」
「ここはどこだ。そんであんたは誰だ。」
「ここはあなたの潜在意識領域とでも言いましょうか。そのような場所です。私は何者でもありません。名前もありません。・・・ちょうど一つ前のあなたにここでお会いした時に問われて自分でも考えていたのですが、私はあなた方の世界には存在しない概念のもの、に当たると思われます。」
「悪いけど、あんたが言ってること全部さっぱり分かんねぇよ。」
「すみません。過ぎたことを申しました。」
「で、何なんだよ。ここに来させて俺をどーするつもりだ。」
「あなたは神に愛されて特別な力を得ました。ですので、ここにお呼びしました。」
「へぇ!どんな?」
「掌と掌が触れ合うと人格が入れ替わる能力です。」
「はぁ?要らんわそんなもん。チェンジで。」
「拒否権はございません。すべては神の御意志です。」
「あのな、おっさん。俺は17年間生きてきて神なんざ信じたことは一度もねーんだよ。つーか能力くれんならもっと派手なのを・・・。」
「私は役目を終えましたのでこれで失礼いたします。」
「あ?おい、ちょっと待ておっさん・・・。」
俺は目を覚ました。何だか胸糞悪い夢を見ていたらしい。気持ち悪りぃ。夢に出てきたおっさんはなんて言ってた?確か手を叩くと・・・何だったっけか。もう忘れた。
にしても、まともに寝た気がしない。夕べの記憶も曖昧だ。何かすげーイライラしてたのは覚えてるんだが。・・・あれ?そういや今日は英語の課題があったな。ああ、やっぱりだ。なんもやってねぇ。まぁ、いっか。適当にごまかせばどーにでもなんだろ。ちょっと早いが目も冴えちまったしこのまま起きるか。
その後、朝日圭人は、変わらない平穏な日々を過ごした。
彼の部屋に散らかった本が片付けられたのは、しばらくしてからだった。
ドッペルゲンガー 無糖 @tamagan
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