神様のお願い

クロバンズ

第1話

——もう、嫌だ。


比島育人の心の中をその言葉が覆い尽くしていた。

誰もいない家の自室の中で、彼は一人で現実を嘆いていた。

交通事故で両親を亡くしてから数日。

彼の心はすでに限界を迎えていた。


「なんで……なんでだよッ!」


自分以外誰もいない自宅の中に嘆きの声が響く。

育人は床を強く叩き、声を荒げた。

何故両親は死ななくてはならなかったのか。

聞いた話によれば不慮の事故だったらしい。

自分が家で留守番をしている間に起きた、どうにもできなかった出来事。


「……父さんッ……母さんッ」


どんなに嘆いても、両親は帰ってこない。

まだなにも返していない。

なにも返せていないのに。

溢れ出る雫が、頬を伝っていく。

少年の泣く声が虚しく部屋に響いた。


「……」


もう、生きる希望がない。

もうこの世を去って、自分も両親の元にいきたい。

そんな思いが育人を支配する。

彼の足はビルの屋上へ向かっていた。



とあるビルの屋上。

夕陽に照らされながら、育人は眼下を見つめる。

手すりを隔てて見える眼下では今も多くの人々が行き交っている。

遥か下を通り過ぎる車や人が豆粒のように小さく見えた。


「…………」


ここから飛び降りれば確実に死ねる。

恐怖はあまり感じない。

むしろこの光を失った世界で生きることの方がずっと辛いではないか。

一歩前に踏み出せばこの悲しい世界から解放されるのだ。

もうこの世に未練なんて、無い。

手すりを乗り越えようとしたその時。


「——ちょっと待ってよ。少年」


ふと、声が聞こえた。

誰もいない筈の屋上で、一つの少女のような声が育人の足を止めた。

声の方——背後を振り向くとそこには。


「……っ」


思わず驚きの声が漏れる。

そこにいたのは奇妙な少女だった。

背中まで届くぐらいの銀色の長髪に、紺碧の色をした瞳。

中学生くらいの年齢に見える顔立ちは非常に整っていて、どこか神秘的な雰囲気を感じさせる。

巫女のような装束を着た、あまりにも奇怪な姿をした少女がそこにはいた。


「……誰だ?」


育人は率直にそう問いかける。

すると、少女は微笑みを浮かべ、口を開いた。


「こんにちは。ボクはいわゆるこの世界を司る超常的存在——つまり神、かな」


ニコッと笑い、そんな意味のわからないことを言ってくる。


「神……?」

「そう、ボクは神様さ。今、死のうとしていた君にお願いがあってきたんだ」

「っ!」


育人は一瞬驚愕した。

この少女は何故それを知っている。

誰にも話していないうえに、まだ何も行動を起こしていないこの状況ではこれからの行動を知ることなど不可能な筈なのに。

一瞬思案した後、育人は疑念を即座に打ち払った。

きっと偶然だ。

この少女はただの何も知らない子供なのだ。

仮に神だろうがなんだろうが関係ない。

自分はもう、死ぬのだから。


「ボクのお願いを叶えてくれるまで、ちょっと死ぬのは待ってくれないかな」

「……俺は、もう嫌なんだよ。もうこんな世界にいたくないんだ!」

「……本当にそう思うの?」

「そう思ってるよッ!今だって死ぬつもりだったんだ!」

「……そうかい」


少女が呟いたその瞬間。

突如、突風が吹いた。


「ッ!」


あまりに強い風に育人の体がバランスを失う。体が後ろ——手すり側に倒される中、その直後に背後からバキッと何かが壊れる音が聞こえた。

それが手すりが壊れる音だと気づいた頃には、もう遅い。

育人の体は既に宙に投げ出されていた。


「——あっ……」


落ちる。

数秒後には死がやってくる。

本当に、死んでしまう。


——嫌だッ!


自分でも理解不能なくらいに感情が先程とは正反対の声を上げる。

一瞬で恐怖が思考を支配した。

何かに捕まろうと咄嗟に伸ばした手は何も掴めぬまま空を切る。

徐々に体が浮遊感に包まれていく中で、感情がぐちゃぐちゃになる。

だがその中ではっきりとしている一つの思いがあった。


——死にたくないッ!


心がそう叫んだ瞬間。

体が突如奇妙な感覚に包まれる。

見えない何かに、支えられているような感覚。

周囲の状況を確認すると、信じがたいことが起きていた。

育人の体は宙に

ふと目をやると少女が人差し指をこちらに向けているのがわかった。

少女はクイッと人差し指を上に傾けると、育人の体は上へ持ち上がっていき最後にはゆっくりと着地した。


「自分の本当の気持ちに、気づくことができただろう?」


少女は表情を変えることなく、そう言ってくる。


「一体なに、が……」


育人は唖然としたままその場から動けなかった。

そんな中、少女の足は地面を離れ、僅かに浮遊した。

そして地面から足を離したままゆっくりと近づいてくる。


「どう?ボクのこと、信じてもらえた?」


ニコっと笑いかけてくる銀髪の少女。

もう信じるしかない。

神かどうかはやぶさかではないが、目の前の少女が超常の力を持つ存在ということは理解した。

同時にそんな少女が自分に持ちかけるお願いとはなんなのだろうという疑問が生まれる。


「ボクを手伝ってくれるならお礼もするよ。どう?やってみる気になった?」

「わかった……それで、君のお願いってどんなことなんだ?」


数瞬の間を置き、少女は答えた。


「——ボクと一緒に、世界を救ってほしい」

「……は?」


あまりにも意味不明な発言に理解するのに時間がかかった。

一体なにを言い出すのか。

聞き間違いでなければとんでもないことが聞こえた気がする。


「世界を……救う?」

「そう、君にこの世界を救う手伝いをしてほしいんだ!」


一体この少女は何を言っているのか。

世界を救うなんて大それたことが自分にできるはずがない。


「そんなの無……」

「無理とは言わせないよ。ボクはその為に下界に降りてきたんだからね」


掌を広げて少女は育人の言葉を遮断させる。


「この世界にはね、この世界も知らない怪物たちがいるのさ。奴らは見えもしなければ触れもしない」


少女は真剣な瞳で言葉を紡ぐ。

育人は表情を曇らせる。

触れもしなければ見えもしない怪物?

尚更自分にはどうにもできないではないか。


「だけどね、この世界のいたるところに奴らは蔓延っているんだ。"不幸"を振りまく怪物がね。君には奴らを退ける素質があるんだ」


世界のいたるところに蔓延る怪物。

そして自分がそれらを退ける力を持っている。

そんなことがあり得るのだろうか。

あまりに信じがたい、根拠に欠けた話だ。


「……なんで、俺なんだ?」

「君だから、としか言いようがないな」

「……俺に、何ができるっていうんだ」

「簡単さ。ボクがこれからやることをただ受け入れてもらえばいい」


そう言って少女は右手を育人の胸に当て瞑目する。

すると少女の体が一瞬淡い光を纏った。

そのまま数秒を経て彼女は目を開いた。


「はい、終了。これでボクのお願いは達成したわけだ」

「えっ?」


少女の言葉に呆気にとられる。


「これで終わり……!?あんな壮大なスケールの話してたのに!?」

「規模と行動は必ずしも比例するとは限らないさ。ボクは今、君に君に加護を授けたんだ」


また意味不明な言葉が出てきた。

加護とは一体なんなのか。

そんな育人の疑問を抱く育人を気にせず、少女は話を続ける。


「これで君が生きている限り奴らの行動は制限されるだろう。これで君には死ねない理由ができたね」

「これで……俺は世界を救えたのか?」

「バッチリさ。これで君は世界を救った英雄だね」


あまりに呆気なさ過ぎて全然実感が湧かない。

というか自分は何もしてないのでは……。

そんなことを考えていると。


「君という存在がこの世に生まれたこと。それがなにより偉大なことなのさ」


こちらの考えを見抜いたかのように少女は答えた。


「じゃ、ありがとね。もう命を粗末にしちゃダメだよ。この世に君という人間は一人しかいないんだからね」


そう言って少女は育人に背を向けどこかへ向かおうとする。


「あ、そうだ忘れてた」


なにかを思い出したかのように踵を返した少女は再び育人に向き直った。


「世界を救った偉大なる君に神であるボクからからご褒美をあげよう」


パチンと少女が指を鳴らした直後、育人の視界が歪んだ。

同時に意識が徐々に遠のき始める。


「な、何を……!?」

「じゃあね、少年。協力感謝するよ」


どんどん世界が遠のく中、少女の声だけがはっきりと聞こえる。

少女は最後に小さく手を振りながら、微笑んだ。


は頑張ってね」


その言葉を聞いた直後。

育人の意識はプッツリと途切れた。



深く暗い闇の中で意識が徐々に浮上していく。

やがて育人は意識を覚醒させる。


(ここは……)


視界に映ったのは見慣れた天井。

育人の自宅の自室の天井だった。

育人はベッドに寝転がっていた体を起こし、状況を確認する。


「……あれ?」


窓からは朝陽が差し込んでいた。

今は朝なのだろうか。

周りを見回しながら今までの記憶を振り返る。

自分は確かビルの屋上で妙な少女と出会って、意識を失って……。


「……!」


視界に入ってきた衝撃が育人の思考を停止させる。

それは机の上にあるデジタル時計。

それに表示されている現在の日付。

それは自分の記憶から一ヶ月遡っていた。


「まさか!」


記憶の中の少女の言葉が脳裏をよぎる。

彼女が言っていた"ご褒美"とはまさか。


「——はやく起きなさ〜い!」


その時。

声が、聞こえた。

ずっと昔から聞きなれた声。もう聞けないと思った声。

自分を呼ぶ——母の声が。


「——!」


勢いよくドアを開け、リビングへ向かう。

するとそこには。


「あら、今日は起きるのがはやいわね。さっさと朝ごはん食べちゃいなさい」

「おはよう。育人」


エプロン姿で掃除をする女性とソファに座りながら新聞を読む男性。

——父と母の姿があった。


「……!うぅ……!」


涙が、止まらない。

必死にこらえようとしても滝のように溢れ出てくる。


「ちょっ!?どうしたの!?」

「い、育人?悪い夢でも見たのか?」


突然泣き出した育人に両親に心配の声をかける。


「ありがとう……っ!神様……っ!」


今もなお嗚咽を漏らしながら。

この場にはいない少女に、育人は心から感謝を送った。

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