始景
佐治さんのいる空の下まではそう遠くなかった。
桃色の空が見える歩道橋の真ん中に佐治さんは立っていた。傍らには彼女の自転車が停めてある。
彼女の横顔は、まだ俺に気づいていない様子だった。
人通りは少なくない。仕事帰りのサラリーマンらしき男、買い物を終えた老婦、仲良くランドセルを揺らす小学生。
きっと日が暮れるまで待っても人通りは無くならないだろう。
だから俺は覚悟を決めて声をかける。
「佐治さん」
彼女は振り向いた。驚いたような、安堵したような、困ったような顔だった。
「来ないで」
佐治さんは目を逸らして言った。もちろん聴こえているが、
「来んなって言ってんじゃん!」
さっきよりも気迫に満ちた声をぶつけられる。が、これも
結局、佐治さんは逃げなかった。
「……なんで来たの」
彼女は不服そうにつぶやく。なんでと問われたら、答えはひとつしかない。
俺はカバンからスプーンと小瓶を取り出して差し出した。
「佐治さんがジャムにした空を食べたいから」
そのとき、歩道橋にぶわりと風が舞った。つい今までこの場に留まっていた空気が、すべて吹き飛ばされていく。佐治さんの茶髪が桃色の夕焼けに踊る。
「……どういうつもり」
佐治さんは鼻声だった。その声色に先ほどまでのような刺々しさはない。
「これまでは自分でスプーンを持ってきたこと、なかったから」
「そうだね。そうだよ」
恨めしそうに睨まれる。言い訳もできない。
「でも、俺は佐治さんのジャムが、佐治さんとジャムを食べる時間が好きだったんだ」
「で?」
「だから、ちゃんとそれを行動で示そうと」
「いまさら誠意を見せようってワケ?」
「そう、なるな。本当に今さらだけど」
「…………そのスプーン、あたしのじゃない」
「ああ、さっき100均で買ったからな」
「……その瓶も、あたしのじゃない」
「そうだな、合わせて200円だ」
涙目の佐治さんは吹き出した。
「安いなあ、200円の誠意って」
言葉とは裏腹に彼女は嬉しそうだった。なんで嬉しそうなんだよ。
思ったのと違う反応に俺は戸惑う。テンパってわけのわからないことを口走る。
「ちゃんと消費税だって払ってんだぞ」
これがまたツボったらしく、佐治さんは涙目のまま大げさに笑い声をあげた。
ひとしきり笑いきったあと、彼女は涙をぬぐって真っすぐに俺を見つめた。
「ちゃんと見ててよ?」
言うが早いか、佐治さんは俺の手から小瓶を奪い取った。呆気にとられる隙もない、鮮やかな動きだった。
えっ、と言いかけた。ここ人通りあるだろ、と。
俺はジャムを食べに来たといっても、ここで食べるつもりはなかったのだ。
高校近くの夕方の大きな歩道橋だ、ひとが少ないわけがない。いまだって高校生のグループが通り過ぎようとしている。
かつて友人に否定されてから、知られることに臆病でいたのに。
それなのに佐治さんは、あえてここでジャムを作ることを選んだようだった。
「……いいんだな?」
「うん、もう平気だから」
彼女は嬉しそうに小瓶を傾けた。
桃色の空がゆっくりと閉じ込められていく。ピーチメルバの空だ。
気ままに漂う浮雲も、勢いよく放射状にのびる夕焼けも、すべてがジャムになる。
ゆっくりと、それでも確実に時間は流れていった。
「なったと思う。ピーチメルバの味に」
すっかり和らいだ表情で佐治さんはジャムを差し出してきた。
小瓶を受け取ると、自分で持ってきたスプーンでジャムを掬う。口に運ぼうとして、佐治さんと目が合う。自信がありつつも、不安げな目。
そうか、いつもそんな目をしていたのか。
「いただきます」
とろける桃の合間を縫って、ラズベリーの酸味が押し寄せる。練乳のまったりとした甘みのなかにはバニラの香りが咲いていた。甘すぎず、酸味の浮き過ぎない、絶妙なバランス。
ここには間違いなくピーチメルバの空があった。
俺が言葉を失っていると、しびれを切らした佐治さんにスプーンをひったくられる。そして彼女も、ひょいバクッと口に運んだ。
「おいしい」
佐治さんは猫みたいな目を丸くして呟いた。
「ああ、おいしいよ」
「言うのが遅いと思うんだけど?」
「……俺は元々口下手なんだよ」
「知ってる」
佐治さんはにやにやと笑った。もうすっかりいつものペースだ。
「ね、ピーチメルバのジャムってどうやったら作れるか知ってる?」
「どうやって、って。普通に空を掬って作るんじゃないのか?」
「へへ、それはね」
彼女は言葉を溜めてから放つ。
「──恋してるときに作ればいいんだって」
佐治さんはいたずらっぽく笑った。つややかな唇がゆっくり動いて見える。口の中の甘酸っぱさが脳裏にまで染みていくようだった。
つまり、そういうことなのか。
「……不意打ちにもほどがあるだろ」
思わずこぼした呟きを佐治さんは大変気に入ったらしく、嬉しそうにうなずいた。
どれだけ時が過ぎようと、俺はきっと今日の光景を忘れることはできないだろう。
瞳を濡らして笑う、不思議で普通な彼女の笑顔を。
夏のはじめに味わった、ピーチメルバの夕景を。
ピーチメルバの夕景を 宮下愚弟 @gutei_miyashita
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