スキマ
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そういやトモヒサおじさんちこのへんだった
そういやトモヒサおじさんちこのへんだったな、と窓の外を通り過ぎてゆく夕暮れた街並みをぼけーっと眺めてたわたしの頭の中に突然そんなリマインドがポップする。
そういやトモヒサおじさんちこのへんだった。
職場から帰る電車の中でだった。
大学でみんなが就活で慌ただしくなるのを眺めながら、なんか大変そうだなあ、みんな、まあ、なんとかなるっしょ、なんとか、とノンキこいてたわたしは当然のごとくべつになんとかなることはなく、新卒という肩書を第一宇宙速度でジェットソンしてプラプラしてたら、身内のコネで地元の小さな印刷会社に雇ってもらっていただくことになった。
子供のときはそういう、零細の、細々した感じの、地元企業とか、なんでツブれないんだろ、フッシギ~、とか思ってたけど、入ってみると役所とかにわりとフッといパイプとかがあったりして、ハハーン、そういうことね、完全に理解したわ、と世界の仕組みに触れたりした。
そういうのの帰りだった。
まだ新人のペーペーのわたしにそんな抱えてる仕事とかあるわけもなく、先輩たちを横目に、ウィッス、おつかれさまッス、チッス、とか言いながら定時上がりでローカル線にゴトゴト揺られてたら、ふいに訪れたのがそんな気づきだった。
ひさしぶりにトモヒサおじさんち寄ってみよ、とふわっと決意したわたしは、本来通過するはずだった駅にふわっと途中下車する。
駅から住宅街の中を歩いて5分ぐらいが、トモヒサおじさんち。
実家から二駅ほど離れたこの界隈に、中学生とか高校生とかだったころのわたしもよく途中下車したものだった。
駅前は新しい建物が増えてちょっとにぎやかになってる風だけど、一本路地を入れば、そこはもう記憶の中と同じ古びた家並が続いている。
その中を、か~っ、なっつかし~わ~、か~っ、なっつかし、とか思いながらぽけぽけ歩いていると、あっという間にトモヒサおじさんちに着く。
変わらない。
申し訳程度の低い生垣と狭い庭のある二階建て。
表札の、斉木、の文字をなぜか頬をゆるゆるさせながら眺め、わたしはインターホンを鳴らす。
そういえば、手土産とか持ってくるもんだったのかな、とここに来て手遅れっぽい疑問が浮かぶ。
もちろん中高生のクソガキだった時分のわたしにそんな概念はなかったが、でもいまは一応社会人(仮)ぐらいにはなったわけであるからして、弁えるべきだったのでは? というかそもそもアポなし突撃だし、どうなの? それ? ねえ?
と、疑問は尽きるところを知らないが、その答えに辿り着く前に玄関のドアが開いた。
「あっ」
「あっ」
と、わたしとおじさんちのドアを開けた人物は顔を見合わせて互いに間抜けな声を上げる。
「あらー、エリちゃん?」
「あ、ども、ミカコさん……」
わたしを迎えてくれたのはトモヒサおじさんの奥さんのミカコさんで、てっきりおじさんが出迎えてくれるものと無意識に思い込んでいたわたしはちょっと出鼻をくじかれてむやみに首だけで小さい会釈を連発する。ウィッス、おひさッス、チッス。
「まー、まー、ひさしぶりねぇー。まー、立派んなって、まー」
「あ、はい、ゴブサタしてました……」
正直なところ、わたしはこのミカコさんのことがちょっと苦手だった。
ミカコさんはよく言えばフランク、あけすけでざっくばらん、というか、悪く言えば空気読めない、っていうか、それもフツーの空気読めなさじゃなくって、今まさにこの時この場でその言葉口にしちゃう? この中の中で? みたいなとこがあって、いかにも繊細な気質だったおじさんが、なんでこの人を選んだの? というのは永遠のギモンだったのだけれども、というか実際ミカコさんのいないところで人にそう尋ねられても、トモヒサおじさんは困った顔で笑うだけだった。
まあ、そこはそれ、人と人との関係なので、なにかしら余人には推し量れないものがあるのにちがいない、と当時ジャリガキだったわたしはイッチョ前に飲み込んだものだったが、いまでもわりとふつうに思う。
おじさん、なんでこの人選んだの?
とまあ、そんな風であるので、わたしはさぞかし棒を飲んだような顔をしていたにちがいない。
「まー、ともかく上がってって、ほら、ほら」
しかし、そこはミカコさんはさすがのスルースキルというか、人間力で、いやな顔ひとつせずにわたしのことを招き入れてくれる。
「あ、ども……」
というような感じで、わたしはモソモソした返事をしながら、ぬる~っとウン年ぶりぐらいにトモヒサおじさんちの敷居を跨ぐことになった。
その瞬間、あ、と思う。
ヒトんちのにおい、ってあると思う。友達んちいったときとかの、アレ。真っ先に感じるじぶんちとは露骨にちがってるトコで、ビミョーに落ち着かない感じになる。
ただ、そこんところトモヒサおじさんちはわたしにとってもはやヒトんちというか、もうひとつのうちっていうか、実家
それも実家よりもひさしぶり度が高いので、長らく離れていた
そのままふわっふわした足取りでミカコさんに続いて居間に入り、お
「ちょっとお茶入れてくるわねー」
「あっ、はい」
ミカコさんの背中を見送って、そわそわしまくりながら居間の様子を見回すと、それもどれも昔のまんまで、わたしは脳内で、うわー、を連呼する。
うわー、床の間の北海道のクマの木彫りのやつの置き物~、うわー、欄間のとこに掛かってるジグソーパズル世界遺産シリーズどれも1000ピースぐらいあるやつ~、おじさんの趣味~、うわー。
とかなんとかわたしが頭の中だけでドッタンバッタンおおさわぎしていると、戻ってきたミカコさんがとんとわたしの前のテーブルの上に湯呑みを置いてくれる。
「はい」
そこでちょっと限界だった。
で、出~、魚偏の漢字メッチャ書いてある来客用湯呑み~!
ありあまるなつかしさが胸を詰まらせ、わたしは「ぼふっ!」と口から変な音を出す。
「なに? どうしたんエリちゃん?」
「あ、いや~……!」
あらためて居間の様子とあと湯呑みを眺め回して、わたしはしみじみと言う。
「なつかしいなあ、って」
「そうやねぇ」
ミカコさんも自分の湯呑みからお茶を一口すすりながら、目を細める。
「いつこっち戻ってきたん?」
「あ、四月に帰ってきて、その、いま、あそこの、ヤマタケ印刷……」
「あー、ヤマタケさん」
「はい、そこ、で働かしてもらってます」
「まー、ヤマタケさんなら安心やわ。社長ええ人やし」
「あー、そおー、みたいっすね、はい」
「それにエリちゃん美大やったろ?」
「あ、はい、一応」
「ええやん、即戦力よー、もう」
「あー、だと、いいんですけど、はは……」
ふっと、会話が途切れる。
「……あの、ミカコ、さん?」
「ん?」
「トモヒサおじさんは、その」
わたしは無駄にあたりをきょろきょろ見回しながら、言う。
「どっか出かけてたり、する、ん、です、か?」
変な間ができる。
ふっと無表情になったミカコさんはわたしを見つめ返しながら、くいと一口湯呑みを傾けた。
「あ」
「えっ」
「そっか」
そして、言った。
「エリちゃん、トモさんに線香上げに来てくれたんか……」
……は?
と、口に出さなかったのはわたしの最大の自制心だったが、思いがけないそれも聞き捨てならないワードが聞こえた気がしてわたしは体中の血液がザァッとドン引きする感触がする。
え? なんて? ミカコさん、いまなんて? 頭の中でクエスチョンマークが乱舞する。
だが、ミカコさんは絶望的に空気読めないとこはあるが、さすがにそんな悪趣味なジョークを言うような人ではない。なにかしら意図があるはずだ。
しかし、それがわたしには絶望的に読み取れなくて、できたのは結局、
「……は?」
と、かすれた声を洩らすことだけだった。
「えっ」
「えっ」
「ちごうたん?」
「あっ、えっ……と、その……はぁ?」
わたしは意味不明な半笑いを浮かべている表情筋の動きを自覚するが、内心それどころではない。
は? 線香? トモヒサおじさんに、線香? は? なんで?
わたしの頭の中で線香という言葉と、それを上げるという行為の意味と、トモヒサおじさんのイメージがゲシュタルト崩壊を起こしてぐっちゃんぐっちゃんになって入り乱れる。
「えっ、だって」
続くミカコさんの言葉はわたしにはくぐもったスロー再生で聞こえた。
「トモさん、死んだんよ」
トモさん、死んだんよ。
鼓膜を貫通したその言葉の意味が時間差でわたしの脳ミソに着弾して、炸裂する。
「……はぁ!?」
「わ、びっくりした」
「い、いつ!?」
「去年の八月」
「わ、わた……!」
「わた?」
「わたし、聞いてない……!」
わたし、聞いてない。
そんなこと、ぜんぜん、聞いてない。
「え、だって」
感情のヴォルテージが瞬間的にハイゲインに達するわたしをよそに、やはりミカコさんは素っ気なく言う。
「サキちゃん、お葬式手伝いに来てくれたよ?」
カツッ、とわたしの頭の中でなんかのトグルスイッチがオンになって感情の矛先がミカコさんから別の方に向く。
あいつか!! 母!! 実母!!
ミカコさんが、サキちゃん、と呼ぶのはうちの母のことで、トモヒサおじさんからすると実姉になる。
うちの母、というか実家方面は全体的に、真面目で実直だった長男がなんかよくわからない女とくっついて家を飛び出た、という風にトモヒサおじさんとミカコさんの結婚を捉えているフシがあって、ミカコさんはもとより、一周回ってトモヒサおじさん自体にもヘンにアゲインストの風を吹かせているとこがあるのだ。
わたしはそういう雰囲気をなんとなく察して、家ではトモヒサおじさんちに足繁く通っていることなどおくびにも出さなかったから、疎遠だった伯父の葬式に県外の大学に通っている娘をわざわざ呼び戻すこともないと考えた、というのが最大限うちの母に対して良心的に見た解釈だが、ほんとはわたしが内緒でこそこそトモヒサおじさんからなんやかんや影響を受けまくっていることなど母もお見通しで、それに対する意趣返しという向きもあるのではないか、という疑心暗鬼もちょっとあったりして、まあいい、そこは今日うちに帰ってからじっくりネチネチ問い詰めてやる。
しかし、そう決心するとふっとわたしの感情の持って行き先は失われ、わたしの思考は曖昧なぼんやりとしたところをふよふよと漂い始める。
虚無。
虚無である。感情が、虚無になる。
「エリちゃん」
ミカコさんの声がする。
「ん」
立ち上がったミカコさんが、ぽてっとした手をわたしのほうに差し出してくる。
「あ……」
わたしは自然とその手を取って、立ち上がると、ミカコさんに手を引かれて歩き出す。
居間を出て、廊下を通って、奥の和室に入る。
左手に仏壇がある。
そこに、いつものはにかんだ笑顔で納まった、おじさんの写真が供えられている。
「お線香、上げたって」
ね? とミカコさんが言う。
促されるまま仏壇の前の座布団に座ると、ミカコさんがロウソクに火を点け、お線香を手渡してくれる。
わたしはほとんど機械的にロウソクの火でお線香を灯し、ふるふるして消し、香炉に差す。
手を合わせる。
か細く立ち昇るお線香の白い煙の向こうに、おじさんがいる。
「ううう」
思い出の中と同じ笑顔で、笑っている。
「ううううう」
いつの間にか耳に響いていたうなりが、半開きになった自分の口の中の、噛み締められた前歯の隙間から押し出されているのだ、ということに気づいて、あとはどうしようもなかった。
「ううううううううううううう」
一瞬で視界がぼやけて、目を開けていられなくなる。きつく閉じた瞼の隙間から焼けるように熱いものがだらだら流れ出てくるのを感じながら、座布団の上にうずくまって、わたしはただ子供のように泣いた。
トモヒサおじさんとの最初の思い出は、わたしが小学校に入るか入らないかぐらいのころにまで遡る。
お葬式だった。
誰のだったかまでは覚えていない。
ただわたしは親に連れられるままいつもは着れない余所行きの黒い洋服を着せられておじいちゃんの家に行って、そこで所在無くしていた。
わたしと同じぐらいの子供たちもいたのにはいたのだろうが、わりと人見知りする性質だったわたしはその輪にも入れず、ひたすら退屈していた。
そんなときに声をかけてくれたのが、トモヒサおじさんだった。
「エリちゃん、おじさんといっしょに、図鑑でも見ようか」
「ずかん?」
「うん」
おじさんはそう言って、しばらくすると腕に一抱えあるような、分厚い本を持って戻ってきた。
「ほら」
「うわぁ」
わたしが覚えているのは、青緑に輝く大きな羽根を広げた、蝶の写真。
それが、モルフォ蝶、と呼ばれる蝶の一種だったことをわたしが知ったのは、随分後になってからだった。
他にも、アフリカの小さな島にしかいない小さなハチドリや、大昔に絶滅した巨大なサメの仲間のイラストとか。
そうしたものをひとつひとつ指差しては、おじさんは幼いわたしにも分かるように、丁寧に説明してくれた。
そうしている間に大人たちが執り行っていたあれやこれやのことは恙なく済んで、おじさんと別れるとなったとき、わたしは大層むずかったものだったらしい。
「エリちゃん、また今度会えるから、ね? また今度」
おじさんは困った顔で笑いながらそう言った。
それから母方の実家に戻るたびにわたしはトモヒサおじさんにべったりになって、おじさんがミカコさんと結婚して家を出ると、なにかにつけておじさんの新居にもお邪魔するようになった。
おじさんは在宅で翻訳家の仕事を請け負っていて、学校帰りに頻繁に訪れるわたしのことを、いつも嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた。
わたしの親はなんというか文化的な趣味というか、そういう方面にあまり理解がない分野の人で、わたしはそういうことを全部トモヒサおじさんに教えてもらった。
ドストエフスキーの書き出す人間の醜さと崇高さ、レンブラントの描く聖なる光と漆黒の闇。
そういう影響を受けて、なんかわたしは美術系とか行きたいかも、とふわっとした理想を抱くようになったけど、案の定、親からは猛反発を受けた。
そのとき、トモヒサおじさんだけはわたしの味方をしてくれて、親に普段のキャラクターからは似つかわしくない猛反論をしてくれたらしい、というのは後々になってから知ったことだけれども、そんなこんなでわたしは美大に行って、なんのかんのものにならずに、いま地元で社会人の仲間入りをしてる。
そういうような、ことがあった。
気づくと突っ伏したわたしに寄り添って、ミカコさんがぽてぽてと背中を叩いてくれていた。
ああ、こういうとき、ぽっちゃりした人って得だなあ、と思う。
ぽちゃぽちゃとしたその手で触れられていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
「すみません、取り乱しました……」
「いんえ、いんえ」
わたしがようやく身を起こしてそう言うと、ミカコさんがぱたぱたと手を振る。
「エリちゃんがそんだけ思ってくれてたんなら、トモさんもきっとうれしいよ」
そう言って微笑むミカコさんが、わたしにはなんだか菩薩に見える。
「……あの」
「ん?」
「おじさん、なんで」
わたしがそう尋ねると、ミカコさんは一瞬どこでもないところに視線を飛ばすと、なぜかしみじみとした調子で言った。
「トモさん、最後きちがいになってしもたんよ……」
んんー?
油断してたら、来た。
こういうとこ。わたしがミカコさんのことちょっと苦手だったの、こういうとこ。
よりによってその言葉のチョイスする? みたいなラインを、平然と突いてくる。
「部屋、見てく?」
ミカコさんの問いに、わたしはぎこちなく頷き返すことしかできなかった。
おじさんの部屋は二階の洋間で、言ってみれば書斎というか、おじさんの趣味のものが詰まったプライベート・スペースだった。
古今東西の名著と言われる古典から最近のラノベに到るまでの文学作品、古代ギリシャ美術から現代アートまでカバーする画集の数々、クラッシックの名演にプログレッシヴ・ロックのブートレグ盤までも入り混じった種々のレコード。
そういうものが几帳面なおじさんの性格に則って、キチッと棚に収まっている。
ただ、仕事スペースにしていた窓際のデスクの上だけは資料に使った本やプリントの類がゴチャっと(ただ、これもおじさんからすれば多分、一種の規則性を以って)積み重なっていて、ミカコさんもそうしたところには手を着けていないのだろう、言わばおじさんの生活の名残のそのままに、その部屋は放置されていた。
ここで触れたいろいろなもののせいでわたしの人生のいろいろなとこが決まってしまったと言っても過言ではない。
目にする部屋の景色は記憶の中の光景のままで、わたしはここにわたしを案内したミカコさんの意図を訝るけれど、よく見ると一箇所だけみょうなところがあった。
「あー、これな」
ミカコさんがなんの気なさそうに言う。
部屋の一角、わたしの記憶ではそこには本棚があったはずだが、それをすっぽりと覆い隠すかのように、白い布が包んでいる。
「これなんやけど……」
ミカコさんがその覆いに手を遣り、剥ぎ取る。
わたしは絶句する。
そこにあるのは、たしかに本棚だった。
だが、このような本棚は、これ以外、この世界のどこにも存在しないだろう。
その本棚には、隙間がなかった。
世界の文学作品や美術全集が一貫したおじさんの美意識の元に整頓された、あのわたしが憧れた本棚の姿はそこにはなく、ただただ隙間を殺すように、種々雑多な判型の本があるところでは縦に、あるところでは横に放逸に嵌め込まれ、様々なその背表紙の色が、だが一種の秩序を以って、混沌としたモザイク模様を描いている。それでも埋め切れなかった隙間に紙束や、ちぎれた紙片が執拗に押し込まれ、それが剥き出された獣の歯のよう。
「ここちわるいやろう……」
ミカコさんが率直な嫌悪を表しながら言う。
「これ、おじさんが、やった、んですか……?」
わたしは呆然と呟く。
「うん」
ミカコさんが首肯する。
「なんやきゅうに、こわい、って言い出してん」
「こわい」
「うん」
すこし、言い淀む。
「隙間がこわいって」
「隙間」
「うん」
またちょっと、間。
「なんか、見られてる、って」
ミカコさんが、ぎゅっと眉根に皺を寄せる。
「それで、この本棚作り始めたん」
「はぁ」
「それで、最後、ものも食べんようになって」
ぽつぽつと、寂しそうに言う。
「ぼくがこれ見張っとかんといかんのやゆうてな……」
忌々しそうに、ミカコさんが言葉を切る。
わたしはただただ、呆然とそれを聞きながら突っ立ってる。
あの温厚で理知的だったおじさんが、最期、得体の知れない狂気に憑りつかれていた。
そして、死んだ。
そういうことがいまいち飲み込めずに、わたしは変貌してしまった本棚を眺めている。
はぁ、とミカコさんが溜め息を吐く。
「まぁ、わたし、下行っとるね」
気が済んだら、ゆうてね、と言い残して、部屋を出て行く。
わたしは本棚を見ている。
ドストエフスキーの全集、安部公房の砂の女、大江健三郎の同時代ゲームが縦横ちぐはぐになって刺さっている。ウンベルト・エーコの大冊が他の多くの著作を支えるかのように差し込まれている。
どれも、わたしの根っこを作ってくれた。
それらがこの名状し難い本棚を為す一部分になっているということにわたしは眩暈をにも似た感情を覚えて、ふと、気づく。
「ん?」
臙脂色の、無地の背表紙をした細長い本が、一冊、その配列の中に混じっている。
すこし、他の本の背表紙からは突き出している。
わたしは思わずそれを摘まみ、爪を立て――堅く刺さっている――しかし、ぐいい、と引き出し、手に取る。
A4のキャンパスノート。
その表紙に、日記、とある。
おじさんの、日記。
ページをめくる。
そこには
見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる見てる
「ひっ」
わたしはノートを取り落とす。
罫線にきちっと並んで書きつけられていたのは、几帳面なおじさんの文字だった。
それがずっと、見てる、と繰り返されている。
わたしは胸に手を遣って呼吸を整えようとする。
だが、そこに突き刺さるように干渉してくる、なにかがあった。
気づけば、わたしがノートを引き抜いた、その隙間。
おじさんが必死に消そうとした、隙間が、そこにぽっかりと口を開けていた。
見られている、と感じる。
それがなんなのか、確かめたい。
確かめたい、確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい確かめたい
確かめる。
そこを覗き込む、見る、とわたしが思った、そのときだった。
「きぃやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫が響いた。
振り返る。
ミカコさんだった。
ミカコさんが、戸口で、叫んでいる。
「え、えっ」
わたしは狼狽える。
その間にもミカコさんは髪を振り乱して叫ぶ。
「え、ちょっと」
「いやぁぁっ!!」
ミカコさんが目を見開いてこちらを凝視しながら、両腕を振り回す。
「エリちゃん!? あんた、エリちゃんどうしたん!?」
後退りながら、半狂乱で喚く。
「え、ええ?」
「ひっ、ひぇぇぇぇぇっ!!」
わたしがそちらに歩み寄ると、ミカコさんは一心不乱に駆け出し、階段を踏み外した。
「あっ」
「あっ」
ドタン、バタン、ドスン、と鈍い音がして、やがてシーンと静かな音が満ちる。
「えっ、ちょっと」
わたしはおそるおそる階段を降りて、ミカコさんに歩み寄る。
ミカコさんの首は、曲がったらいけない方向に曲がっていた。
「えっ、えっ」
ミカコさんの目は見開かれたまま、虚空を見つめている。
「えぇ……」
ミカコさんは、いったいなにを見たのか。
ふと、おじさんを捉えた隙間のことを考える。
おじさんは、隙間から見られている、と書き残していた。
ならば、その隙間を開放してしまったわたしは、どうなるのだろう?
その部屋は、その外から見れば、わたしを含んだ、新たな隙間と言えるのではないのだろうか?
そこに佇んでいたわたしの姿が、いったいミカコさんにはどのように見えたのか?
階段を降りる。
右手に進めば、洗面所。
わたしの手って、こんな色と形だったっけ?
鏡をのぞく
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