道の彼方で君を待つ
篠岡遼佳
道の彼方で君を待つ
昨日、リュウグウノツカイが、そうとう捕れたらしい。
おかげで今日は大嵐だ。
ざばんざばんと叩きつける波、手にはアルコール9%のチューハイ缶。
タバコは湿ってしまって、火がつかないから、くわえたままだ。
目の前の真っ暗な空も、ダークグレーの海も、俺には関係ない。
足どころか、全身を濡らしてくる波も、まったく関係なかった。
俺はゆっくりと酔いが醒めたり、また酔いの度合いが深くなっていくのを感じていた。
俺は、ある人と別れた。
彼女は旅立たねばならなかった。
この世界で、8月15日とはそういう日だった。
戦というものは、常にどこかでやらなければ、世界のバランスが崩れるものらしい。
俺たちが人間という種族だからだ、と、避難所にいたエルフや獣人たちにいわれたことがある。
確かにそうかもしれない。彼らは平和に生きる術を知っている。
けれど、俺は俺の仕事をするだけだ。
俺の仕事は魔法で人の心を穏やかにすること。いわゆる
他人の記憶をそっと覗きこみ、相手の一番幸せだった頃を思い出させる。
混乱する市民、恐怖と戦う兵士、そして死の間際の人々に、穏やかな気持ちを与える仕事だ。
あまりに人の心を読みすぎると、こちらの心もいつしか破綻していくものらしい。どんなにスーパーバイザーや同僚たちと話し合っても、逃れられない。
それは、例えばPCを使う職業では目が疲れてしまうことや、もしくはキーボードを打ちすぎて腱鞘炎になってしまうことと、同じらしい。職業病だ。
人を穏やかにするということは、反対に言うと常に混乱のただ中で仕事をするということだ。
つまり、世界が穏やかな幸せだけで出来ているわけではないと、常にその真実を突きつけられる仕事と言っていい。
それは純粋な恐怖だった。
常にある告げられない死と同等の、生きる希望の死だった。
俺は定石通り、タバコと酒に逃げたが、どういうことか、そいつらは俺の命を削ることはあまりなかった。むしろ、精神の安定がすぐに得られるから、この仕事をするものとしては理に適った逃亡法だと言えた。
タバコをくわえ、火は付けず、よれよれの配給白衣を着て、俺は野戦病院へ行く。
手の施しようのない人間や、そうでない種族のものたちを何人かじっと見送る。
そして、仕事がはけると、俺は海へ向かう。
そこに、彼女がいるからだ。
彼女はだぶだぶのTシャツに、ショートパンツを合わせた、ラフな格好でそこにいた。防潮堤に座り込み、こちらを見て微笑むが、背景が透けて見えている。
つまり彼女は幽霊だった。
エルフや獣人、ドラゴンや魔神がいるような世界では、滅多にないというわけではない程度の存在である。
彼女は二十歳前後で、魅力的な濃い茶色の瞳をしていた。
ショートボブの明るい色の髪を風に乗せて、俺に言う。
「また来たの、オジサン」
「ああ、来たぞ。それと、一応俺はまだ29だ」
「アラサーじゃん。オジサンはオジサンだね」
「君が好きなんだ。オジサンはやめてくれ」
「そっちこそ、なんとなく"好き"みたいに言うのはやめてよね。大事な一言なんだぞ」
「わかってる。だが……」
「こっちだってわかってる。こんな情勢じゃ、明日死ぬかもしれないもんね」
本土決戦、などとは、言いようである。
総司令部は、おそらくこの国が負けることを知っている。俺たちが感じているように。
命は、死んで魂になり、いつかどこかの世界に巡っていくというのが、この、魔法と科学の世界での常識だ。
科学では命までを扱い、魔法は魂を導くことが出来る。
美しい、海の彼方に日が沈んでいく、夕べの景色。
彼女はそんな薄明の時間になると、静かに光を放って、その存在を輝かせる。
魂になると、人は美しくなるらしい。
死という恐怖を乗り越えるからだろうか。
だが、もう8月15日はすぐそこだった。
そんな顔すんなよ、と、彼女は言った。
哀しい顔で別れるのはなんかやだ。
俺は、無表情が売りなんだが。
いや、悲しがってる。私の顔を見ないじゃない。
――図星だ。
俺は彼女のとなりまで上り、そして両足を抱き込んで座った。
彼女の目を極力見ないようにしたかった。
「――行かないでくれ」
俺は言った。いってはいけない一言を言った。
「君が好きなんだ」
彼女は微笑んで、また風にあおられた髪を、手で押さえた。
「もっと、思い出がほしい。君のことをずっとみていたい。そばにいたい」
「ねえ」
彼女は、俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
――彼女は泣いていた。哀しい笑顔ではなく、笑顔でぽろぽろと涙をこぼしていた。
俺の頬をぺしん、と指ではじき、
「そんなこと言われたら、"行きにくい"じゃん。
そりゃ私だって、8月15日が来なければいいとは思うよ。
でもさ、これって決まってることなんだよ。この夏の日に、私は行くことを決めてるんだ」
にっ、とえくぼを深くして、彼女は言った。
「"もう一度出会うために"」
そう、8月15日は、「転生の日」だ。
死の次の段階の、幽霊の次。
誰も知らない、地獄かも天国かもわからない、なにもないかもわからない、そんな場所へ行ける日だった。
そしてそれは、「"もう一度出会うために"」行く日でもあった。
転生は必ず起こる。輪廻はこの世界に存在する。だから、
「すごく、怖いけど、何があるかわからないけど、……でも、だから、私はいかなきゃ」
彼女はそう言って、立ち上がった。
彼女が放つ光が、大きくなる。
俺は最後まで彼女を見つめようとしたが、しかし、眩しさに目を閉じてしまった。
8月15日、午前0時。
俺の目の前から、彼女は消えた。
いってしまった。
別れや離れることへの言葉は必要なかった。
「――あなたに、会いにいくから」
俺たちは、死を抱えて生きている。
喜びも悲しみも、狂騒も悲愴も、穏やかな幸せも。
彼女の穏やかな幸せをあえて見せなかったのは、彼女が望まなかったからだ。
彼女は、きっと幸せだったのだろう。その強さを見れば、そのくらい、わかる。
すっかり頭から潮まみれになってしまった。
俺はそうして、ずぶ濡れのタバコをゴミ箱に入れ、空になった缶もリサイクルボックスに入れた。
この戦も地球環境も、俺自身も、なんとかしなければ。
なぜって、これから一日でも長く、生きなければならなくなったから。
俺も、生きて、生きて生きて生きて、きっと会いにいくよ。
待ってるから、待っててくれ。
どこかの、未来で。
道の彼方で君を待つ 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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