分かりやすいふたり 解りにくいふたり

水戸楓

分かりやすいふたり 解りにくいふたり

 人工的な蛍光灯の明かりに負けず、月は穏やかな光をオフィス内に降り注いでくれる。パソコンの画面を睨み続けて疲れた目を癒すその光源を見ていると、思わず掌を掲げてしまった。勿論、いくらその手を伸ばしても、空を切った指の間から虚しさが零れるだけなのは承知の上で。綺麗なモノは、見る分にはこちらに寄り添ってくれるのだが、近づこうとするとその身をかわし、わたしの心を翻弄していく。

 モノでも──、ヒトでも。


 ♢♢♢


「珈琲、よかったらどうぞ」

 ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。珈琲のではなく、私の好きな香水の香りが。

「ありがとう。そっちも残業?」

「はい。わたしが最後かと思っていたら、先輩もだったんですか」

 少し目じりが下がる、困ったような笑い方だ。こちらを向いた時、彼女の切り揃えられた髪がハラリとその頬を撫でた。右手で髪を耳にかけ直す。その些細な仕草だけで、イチイチ脈打つ自分の鼓動が憎らしい。

「この珈琲を飲んだら帰る」

「なら、飲み終わる前におかわりを淹れますね」

 いたずらっ子のように微笑む彼女を横目に、私は呆れたような表情をつくった。

 あっ、と彼女は私の唇を指さす。

「そのリップってシュウのですか? 可愛い色ですよね」

「そう、よく分かったね」

「私も最近買ったんですよ、その色。先週……、かな、飲み会の次の日に」

 微笑む彼女の唇は、私と同じ深い赤色に染まっていた。前のピンク色の方が彼女の可愛らしい雰囲気に合っていたのに、どういう心境の変化だろう。

「隣、座ってもいいですか」

 私の答えを待つことなく、彼女は右側の席に座った。そこは昼間、私の同僚が重たい腰を沈めている椅子だ。机上には様々な書類が乱雑に置かれているが、黒で統一された空間は持ち主のセンスの良さが伺える。整理整頓を口が酸っぱくなるほど説いているのだが、一向に改善される兆しは見えない。

 彼女は両手で自分の分のマグカップを持ち、まだ熱かったのか、ふーぅと息を吹きかけながらチビチビと飲み始めた。足を組んだり、戻したり、ゆっくりと揺らしたり、机の下で忙しなく動くソレは、まるで意識を持った二つの生物のようにも見えた。私の位置からだと、その全体の半分しか見えていない。もう少し椅子を引けば、布を纏った小さな十の触覚も観察できるのだが、そんな露骨な態度は見せたくない。パソコンと向き合いながらも、私の頭の中は彼女の一挙手一投足で満たされていた。

「書類のミスを明日に持ち越したくなくてやっていたんです。で、帰ろうとしたところに先輩を見つけて……。つい来ちゃいました」

 また、あの笑い方だ。

「貴女がミスなんて珍しい」

「わたしもそう思います。先輩が残業しているのと同じくらい珍しいですね」

 私は何も返さない。彼女は特に気にしない様子で、目の前の机上を物色し始めた。鍵のかかっていない引き出しを開けたり閉めたりしている彼女の様子を見て、怒気を含んだ声で叱る。

「ヒトの机漁るなんて、趣味悪いよ」

「ここって、カオルさんの席でしたっけ」

 引き出しの中を漁る手を止めた。

「そうだけど」

 ふーん、と、つまらなさそうな声を出し、反省しているのか分からない態度で椅子にもたれかかる。その生意気な姿でさえ愛おしく想ってしまう自分が、何よりも嫌だった。

 彼女が私の居る部署に異動してきたのは、半年前の事だ。何故今まで彼女の存在を認識していなかったのか不思議に思う程、一目見た時から私は彼女に夢中になっていた。スッと伸びた背筋、綺麗な仕草、可愛い顔に似合わない嫌味な性格、何がささったのかは分からないが、私の周りを忙しそうに駆ける彼女を、気づいたら目で追っていた。

 最初は只の庇護欲だった。ちょっと生意気な可愛い後輩。大人として、先輩として、感情に体が支配されることは、あってはならないはずだったのに……。

「私と先輩しか居ませんね」

 彼女は独り言のようにぽつりと言った。そこに真意などない。只の描写にすぎない。そう自分に言い聞かせて、パソコンと向かい続ける。エンター、バックスペース、エンター、バックスペース──。

「用事がないなら先に帰ったら」

「わたしが居たら迷惑ですか?」

「別にそういうことじゃないけど……。遅くなりすぎないうちに帰りなよ」

 私からお許しが出た彼女は、へへっと笑い、珈琲のおかわりを淹れに席を立った。タイトスカートのスリットから除く白い脚が、薄暗い闇の中でぼんやりと浮かぶ。スーツの上からでも分かる引き締まった腰、思わず掌を添わせてみたくなる太もも、こちらを魅了するのに充分すぎるその後ろ姿に、私は──。

「あ、チョコがあるんですけど、食べますか」

 こちらを振り向いた彼女に、ドキリと心臓が跳ねた。

「この時間帯に? やめとく」

 焦る感情を苦笑で押し殺すと、変わりに少し声が裏返った気がした。彼女に、悟られてはないだろうか。この視線が、愚かな欲望が、彼女に向けられた私の全てが、彼女自身を穢してしまっているようだった。 


 ♢♢♢


 今まで感情が暴走することは無かったのに、あの一件から、私の心は沸騰しているみたいに熱かった。あれは間違いだ。お酒の魔力にあてられたひと時の過ちだ。頭ではそう考えているのに、眼は、耳は、身体は、彼女ばかりを追ってしまっていた。スポットライトを浴びているように光る艶やかな黒髪に、もう一度この指を滑らすことが出来たら。その尖らせた唇の弾力を、また感じることが出来たらどれだけいいか。私がそんなことを考えているなど露程にも思っていないだろう彼女は、遠い目をして何処かを見つめている。

「ねえ先輩。〝鏡花水月〟ってご存知ですか」

 戻ってきた彼女は、少しだけ神妙な面持ちでマグカップを机に置いた。温かそうな白い煙が、天井に向かって伸びている。椅子には座らず、私の右斜め後ろに立った。

「お酒の事?」

「そっちじゃなくて。儚い幻のことです。目には見えても、手に取ることの出来ないものの例えらしいですよ」

 彼女はこちらを見ずに、机の上で右に左に滑らせている自分の人差し指を目で追っている。

「先輩みたいですね」

 私は何も言わずに椅子を回転させ、彼女と向き合った。

「その残業って、カオルさんのミスを先輩が庇ったやつですか」

「……、だったらどうしたの」

「別に。カオルさんが羨ましいだけです」

「何が言いたいの」

「別に」

 その馬鹿にするような態度に、私は深いため息で返した。

「あのさ、先輩に対してその態度は無いんじゃない?」

「先輩こそ、今までの態度は無いんじゃないですか」

「どういうこと」

 キッとこちらを睨む彼女をみて何も分からない程、私は子供ではなかった。

「カオルさんと付き合ってるのに、何でわたしにキスしたんですか」

 比較的落ち着いた声色とは対照的に、指は少し震えているようだった。

 その手を握りしめたい欲をグッとこらえ、溜息をひとつつく。

「私はカオルと付き合っていないし、そういう風に見たこともない。最近よく女性から睨まれていると思ったら、そんな迷惑な噂が流れていてたの」

 淡々と話す姿に少し戸惑った様子の彼女だったが、かまわず続ける。

「貴女からも訂正しておいて」

「な、なら、何でわたしを避けているんですか」

 彼女の瞳が濡れているように見えるのは、私の願望だろう。赤くなった頬を優しく撫でたら怒られるだろうか。

「落ち着いて。いったん座ろ」

「落ち着け? わたしは落ち着いてますよ! 先輩は、なっんで、そんな――っ、平気そうな、かおで、わたしに」

 制する私の目を真っ直ぐに睨みつけるその顔は、今までに見た数々の女性の中で、最も気高く、美しかった。その熱い瞳に吸い込まれてしまいたい。そう思った瞬間、ヒュッ──と喉の奥で音が鳴った。それが私の発した危険信号だと気づいた時には、もう彼女の腕を掴んでしまっていた。一瞬前まで机の上にあった彼女の指が、今は私の目の前で固まっている。これ以上はダメ、離して。頭ではそう思っているのに、体は命令を無視して熱く血を巡らせていく。

「やめてください」

「ごめん」

「離してください」

「それは、無理そう」

 彼女も言葉ではそう言いながら、無理やり私の手を振りほどこうとはしない。

「先輩はあの飲み会から変です。わたしの事が嫌いなら、何であんなこと」

「ごめん、あの事は忘れてほしい。私にとっては何でもないことだったんだ」

「何それ……、自分勝手すぎですよ」

 椅子から見上げる彼女の眼には、捨てられた犬のような、行き場のない私が居た。それは鼻で笑いたくなるような滑稽な姿だった。言葉と態度があまりにも矛盾しているのが、惨めさに拍車をかけている。本心が何処に隠れているのか、もう分からない。

「わたしは、忘れられません」

 彼女は顔を背け、私に掴まれていない方の手で口元を隠した。羞恥と、怒りと、嘆きが交じり合ったその表情は、私の理性を崩す最後の一手となった。立ち上がり、その勢いのまま彼女の口元を覆う邪魔な左手を剥いで、かわりに私の唇を押し当てる。驚く彼女の眼を見ると、充足した感情が足の底から湧き上がってきた。掴んだ腕から徐々に力が抜けていくのを感じる。手を放すと腕はダランと落ち、机の端に少し当たった。強張った唇が少しずつ開けていき、私をむかえ入れてくれる。わずかに空いた隙間から、彼女の息遣いが漏れた。その微かな音が私の情欲をそそり、抑えていた気持ちが行動に表れる。私の口紅が、彼女の柔らかい唇の周りを縁取っていった。 

 ……あ、そういうこと。

「ンッ、──ダメ」

 それは抵抗にもならない様な抵抗だった。押しのけようとする腕を軽くあしらい、背けられた顔を再びこちらに向ける。長いまつげが影を落とし、頬が色っぽく上気している。

「これ──以上ッしたら──ヤダ」

 合間に可愛らしい吐息を挟みながら、私から顔を背けた。構わずに頬を舐め、耳まで舌を這わせる。動物が毛づくろいで愛を表現するように、ゆっくりと丹念に舐めていく。

「キスがしたいんじゃないの」羞恥に燃える耳たぶを甘噛みしつつ、意地悪に囁いた。と同時に、細くしなやかな指が無理やり私の愛撫を拒んだ。気にせずに続けようとしたが、怒りを含んだ彼女の眼差しに少したじろぎ、顔を離す。やりすぎてしまったと反省し身体も放すと、彼女は少しふらつきながら後ろに一歩下がった。

「……先輩の馬鹿」

「あの晩みたいに、ベッドの上でのエスコートがよかった?」

 彼女は勢いよく手を振り上げた。しかしその手が私の頬を叩くことは無く、虚しく宙で止まっている。行き場のない怒りが私に向けられ、激しい痛みが胸をえぐった。

 このまま、私を突き放してほしいと思った。このまま幻滅して、私の前から去って行ってほしいと願った。先輩は最低な人だったって、それでいい。こんなことがあっても、仕事はキチンとしてくれる娘だって、ずっと見ていれば分かるから。

「わたしは、そういう事がしたくて残っていたんじゃありません」

 彼女に睨まれつつ、親指で口元を軽く拭う。指に付いた紅は、血のように妖しく艶めいていた。

「知ってるよ。残業、だったんだよね」

 彼女の顔がほんの一瞬だけ強張ったのを見逃さなかった。目尻を下げ、「ええ」と頷く。一欠けらの自尊心をこの状況でも手放さない彼女を、改めて愛おしいと思ってしまった。私が彼女を好きになった理由の一つに、この笑い方がある。嘘をついたり、何かを誤魔化そうとする時に、必ずこの目尻の下がる笑い方をするのだ。

「わたしが来た時には、先輩、仕事終わってましたよね」

「ええ。貴女が残っていると聞いて、ここで待っていたの」

 思いがけない返しに悔しそうな表情をする彼女だが、嬉しさの欠片が口の端から少し零れていた。その口元にはまだ微かに、私の赤が残っている。それを見ただけで、充分すぎるくらいの幸福感に襲われた。


 ♢♢♢


「先輩は、抱きしめてくれました」

「酔っていたんだ」

「好きだって言ってくれました」

「それは、まあ……」

「キスをしてくれました」

「ごめん」

「ちゃんと話し合いがしたいです」

 お互いの本心が分かったところで、結局前に進むことは無いだろう。一晩の過ち、社会人なら一度はありそうなそれが、同性同士だったという話だ。脱力感と共に、私は椅子に落ちるように座った。

「貴女は男の人が好きなのに、何で私に固執するの。嫌悪を抱くならともかく、好意を抱くなんて……」

 むしろ、嫌悪感で離れて行ってくれた方が楽だったのに、とさえ思う。

「キスから始まる恋はダメですか」

「そういうことじゃなくて……」

「わたしの事が嫌いなら嫌いと言ってください」

 言葉に詰まってしまった。もちろん大好きだし、むしろ愛してさえいるが……、彼女の言うは〝好き〟は、きっと私のとは違う。

「後輩として可愛いと思う」

「嘘は嫌いです」

「何でそう思うの」

「先輩って動揺すると、ほんの少しだけ眉間が動くんですよ。ご自分で気づいてなかったんですか? いつも見ていたから分かります。わたしだけが知ってるその表情が、たまらなく大好きなんですよ……」

 ……知らなかった。つまり、今までの動揺も、全部、彼女に?

 私を見つめるうっとりとした眼差しは、耐えがたいほどの恥辱だった。

「何でわたしと向き合ってくれないんですか」

 知られていたのなら、もう隠す理由もない。堰き止めていた感情が、喉の奥からダムのように溢れてくるのがわかった。

「……怖いからだよ、貴女に嫌われるのが。最終的に嫌われるくらいなら、いっそ最初から嫌ってほしい。飲み会の事は本当に申し訳ないことをした。それと、さっきのことも……。私は昔、一生をかけて愛したいと思える女の子と付き合ったことがあるのだけれど、その子は子供が生まれて、男の人と結婚していったの。私には女性としての幸せを貴女に与えることが出来ない。貴女の事は上司として支えるだけで十分満足していたのに、あの夜の貴女は今まで見たどの女性よりも魅力的だった。こんな幸せを知らずにいれれば、今でも私は貴女の事をこんな風に見ることは無かったのに……。私の抱える欲望を、貴女のいう〝好き〟で包み込むことはできないから。忘れてくれなんて、自分勝手だと思っているけど……」

 ポカンとする彼女を目にして、全てを諦めてしまったような空虚な感覚におちいった。一気に吐き出た自分の言葉が、空っぽな頭の中で反響する。彼女はそんな私の様子を唖然と見ていた。そして一言、何を言っているのか分からない、というような顔でこう言った。

「何でわたしの幸せを先輩が決めつけるんですか」

「……え?」

「先輩って、頭が良いとずっと思っていたんですけど、意外と馬鹿なんですか。頭でっかちというか、考えすぎて逆に馬鹿? みたいな」

「は?」

「前の恋人さんの事は知りませんが、わたしは先輩の隣に居ることが最高に幸せです」

 何も言えずに固まっている私を見て、彼女はハアァと大きな溜息をつきながら、ゆっくりとしゃがみこんだ。「何それ、そんなことで避けられてたの? アホらしい……。魅力的って何よ、好きなら好きって言ってよね」顔を両手で覆い、ブツブツと呟いている。

 馬鹿? 馬鹿って言った? 混乱が怒りに変わり、徐々に頭が動き出してくる。

「馬鹿、馬鹿って。そういう所直しなさいって何度言ったら分かるの」

「は? 大事なところはそこじゃないです! もう!」

 しゃがんだまま私の脚をポコポコ叩く彼女は、怒っているような、泣いているような顔でこちらを見上げる。

「わたしがあれからどんな思いでいたか、先輩は分かりますか」

「それはこっちのセリフ」

 頭が痛くなってきた。

「でもやっぱり、貴女は私なんかよりも男の人と恋をしてほしい」

「話を戻さないでください。わたしは先輩の事が好き、先輩もわたしが好き、これで何で付き合わないって選択肢が出てくるんですか」

「貴女みたいに若かったら、きっとあの夜の関係を続けていたと思う。でも、私もいい大人で、責任もある。私という過ちのせいで、貴女の輝く未来を潰したくないの」

「本ッ当に頑固ですね」

 怒った顔はとても魅力的だったが、私はそれ見ないように顔をそらす。

「そんなに先の事を考えてないと思われてるんですか? 私が何も考えずに好きって言うと思っているのなら、先輩こそ人の事を馬鹿にしないでください」

 真っ直ぐにこちらを見る彼女を、私は迎えることが出来なかった。

「わたしは、先輩の事初めて見た時からずっと好きだったんですよ。まあ、その気持ちが恋愛感情だと気づいたのは、あの時からなんですけど……」

 私の足元に跪いたまま、彼女は続ける。 

「将来が心配だって言うのなら、カナダで永遠の愛でも何でも誓います。海外で結婚式だなんて、ロマンティックじゃないですか」

 そんなプロポーズまがいなこと、会社のオフィスで言わないでよ。

 ロマンも何もないじゃない。

「あ、結婚はまだ少し早かったですね。なら、二人で住める部屋を借りて、同棲から始めましょう。それで、少ししたら猫も飼いたいです。私がどれだけ先輩の事を愛しているのか、長い時間をかけて分からせますから。わたしって結構執念深いんですよ、覚悟してくださいね」

 呼吸の合間に、嗚咽が混ざってきた。 

「先輩が言う未来に私がいるのなら、それって最高に幸せで輝いていると思いませんか」

 頬を伝う涙を、彼女の細い指が優しく拭ってくれる。

「馬鹿、話が飛躍しすぎ」

 肌から伝わってくる彼女の体温が余りにも心地よく、気づいたらその手に自分の手を重ねていた。

「……そうですよね。まだ恋人でもないのに、ごめんなさい」

 そう言うと、とろけてしまいそうな甘い微笑みでこう続けた──、

「順番を間違えていました。良ければわたしと、付き合ってくださいませんか?」

 とめどなく溢れる感情に言葉が追い付かなかった。

「泣くほど私が嫌いですか?」

「……大好きに決まってるじゃない」

 私の手よりも少し小さな両手が、火照った頬を優しく包む。愛おしい顔が、下からゆっくりと近づいてくる。柔らかな唇が、少したどたどしく私に触れた。これが、初めて彼女からされたキスだった。


 ♢♢♢


「ところで、何で〝鏡花水月〟が私みたいだと言ったの」

「珈琲のストックを探している時に、窓から綺麗な月が見えたんですよ」

 そういうと彼女は、自分の掌を私に向けて広げてきた。

「何を考えているか分からない先輩みたいだなって思って」

「どういうこと?」

「内緒です」

「なにそれ」

「なら、何でこの色のリップを買ったかわかりますか」

「私があの晩に使っていたものだから?」

「はい。同じ色なら唇に付いても気にならないかなと思ったんですけど……」

 彼女の人差し指が、私の唇をゆっくりとなぞる。

「最後には色が消えちゃうから、あんまり意味なかったかもです」

 上目遣いに私を見つめる大きな二つの瞳を、今度は真っ直ぐに見つめ、彼女の細い髪の毛を小さな耳にかける。

「まだ、付いていますか?」

「少し、ね」

 この子には、きっといつまでも敵わない気がする。おろされた瞼を愛しく思いながら、顔を少し傾けた。

 一口も飲んでいない珈琲が、蛍光灯の明かりを冷たく反射させている。



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