七夕の涙

心憧むえ

涙の意味

 石段を登り切った直後、尻もちをついた彼女は屈託のない笑顔を浮かべて起き上がり、ズボンについた砂利を払いのける。鬱蒼とした木々に囲まれた人気の全くない真夜中の神社は、明かりひとつなく、スマホの心許ないライトだけが頼りになる。


荘厳さに欠ける鳥居をくぐると、拝殿に続く参道の両端に等間隔に植えられた笹が薄く目に映る。二人で笹の元まで歩み寄ると、彼女はポケットの中から皺になった黄色い短冊とボールペンを取り出した。


「よし、願い事書こう」


 手元がよく見えるように僕はスマホのライトで彼女の短冊を照らす。彼女の願い事は今年も変わらない、躊躇うことなく流れるようにボールペンを書き進める。


――片思いが実りますようにーー


 彼女は中学生のころから、妻帯者である教師に思いを寄せていた。それは決して叶うはずのない恋。純朴な彼女は一途に恋慕の炎を燃やし続け、気付けば大学生になっていた。


 幼馴染であった彼女は中一の七夕祭の時に、そのことを僕に打ち明け、あれ以来毎年七月七日になると、示し合わせたようにこの神社にやってきては、変わらない願いを短冊に書き続けていた。


「まさとくんは、今年も何も書かないの?」

「今年も特に書かないつもりでいたけど、一枚貸して」


 短冊を彼女から受け取り、ボールペンで文字を書いていく。


――長年の恋が成就しましたーー


「なにそれ? ご報告?」

「この前読んだ本に書いてあった、短冊に願い事を書くときは、語尾に『ように』をつけるんじゃなくて、断定する形で書いた方が願いが叶いやすいんだって。だから、これをつけるといいよ」

「へーそうなんだ。まさと君ありがとう!」


彼女は短冊を受け取り笹に括り付けた。暗闇にようやく目が慣れてきたのでスマホのライトを消すと、彼女は僕に背を向けたまま喋り始めた。


「私、来年の今日までに先生に告白しようと思う。振られた時は、慰めてね」


 彼女はこちらを振り返り笑顔を作っていたが、その笑顔は少し、人工的だった。


「それじゃ、もう遅いし帰ろっか」


 僕は何も言わずに、階段を下りていく彼女に付いて行った。



 先生に告白すると言ってから1年が経った。石段を登りながら、ふと彼女のことを考えていた。

中学までは一緒のクラスだったけれど、高校と大学は別々になり、顔を合わせるのは七夕の日だけになった。

思い返せばもう8年。僕は彼女に……。

石段を登りきると、参道の端に植えられた笹の傍らでうずくまっている影が視界に映った。僕はその影に歩み寄り、座り込んだ。


「どうしたの。願い、叶った?」

「まさとくんにはそう見える?」


 鼻をすする音と混じり、たどたどしい言葉が参道に落ちていく。彼女の恋が実っていなかったのは雰囲気からしても自明だった。


「八年だよ。ずっと片思いしてきて。こうなることは分かってた筈なのに、それでもやっぱり苦しいよ。叶うはずのない恋に青春全部費やしちゃって、私ってほんとバカだよね」


笑顔を作ることも忘れて彼女はただ、涙を流していた。僕にできることと言えば、そばにいることと……。


「七夕に雨が降ると、織姫と彦星がどうなるか知ってる?」

「会えなくなる」

「それは数ある説の中のひとつでさ、僕は別の説を信じてるんだ。七月七日に降る雨のことを催涙雨って言って、織姫と彦星が会えた嬉しさから流した涙って説があって、僕はそっちの方を信じてる」

「素敵だね。せっかく一年に一回しか会えないのに雨で会えなくなったら寂しいもんね。私もそっちの方が好き」

「僕たちも高校生になってから一年に一回、七夕にしか会ってないから、織姫と彦星みたいだね」

「ふふ、確かに」


 涙で崩れた彼女の顔に微笑が浮かぶ。

 高慢な考えなのかもしれない、でも、涙の意味を変えたいと思ってしまった。


 伝えるのは、今しかない。


「僕がなんで今まで短冊に願い事を書かなかったか知ってる?」

「特に叶えてほしい願いがないから?」

「違うよ。僕の願い事はいつも、君が書いてることと同じだったから。二枚描く必要はないと思ってさ」

 彼女の涙はいつの間にか止まって、僕の言葉を反芻して理解することに気を回している。やがて彼女は驚いた顔で僕を見た。



「え、それって……」


 濃密な時の中で、彼女の頬を涙が伝う。

夜空に輝く星々の川から水滴が落ちて、涙に重なる。



「やっと、会えたね」

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七夕の涙 心憧むえ @shindo_mue

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