マツリカ

オノイチカ

マツリカ


 青空に枝葉を広げる緑が目にまぶしい。寄せ植えにされたマリーゴールドが、燃える太陽の橙に輝いている。

 草木が伸びるに任せた庭は、簡素な木板をたてつけて囲いにした箱庭のなかであまりに奔放で、日差しに弱いアイビーなどは、背丈の高い植え込みの陰に隠れるように這っていた。


 雑草のたぐいであるネコジャラシが鼻先で揺れるのをくすぐったく感じながら、マツリカは庭で一番大きなイチジクの木の陰に、膝をかかえて隠れていた。耳元でアブが羽音を立て、思わず耳がぴくりとする。いつの間に刺されたのか、熱とかゆみをともなう頬がうっとうしくて、マツリカは握った拳でまるい顔をごしごしとこすった。乾いた地面につくほどに、長くゆたかにうねる枯葉色の髪が、動きに合わせてもそもそと揺れる。


 夏の強い日差しは庭の土を容赦なく焦がし、立ちのぼる陽炎めいた熱気は、マツリカの意識をうす甘くぼやかした。それでも、汗をかきながらも、マツリカの意識は夏が盛りとばかりに賑やかしい、なつかしい庭の景色に注がれている。


(あのころと、かわってない……)


 ──草木は管理せず、自然なかたちで生きているのが、一番美しいんだよ。

 そうあの人は──アオイは口癖のように言っていた。庭仕事をするアオイのまわりをじゃれてついてまわった、あの懐かしい日々。草木は萌ゆり、いつでも緑と花、そして土のあまい匂いが、二人の間には満ちていた。


「今日なら、アオイに会いに行ってもいいよ」


 いまマツリカの面倒を見てくれている後見人がそう言ってくれた時、どんなに嬉しかったか。言の葉を多く持たないマツリカには、とてもじゃないけれど言い表せない。ぱっと緑の瞳を輝かせて──けれど次の瞬間「でも」と口にして、マツリカはしょんぼりと視線を落とした。アオイには二度と会えない、会ってはいけないと、あの日きつく言われたことを思い出して。


 そんなマツリカの考えなどお見通しなのか、後見人は綿毛のようにふうわりと笑って、マツリカのちいさな頭をなでて、指で髪を梳いた。


「今日なら大丈夫なんだ。君だってばれないように変装すればいい。僕が魔法をかけてあげる。ただし、君は自分がマツリカだということを言ってはいけないよ。そうだな……迷子の子どものふりをすればいい」


 はたしてマツリカは扮装に慣れないままに、アオイの箱庭へやってきた。


 空の頂点で輝いていた太陽が少しずつ傾いで、青白い陽光が黄金のいろへと移り変わっていく。飽きることなく庭を眺めてじっとしていたマツリカも、やがて空のふちがうっすらと薄紅の──赤い野ばらの色に染まろうとする頃には、そわそわと落ち着きなく腰を浮かせはじめた。


 そういえば、こんなに暑い夏の日に、アオイが庭に出ることは稀だった。

 ──もしかしたら、会えないかもしれない。


(どうしよう)


 会うことが許されるのは今日だけなのだ。マツリカはもじもじと二対の足の指を擦り合わせて、箱庭の奥にある古い家屋をちらりと眺める。あの家の薄い硝子戸をたたく勇気は、今も昔もマツリカは持ち合わせていない。


 鈴虫が静かな声音で囁きはじめる頃、ふと懐かしい香りが届いて、マツリカは顔を上げる。細くたなびく白煙は、いつもアオイが虫除けにと焚きしめていた、薬草を固めて作った香から漂うものだ。


(アオイ!)


 思わず反射的に立ち上がって……マツリカは凍りついた。動いた拍子に大きな音を立てて揺れた植え込みに、アオイが視線をやったのは、マツリカが姿を見せるのと同時だった。ブリキの如雨露を両手で持って、丁寧に傾けていたアオイと、ぱちりと目が合う。


 彼はあの頃と変わっていなかった。

 日に焼けると赤くなる白い肌も、時折まぶしげに細められる黒々と澄んだ眼も、すんなりとした癖のない黒髪も、どこかぼんやりとした優しげでのどかな表情も。


 何か言わなければと取り込んだ空気は、たっぷりと懐かしさを含んでいて、マツリカの胸をいっぱいにした。声のかわりに目のふちから何かがにじんでしまいそうで、マツリカはあわてて何度もぱちぱちと、まるい眼をしばたたく。


 けれど、後見人のかけた魔法はたしかだったらしい。

 アオイはマツリカを見て、不思議そうに小首を傾げる。


「見ない顔だね。迷子かな?」


「!」


 少し戸惑って、すぐさまこくこくと頷きながら、マツリカは一生懸命あたまを働かせた。後見人いわく、会えるのは今日だけだ。日が暮れたら、家に帰らなければならない。アオイと暮らしたこの懐かしい家屋は、すでにマツリカの帰る場所ではないのだ。


 マツリカが肯定したのを見て、アオイは「そっか」と呟き、考え込むように口もとに手を当てる。


「どうしよう……とりあえず、僕の家に上がる? 暗くなってきたし」


 箱庭はすでに、うっすらと勿忘草の薄青に染まり始めている。

 時間がない。マツリカはぶんぶんと首を横に振った。


 ──会って、どうすればいいかなんて、考えてもいなかった。

 ただ、もう一度アオイに会いたかっただけだ。

 だから、懐かしいこの庭をいつくしむアオイの姿が見られたなら。

 元気な姿が見られたなら、それだけでもう、十分だ。

 もういい。マツリカはもう、


「だいじょうぶ」


 つたない言葉を舌先で転がして、マツリカが息を継いだその拍子。宵闇が迫る箱庭の空気にふと、ゆうげの匂いがこぼれた。アオイの後ろに佇む家屋に、暖かな橙の灯がともっている。


 ──あの懐かしい家の台所に立っている人がいる。アオイと食卓を囲むために。


 そのことに気付いたマツリカは、ほっと息を吐いた。アオイはもう、別れ際に涙を流して立ち止まっていた、暗く悲しい場所にはいない。立ち止まっていた足を外へと踏み出して、大事なひとを見つけて、その人の側にいるのだ。


 嬉しいような、寂しいような心地がして、夜の空気をはらんだ風が、マツリカの胸にすぅすぅと染み渡る。


 アオイの穏やかな表情を見たら「しあわせ?」なんてことはもう、聞かなくても良かった。「だいすき」は何度口に出しても足りない気がしたし、この姿では言ってはいけない気がした。

「さようなら」はとっくに済んでいるし、もっとほかに、アオイに伝えたいことがある。そうだ。ずっとずっと、言いたくても言えなかった、あの言葉──


「……ありが、とう」


 いつもアオイが見せてくれた笑顔をまねて。マツリカは顔をほころばせながら、一音一音を刻むように、大切に唇から解き放っていった。何年分もの想いを込めて。

 喉の奥が痛くなって、声が裏返ってしまいそうで、想いがあふれてしまいそうで、あわててマツリカはくるりとアオイに背を向けた。そうして慣れない二本の足で、マツリカは振り返らず夜道を駆けて、懐かしい箱庭を後にする。


 再会は、ほんの少しの時間だった。

 交わした言葉は二言だけで──それでもマツリカは、この日のことを、きっとずっと忘れない。




 ◇ ◇ ◇




「迷子が庭に遊びに来てたんだ」


 葵は食卓を共にする伴侶に、そう言って微笑んだ。居間に甘く漂う、蚊取り線香と、仏壇からたなびく白煙の香り。灯りを消した仏間には、今日だけ役目を担う花模様の提灯が、淡い光をこぼしている。

 豪勢な食事が並ぶゆうげに舌鼓を打ちながら、葵は黄昏時に覗き見た、子どもの顔を思い出す。


 光の加減か、新芽のいろを含んだ色素の薄い虹彩と、たっぷりとした栗色の巻き毛が印象的だったあの子──ふと懐かしい姿が脳裏によみがえって、さきほど目にした子どもの姿に重なる。


(今日は盂蘭盆会だからかな)


 そう思い至って葵は笑みをこぼした。辛かったあの時のことは、もう乗り越えたつもりだけれど、今日なら感傷に浸ってもいいのかもしれない。

 心はすでにあの頃の思い出をすくい上げて、色鮮やかにまなうらに映している。咀嚼していたご馳走を飲み込んで、葵は口火を切った。

 瞳に悲しさではなく、懐かしさとやさしい色を浮かべながら。


「……ちょっと祭花に似てた。君と暮らす数年前に天寿をまっとうした、僕が飼ってた可愛い犬に」




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