憂景
瓶が床に落ちる音で俺の思考は再開した。
佐治さんの方を見ると、呆然とした表情で立ち尽くしている。先ほどまで楽しげにジャムを掬っていた手は、だらんと垂れ下がっていた。
「ねえ、それ、ジャム……だよね?」
「違うのカナちゃん、これは……」
佐治さんは力ない声で女子生徒へ語りかける。おそらく佐治さんの友人なのだろう。彼女は見てしまった。そして、理解してしまった。かつての俺のように、なにが起きたのか分かってしまった。
つまり、知られてしまったのだ。
佐治さんの秘密を。彼女が空をジャムに変えられるという真実を。
「違うって、なにが違うの……?」
「それは、その」
言いよどむ佐治さんの姿など見たことがない。いつもあんなに自信たっぷりで明るい笑みを浮かべる彼女が、ここまで狼狽している。当然だ。知られたくない秘密を、よりによって友人に知られてしまったのだから。
「
女子生徒は怯えた目で佐治さんを見ている。
事情を説明すればいいと思った。俺だって佐治さんに言われた秘密を受け入れられたんだから、大丈夫だ。きっとちゃんと話せばわかってもらえる。
「これは、あれだ、別に変なことじゃなくて……そう、食べられるし、ちょっと不思議な味がするけど、普通においしいジャムっていうか」
「え、食べるの……?」
佐治さんの友人は眉をひそめて後ずさった。
これはまずい。俺は焦って言葉を重ねる。
「そんなビビることじゃないんだよ。別に腹を壊したりもしねえし、ていうかめっちゃ甘くなっててむしろ美味いっていうか──」
「晴人!」
名前を呼ばれて振り返る。佐治さんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
どうしよう。どうしたらいい。俺はどうすれば。
そう困惑していると、教室の入り口に立っていた女子生徒は一歩退いた。
「……ごめん、私はなにも見てないから」
それだけ告げると、彼女は踵を返して走り去ってしまった。
待って、と声をかけることすら叶わなかった。
あとに残されるのは、俺と佐治さん。そして暮れてきた夕焼けだけだ。
俺はかける言葉を持ち合わせていない。
沈黙が第三自習室に詰まっている。
「やっぱり、仕方ないのかなあ」
「あたしが空をジャムにするのってさ……見なかったことにされなきゃいけないことなのかな、やっぱり」
悲痛な叫びだった。
そんなことはないと言いたかった。しかし、どんな言葉なら佐治さんに届くだろうか? 忌避感を正面からぶつけられた彼女になんと言えばいいのだろうか?
俺にはわからなかった。
「……晴人さぁ、なんで『食べる』って言っちゃったの?」
「……佐治さんのジャムはおいしい。なにも恥じることなんてないんだ。それに悪いこともしてない……! あんな嫌悪感むきだしにされるようなことじゃないんだって、ちゃんと言えば!」
「言えば、伝わるの?」
冷水を浴びせられたようだった。
佐治さんは諦めのこもった口調で叫んだ。
「見ればわかるじゃん! あの子は受け入れてくれないんだよ!」
「それは……」
「そもそも晴人だって面白がってるだけでさぁ! 本当はあたしのこと、ブキミだって思ってるんでしょ!」
佐治さんは唇をかみしめて俺を見つめていた。
面白がっていると言われて返答が鈍る。確かに面白がっていた。いまは違うが、最初はそうだった。
「そんなことはない、俺は……」
「だって晴人は一度だって──!」
佐治さんはなにかを叫びかけて、口を閉ざした。葛藤しているのは俺にでもわかる。
いつも余裕のある笑みを浮かべていた彼女の、必死な言葉に俺は面食っていた。
「一度だって、なんだよ」
「なんでもない」
「なんでもなくないだろ、それ」
「じゃあ証明してよ! 面白がってるわけじゃないっていうなら! 不気味じゃないって言うなら証明してよ!」
いつの間にか佐治さんは玉のような涙を目に溜めていた。
「……ちゃんと信じさせてよ、ばか」
言い終わるや否や、彼女はスプーンを投げつけてきた。小さな金属のそれは、俺の腹のあたりに当たって床に落ちる。佐治さんはカバンを引っ掴んで教室を去ってしまった。
ちっとも追いかける気力がわかない
とりあえずスプーンを拾おうとかかがむと、窓際にジャムの小瓶が落ちているのが見えた。そうだ、ジャムを放置したままだった。
俺は佐治さんに投げつけられたスプーンと、落としていったジャムを拾い上げる。
晴人は一度だって、と佐治さんは言いかけた。
佐治さんが言いかけた言葉の答えがわかる気がして、俺はジャムを舐めようとした。
そして、そもそも自分からスプーンを持ってきたことがないことに気づいた。
ジャムを舐める。
俺は、佐治さんを追いかけて教室を飛び出した。
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