忘れたいこと

心憧むえ

忘れたいこと

「俺の見解によるとお前はもう死んでるんだよ」


ぼやけた視界の中で、パイプ丸椅子に腰かけた彼は開口一番にそう言った。


「ちゃんと生きてます」


 ベッドから上体を起こして、答える。突き刺すような痛みが頭の中を走り、顔を顰める。


「大丈夫?」


包み込むような朗々とした声が僕に向けられる。

視界は徐々に良好になり、丸椅子に座る彼の隣に二十代くらいの若い看護師さんが佇んでいたことに今気付く。


「はい、大丈夫です」


 窓の外を眺めると、夜の帳はすっかり降りていた。


「記憶喪失って死の一種だと思うけどな俺は。それにしても5階から落ちてよく生きてたな」


隣で平静と話す彼の名前を僕は知らない。おそらくは、友達だろう。

思い出そうとすると再び、痛みが走る。


「あんま無理すんな、まだ安静にしとけ」


体が思いどうり動かせない。事故の後遺症は脳以外にも甚大な影響を及ぼしているようだ。


「少し、外に連れて行ってもらってもいいですか?」


彼と看護師さんは顔を見合わせ、なにか、意思疎通を図っているようだった。


「大丈夫、今は夜中だから院内しか回れないけど」


看護師さんは近くにある畳まれた車椅子をこなれた手つきで広げ、ベッド脇に寄せて、お姫様抱っこをするように軽々と持ち上げ車椅子に座らせてくれた。


「でも院内は今消灯してるし、回ってもさほど変わらないと思うぜ」

「それでしたら、屋上には行けますか? 風に当たりたいです」


彼は一拍間を開けて、看護師さんを見遣った。


「持ってますか?」

「大丈夫、ちゃんとある」


何のことを話しているのかはよくわからなかったけど、どうやら屋上には行けそうだ。

看護師さんが僕の車椅子を押し、彼が病室の扉を開けた。

院内は薄暗く、非常口表示や消火栓ランプが際立って煌々と光っている。

エレベーターに乗ると、彼は4階を押した。


「わざわざこんな遅くにすみません、お手数おかけしてしまって」

「気にすんな、お前はいつも一人で抱え込みすぎなんだよ」

「あなたの言葉を借りるなら、そのいつもの僕はもう死んでしまいましたけどね」


あまり心配をかけてはいけないと思い軽く笑って見せたが、二人から笑い声が返ってくることはなかった。

車椅子を握る看護師さんや、エレベーターの戸の前に佇む彼は、いまどんな表情をしているのだろう。

僕には、わからない。


四階に到着すると、前方には階段が見えた。


「あそこを上ったら屋上だ。車椅子はここに置いていく」


階段のそばに車椅子を乗り捨て、彼は僕をおぶった。人一人をおぶっているとは思えないほど足取りは軽い。


「お前、軽いな……」


哀調を帯びた声音が、薄暗がりの階段に零れ落ちた。

屋上に続く扉が目に入るが、厳重に鍵穴が三つ設えられている。

鍵穴はやけに光沢があった。


「お願いします」


彼がそう言うと、手持無沙汰になっていた看護師さんがポケットからじゃらじゃらと音を立て、鍵の束を取り出した。

順序良く上からそれぞれ違う鍵を使い、あっという間に解錠してしまう。看護師さんがゆっくりとにらを開けると、突風にあおられた。


「いい風ですね」


屋上へ出ると、夜風が優しく肌をなでた。格子まで歩み寄り、彼はゆくっりと僕を下ろした。

僕は欄干に手をかけ重心を預ける。


「何も思い出せないの?」

「何も思い出せないです」

「前のお前はもう死んだ。これからは今のお前として生きていくってのも一つの手だと思うぜ」


彼は僕を見ないまま欄干の上から上体を乗り出し、下を見ている。


「思い出さないと、周りに迷惑かけると思うから、その選択肢はない、と思います」

「そういうとこは変わんないのな。でもな、知らない方がいいことも結構あると思うぜ」


例えどんな苛烈な過去があっても、それを思い出すことが空っぽの僕の義務だと、空っぽなりに理解していた。


「僕はどこから落ちたんですか?」


まずは、僕が始まったその場所から記憶の線を辿っていく。


「本当に知りたいのか?」

「はい、知りたいです」


彼はまだこちらを見ない。どこか遠くを眺め、逡巡しているようだった。

決意が決まったのか、呼吸を整えるように溜息を吐いた。



「お前が立ってるそこだよ」



刹那、脳が処理できる許容を超過した情報量が雪崩のように流れ込み、雷鳴のごとく体内を駆け巡った。

映像が断片的に、間断なく頭の中に浮かぶ。やがて欠片はパズルのように形を成して、色あせた記憶が鮮烈な色彩を帯びていく。

全て思い出した、全て思い出してしまった。

僕が重篤患者であること、親友の彼が付きっ切りで看病してくれていたこと、周りに迷惑をかけているという罪悪感と病気の苦痛に耐えかねて自殺を決意したこと、屋上から飛び降りるため看護師さんと彼に手伝ってもらったこと全て。


「失敗、したんだね……」

「もう一度生きてみようとは、思わない?」


記憶の輪郭をなぞる様に想起する。生きる楽しみもなく、日々苦痛と罪悪感に圧し潰される僕を。

返答内容は言うまでもなく決まっていた。


「思わないです。もう、僕は疲れたんです。ここはあまりに———生き苦しいんです。お願いします、もう一度だけ、手伝ってください」


看護師さんは夜目にもうつる煌びやかな雫を一滴、頬に垂らした。


「大丈夫、俺がやりますから」


彼は僕を持ち上げて、格子の外へ出してくれた。僕は座り込んで足を投げ出す。


「二度も手伝わせてごめんね」

「俺はお前のやりたいことを、手伝うって約束したからな」


ゆっくり振り向くと、彼は単調な声音とは裏腹に暗然とした面持ちをしていた。

胸に突き刺さるような痛みが走る。


前を向きなおして直後、床を精いっぱい押して身を投げた。



「知らなきゃよかったよ」

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